09.熱を孕む風
月が倒れてから数日が経過していた。
保健室の窓からは、冬の淡い日差しが差し込んでいる。
しかしその光は、横たわる月の顔色を照らしても、なんら回復の兆しを浮かび上がらせることはなかった。
「……今日も、変わらないか」
柊がそっと呟いた。
手には月の記録表。体温、脈拍、呼吸、いずれも安定している──にもかかわらず、月は目を覚まさない。
保健室には、交代で看病にあたる教員たちの毛布や簡易寝具が並び、まるで野営地のような様相を呈していた。
ラットンが椅子の上で身を丸めながら、ぼそりと漏らす。
「まるで魂が、どこかに置き去りにされたようだな……」
そこにいた全員が、何も言い返せなかった。
街にも、異変は静かに広がりつつあった。
季節は、冬である。
しかし、ある日を境に、町のあちこちで「暑い」と訴える声が聞かれはじめた。
特に、精霊の血を引く子どもたちが異常に敏感で、額に汗を浮かべてふらふらとする様子すら見せていた。
「ねえ、なんか空気が……ぬるい」
「昨日まであんなに冷えてたのに……」
教師たちは最初こそ気のせいだと思っていたが、獣人の教員グレンが黙って額に手を当てると、重々しい声で呟いた。
「確かに……妙な熱気が混じっている」
それがただの異常気象ではないことを、彼らはすぐに悟った。
ギルド内の応接室。窓際に立ち、マスターが空を仰ぐ。
「……この気配は……」
誰に向けたわけでもないその呟きに、近くにいた者たちが顔を上げた。
「マスター……?」
「……あれが……来るの?」
マスターは返答しない。
ただ、目を細め、濁った空の先を見つめていた。
「何のために……こんな時期に……」
その声音は、思考の深淵に沈むように低かった。
学園でも、ひとりの教師が空を見上げていた。
セレナ──光の大精霊である彼女が、静かに指先を胸元に当てる。
「季節が……逆流している……?」
その声に、隣で帳簿を確認していた橘が首をかしげる。
「……何か、おかしいんですか?」
セレナは首を振ったが、表情に浮かんだ微かな緊張が、すべてを物語っていた。
“何か”が、近づいていた。
それはまだ、姿も名前も持たず、声も届かない存在だった。
けれど確かに、大地はざわめき始めている。
空気は、熱を孕み始めている。
そして、誰もがそれを否応なく感じ取っていた。
変わりゆく風の中で、ただひとり──月は、静かに眠り続けていた。




