05.聖女、逃亡について
職員室の空気が、重たかった。
道徳の授業が終わった直後。
講堂から戻ってきた教師陣は、それぞれが席に着くと、誰ともなく肩を落とし、溜息を漏らしていた。
「…………」
柊は、腕を組んだまま天井を仰いだ。
橘は、机に肘をつきながら書類の山を睨みつけている。
ミミは尻尾をだらんと垂らし、椅子の背にうずくまっていた。
「道徳って……何?」
誰ともなく、ぽつりと呟く声が漏れる。
「というか……“死”って……」
「“逆らえば死”は、教育に入るんでしょうか……?」
葵が静かに顔を覆い、ぼそぼそと呟いた。
「まあまあ。月なりの教育方針、ってことでにゃ」
「グレン、あれが教育か?」
グレンは相変わらず無言だったが、深々と息を吐いたその様子に、全ての感情が詰まっていた。
扉が開く。
「お疲れさまで〜す! あ、飲み物置いときますね〜」
いつも通りの調子で、月が湯気の立つお茶を盆に乗せて現れる。
教師たちの視線が、無言で月へ集中する。
月はきょとんとした顔で、首を傾げる。
「……どうしました? 皆さん、そんなに疲れた顔して」
「聞くな……」
柊が天井を仰いだまま、目を閉じた。
「あの、“道徳”という名の……何かについて、少しお聞きしても?」
橘が、静かに手を挙げた。
「はい、なんでしょう?」
「“逆らえば死”は……その……教育上、問題があると思いまして……」
「でも逆らわれたら困るじゃないですか〜」
「…………」
「生徒の行動、全部把握してますからね? 廊下で悪口とか言ったら、反省文書かせますよ? ひとりでに筆が動くやつで」
教師陣の背筋が凍る。
「いや、もうそれ教育とかじゃなくて……」
「聖女って……こんなだったっけ……?」
カグラがぽつりと呟く。
その瞬間、月がふっと表情を変えた。
「聖女は逃げました」
静かに、しかしはっきりと宣言する。
「え?」
「今、学園にいるのは“元・聖女”です。聖女キャラ、さようなら〜ってことで」
にこやかに手を振って笑う月の言葉に、誰も言葉が出なかった。
「ここは聖教会じゃないですし、淑女のような真似をする必要もありませんから〜」
「そんな、あっさりと……」
「逃げたのか……」
「いや、正確には放棄、なのだろうな……」
帝のような語り口が混ざるほどの混乱。
「まあ、仕方ないですよ。あれだけ言えば、生徒も静かになりますし。はい、皆さんお茶どうぞ〜」
月は机にお茶を配り始める。
「……味方にしてしまったの、早まったんじゃ……」
ミミがぽそっと漏らす。
「いや……そもそも最初から敵だったんじゃないのか……?」
橘が書類を見つめたまま、力なく呟いた。
その横で柊は頭を抱え、グレンはそっと窓の外へと目をやる。
誰もが、なんとなく思った。
――この人を敵に回さなくて、本当に良かった、と。
そしてもう一つ。
――この人を味方にしたのも、本当に正しかったのか? と。
月はにこにこしながら最後の一杯を手に取った。
「では、今日も一日頑張りましょう!」
教師たちは誰も返事を返せなかった。




