05.祈りの記憶を超えて
霧の中、月の身体が音もなく沈んでいく。意識ははっきりしているのに、足元の感覚はすでに地を離れていた。
視界は霞み、世界が白く塗り潰されていく。やがて、浮かび上がる──光の断片。
自分が、自分でなくなっていく。そんな感覚に包まれながら、月はゆっくりと目を開いた。
──第一の記憶。
そこは、荘厳な神殿だった。
白い衣を纏った少女が、祭壇に跪いて祈っている。両の手を胸元に重ね、ただ静かに、ただひたすらに祈るその姿は──まぎれもなく、月の“前世”だった。
突然、大地が揺れた。地面が裂け、城壁が崩れ、人々の叫びが響き渡る。祈りの最中、少女は一歩も動かない。だが、祈りに呼応するように、災厄が街を呑みこんでいく。
兵たちが落ち、民たちが逃げ惑う中──彼女はただ祈っていた。
「……私の祈りは、こんなものだったの……?」
月は、遠くの自分を見つめながら、かすれた声を漏らした。
──第二の記憶。
王国の広間。玉座の下、神託を下す存在として、同じ少女が立っている。
「この地に天罰を。主の名のもとに、裁きを」
祈りが終わると同時に、空から無数の光が降り注ぐ。敵国の街が、一瞬にして燃え上がった。
黒煙、焼ける叫び、逃げ惑う人々──そして、それを見下ろす玉座の者たちと、無表情のまま祈りを続ける少女。
「やめて……もう、見たくない……!」
月の声が震える。目を背けても、光景は消えなかった。
──第三の記憶。
群衆の怒号。木製の柱に縛られた女性がいる。その姿も、月の“前世”だった。
「この女が災厄を招いた!」「月の祈りは呪いだ!」「燃やせ! 呪われた魔女を!」
火が放たれ、炎が身体を包む。だがその中で、彼女は──微笑んでいた。
「どうして……笑ってるの……私……」
涙が零れ落ちる。月はただ、その場に立ち尽くしていた。
──断片的な光景が、矢継ぎ早に過ぎ去っていく。
氷の祈り。村が凍りついた。湖の祈り。水が引き、干上がる大地。
神として崇められ、やがて捨てられる。人々に奉られ、利用され、呪われ、忘れられる。
否応なく“神具”として祈り続けた過去たち。
「私って……誰? 私……だったもの……」
月は膝をついた。名前も、声も、自我も、すべてが揺らいでいく。
──その時だった。
「お姉ちゃん……」
微かな声が響いた。
「過去がどうあろうと、お姉ちゃんは、お姉ちゃん、なのだ」「オレが知るのは、“今”のお姉ちゃんなのだ」
帝の声。
それに重なるように、別の声が続く。
「姉さん、戻ってきてよ」「過去の記憶なんかに、姉さんは飲まれないでしょ?」
カノンの声。
「……ありがとう」
涙を流しながら、月は顔を上げた。
「わたしは、わたしとして、生きる……!」
白い光が満ち、記憶の世界が静かに崩れはじめる。祈りに支配された過去を後にして、月の姿がゆっくりと淡く、光の中に溶けていった。




