尖閣諸島の大油田(1)
【尖閣諸島・1980年頃】
尖閣諸島での油田開発は、早くも1973年に開始される。
同年10月に「オイルショック」が発生したことが、直接的な発端だとされている。
しかし多分に、国際情勢と外交が絡んでいた。
日本国内では、「尖閣大油田」のお陰でオイル・ショック恐れるに足らずと大変喜ばれたが、場所が微妙だったからだ。
尖閣諸島が太平洋上なら、何の問題も無かっただろう。
尖閣での油田開発で最も懸案とされたのが、中華人民共和国との関係だった。
尖閣諸島は明治以後明確に日本領とされ、復帰時にも約13万人の住民が住んでいた。約四半世紀の間アメリカの軍政下にあったが、住民のほぼ全員が日本語を話し、日本への一定以上の帰属意識を持つ人々だった。
本土復帰は熱烈に歓迎された。
このため、国際的にも日本に帰属するのが当然だと考えられた。
だが中華人民共和国は、琉球王朝による明朝、清朝の封冊(朝貢)を主な理由に、琉球本島を含める周辺地域は中華人民共和国が領有権を有すると1969年7月に公式声明を発表した。
その後、後期倭寇の話すら持ち出した。
そして中華人民共和国の理不尽極まりない発言に、日本政府は世界中が驚くほど狼狽した。
戦後政治、占領統治の結果と言ってしまえばそれまでだが、日本人を都合良く心理的誘導を行ったアメリカが非常に驚くような状態だった。
中華人民共和国も日本政府の過剰すぎる反応に驚き、慌てるように態度を軟化させたが、日本側の態度が変わることはなかった。
そして日本政府は、既に尖閣油田開発を大々的に発表していた事もあり、尖閣の開発自体には引っ込みがつかなかった。
結果、主に国内的な安定の為に、日本が国家として尖閣諸島への影響力を増すまで、中華人民共和国との国交樹立を先延ばしせざるを得なくなる。
世界的にも台湾の中華民国が国連から追放され、中華人民共和国が国連常任理事国の椅子と共に国連に加盟したのが1971年なので、日本としても中華人民共和国との国交樹立を早く行いたかった。
アメリカとソ連を中心とした東西冷戦下で、日本の国防上と外交上で必要だからだ。
また国交がないため、同国での市場開放に伴う経済的進出も大きく出遅れることになった。
人材や技術の交流についても同様だ。
しかし、突然のように理不尽で深刻な領土問題を突きつけられては、国交樹立や経済交流どころではなかった。しかも問題は単に領土だけでなく、そこに眠る莫大な量の石油とあっては尚更だった。
その後も、業を煮やした中華人民共和国側の事実上の干渉や圧力が何度もあり、日本側の態度も過剰なほど硬化を続けた。正式な国交がないため、問題も複雑化していった。
しかも台湾の中華民国の国を挙げての親日政策、またその真逆の恫喝により、さらに問題を深刻化させた。
日本と中華人民共和国との国交正常化は、国連とアメリカの仲介などのお陰で1978年にようやく成立する。
だが、日本と中華人民共和国双方の間に最初から大きな溝が生まれたのは間違いないだろう。
(※史実は1972年。78年は日中平和友好条約が結ばれた年。)
特に、国交正常化時点で中華人民共和国を建国した毛沢東、周恩来らが既に死去していた事は、致命傷とすら言われた。
福田首相と鄧小平との間には深い関係が築かれたと言われるが、他国と比べて大きく遅れた事は間違いない。
(※例えば日本が技術支援した製鉄所の建設が大きく遅れる。もしくは支援先が日本以外の国(恐らくはドイツ)になる。)
この事は、日中間のその後の外交と経済交流でも強く見ることが出来る。
両国の国境近くにある大油田が、両者の接近を阻み続けたのだ。
また皮肉と言うべきか、1970年代の日本の経済界は、まずは尖閣の開発に総力を傾けるべきで、中華人民共和国との国交回復と経済進出はその次だという向きが強く、日本経済界の考えも日中の関係改善と親密化を遅らせることになる。
さらには、尖閣防衛の為に自衛隊を強化するべきだ、という考えが経済面で強く肯定される事にも繋がった。
日中平和友好条約の締結は、他国に大きく遅れる1983年のことだった。対中借款も1984年にようやく開始されている。
(※中華人民共和国の経済開放は1978年から。)
(※史実の日中平和友好条約は1978年。対中借款は1980年から。)
そして日本全体が非常に重視した尖閣油田だが、その開発は急速だった。
尖閣諸島が日本領に復帰するが早いか、続々と日本の企業、政府の石油調査団が現地入りし、アメリカのオイルメジャーなどから技術支援などを受けつつ、早速調査と試掘を開始する。
調査開始は、事前準備は返還前から日本本土で行われ、返還された翌月の6月には大規模な調査団が現地入りしている。
さらには、すぐにも採掘予定地の日本政府による大規模な用地買収が開始された。加えて、全諸島規模での詳細な測量と地質調査が開始された。
しかし尖閣での石油採掘は、日本だけの意志では難しかったかもしれない。裏には、アメリカとしても試掘、そして大量採掘をしたくて仕方なかったという事情があった。
軍政(軍事占領)下の琉球(尖閣)で勝手に石油採掘を始めては、当時のアメリカにとって外聞が悪いからだ。
発見された頃は、時期的にもベトナム戦争たけなわとなった頃だったので、尚更自分たちに対する風聞を気にした。
先にも書いたように、一時は沖縄独立すら考えたほどだったが、当時の米ソ冷戦構造や敵に近い微妙な土地柄を考えると日本を介して採掘するしかないと考えられたからだ。
このため沖縄を日本に返還した上で、自分たちが日本のうわまえをはねようとアメリカは考えたと言えるだろう。
また1973年秋のオイルショックにより、新たな安定した石油輸出先を求めていたアメリカにとっても、尖閣諸島の地下に眠る巨大油田の存在は極めて魅力的だった。
尖閣がペルシャ湾よりもアメリカ本土(西海岸)に近いというのも魅力だった。
そして初期的な油田調査の段階で、ついに石油が発見される。
しかも当初掘られた油田のほぼ全てが、地上(尖閣本島)から掘られた比較的浅い位置からの自噴油井のため、一度穴を空けてしまえば採掘は非常に容易だった。
しかも油質もかなり良質な事も判明した。油田の埋蔵量も、当初の実地調査だけでも1箇所当たり100億バレル以上と判明した。
さらには、膨大な量の天然ガスの存在も確認された。
日本にとっては、文字通り宝の島の発見だった。
日本中が喜びに包まれた。
尖閣での主な石油開発は、国が出資する形の「日本石油開発公団」を含めた日本資本(※三菱、日石、出光、丸善など中規模以上の全ての石油関連企業が参加。)が約7割、アメリカ資本が3割となっていた。
実際は、株式など様々な要素から、アメリカ資本の割合は初期で4割を超えていた。
アメリカの資本比率の高さは、出光創業者の出光佐三を始めとして反対も多かったが、当時は大規模採掘技術に乏しい日本としては技術供与の面からも受け入れざるを得なかった。
また世界の販路の問題からも、アメリカ(企業)抜きの石油開発はあり得なかった。
加えて、日本の国防上からもアメリカ抜きは考えられないという事情もあった。
しかし、日本経済が拡大した1980年代半ば以後は、急速にアメリカの資本比率は弱まり、21世紀初頭では実質25%程度に低下している。
日本経済の拡大と石油事業そのものの拡大に伴い、日本資本をどんどん増資していったためだ。
また、天然ガス採掘事業に関しては、アメリカ資本の割合は1割程度に過ぎない。
20世紀末に民営化された「新日本石油(ニュー・ジャパン・ペトロリアム=NJP)」)は、世界のオイルメジャーとしてもかなり上位に属している。
油田開発までは元売り企業だった日本の各企業も、大きな企業はほとんどが採掘企業となった。
(※史実にある「新日本石油」とは違う会社。)
油田の規模が巨大で採掘が容易なため、産油量は年々計数的といえる規模で拡大した。島には建設業を含めて大量の労働者が流れ込み、10年を経ずして日本の石油需要の殆どを賄うようになる。
最盛時の採掘量は、当時の日本の消費量を大きく上回る年産3億5000万トンにも達した。
しかも日本政府は、高度経済長期の夢再びとばかりに複合的な開発を実施し、尖閣諸島を油田、ガス田を中心にした重化学工業の島にしようとした。
しかし良い話ばかりではなかった。なにしろ尖閣諸島の大油田、世界規模で見ても宝の山だった。