第33話 渡良瀬のお点前
公開茶会の当日。
帰りのSHRが終わると、渡良瀬はまた後でと言ってそそくさと教室を後にする。
開始は確か四時五十分くらいだったか。それまでは図書室で時間でも潰しておくかとゆっくり立ち上がると、釜戸が慌ただしくこちらへとやってくる。
「さぁ、早く行くよ~!」
「どこに」
「和室!」
「え、茶会って五十分からだよな?」
まだ一時間くらいあるんだが。
「るこちのお抹茶飲みたいなら言う事聞く!」
「はあ」
有識者がそう言うなら仕方ないかと、とりあえず言われるがままついていく。
和室前には茶道部っぽい人が中へと入ってくる姿こそあれ、客っぽい人の姿は一人も見当たらない。
「ふう、一番乗りみたいだね~」
釜戸が安堵したように息を吐く。
「一番乗りってことはなに、俺ここでずっと待っとかないといけないのか?」
「そうだね」
さも当然とばかりに言われてしまった。
「何故」
「んーとね、簡単に言うと、るこち最後だから目立たせようってなっちゃって、そのせいで最初のお客さんしかるこちの点てたお茶が行かなくなっちゃったんだよね」
「なるほど分からん」
「えーっとお……」
釜戸はあざとく指で自らの頭をくりくりする。
「お点前のパフォーマンスをお客さんの前でやらされて、そのお茶を渡されるのが一番前の席の人になる! で、るこちはその場にいとかなきゃ駄目。そうこれだあ!」
人差し指を立て、顔を綻ばせる釜戸。
「ふむ」
お点前というのはお茶を作る事みたいな感じだっけ。
「とりあえず一番前の席に来れば飲めるから、やったね」
釜戸がぐっと胸の前で拳を握る。
まぁ、せっかく来たなら渡良瀬の抹茶の方がいいし、どうせ図書室でも暇してただけだからのんびり待つか。
「それじゃ、楽しみにしててね~。茶道部のエースのお点前はすごいよぉ~」
そう言い残すと、釜戸はさっさと和室の方へと引っ込んでいく。
茶道部のエースというのは自称じゃなく本当に言われてたんだな。
それから適当に待ち時間を過ごしていると、十分前くらいに中から茶道部と思われる人が出てきた。
後ろを見れば、生徒や教師を中心に十数名並んでいる。
「ではお待たせしました。招待券の方をお渡しいただいた後、前の人から奥に詰めてお入りくださいませ」
三年生の先輩だろうか、丁寧にお辞儀すると俺に進むよう促してくる。
招待券を渡し障子の向こうへと踏み入れば、い草の香りが鼻腔をくすぐった。
靴を脱ぎ引き戸を開ければ八畳間二つ分の和室が広がり、細長い赤の敷物が部屋を縦断している。
そしてその一番奥。艶やかな和服に身を包み、一人背筋を伸ばし正座で佇む、渡良瀬の姿があった。
俺に、というよりは入ってきた客に気づくと、身体をこちら側に向け静かにお辞儀する。
これだけで既に俺の中で茶道部のエースという言葉がしっくりきていた。
案内されるまま敷物の一番奥へと座ると、続々と他の参加者も横に並んで座っていく。
前を向けば、先ほどより近くで渡良瀬が入り口に向かってお辞儀していた。
その傍らにはお点前に使うのか、釜や壷、小ぶりの杓の乗った茶碗やそこに入った茶筅に、粉が入っているのだろうか、黒い入れ物などが置かれ、向こう側には焼き物の容器の縁や柄杓の柄のようなものも見えた。
やがて時間になると、別の襖から和装に包んだ三年生の先輩っぽい人が静かに入ってくる。
「皆様、本日はようこそおいでくださいまして、ありがとうございます。私は茶道部の部長を務めさせていただいております千里と申します。この度は部員を代表しこの場でご挨拶とさせていだきます」
どうやら部長さんだったらしい。正座し、静かに客席へと向かってお辞儀すると、他の客もお辞儀を返す。
「茶道には様々な作法というものもございますが、この度の茶席は茶の道というものをより身近に感じていただきたくご用意させていただいております。どうかお気兼ねなくお楽しみいただければと存じます」
一呼吸置くと、部長さんが渡良瀬の方へと少しだけ身体を向ける。
「まずはこちらの部員によるお点前を」
その言葉を受け、渡良瀬が静かに客席の方へと向きお辞儀した。
「それから我々部員共で点てさせていただきました薄茶やお菓子と共に、ご歓談など交えつつ、ごゆっくりとお時間をお過ごしください」
再び部長さんがお辞儀し出て来た場所へ引っ込むと、入れ替わりで部員と思しき人たちがお盆に菓子折りを持って入ってくる。
目の前に置かれたこれは饅頭だろうか。薄皮には華やかな花のような模様があり、中にはあんこがぎっしり詰まっているようだった。
やがて全員の前に饅頭が配られると、柄を熱心に観察する者、顔を合わせ感想を言い合う者、仲には早速全部丸呑みしてる者など、甘味を前にした各々から和やかな空気が流れ出すのを肌に感じる。
そんな中、じっと座していた渡良瀬が静かに茶碗を手に取り膝の前へと移動させると、黒い入れ物も同じように傍に移動させた。
どうやらお点前が始まるらしい。
それに気づいた他の面々の視線は自然と渡良瀬の方へと吸い寄せられ、静謐に、それでいて穏やか空気が場に流れ始める。
渡良瀬は着物の帯に挟んであったらしい紅の布を取り出すと、三角に広げまた小さく畳み始める。その所作は堂々としながらも、丁寧な繊細さを内包しているようだった。あの布が帛紗だな。
その帛紗で黒い入れ物を優しく撫でた後に壺の傍へ置くと、先ほどと同じように帛紗を広げて畳み、今度は丁寧に小ぶりの杓へ沿わせる。
その一連の動作に、客席からは主に教師陣の感嘆したような息が聞こえ、今のこの空気はきっと渡良瀬が作り出したものなのだと確信させられた。
黒い入れ物の上に小ぶりの杓を丁寧に置くと、その隣に茶筅が置かれる。
渡良瀬は僅かに茶碗を手前に引くと、左手に帛紗を挟み、右手で柄杓を手に取った。
柄杓をゆっくりと構えると、二つの持ち手を入れ替え釜の蓋へと帛紗を寄り添わせた。そのまま寄せるように蓋を引くと、湯気が虚空へと逃げていく。
釜のすぐ傍らには小物があった。蓋はそこへゆっくりと下ろされると、帛紗は客席から見えないところに姿を隠す。
茶碗の中には白い布もあったようで、取り出されたそれは蓋の上へと置かれた。
おもむろに渡良瀬に持たれていた柄杓はまっすぐと横に持ち替えられると、ゆったりと釜の中へと沈みこみ湯を掬い取る。静かに下ろされ、茶碗の中へと注がれた湯は柔らかな音を鳴らし、中から小さな湯気を立ち上らせた。
渡良瀬は手に持つ柄杓をそっと釜の上に預けると、茶筅を手に取り茶碗の湯に浸す。中で軽く振れば、響くのは心地よい暖かな水の音だ。
再び茶筅は元の位置へと戻されると、恐らく洗うために入れられたと思われる茶碗の湯は、傍らにあった焼き物の容器へと注がれその役目を終える。
先ほど蓋の上に置かれていた白い布を手に取ると、渡良瀬はそれで丁寧に優しく茶碗を撫でた。
少しして、茶碗が畳の上へと置かれると、白い布は取り出され再び釜の蓋の上へと戻される。
そのまま小ぶりの杓を手に取った渡良瀬だったが、ふっと客席の方を一瞥した。
「お菓子をどうぞ」
どうやらお菓子を食べるタイミングが今らしい。まだ食べてない人がいたから様子見してて正解だった。
「やーべ、もう全部くっちったよ……」
先ほど饅頭を丸呑みしてた奴が呟くと、ふっと空気が弛緩しささやかな笑い声が起こる。
そんな客席に向けて微笑を湛える渡良瀬は、言葉はなくとも大丈夫ですよと言っているのが見るだけで分かった。
その姿はやけに大人びたものとして俺の目に映り、小さな満足感と僅かな寂寥感が同時に込み上げてくるのが感じられる。
饅頭を楊枝で割り、一つ口に入れると、耽美な甘さが口の中に広がった。
甘味に舌鼓を打っていると、今度は渡良瀬は黒い入れ物の蓋を開ける。
小ぶりの杓が中へ入れられると、鮮やかな緑の粉が二度掬い取られ茶碗の中へと落とされた。
蓋は再び閉じられ、黒い入れ物は元の場所へ戻る。
ここで、ずっと触っていなかった壺の蓋へと手が伸ばされた。
渡良瀬は一度近くまでその壺の蓋を持ってくると、向きを変え、ゆったりと壺の傍らへと立てかける。
それから流れるように柄杓を再び手に取ると、お湯を汲み取り茶碗の傍で傾けた。
先ほどよりもさらに柔らかく、今度はまるで何かを包み込むような優しい音が聴こえてくる。
再び、渡良瀬が柄杓を釜の頭上に持ってくると、余っていたお湯を中へ戻す。
全て戻し終えると、柄杓の柄を親指の側面に置き、厳かに、それでいて慈しむように釜の上で静止させた。
そこから渡良瀬の視線が茶碗の方へとゆっくりと落とされると、少し空気感が変わった。
弛緩から緊張というべきか、しかし茶筅を手に取れば、途端に穏やかなものへとその様相変える。
渡良瀬の中で、様々な意思が巡った結果なんじゃないだろうか。素人ながらにそんな事を邪推してみる。
しゃかしゃかと小刻みに細かな竹が擦れる音が辺りに響く。
一寸の狂いも感じられないそのリズムはとても耳に心地が良い。
ややあって、ゆっくりと茶筅の動きは鈍化し、最後には完全に静まる。
渡良瀬は茶筅を傍らに置くと、今度は帛紗とは別の柄物の布を着物から取り出した。あれもまた帛紗だが、こちらが釜戸も言っていた古帛紗というやつで、普通の帛紗より小さく、茶碗に添えるためなどに使うらしい。他にインテリアとかにも使えるとのことで、実は渡良瀬のために買ったのは古帛紗のほうだったりする。
渡良瀬が古帛紗を左手に置くと、茶碗を持ち上げその上へと置いた。
そのままゆっくりと立ち上がると、俺の方へと近づいてくる。
一挙手一投足に至るまで洗練された所作に、気づけば俺は息を呑んでいた。
すぐ目の前にやってきた渡良瀬は静かに正座すると、茶碗を回し俺の前へと置いてくれる。
「どうぞごゆっくり」
微笑みかけられ、一つ鼓動が波打つ。その微笑みは大よそ今までの渡良瀬からは想像できないくらい大人びており、いざ向けられると先ほど垣間見たものよりも数段綺麗な姿として俺の目に焼き付けられた。
渡良瀬は古帛紗を懐へとしまうと、指先を静かに下ろし、淀みない綺麗な所作で上体を前に倒す。
少しの間その姿勢を維持した後は、そのまま背筋を曲げることなく優雅に身体を起こすのだった。
こちらも随分とお粗末ではあっただろうがお辞儀し返すと、渡良瀬は元の位置へと戻っていく。
同時に、お茶を持った他の部員たちが裏から姿を現し客席へと運び始めた。 なるほど、それで一番乗りで来させられたわけだ。
その中には釜戸の姿もありこちらに小さく手を振ってきたので、感謝の気持ちを胸に抱きながらありがたく無視しておく。
渡良瀬が点て、置いてくれたお茶を一口飲んだ。
口当たりは非常にまろやか。おかげで苦味は須らくうまみへと変換され、爽やかな香りが鼻腔を通り抜ける。
おかげで、この上ない至福の時間を少しの間過ごす事が出来そうだ。




