05.深淵の果てで
雪は降っていなかった。
風もなかった。
だが、その場は確かに「寒さ」に満ちていた。
辺境の、そのさらに果て。
どこかもわからぬ地に、ただ一人。月が立っていた。
空は曇天。太陽の光すら届かず、空間すべてがどこか沈んでいる。
足元の大地は灰のように乾ききり、踏めば砕けそうな脆さを湛えていた。
あたり一帯には、見えるはずのない“何か”が、重く満ちている。
それは、瘴気。
黒く澱み、腐ったような魔力の気配。
五感で感じるのではない。ただ“いる”と分かる。そういう存在。
月はその中心に歩み寄る。
厚手のローブが、足元でさらりと揺れた。
ふと、立ち止まる。
両手を胸元で組み、目を閉じる。
膝をつき、地に触れぬよう祈る姿勢。
まるで聖女のように、静かで、整っていて、穏やかだった。
──それは祈り。
沈黙の中、魔力が満ちていく。
淡く、透明な光が周囲に広がりかけた。
しかし。
ふっ、とその光が消えた。
沈黙が、濃くなる。
瘴気が、それを拒んだのだ。
祈りが届くには、あまりにも濁りすぎていた。
しばしの沈黙。
月は、まぶたを開くことなく、小さく息を吐いた。
「この手は使いたくなかったのですが………。仕方ないですね。」
声は穏やか。だが、その奥に滲む“覚悟”だけが冷たく浮かぶ。
月は立ち上がる。
ゆっくりと、両手を広げる。
刹那──周囲の瘴気が、動いた。
黒く濃密な“穢”が、音もなく、月の体へと吸い込まれていく。
拒むことはなかった。
むしろ、穢れの方が自ら望んだかのように、月の肉体へと溶けていった。
全身を包み込むような圧力。
周囲の空間さえも、呼吸を止めたように静かになる。
その中で、月はひとつ、深く息を吸った。
──そして。
魔力が放たれる。
内側から、静かに。
眩く、透明で、あたたかい魔力が、月の内から満ちていく。
穢が浄化されていく。
ゆっくりと、確かに、跡形もなく。
時間がどれほど経ったのかは、わからない。
ただ、空気が変わった。
灰色だった空に、かすかな光が差し込んでいた。
──終わった。
月は、目を開ける。
その瞳に、疲労も、痛みも、怒りもない。
ただ、静かな微笑みだけが浮かんでいた。
だが、次の瞬間。
口元から、紅が一滴、零れ落ちた。
それを見て、月は特に表情を変えることもなく、袖でぬぐう。
「……」
言葉はない。必要もない。
ふらり、と歩き出す。
その足元は、わずかにふらついていた。
だが月は、そのまま、何事もなかったかのように、背を向けて歩き去る。
そこに残るのは、静謐だけ。
静かに祈り、静かに傷つき、静かに歩く。
月は今日も、“何者か”として、それを終えた。




