尖閣諸島の大油田(3)
【尖閣諸島・2010年頃】
1990年代に入ると、油田開発、ガス田開発の一部は海底油田へと移り、天然ガス開発の拡大で事業規模自体も大きく拡大した。
このため21世紀に入ると陸地が足りなくなったので、浅瀬の上に洋上石油採掘基地を巨大化したような人工構造物が建設されるようになる。
尖閣各所の沖合に点在する、近未来的な白亜の巨大構造物がそれに当たる。
この洋上施設は、石油や天然ガスを用いた安価な電力を求める製造業の為、洋上都市として建設が2010年代から国家事業として精力的に建設が進められている。
この洋上都市は「ニライカナイ」と名付けられたが、沖縄本島との間で論争になったりもしていた。
そして洋上都市を建造するまでになったように、日本で最も電力料金が安いため、多くの電気を必要とする産業も拡大の一途を辿った。沖縄各地ばかりか日本本土からも、多数の転居者が相次いだ。
街の人口規模も年々拡大し、久場市と大正市を合わせた総人口は僅か十年後の1982年には返還時の6倍の75万人に増え、20世紀末の段階で200万人を超えた。2024年統計では、226万人となっている。
島と外の人とものの流れも一段と大きくなったので、飛行場も4000メートル級滑走路を2本(+予備1本)備えた国際空港クラスのものが、諸島内の小さな島の一つ(無人島)を潰して平たくする形で1997年に建設された。
二つの大きな島にも、それぞれ立派な飛行場が備えられた。規模に対して面積が足りないため、一部は浮体構造物方式が採用されたほどだった。
尖閣諸島内の殆どの島も、橋梁でつなげられる距離のものは接続された。
久場市にある名嘉島は、それまで何の産業もない寂れた漁村があるだけだったが、開発が進むと共に宅地開発が進み、総人口30万を抱えるベッドタウンに変化していた。
二つの大きな島を結ぶ高速フェリーは、世界でも最も頻繁に行き交うフェリーの一つとなっている。
さらに、巨大化し過密化した都市機能を維持するために、島を南北に縦断する鉄道が1970年代末に開通し、1990年代には近隣の島と新たな空港に延長された。20世紀中には、過密化した都市化に対応するため地下鉄も運行されるようになっている。
大正島にも1980年代に鉄道が整備された。
そうした公共交通機関は、狭い島での自動車数の増大を大きく抑制している。
さらに、島内の自動車数を減らす目的で、新世代型のトラム(市電)も整備された。市街地には坂も多い為、サンフランシスコのようなケーブルカーも走った。
また、二つの主要な島の間に、長大な海底トンネルを造るという構想までもが進んでいる。
かくして斜面の多いそれぞれの島の半分以上が、人工構造物で覆われることになった。
工業施設と都市が消費する大量の水についても、島に豊富にある筈の天然水では足りないため、かなりの量が発電余熱などを用いて海水から蒸留されている程だった。
久場市と大正市は約15キロの海峡を挟んで存在し、夜間でも都市中心部のネオンと各種プラントが派手な輝きを放つため、二カ所に分かれた独特の景観もあって、シンガポール、香港と並ぶアジアの三大都市国家と言われるほどだった。
なお、他から隔離しているため、島内の物資集積所には巨大台風などで流通が長期間断絶した場合に備え、かなりの量の物資が半ば備蓄の形で確保されたりもしている。
その一部は、土地の有効活用のため山岳部の側面や地下にも設置されているが、秘密基地などと言われたりもする。
そしてこの「宝島」から掘り出された石油は、日本経済に大きな影響を与えた。
1980年代後半を基準にすると、莫大な設備投資の代価として、毎年約5兆円分の石油が採掘されている計算になる。
設備維持と運営経費を差し引いても、莫大な利益がある事は間違いない。人件費で見れば破格の利益率となる。
しかも自給なのだから外貨の流出はゼロ、それどころか輸出で外貨も稼げるので、経済的効果は計り知れなかった。
加えて、アラブ地域から石油を輸入する事と比べると、輸送経費の分だけさらに大きな利益があった。原油価格の高騰した21世紀初頭だと、石油の価格は8兆~12兆円分を越えている。
2020年頃までだと、時期によっては15兆円~20兆円にも達する。
(※石油価格は常に変動する。シェール革命の起きた2015年以後だと、1バレル=50ドル程度に下落している。70ドルの場合も少なくない。)
加えて、石油と並ぶほどの規模となる液化天然ガスの採掘、さらには大量の輸出も加わってくる。
天然ガスは、2012年上半期平均だと1立方メートル当たり35円程度となるので、約6兆円分が採掘されている事になり、うち3割は輸出されて日本に大量の外貨をもたらしている。
(※1ドル=90円)
あわせて、21世紀初頭での尖閣諸島が一年間に生み出す資産価値は、直接的な地下資源だけで最低でも15兆円分程度あった。
(シェール革命後は大きく下落。逆に2020年以後は大きく上昇。)
日本が得たものを国際収支全体で見ると、21世紀の序盤の四半世紀だけ見ても貿易量で見れば輸入額が最大で3割も減少している計算になる。
ごく単純に石油、天然ガスの採掘量(=消費量)が年平均10兆円分だとして、250兆円の外貨の流出が避けられている計算になる.
当然ながら、国産の安価な石油、天然ガス、そして安価な電力による日本全体に与えた経済的恩恵は計り知れない。
燃料、電力が安ければ、商品の製造単価も大きく下がるからだ。家庭でも光熱費の減少は、小さくない恩恵をもたらしている。
しかも1970年代後半から継続しているので、約半世紀に及ぶ積み重ねが非常に大きく影響している。
石油、天然ガスの先物取引で、1980年代に大規模な国内市場が大阪に開かれるなど、経済全体への影響も計り知れない。
日本の各総合商社も、尖閣の石油に代わる輸入取扱品探しに奔走することとなった。最も取扱量の多い石油と天然ガスを、買ってくる必要がなくなったからだ。
それ以外にも、尖閣油田の採掘開始以後は様々な変化が訪れた。21世紀初頭では、「日本のGDPの3割は尖閣諸島が生み出している」と言われるほどだ。
しかし一方では、膨大な量の燃料資源が「円」の価値を支え、日本のエネルギー安全保障を強固なものとするため、1980年代から続く慢性的な円高をもたらしていると言われることも多いので、利点ばかりがあるわけではない。
円高は日本の製造業の海外移転を進める大きな要因になっている。尖閣の安価な電力がそれを相殺しているとも言われるが、島の小ささもあって十分ではない。
そして油田の存在が、様々な面で変化をもたらした。
1973年までの日本は、石油のほぼ全てを輸入に頼る石油輸入国だった。石油の消費量は1960年代に入ると急激に増加し、オイルショック直前の1973年度は約2億7000万トンを輸入した。
そして国内油田がほとんど存在しないため、ほぼ全てを輸入に頼らざるを得なかった。
しかも、高度経済成長による重工業の躍進と自動車普及などによって、石油の需要は爆発的に伸びていた。
中東から原油を運ぶ巨大タンカーの就役がニュースの一面を飾るほどだった。オイルショックが無ければ、さらに大きく消費は伸びていたとも言われている。
しかしオイルショックによる無軌道な消費の減少と利用に対する見直し、その後すぐに始まる尖閣油田の劇的な産油量拡大に伴い、1980年代に入ると石油の海外輸入は殆ど無くなった。
特にアラブ地域からの輸入は、1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」でのイラン軍によるタンカー攻撃によって、一時ほぼ途絶する。
1980年代以後から輸入される石油も、尖閣油田より上質の油田から取れるごく少量の石油だけとなった。
そして日本が石油を自給して国際市場で買わなくなったため、オイルショック以後の石油相場を押し下げていた。
日本に石油を運んでいたタンカー群も、多くはそのまま尖閣と日本各地を往復するが、かなりの数が尖閣から世界各地に石油を届けるようになった。
シンガポールに立ち寄る日本船も、一時激減したとすら言われた。
このため、アラブ諸国との関係が希薄化したり、日本のアラブに対する関心を下げてしまうなどの変化も見られた。
1990年勃発の湾岸戦争では、「何もしない日本」として国際非難されたりもした。この頃は、アメリカの対日感情が最も悪化した時期でもある。
日本とアラブ産油諸国との関係も、悪化とはいかないまでも希薄化した。さらに日本から多少なりとも石油を輸入するアメリカとOPEC(石油輸出国機構)との間で、石油の価格を巡り関係が微妙になる事も年々多くなっていた。
特に、石油価格が高騰したときの産油量増強では、毎回産油諸国との間で微妙な駆け引きが行われている。
そして自国内で有り余るほどの石油が採掘されるため、完全自給を達成するばかりか、かなりの量がアメリカや韓国に輸出された。
1980年代の石油自給率は、概ね115%~130%程度だった。最高記録では、1年間に約8000万トンが輸出されていた。
石油採掘開始から数年遅れで大規模な利用の始まった天然ガスについても、液化天然ガス(LNG)という形で完全自給を達成するばかりか、韓国、台湾、中華人民共和国など近隣諸国に大量に輸出されている。
ちなみに、21世紀初頭の天然ガスの年間採掘量2000億立方メートル、国内の年間消費量約1400億立方メートルある。
ただし採掘量が多すぎると言われ、実際その通りの為、2010年代からは大きな減産傾向になる。
(※史実日本の天然ガス需要は、2023年で約887億立方メートル。全世界で4兆2,829億立方メートル。)
しかし大量に輸出されるのは天然ガスで、日本が発展して国内消費が増えすぎたため、アメリカに回ってくる石油の量が大きく減少している。
この点では、アメリカの目算はかなり外れた事になるだろう。
だが1970年代から、アメリカと日本の間に日本の輸出超過という形で貿易摩擦が起きるようになると、尖閣産の石油も問題視された。
アメリカの対日貿易赤字の一因が、尖閣諸島からアメリカに輸出される石油にあったからだ。
とはいえ、石油は自分たちが定めたようなものである国際価格があったので日本が悪いわけでもないため、あまりやり玉に挙げられる事はなかった。
しかし日本は、他の面でアメリカの理不尽な要求を受け入れなければならなくなっているので、問題が無かったわけではない。
飛行機や兵器などの購入による日米間の摩擦は、今に至るも語りぐさとなっているほどだ。
加えて、石油(+天然ガス)自給達成以後の日本は、外交的に「調子に乗る」状態となった。
世界への日本製品の氾濫と日本経済の驚異的とされる発展のため、世界的に日本がかなり悪く見られることにもなった。貿易摩擦も、主にアメリカを中心にして頻繁に発生した。
そして燃料資源という足かせがない事が、一部で日本の強硬な外交姿勢が見られると共に、諸外国からはひんしゅくを買うことも多くなった。
また日本国内では、尖閣油田の採掘によって日本が自由にそして安定して使える石油が大量に存在するため、オイルショック頃に叫ばれた所謂「省エネ」については、1970年代末頃になると熱意も冷めて、取り組みもおざなりとなっている。
1979年には「第二次オイルショック」も起きたが、ここでも日本は尖閣油田で難なく乗り切ってしまった上に、主にアメリカへの石油輸出で外貨を稼いだため、石油消費を減らすと言う面で具体的な行動が行われることもあまり無かった。
世界的な取り決めと潮流のため、火力発電が石油から天然ガスにシフトしたぐらいだろう。
しかも尖閣には、天然ガスも莫大な量が眠っていた。
日本で省エネ対策が熱心に行われるのは、世界規模での温暖化対策が注目される1990年代中頃ぐらいまで待たねばならなかった。