第27話 渡良瀬コンフェッション
適当な姉貴の服を見繕い、洗面所の前へと戻ってくる。
「渡良瀬―服置くから洗面所入るぞー」
廊下と洗面所を隔てるアコーディオンカーテンごしに声をかける。
「はーい」
ちゃんと返事が風呂場から聞こえたのを確認し、カーテンを開ける。
目の前には風呂場と洗面所を隔てる扉のすりガラスがあった。
この向こうで今まさに渡良瀬が風呂に入っているというのか。なんとも趣深い事だが、ここはぐっと我慢。さっさと服を置いてカーテンをパシャリと閉める。
「さて、と」
とりあえず一旦その場に座す。
渡良瀬に俺は一緒に風呂に入る許可を得ている(曲解)。
故にたぶんわざと「あっ、手が滑ったあ~」とか言って風呂場の扉を開けても恐らく許してくれるだろう。
が、それは覗き行為に他ならず、流石に倫理的にどうかと思うのでやらない。
だだ俺はこうも思うのだ。
聞き耳を立てるくらいなら。別にいいんじゃないか?
昨今はちょっとえっちなAMSRなどようつべで普通に聴けちゃったりする時代だ。
エロに厳しいようつべが許可してる事なら、それはエロではないという事。つまり自然と立体音響となる風呂場の音を聞くのは健全な事である。証明完了。
だから今日、俺はこの場でじっくり音を聞こうと思う。
しかも聞くだけだから姿をお互い晒す必要はない。誰も傷つく事が無いのだ。
これを俺は覗聞きと呼んでいる。今決めた。
とは言え、黙って座っとくのもあれなので一応声だけはかけておこうと思う。
「渡良瀬―湯加減大丈夫そうかー?」
一応俺はいるぞアピールはしておく。これでなんか言われたら大人しくやめればいい。
「あ、ちょっと待ってね」
特にびっくりした様子もなく声音は穏やか。あまり恥ずかしいとは思ってなさそうだな。じゃあオッケーって事だな。
うちの洗面所と廊下と洗面所を隔てるのは強固なドアではなくアコーディオンカーテンだ。つまりここと風呂場を隔てる音の壁については実質一枚の薄い浴室の扉だけという事で、割と明瞭に中の音が聞こえてくる。
シャワーの音が止まると、渡良瀬が湯船に手を触れたのか、水面が小さく波打つ音がした。
「いい感じだよー」
「なら良かった」
返事すると、タイルとプラスチックが少しだけ擦れる音が反響する。どうやら今、渡良瀬はバスチェアに座っているらしい。
やがてポシュポシュと可愛らしい鳴き声のようなものが耳に届く。タオルの上に泡ボディーソープ乗っけられてそうだな。
少しの間、布と布が擦れるような音が響くと、ぺたんと水気が弾力のある面にぶつかる音が聞こえた。摩擦が少ないのか、しゅっしゅっと子気味良い音が耳を通して反芻する。
やがてその音はリズムを変え、フェルマータを奏で始めた。
そのまま柔らかな側面をゆったりと布が滑り落ちる音色が数回リフレインする。そしてレント、アンダンテ、アレグロ、その音色は様々なテンポへと姿を変え俺の耳を通りすぎていった。
ふと、バスチェアの位置が少しずれたか、再びプラチックとタイルが擦れる音が反響する。
同時に訪れるのは静寂。より聴覚を研ぎ澄ませると、微かに小さな気泡が弾ける音が聞こえてきた気がした。
俺が覗聞きをしているのがバレたかと思うが杞憂。金具がきゅっと僅かに摩耗する音が聞こえると、細かな水流がさざめき跳ねる雫がピチカートを奏で始める。
なだらかな曲線に沿う清流を耳に感じていると、穢れを全て流し終えたのか周囲は再び無音になった。
ややあって、ペタペタと湿ったタイルを踏む足音が聞こえると、水面を揺らすようなしっとりとした音が大らかなに響き渡る。渡良瀬が浴槽の中へと遂に入ったらしい。
さて、そろそろいいか。
「山添いる?」
しっかり音は堪能させてもらったので退散しようと腰を上げると、突然声がかかる。
しまった、立ち上がる時に音を立ててしまったか。
だが俺はあくまで音を聞いていただけだ。やましい事は何一つしていない。なら堂々と返せばいいんだ。
「たまたま通りかかっているだけだが、どうしたー?」
保険というのは万が一の時のために入るものである。大きな病気なんてしない、事故なんて起こさない。そんな慢心が後に悲劇を引き起こす。だから入るんだ。
「そっかー、ふふっ」
俺の言葉に渡良瀬が何故か笑う。
「なんか嬉しそうな声が聞こえたんだが」
「えっとね」
最初からバレてたのかもと邪推するが、どうやらそうではないらしい。
「私、おばあちゃんがいなくなってから家に一人だから。お風呂に入ってる時も人がいるって思うとちょっと安心しちゃった」
「なるほど」
どうやら本当に嬉しかったようだ。
確かに浴室以外電気が付いてない光景を想像すると、少し寒々しいか。
今まで考えもしてなかった事にやや心配になっていると、再び渡良瀬が口を開く。
「私ね、今日ずっと山添に言いたい事あって」
「ふむ」
ずっと言いたかった事……か。確かに今日は朝から様子がおかしかったな。
てっきりそれは俺の家に行きたいと言い出せなかっただけなのかと勝手に合点していたが、それ以外にまだ何かあったのだろうか。
「でもなかなか言い出せなくて」
その声音は少し沈みがちではあるが、お湯のおかげでリラックスしているのかその実小さな安心感も内包しているように感じられた。
「実は私ね」
言いたかった事。色々な考えや可能性が頭をよぎるが、渡良瀬の言葉はそのどれにも当てはまらなかった。
「引っ越す事になった」
その渡良瀬の言葉は、浴室の音響のせいか思いのほか頭の中に響く。
「引っ越すって……なんでまたそんな急に」
想定外の話題に気づけばやや否定的な聞き方をしてしまっていた。
しかし渡良瀬が特に気にした様子もなく続ける。
「やっぱり心配なんだって、一人だと。だからお母さんと一緒に住むことになった」
「なるほど……」
今までは祖母がいるから安心していたが、その祖母がいなくなった今、渡良瀬は一人で暮らしている事になる。
高校生である程度は自立できるとは言え、愛娘一人だけの時が多すぎる今の環境というのは親としても看過できなかったという事か。恐らく祖母に預けている状況についてもこれまで葛藤があったんじゃないかな。
そしてたぶん、渡良瀬自身も相当寂しかったに違いない。
少なくとも、今の話を聞いていた中で不本意そうな雰囲気は感じられなかったし、何より、俺が今ここにいる事ですら安心と言ってのけたくらいだ。
「じゃあ転校もするってことだよな?」
分かり切っていた事だがつい確認してしまう。
「うん。まぁお母さんも仕事の関係でよく引っ越したりするのもあって、通信制だけどね」
「そうか……」
通信なら奈良にいても授業を受ける事はできるだろうが、問題はそこじゃないもんな。
「いつ、引っ越すんだ?」
「来週の土曜日かな? 高校には金曜日まで行く予定」
「そっか」
十年以上、こいつとは腐れ縁で一緒だったものの、関係はあまり良好とは言えなかった。
だがこの短い間で、随分と関係は改善し距離も縮まったように思う。
だからそれだけに、来週で渡良瀬がいなくなってしまうというのは、仕方ないとは思いながらもやはり少し寂しい。




