第24回 『凍土図書館の蒐集日記(ヴンダーカンマー)』提出原稿
【回数・会場・番号、タイトル】
24-2-6 凍土図書館の蒐集日記(ヴンダーカンマー)
【あらすじ】
全人類に豊かさを――国際同盟の計画が破綻して数年。
無節操な開発と資源争いに地上が荒廃しつつある現状に背中を押され、科学は遂に人類の月への移住、いや逃亡を果たしつつあった。
しかし計画は地球外生命体の侵攻により頓挫。人類を菓子に変える兵器を持つ彼らに、瞬く間に劣勢に追い込まれる。
日本政府は、各自治体による籠城戦及び敵に渡らぬよう記録の破棄を命じた。
ある日、国軍の通称・焚書部隊員クズハラは、任務で命令無視の図書館を接収するべく極地の通称・凍土図書館を訪れる。
しかし返り討ちにあい囚われ、知る物語の提出を強要されてしまう。
「君もここの素晴らしいコレクションの一部になるんだよ」
図書館の住民は様子がおかしい女性司書ユズリハと、喋る白クマ、ペンギン、ホッキョクウサギたち。
蒐集されていたのはあらゆる生物の「だいじ」。
変人司書と、お人好し兵士ともふもふたちの、極地蒐集スローライフ。
【本文】
脳裏に浮かんだのは、存在しないはずのパンケーキ。
茫漠とした意識の暗闇に突如降ってきた、ふんわり丸い三段重ね。追加で転がった四角いバターが溶けるより先に、鼻は動いていた。
熱した金属の上でぴちぴち跳ねる油の音がした。卵と小麦粉とバニラが混ざった湯気を吸い込めば子供の頃食べたきりの、懐かしい味に喉が鳴る。
国軍の支給品の空き缶で焼く、古い小麦粉と代用油でできたそれっぽい何かではない、本物だ。
(なら、きっとここは天国だ。出来損ないの軍人にしては、まあ悪くない最期だな……)
思考を裏付けるかのように背中は柔らかいマットレスの上で、毛皮までかけられているようだ。一年の殆どを雪と氷に覆われた永久凍土なら背中は凍っているはず。
だからきっとパンケーキ食べ放題だ。クッキーも団子も無理に食べなくていい。
――そう、彼は思った。
極東の国軍に所属する青年・クズハラが最期に見た景色は、ホッキョクグマの赤黒い口と白い牙のどアップだった。
三途の川で記憶を取られてなければ、その少し前、図書館の扉を開けた瞬間白熊に飛びかかられた。だから常識的に考えればとっくに喰われてここは死後の世界なのだ。
ホッキョクグマが図書館に食料をため込む――冬眠するなんて聞いたことがない。
彼は昨今、サバイバル課程が半分近くを占めるようになった義務教育を、幸運にも全て旧課程で受けた最後の年代だった。
(ちょっと早い夏休みだと思って、天国を満喫するか)
地上に未練はない。心残りがあるなら両親と弟のことくらいだが、国からまだ十分な遺族年金が出る。
(ああでも、もうちょっとだけ寝ていたいな。無茶な行軍でろくに休めなかったし……)
クズハラは目を閉じたまま分厚くてふわふわの毛皮を、肩まで引き上げようとし――て、毛皮の下が想像以上の弾力で押し返してきたのに気付いた。
「それ」は押し返して、5歳か6歳ほどの、男の子の声で叫んだ。
「うわっ!」
「……?」
垂れ目をパチリと開く。黒い目に飛び込んできたのは、最期に見た景色に似た、小さな白い牙と赤い口。
「うわっ!」
今度は自分の叫び声が狭い部屋に反響して耳朶を打つ。広い天国では起きない事象。
(いや、死んだの初めてだから知らないけど……それとも俺、死んでない?)
通信装置越しに聞き慣れたテノールに脳を揺さぶられた彼は、自意識の次に目と耳を疑った。
「ホッキョクグマって添い寝す……いや、人間の言葉を喋るんだっけ?」
声に出せば自分の生ぬるい息が鼻を撫でた。
手を動かせばもっと温かい肉感と獣の匂い。毛皮もといホッキョクグマの子供――最期の記憶よりかなり小さいが、実家のレトリバーより大きい――の顔が目の前にあった。
発声機構が違うにも関わらず人間と同じ言葉を話している。
毛の生えた前足でぺちぺち、いやパンパンと顔を叩かれ、次第に意識がはっきりしてくる。のぞき込んでくる黒くつぶらな瞳は、可愛い――じゃなくて、意思が読み取れる。好奇心と警戒心だ。
「母ちゃん、こいつ目を覚ました!」
だからどういう仕組みなんだ。
子熊の視線を追うと、そこには古めかしい鉄のストーブの前に立つ母親らしきホッキョクグマ。彼女は前足を上げて黒いフライパンとフライ返しを操り、きつね色したパンケーキをひっくり返している。
「あらあら、まあまあ。ルイス、叩かないで早く降りて。アリスは司書さんに知らせてきてくれる?」
やはり同じように上品な女性の声がアニメみたいに、部屋に響く。
――異常事態だ。
クズハラはぱっと身を起こした。それから事態を把握しようと部屋を見回す前に、彼女の足下にいたもう一匹の子熊が部屋を出て行った。ドアの前でノブを器用に回して。
ただ妙にメルヘンだなと思ったのは、それだけが原因ではなかった。
天井の照明と半円形の窓に照らされた1LDKほどの部屋は生活感が溢れていた。小花柄のテーブルクロス、ソファには毛糸で編まれたパッチワークのブランケット。
そして足元は手入れされたベッドの上で、床に降りた子熊が前足を乗り上げて彼を凝視、いや監視している。
そこでぶるりと肩が震えて、クズハラは自分がシャツと下着しか着ていないことに気付く。武器はおろか弾帯も軍服も剥がされ、身分を示すのは首から提げた木と革製のドッグタグだけ。
突然不安にかられ体を確かめる。怪我はないが、多少背中と腰が痛むのはのし掛かられたせいだろう。
「人間さん、そのまま待っててくださいね」
母熊は焼けたパンケーキをお皿に乗せると、また種を流し込む。
クズハラは逃げようかと一瞬思ったが、友好的な様子に熊と会話を試みることにした。
「やっぱり熊なんですか」
「熊以外に見えますか」
「……いえ」
中に人間が入っている可能性、あるいはロボットか新手の宇宙人か兵器かもしれない。そんなことを思ったが、今追求するのは悪手だろうと思い直す。
「済みません。ここが天国じゃないなら、いったいどういう状況で――」
しかし、答えたのは熊ではなかった。
「――おはよう、クズハラ君。今日から君は、ここの素晴らしいコレクションの一部になるんだよ」
突然、未だぼんやりとしていた意識に低い女の声が差し込まれた。
それからすぐに冷たい金属の銃口が鼻先に突きつけられる。旧式の木製のストックを握る革手袋、そして腕を視線で辿ると、女の微笑に辿り着いた。
いや、にやり、と不敵に笑っているといった方が正確か。
三十は過ぎた頃か。黒髪黒目の、典型的な純極東人の顔立ち。肩の下で切った髪をひとつにくくっている。
「旧式のライフルは珍しいかい?」
服をはいだ張本人のお出ましらしい、とクズハラは考えて問い返す。垂れ目が少しだけ細められた。
「ここもテロリストに乗っ取られていたのか」
極東の国・日本の領土北端、北極にほど近い永久凍土。かつては星見町という町があったが、十年ほど前に住民は撤収している。
唯一人が残った施設が彼が訪れた、星見町立図書館だ。
最近は、はみ出しものが廃村で政府への抵抗運動をしていたが、こんな北の果てまでとは予想外だった。
「まさか、私は正式な司書だよ。着任時に書類は提出したはずだが」
「司書……?」
彼女の細い顎から続く黒服に包まれた肢体はすらりとして背が高く、いっそ女優のようでもあるが、筋肉質で軍人と言われた方がしっくりくる。
「なら話が早い。ここに俺“たち”が来たのは、資料は全て廃棄せよ、との命令を実行するためだ。速やかに従うなら暴挙は不問にする」
「丸裸でよく言えるな」
「そっちがしたんだろ」
「濡れた服で凍死が望みか? ろくな準備もないのに無茶な計画を実行する、そんなことだから国軍は道中、4人もの命を犠牲にしたんだろう?」
女が平然と言えば、クズハラは腰を浮かせかけた。が、動いたせいで冷たい金属に鼻を擦られた。火薬の匂い。
慌てて腰を下ろしたクズハラに、満足げに女は笑った。
「君には知っている物語を提出してもらう。差し当たって、どこで凍傷予防にと、唐辛子を靴下に擦りつけることを学んだから、か」
女は、獲物を見付けた猛禽類と同じ目をしていた。
「『凍土に物語の種を埋め、白の大地に火を灯す』。これがここの座右の銘、ようこそ星見町立図書館――通称・凍土図書館へ。館長のユズリハだ」
◇◇◇
全てのひとに平等な豊かさを――全世界の国が加盟する国際同盟によってある日掲げられた理想は、僅か数年で破綻した。
無節操な開発が各地で行われ、資源を巡って争った。このままでは地球はもたないと確信した先進国のトップらと科学者は生活圏拡大を目指し――遂に月への移住、いや逃亡を果たしつつあった。
そして月面基地の建設中に地球外生命体、つまり宇宙人と接触、移住計画はすぐに頓挫した。
なにがしかの交渉が破綻したらしい。
彼らは月の基地を破壊し、続いて地球を侵攻し始めたのだ。
頑丈な装備に身を包み人類を菓子に変える兵器を持っていた彼らに、地球の各国は瞬く間に分断され、劣勢に追い込まれた。
日本政府は、各自治体による籠城戦を決めた。
彼らに渡らぬよう英知の破棄を目的とする法案を次々に成立させ、その中に通称「図書館の破壊に関する宣言」も含まれていた。
従わなければ国軍の通称・焚書部隊がやってきて資料を接収・破壊する。クズハラもこの部隊所属だ。
「……で、こんなところで何をしているって?」
アリスという子熊から乾いた雪山迷彩を受け取った彼は、袖を通しながら尋ねた。ポケットを探ると、ナイフやメモなどが抜き取られていたが、飴の個包装だけはそのままだ。
目の前の銃口も。
「立場を弁えた方がいい。マイナス40度に放り出されたいのか?」
「済みません。ユズリハさんは図書館で何をなさってるんですか」
世の中はまだらに阿鼻叫喚だ。
宇宙人が人間を、その人が好きな菓子に変えてしまう。
ビスケットになった恋人が、今まで自分のプリンに付き合ってくれていたと知って泣く若い女性に、チョコミントアイスが好きだったなんてと憤慨する友人。弔われる菓子に、掘り返される墓。或いはアレルゲンでも、誰かに食べられる前にと胃に入れる親。
こんな世で彼女は何をしているのか。
「物語の保存、驚異の部屋の創造だよ」
ユズリハの鷹の目に、僅かに陶酔が浮かんだ。