01.静かなる旅立ち
冬の夜。
月の自宅──簡素な平屋の一室には、静寂と紙をめくる音だけが満ちていた。
──そのとき。
月の机の上に、音もなく一通の黒い封筒が現れた。
気配も、前触れもなく。まるで“現れたことすら気付かせない”ように。
月はカップをそっと置き、静かにその封筒に手を伸ばす。
差出人の名は無い。
だが、月には誰からのものか分かっていた。
封を切る。中には、たった一枚の便箋と、たった一文。
「ここの浄化をしてこい。」
その文を見た瞬間、月の瞳に一瞬だけ翳りが差す。
だが、表情はすぐにいつもの穏やかな笑みに戻った。
その笑顔に、憂いも苛立ちもない。ただ、少しだけ疲れをにじませたような、それでも柔らかな笑み。
「…………結構な場所ですねぇ〜」
ぽつりと漏らし、小さくため息をついた。
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翌朝。
月はすでに身支度を整えていた。軽装の外套に最低限の旅道具。
机の上には、きっちりとまとめられた業務引き継ぎ書類が置かれている。
「一週間くらいで帰れれば御の字ですかね〜。……もう少しかかるかな〜」
肩にかけた鞄の重さを確認しつつ、月はそんな独り言を呟いた。
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エルミナ学園 職員室。
神崎は、執務机の前で書類に目を通していた。
その前に立つ月が、柔らかな笑みを浮かべながら言う。
「というわけで〜、少し休暇をいただければと。心身の癒しと申しますか〜、温泉巡りと申しますか〜」
神崎は眉をひそめた。
「……お主が休みを取るとは珍しいな」
「いや〜、なんだかんだで疲れがたまってまして〜。ちょっとだけリフレッシュしたいな〜と」
その様子に、神崎はしばし無言のまま月を見つめる。
(……嘘ではなかろうが、何かを隠しておるのは明白じゃな)
だが、言及はせず、神崎は静かに頷いた。
「……まぁ、無理は禁物じゃ。承認しよう」
「ありがとうございます〜」
頭を下げる月の笑顔は、いつも通りに見える。
しかし、その背中に漂う気配に、神崎は何か拭えぬ違和感を覚えていた。
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その日の朝、職員室。
出勤した教師陣の前に、月がいつもの調子で現れた。
「では、今日から一週間ほど、お休みいただきま〜す。皆さん、その間よろしくお願いしますね〜」
突然の宣言に、室内の空気が一瞬で凍りつく。
「……月先生が、休暇?」
柊が目を瞬かせて言う。
「にゃ、にゃにゃにゃ!? まさか恋バナとかしに……じゃにゃいよにゃ!?」
ミミがバタバタと近づいてくる。
セレナはふわふわと浮きながら、両手を組んで小さく首をかしげる。
「これは異変ですね〜。……天変地異、来ませんよね〜?」
「まさかあの月先生が、一週間も姿を見せぬとは……」
ラットンが真面目な顔で呟き、額に手を当てた。
月はそんな反応を一通り受け止めつつ、相変わらずの笑みを浮かべたまま手を振った。
「では、いってきま〜す」
そう言って、くるりと踵を返す。
誰もが、その後ろ姿に「何か」があると感じた。
だが、その“何か”に触れる言葉は、誰の口からも出てこなかった。
ただ、見送ることしかできない。
──静かな旅立ち。
それは、誰にも理由を明かされないまま、
白い吐息の中へと溶けていった。




