10.本性と適性と、日常と
春の空気がほんの少しだけ緩んできた朝、エルミナ学園の職員室には、いつものように慌ただしい空気が流れていた。
だが、その一角には異質な静寂があった。
「……エルフさんたち、そろそろお仕事には慣れました?」
いつもの柔らかい口調で、月がにこやかに声をかける。
その微笑みは、ほんの一週間前に高位魔法を跳ね返し、黒い炎を操っていた者とは思えないほど無垢で穏やかだった。
「……まあ…………なんとか……」
「……しかし、この……書類の山は……終わらない……」
エルフたちの顔には、どこか生気が欠けていた。
幻想の森に住まう誇り高き民とは思えぬ、現実に打ちのめされた者の表情だった。
「なーに言ってるんですか〜? エルフさんたちの授業、今はほとんど無いんですから、他の先生のサポートが主なお仕事ですよ? 慣れてくださいねっ」
柔らかな笑顔のまま、月は黒い笑顔で言い放つ。
その声に込められた圧力は、書類より重い。
「……貴様、そんなことを言っていると……そのうち、教育委員会が……!」
「教育委員会なんてもの、この国には存在しません〜。労働基準監督署も、PTAも、存在しません。……あ、あと教職員組合も無いですね。煩わしいでしょう?」
軽く肩をすくめて、まるで天気の話をするかのように告げる月。
もはや現実逃避も許されないと悟ったのか、エルフたちは目をそらした。
「……我々の里に来た時は……あんなにしおらしかったと言うのに……。それが本性か?」
「………………さ、仕事仕事〜」
そそくさと書類の束を手にし、足早に立ち去る月。
その背中は、どこか楽しそうですらあった。
「聖女ちゃん、そんな奴らに構ってないで、俺にも構ってよ〜」
鬼影がデスクの上から身を乗り出すようにして声をかけた。
「はいはい」
「釣れないなぁ〜……冷たいぞ〜、月ちゃん」
そのやり取りに割って入るように、夜行が静かに声をかけた。
「月……無理はするな」
「はいはい〜」
「……聞く気ないな?」
月はにっこりと笑って、何も答えなかった。
その笑顔は、柔らかく、どこまでも無垢で。
けれど、どこか恐ろしいほどに静かな異質さを含んでいた。
エルフたちは、その横顔を見つめながら、胸の内で静かに呟く。
(……なるほど……どちらも“本性”か……)
血も流すことなく、命令もせず、ただの笑顔で世界を支配する。
それが、エルミナ学園の“聖女”──月、という存在だった。
次章
第14章『終焉の茶会、魔力の予鈴が鳴る』は、
9月20日 20時より投稿を開始します。
どうぞ、お楽しみに。




