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尖閣諸島について(2)

 尖閣諸島の主に住民に大きな変化が訪れるのは、日本列島で近代化革命(=明治維新)が起きて以後の事だった。


 西暦1879年に、日本帝国が琉球王朝を完全に廃して沖縄県を設置すると、尖閣諸島も沖縄県の行政単位に組み込まれた。

 その後尖閣諸島では、日本に組み込まれたことで世界との繋がりが出来て、かなりの人々が移民として環太平洋圏各地に旅立っていく事になる。

 小さな島々のため、人口が完全な飽和状態にあったからだ。この辺りの事情は、沖縄各地と似通っている。


 そして尖閣諸島そのものでは、日本の食料政策に従ってサトウキビ栽培が精力的に実施されるが、それ以上ではなかった。

 沖縄本島同様に「日本化」政策は精力的に実施されたが、沖縄本島よりも「同化」と順応は早かった。



 尖閣諸島の重要度の低さは、第二次世界大戦においても変わらなかった。1945年4月に沖縄に侵攻したアメリカ軍も、尖閣諸島をほとんど無視した。

 当時尖閣諸島には約10万人の日本人(日本国民)が住んでいたが、徴兵された者(延べ人数約6500名)を除いてほとんどが戦争を蚊帳の外で過ごしたとも言えるだろう。


 無論、尖閣諸島にも海軍を中心にした航空基地が設営され、1945年までには1個混成旅団(※現地徴用の軍属を含めて5000人弱)の守備隊が駐留した。

 だが、一時期駐留した航空隊以外は、アメリカ軍からはほとんど無視された。戦闘も、中規模以下の艦載機の空襲を数度受けただけだった。太平洋側にあればまた違っていただろうが、戦場から離れすぎていた。


 そして1945年8月15日に日本が降伏し、その後日本がGHQの統治下に置かれると同時に、沖縄県に含まれていた尖閣諸島もアメリカ軍の軍政下に置かれることになる。

 つまりアメリカ領となったわけだ。


 その後尖閣諸島は、沖縄本島よりも中華大陸、台湾島に近いこともあってか、軍事的にあまり重視されていなかった。

 軍事基地を置くには、敵に近すぎると考えられたからだ。

 それでも若干のアメリカ軍が駐留したが、レーダーサイト、中規模の飛行場、哨戒艇の基地、若干数の海兵隊員程度だった。このため、沖縄本島のように「アメリカ化」が進むことも無かった。


 ただし、終戦直後に中華民国が自国領だと言い張った事に対して、アメリカは一切相手にしなかった。アメリカの見たところ、尖閣諸島は完全な日本領の一部だったからだ。



 尖閣諸島の歴史上で最大級の変化は、1964年、東京オリンピック開催の年に静かにそして決定的に訪れた。


 アメリカの資源調査団が、尖閣諸島本島及び周辺部の海底に莫大な埋蔵量の石油資源の存在を確認したのだ。

 しかも、かなり浅い場所で確認された。

 この調査報告は、しばらくの間アメリカ政府によって伏せられていた。当時石油は安価で豊富にあったし、尖閣諸島の位置が外交的に微妙だったからだ。


 また、石油を見付けた事で、あわよくば沖縄を独立させてアメリカの傀儡国家を作れないかと、真剣に研究されたからでもある。

 この時期アメリカは、学者などを動員して沖縄や周辺部の歴史を、多くの人材と予算を投入して調査、研究している。沖縄を含め、島民の意識調査なども、日本返還の準備として熱心に行っていた。


 また一部の現地住民に対する慰撫工作が実施され、日本からの独立運動を行うように誘導したりもしている。特に琉球民族、琉球王朝としての意識を高め、民意で「自主独立」をさせようとした。

 こうした動きは終戦からしばらくして、「日本でない地域」として熱心に行われたが、それが再び行われた形だった。

 だが、肝心の尖閣諸島に対しては逆効果で、アメリカの意図は空回りした。


 そして1969年、今度は第二次佐藤内閣の頃の日本政府が、沖縄復帰を目前にして周辺地域の初期的な資源調査を実施し、同様に「大油田」の存在を確認する。

 しかも日本政府は、アメリカ政府が何かを言い出す前に、大いなる喜びのまま大油田発見を発表してしまい、世界中に大きな波紋を投げかけることになる。

 日本政府の最初の発表では、実際の三倍もの量(3000億バレル)の超大油田を発見したと発表された。おかげで、当時ただでさえ安かった石油価格が、一時さらに下落したほどだった。


 こうしてアメリカの嫌らしい目論見は、日本の無自覚な行動によって一瞬で潰えたワケだが、事態はそれだけに止まらなかった。

 それまで現地住民以外見向きもしなかった島々が、俄に世界の注目を集めるようになったのだ。



 ちなみに、尖閣諸島を含めた琉球諸島の日米間の返還交渉だが、1957年の「岸・アイゼンハワー会談」における「(日本政府による)潜在主権」の確認、1961年の「池田・(J・F)ケネディ会談」における対沖縄援助協議、66年の日本政府内における対沖縄問題特別作業班の設置、67年の「佐藤・ジョンソン会談」における早期返還の確認などの動きが見られた。


 交渉が順調に進んだのは、米ソ冷戦構造という枠組みの中で、日本の位置と国力、その他諸々がアメリカにとって必要だったからだ。またアメリカが、完全に水面下で進めた沖縄独立計画を表立たせないためでもあった。


 その間の1965年8月には、佐藤首相が戦後の内閣総理大臣では初めて沖縄を訪問して、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとっての戦後は終わっていない」と演説する。

 これにより日本では復帰がにわかに現実化し、1969年11月の「佐藤・ニクソン共同声明」で1972年の沖縄のアメリカ返還復帰が確定した。


 1969年とは、日本が尖閣油田の発見を発表した後の事だったが、世界情勢的には当時ソ連・共産主義陣営の勢力が拡大傾向を示しており、同時に尖閣諸島が俄に領土問題として浮上したからでもあった。


 当時、中華人民共和国は共産主義陣営と見られていたし、1960年代後半は文化大革命によって、いつ国家が崩壊してもおかしくない極めて危険な状態だと考えられていた。

 このため、日本の領域で最も中華地域に近い尖閣諸島の主権と防衛を早期に確立することが、西側陣営にとって重要だと考えられていたからだ。

 尖閣は単体での重要度は低いが、沖縄防衛を考えると外郭拠点としての役割を持っていたからだ。


 しかも中華人民共和国は、日本の尖閣油田発見の発表のすぐ後にも、尖閣諸島の自らの領有権を主張するという外交上恥ずべき行為を実施しているため、尚更日本への琉球そして尖閣返還は重要と考えられた。

 アメリカが目論んでいた、沖縄の独立など以ての外といえる状況だった。もし強引に独立させていたら、間違いなく紛争予備地域となっていただろう。


 なお、1971年6月「琉球諸島及び尖閣諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が調印され、1972年3月の批准書交が交わされる事により、正式に沖縄は日本の領土に復帰する事になる。



 ちなみに、同じ沖縄県という行政区分にされたが、尖閣諸島の民意と沖縄本島の民意にはかなりのズレがあった。沖縄本島の人は、日本本土を「ヤマトン」と言って嫌う事があるが、尖閣諸島の人にとっては琉球王朝の「ウチナン」も外から来た支配者だからだ。

 しかも琉球王朝は、国家規模の限界から支配力、統治力が低かったため、尖閣に与えた影響、恩恵は小さく、対して近代化して以後の日本は尖閣の統治にかなりの努力を割いていた。


 また、尖閣が戦災を殆ど受けていないことも、民意に大きな影響を及ぼしていた。結果、尖閣住民の帰属意識は日本に対して高く、沖縄本島に対してはかなり低くなった。


 次に、米軍の占領統治中に両者の対立が深刻化した。


 米軍は尖閣や先島も同じ琉球としてひとくくりにして、一つの行政単位で占領統治を行った。必然的に人口が最も多い沖縄本島が中心となるが、ここで沖縄本島の人々は周辺の島々を自らの格下に置いた。

 このためもともと沖縄本島への帰属意識が低い尖閣の住民は、琉球の大学や官庁に行くことはなく、大学はアメリカ本土を目指すようになったほどだった。

 このため尖閣諸島内の学校では、アメリカ人を講師として招くなどして、英語教育に非常に熱心になったりもした。


 そして大油田の発見で、両者の対立は決定的となる。


 本土復帰、石油開発以後は尖閣が自らの大地を犠牲にして沖縄経済を支えているという感覚が強くなり、沖縄本島を「お荷物」と考える節も強まった。加えて、尖閣の開発が始まると、沖縄本島を中心として大量の労働者が尖閣に流れ込んだ。


 しかも油田に関連する地方税は、当面の日本政府の方針もあって沖縄本島の開発にも大量に投じられ、すっかり尖閣の税収への依存体質ができあがってしまう。


 逆に沖縄本島は、「基地の島」として過剰な負担を強いられていると考えており、ロクに基地もない尖閣や先島への強い不満を持った。


 この税収と民意の違いが、尖閣諸島の市町村統廃合を民意の点でいち早く進め、さらには久場市の政令指定都市への昇格につながっている。

 また沖縄県知事、議会両選挙は、尖閣候補と沖縄候補の対立が日常的風景で、1980年代半ば以後は人口差と先島の取り込みで尖閣の圧倒的優位の形が続いており、一部の沖縄本島住民の不満を高める強い要因となっている。

 保守政党が常に圧倒的勝利をしている為だ。



 さらに尖閣と沖縄の対立は、時代が進むと共に深くなっている。

 油田開発以後に油田開発と製油のため、尖閣には瀬戸内と近畿圏を中心に、日本中から多くの人がやって来て尖閣の地域性を希薄化させているためだ。

 しかも米ソ冷戦構造の崩壊以後は、日本中の反戦、反政府的運動家が沖縄本島への移住を強めたため、地域間の溝は一部でさらなる深刻化を見せるようになっている。


 そうした民意があるため、日本本土の反戦団体が尖閣に来ることは殆ど無く、もっぱら尖閣に来るのは自然保護団体だった。

 しかし彼らも、石油会社、天然ガス会社などが尖閣の自然保護に莫大な寄付と投資を行いロビー活動を展開するため、一部急進的な団体以外が目立つことはない。

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― 新着の感想 ―
沖縄から県として独立した方がいいと思ってそうな尖閣民
ここまで本島との対立が激しいと、先島諸島を巻き込んで久場県(仮)として独立しようなんて声も挙がりそうですね。
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