第2話 月ヶ瀬美朔はともだち。
嬉しくない。絶妙に嬉しくない。
渡良瀬の面は言ってもかなり上等な部類。クラスでの地位もそれなりに確立しつつあり、かたや俺はまだ空気に近い。そんな状況下で構ってもらえるのは本来喜ぶべき事なのだが、何故こんなにも嬉しくないのか。
いや、今更問うまでもなく分かっている事だ。あいつが人を小馬鹿にする姿が昔の姉と重なるからだろう。身内に欲情できる男などいないからな。
――しかし、なればこそ口惜しい。
だってそうだろう? もし姉がいなければきっと俺は煽り耐性など皆無で漫画やラノベの主人公みたいに赤面しながらシチュエーションを享受できたはずなんだ!
こんなおあつらえ向きの属性ヒロインが身近にいるのになんと嘆かわしい……。
見る者によっては俺の事を誤解している事だろう。実際、渡良瀬と俺の事を見ている者からは、あれで怒らないなんてよっぽど人畜無害なんだねと言われたりもするが、違う。違うんだ。
ただただ、虚無。虚無なだけ。育った環境のせいで性癖を一つ潰された憐れな男の末路がここにある。
本来の俺は人並みに悪心もあるし、やや特殊な幼馴染がいる事を除いてしまえば、ラブコメ的展開が身に降りかかったりしないかな~とか常日頃からちょっと痛い事考えてるただの教室の隅っこでラノベを読んでいるしがない男子高校生Aに過ぎないわけだ。
そんな俺が唯一とも言えるラブコメ要素を活かすことができない体質になっている、こんな不幸な事は無い。
「いやそれ無理に理想を定義して逆に現実逃避してるだけっぽくない?」
おう? 誰だそんな事を言うのはと目を向けるが、別段友達というわけではないクラスの可愛い系イケメンが友達と談笑しているだけだった。
「なんそれ~お前たまに陰キャみたいな事言うよな~!」
「うわひっど~そりゃないって~!」
陽キャたちがすれ違うのをしり目に廊下を歩いていると、ふと見知った顔が目の前の教室へ入って行こうとするのが目に入る。
「あ、じゅうくん」
あちらも俺に気づいたか、半分教室に入っていた半身を引き戸の中から引っこ抜く。幼馴染にすら呼ばれた事の無い呼び名だが、全然悪い気はしない。
「うっす」
「うっすうっす!」
肩にかかるかかからないかくらいの髪を揺らしながら、声の主は揚々と俺の前に躍り出る。
「むっふっふ~! そろそろかなーと思ってたんだよね~」
何やら珍妙な笑い方をすると、そいつは俺の前でキラキラした視線を送り付けてくる。
待ち構えていた……ような気配は無かったが。一体何がそろそろなんだ。まぁいいか。
「相変わらずテンション高いな月ヶ瀬は」
「ま、これこそが美朔ちゃんの魅力というわけですよね?」
何故疑問形。
「まぁでもそうだな」
溌剌とした笑みを浮かべる姿に、つい憐憫の眼差しを送ってしまいそうになるが制する。
月ヶ瀬美朔。この子とは故あって中学、厳密には中二からの付き合い。まぁ、良き友人とは言えるだろう。
ぱっちりとした目にやや幼い顔立ちで、実はアイドルやってますと言われたらすぐにでも納得できる自信がある。
はっきり言って超可愛い。可愛いのだが……この子の過去を考えるとどうしても悲しい気持ちが先行してしまう。
中学の頃にその身に降りかかったとある『事件』について思い返していると、ぱっちりとした目がぱちぱち瞬かれる。
「え、それだけ?」
「え?」
いつしか瞬きをやめた月ヶ瀬の目から少しずつ輝きが失われていく気がした。
なに、なんかあったっけ。もしかしてあれか、誕生日……は確か三月とかだからまだまだだよな……かと言って俺の誕生日でもない。まさか『アイツ』……の誕生日でも無いか。いやそもそも『アイツ』の誕生日だったとしても別に関係無いよな今更。
「くっ、まだ時期が悪いみたいだね」
「お、おう?」
なんの時期なんだ。
「それで、じゅうくんはここで何してるの?」
「……まぁ、ちょっと体をほぐしに行こうと思って」
まだ少し釈然としないが、既に月ヶ瀬の中に先ほどの話題は無いらしいので、こちらも一旦先ほどの月ヶ瀬の様子や『事件』の事などは忘れる事にする。
「はっはーん……」
月ヶ瀬は意味ありげな眼差しでこちらを見やると、手首をスナップさせ指を突き付ける。
「さてはさっきの授業英文だったね?」
「いや物理基礎」
「ぬぅ⁉」
目を丸くし呻く月ヶ瀬だが、その目を泳がせ髪の毛をくるくる指で弄び始めた。
「ま、まぁ知ってたんだけどさ~……」
「ダウト」
「ノーダウト」
鋭い視線が両者の間に交差する。
「……」
押し黙りじっと月ヶ瀬を見ると、やがて沈黙に耐えかねたのか頬を染め前のめりになる。
「で、でも寝たのは正解だからセーフだよね⁉」
「どうすればアウトなのか分からないが、まぁそこは当たってるな」
「うんうん、やっぱりそうだよね~? 私の人を見る目に狂いは無いんだよ!」
「え、ああ……」
満足げに一人頷く月ヶ瀬につい言葉を詰まらせてしまうが、当の本人に気づいた様子は無く、小さくため息を吐く。
「私もさっきの英文でちょっと眠っちゃってさ~」
英文で寝てたのお前かい。そうなるとあながちノーダウト……はないか。この子の事だし自分が英文だったの忘れてそう。とは言え英文が眠くなるのは間違いない。
「確かに英文は眠くなる」
同意すると、我が意を得たりとんばかりに目を輝かせる。
「やっぱりそうだよね⁉」
「教師の名前忘れたけど授業の仕方が真面目過ぎるよな」
「そう! それ! 英語だよ? アメリカンなんだよ? もっとこう、へいがーいずみたいなノリでやってほしいよね!」
オー、ヘイガーイズ……。we have a gift for you!
「あれ、どしたの」
「い、いやなんでもない。ノリってのは大事だよな!」
「うんうんだよねだよね! じゅうくん分かってるう!」
そんな月ヶ瀬は何も分かってないんだろうな。だがそれでいい。この世の中には知らなくていい事がやまほどあるのだから。
何より、それを誰よりも知ってるのはきっと他でもない月ヶ瀬だ。
「あれ、美朔何してるー? 早く来なよ~」
ふと、教室の中から知らない女子の声が飛んでくる。
「おーとと、呼ばれちゃった。ちょっと友達と喋ってた~」
月ヶ瀬が教室の中に呼びかけると、再び中から声がかかった。
「え~なになに~? もしかして彼氏―?」
その言葉にふと空気が冷えるのを感じる。あるいは冷えたのは俺の肝かもしれない。
「アハハ、カレシダッテ」
月ヶ瀬が、聞き耳を立ててなければ近くでも聞き取れないくらいの小ささで呟く。
先ほどとは打って変わって感情が死んだ声だった。唯一の救いは元の素材のおかげで可愛げが残る事だ。あるいは可哀げとも言えるのだが……。
「も~違うよ~!」
しかし一転、また明るく教室内に呼びかけると月ヶ瀬は再びこちらへと向き直り小さく手を振る。
「それじゃ、またねじゅうくん」
「おう」
月ヶ瀬は半歩後ずさると、スカートの裾を揺らし軽快に教室の中へと入っていく。
さて、休憩時間は短い。俺もさっさと本来の予定に戻ろっと!