02.記憶なし、常識なし、命もなし
「……月に記憶がない、か」
シキが低く呟く。
ギルドの食堂、まだ客の多い時間帯だったが、彼の声は奇妙な静けさを伴っていた。
「まあ……月はポンコツだしな」
「想定の範囲内だな〜」
シキに続いて、樹が肩をすくめながら頷く。
その隣でリエも真顔で言った。
「むしろ、記憶があったらあったで、本物か疑うわ」
「え? なんか失礼なこと言われてません?」
当の本人──月は、トレイを持ったまま首を傾げていた。
笑顔はそのままだが、目だけがほんの少し細くなる。
それを見て、三人の間に微妙な空気が走った。
が、気にせずシキが前に出る。
「……まあ、改めてってことで自己紹介しとくか。
俺はシキ。傲慢の魔王をしていて、魔族の住んでる土地を治めてる。
で、隣の男は樹。俺の従者で──奴隷みたいなもんだな」
「奴隷って……まあ、いいけどな」
樹が苦笑まじりに続ける。
「俺は樹。初めましてじゃないけど、まあ初めましてだな。
で、隣の女はリエ。……色々と気をつけろよ」
「失礼ね、お兄様。何を気をつけるというのかしら?」
リエは静かに歩み寄りながら、月の隣に立っていた樹の肩を、軽く──本当に軽く、ぺちんと叩いた。
「あっ──」
短い声が上がった瞬間、樹の身体が音もなく霧のように消えた。
足元に残った灰色の影が、かすかに宙を舞って溶けていく。
「あら? お兄様が消えたわ……どこに行ったのかしら?」
月はと言えば、手に持ったトレイをじっと見つめたあと、シキに向き直った。
「……え??………」
心底困惑したような声音。
その隣で、シキが淡々とした声で補足する。
「リエはな……運動音痴なんだよ。
本人に自覚はないけどな。叩いたところと違う場所が折れるとか、そもそも一発で骨が砕けるとか……。
ああ、まあ、慣れてくれ」
「…………はい?」
返した月の声には、もはや語尾も抑揚もなかった。
それを聞いたシキはふっと肩をすくめる。
「安心しろ。あいつは毎回こうだから」
「え、毎回……?」
「毎回」
タイミングを見計らったように、床に黒い霧が再び立ち上がる。
霧は形を持ち始め、四肢と輪郭を形作り──数秒後、元通りの姿で樹が復元された。
彼は何も言わず、苦い顔で立ち上がると、ぽつりと呟いた。
「……これ、何回目だったっけな……」
「そんなに消えてるの!?」
月の悲鳴に近い問いかけは、誰にも返されなかった。
ただ、リエだけが小さく首をかしげながら、
「お兄様、さっき何か失礼なことでも言ったのかしら?」
と、純粋な顔で尋ねていた。




