尖閣諸島の大油田(2)
尖閣諸島が日本に主権が移り米軍が姿を消すと、中華人民共和国の動きは不穏なものとなった。
中華人民共和国の漁船が、大量に「台風からの避難」などの理由で尖閣諸島周辺に押しよせた。また、同国の海軍艦艇、軍用航空機が領海ギリギリまで接近するなどの軍事的挑発を行った。
さらには、一方的な尖閣の領有権主張などの強硬外交が行われたりもした。ソ連軍も、1980年代までは尖閣近海での示威行動を何度も行っていた。
中華人民共和国が領土問題について文句を言うのは、もはや恒例行事と化していた。
このため日本政府は、現地の防衛を返還当初から島の警備を重視した。返還当初は流石に警察だけだったが、人口に対する警察官の数は一時的に日本一の比率となった。
復帰直後の1973年には、自衛隊の本格的な駐留(当初は中隊規模)を開始。数はすぐにも増加した。
通常は民間用ながら、有事には自衛隊や在日米軍が使用できる4000メートル級の滑走路を持つ大規模な飛行場も整備された(※飛行場自体は戦時中からあった)。
また海上国境警備のため、かなりの規模の海上保安庁職員と船舶も当初から駐在するようになる。
その後現地での産業と人口の拡大に伴い、駐留兵力、警察力も年々強化され、1990年代には油田防衛のために、対テロ防衛用の特殊部隊まで配備されるようになる。
台湾での軍事的緊張が高まった1996年以後は、対空ミサイル部隊も常駐するようになっている。
なお、対テロ特殊部隊については、日本でしか考えられない理由により、通常は警察の対テロ特殊部隊が当たった。
この警察による油田警備部隊は、1970年代半ばから活動していた。これに対して自衛隊の対テロ特殊部隊は、民意の反発から配備が大きく遅れた形だった。
日本全体の軍備も、尖閣諸島を見据えて変化した。
海上自衛隊は、遠隔地での戦力展開や海上交通護衛を理由に、戦力増強が優先して認められた。
輸送艦という名目の揚陸艦は、1970年代の時点で自衛隊としては初めて1万トンを超える大型艦が2隻(《いず》《たんご》)追加建造された。
しかもこの輸送船は、ドック型揚陸艦ながら露天搭載だが多数のヘリが搭載可能だった。
名目上はソ連の北海道侵攻に備えてのものだったが、通常の配備場所が瀬戸内海の呉なのだから、自衛隊が何を考えているのかは明白だった。
さらに1980年、81年の計画では、念願の「軽空母」を保有するに至る。
1985年、86年に竣工した航空護衛艦(《しなの》《えちご》)は、満載排水量1万9500トン(基準排水量1万5000トン)で、艦載機は垂直離着陸機(AV-8)を訓練用と合わせて約50機、貿易摩擦解消も兼ねてアメリカから完全輸入の形で購入した。
艦そのものも、アメリカから有償で技術導入した「制海艦」と呼ばれるものをタイプシップ(原型)としている。このため艦の外観は、スペインの同種の空母と似通っている。
海上自衛隊は自力設計にこだわりを見せたが、経験不足と急がれたこともあってアメリカからの技術導入となった。
それでも海上自衛隊の艦の方が、スペインのものより凝った作りと贅沢な装備を有していた。
一方、垂直離着陸機の運用は航空自衛隊なので、航空戦力も増強された事になる。
その航空自衛隊も、1980年代半ばに遠隔地への早期展開の為に空中給油機を数機(※当初は4機。その後倍増。)導入した。
輸送機も増やされ、特に装甲車など重量のある装備が輸送可能な大型機が整備された。
沖縄の自衛隊も使える飛行場も、さらに整備、強化された。
そして自衛隊の贅沢な装備は、石油の国産化に伴う税収の増加によってゆとりを持ったまま購入から維持までが可能となった。
石油が兵器に「化けた」というわけだ。
21世紀初頭の現在、島に駐留する自衛官、海上保安庁職員の数は、合わせて2000名を超えている。この上に、二つの大都市を支える警察官が加わる。
また、沖縄に駐留する航空自衛隊は、当初から2個飛行隊を有する航空団飛行群とされた。当然、機体数が足りないので、足りない分だけ機体が追加で配備された。
中華人民共和国などが、「尖閣の過剰な軍備」、「日本の軍国主義」について色々と文句を言うようになったのも、1990年代からの事だった。
21世紀に入ってからは、対弾道弾防衛のミサイル配備で中華人民共和国とかなり激しい対立が見られる。
なお、自衛隊の遠隔地展開や洋上防衛戦力の整備は、その後も順調に伸展している。
補給艦は1985年就役のものでも満載2万トンを越えた。2004年就役の次世代型だと4万トンに迫っている。
1997年から続けて3隻就役した輸送艦は、満載3万トンに迫る規模に拡大された。ドック型でエア・クッション艇を搭載するばかりか、空母のような広い飛行甲板と格納庫が備えられ、限定的に垂直離着陸機も運用可能な本格的な強襲揚陸艦となった。
2009年、11年に就役した航空護衛艦(《いせ》《ひゅうが》)は、満載排水量2万9000トンに拡大する。
近代改修で延命処理を受けた垂直離着陸機(AV-8)と各種ヘリを合わせて20機程度搭載する事ができた(AV-8:12機、警戒ヘリ2機、各種ヘリ4機)。20機という数字も、自衛隊全体の予算不足と自衛官不足のためで、最大30機近く搭載可能と言われている。
その後10年ほどして近代改装を順次施し、搭載機数は減ったが新型機も運用可能となっている。
そして問題となったのが、《しなの》《えちご》の代替艦だった。
1980年代半ばの建造で、2010年代半ばには代替艦の整備が必要になっていた。
そして、アメリカなどが開発する新型機(F-35B)の優先供給を取り付けた日本政府は、その機体を運用するに相応しい規模の艦艇を計画する。
運用するのはAV-8と同じ垂直離着陸機だが、新型はかなりの大型なので《いせ》程度の規模だと、多くても10機程度の運用しか難しかった。
このため当初は、《いせ》の拡大型で満載排水量3万7000トンを計画。新型機を従来の運用数搭載しようとすると、最低でもこの程度の規模が必要だった。
しかし能力が中途半端とされ、さらに有事には航空隊を増強するか、緊急展開部隊用のヘリコプターもしくは新型機を多数運用できる能力が求められる。
つまり有事、特に尖閣諸島の防衛には、各種合計で30機以上運用出来なければならなかった。そして求められる艦の規模は、フランス海軍の原子力空母並みが最低でも必要と結論された。
ソ連 (ロシア)の脅威は無くなったが、中華人民共和国の脅威は急速に増しつつあったからだ。
だが、そのような大型艦建造の計画を、周辺各国が強く非難。国際問題にまで発展する。
しかしその非難と、一部の国の軍事的恫喝とも取れる動きにより、日本国内では必要と判断された。何しろ、油田とその輸送路を防衛する為に必要だからだ。
結果、2015年、2017年に就役した航空護衛艦(《いずも》《かが》)は、満載排水量7万トンに迫る空母らしい外見を持った戦後最大を大きく更新する大型艦となった。
しかもアメリカからの有償協定で航空機用カタパルトを装備。アングルドデッキと大型機用の舷側エレベーター、大きな格納庫を備えた。
さらに、従来の航空護衛艦よりも揚陸艦の機能が強化されており(※米揚陸艦のようなドックなどはない)、尖閣防衛により向いていると言われる。
なお、航空自衛隊は1980年代のAV-8導入の際にかなり無理をして航空隊を編成、増強している。空母乗り込みなので、様々な問題もあった。
否応なく海上自衛隊との協力と連携は進んだが、軋轢や対立も生んだ。
その無理は、さらなる戦力の拡充もあって四半世紀を経ても解消されきっていない。
垂直離着陸機は、損耗機補充と訓練機込みで70機以上導入され。新型機(F-35B)導入も2018年から進んでいる。
早期警戒機、大型ヘリなどを含む航空護衛艦用の航空隊は、海上自衛隊への移籍も検討されているが実現していない。
また他にも、早期警戒管制機、追加の給油機、緊急展開可能な軽快部隊など、尖閣に駐留しないまでも多くの戦力が導入、編成されている。
尖閣諸島自体の駐留部隊も、海上保安庁と哨戒ヘリ部隊、対テロ部隊を中心にさらに拡充している。
しかし中華人民共和国を必要以上に刺激しないため、対潜哨戒機隊と戦闘機隊の配備は行われていない。
話を油田に戻すが、油田以外の尖閣諸島での開発も急速かつ巨大だった。
全てが国家プロジェクトだった。
各所に、採掘のための油井が無数に作られたのは当然として、天然の良港となっている魚釣湾には可能な限り巨大な港湾設備が整備された。
浚渫を含めた港湾工事により20万トン級のマンモスタンカーが何隻も同時に横付け出来るような岸壁も整備された。後の改修では、50万トン級の運用も可能となった。
油井の方は、古くからある井戸ポンプ(ハンマーが回転するような形のもの)を大きくしたようなものは殆ど無い。
将来を見越して深い場所も採掘できる、採掘船に設置されるような近代的で非常に大規模なものばかりなので、巨大なタワーがそそり立つような景観となった。
また、原油を効率よく輸送するための巨大なパイプラインが島中に敷設された。
山が切り開かれ、平地造成と埋め立てによって使える地面を大幅に増やした。そして平たくなった場所には、石油産業、天然ガス産業に必要なありとあらゆる施設、構造物が建設されていった。
経済効率を考えてかなりの規模の精油所も建設され、ほぼ同時期に大規模な液化天然ガスのプラントも建設された。
島に電力を供給する100万kw級の巨大(火力)発電所が、最初から増設可能なような敷地に建設された。
熱を発生する発電所、精油所には、後に真水を精製するプラントも併設された。
主に工業用の貯水池も、出来る限り拡大された。巨大な一時貯蔵基地も、石油、液化天然ガス双方のものが作られた。
こうして尖閣本島の半分は、パイプラインと鉄骨、各種タンクによって構成された前衛芸術となった。「要塞のようだ」と表現されることもあるほどだ。
なお、油田の開発は主に尖閣島だが、天然ガス開発の中心は東側の大正島だった。それぞれの島の僅かな平地にあったサトウキビ畑には、油田や工業施設の他に、石油産業、天然ガス産業で働く人のための近代的な街が急速に建設されていった。
中心となる久場町、大正町(1976年にそれぞれ市となる)では、街の拡張当初から現地の労働者に対する島の平地面積が不足すると考えられたため、当初から高層建築が林立することになる。
しかもまとまった平地は石油、ガスの開発と各種大規模工業施設のために必要なので、居住施設は可能な限りまとまった平地の少ない場所に建設された。
島の人口増加は極めて急速で、一部の景観はまるで高度経済成長期の長崎の軍艦島を巨大化したような有様だった。
島を覆っていた亜熱帯系の濃い緑は年々減り、1990年頃までに農地はほぼ消え去った。開発開始から四半世紀後には、島の半分はコンクリートとアスファルトで覆われ、久場市は沖縄県随一の都市となった。
その後も島の人口が増え続けたため、高層マンションが林立することになり、元は人口が少ない場所だったため日本本土に先駆けて大規模商業施設が幾つも作られた。
そうして出来た21世紀初頭の島の情景は、まるで香港やシンガポール中心部のような有様だった。
ただしそこは、観光資源に乏しい日本有数の産業都市だった。日本の都市で言えば、人口規模的に久場市が神戸、大正市が長崎に近いだろう。
ただし諸島内には娯楽施設が少ないため、先島諸島や沖縄本島が近在の遊び場となった。先島諸島へなら、安く設定された高速水中翼船なら片道2時間半ほどで行ける場所だった。
また、さらに人口が増えた1990年代には、諸島内の小さな島が諸島内の娯楽地区として開発されている。
日本本土から離れた場所に200万人も住むので、そうした住人の慰撫施設も重要だった。