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尖閣諸島について(1)

【尖閣諸島・1972年頃】


挿絵(By みてみん)



 日本国、沖縄県、尖閣諸島。2010年代の域内の人口は約210万人。小さな島々としては非常に多い人口で、市町村は大きく尖閣島の久場市と大正島の大正市に分かれている。

 また、他の産業地域、人口地帯から離れた諸島としては、異常なほど発展している。


 産業の主軸は、石油と天然ガスの採掘、そして石油精製事業、液化天然ガス事業となる。

 また、安価な資源を用いた大規模な発電も行われているため、大電力を必要とする重工業、先端産業も多い。間違いなく、鉱工業の島々である。

 これほど極端に開発された小さな島々は、世界を見渡しても極めて珍しい。


 石油が採掘される前は、周辺を含めて美しい珊瑚が覆う南洋の島々だった。

 だが、大量の油田(海底油田)、天然ガス田(海底ガス田)と石油や液化天然ガス、石油生成物などを運ぶタンカーなどの船舶から漏れる僅かな石油、工場、大都市からの排水のため、1980年代には珊瑚はほぼ全滅した。海洋汚染のため、海水浴が難しい場所すら存在する。

 現地への環境対策には莫大な投資が実施されているのだが、膨大な量の石油、天然ガスが採掘されているため、全てを止めるには至っていない。


 そして諸島中に存在する油田、ガス田、巨大な石油精製工場、液化天然ガス工場、巨大タンカーが何隻も接岸できる巨大な港、さらに安価な電力を求めた工場群によって、尖閣諸島の二つの市の合計人口は200万に達し、二つの街も近代的都市となっている。


 また久場市、大正市は洋上の大都市で、特に久場市は人口150万人を超える政令指定都市だ。県庁所在地ではないながら沖縄県最大の都市で、尖閣諸島の人口も沖縄県全体の半分以上を占めている。総生産額に至っては、沖縄県の殆ど全てを尖閣諸島が生み出している。

 もちろんだが、日本全体で見た場合の経済価値も計り知れない。


 日本は1980年代からずっと世界屈指の大産油国で、世界第4位を占め続けている。埋蔵量も、21世紀初頭の現在でも世界の6~7%ある。

 加えて天然ガスも非常に豊富で、こちらも埋蔵量は世界第6位、産出量は世界第2位を占めている。

 全ては、世界最大級の尖閣石油、尖閣ガス田のお陰だ。

(※尖閣以外の沖縄県全体の人口は約140万、GDPは約4兆円)



 同諸島の各島と周辺の海底油田で採掘される石油の量は、2015年度統計で1年間で約2億5000万トン(約18億5000万バレル=日産約507万バレル)。

 日本が必要とする石油(原油)を、ほぼ全て自給している事になる。一部は輸出も行われているが、基本的に日本は尖閣油田の経済的産油量をもとにして、自分たちの使う石油の量を決めているような状態となっている。

 北海の海底油田を利用している国々と少し近いと言えるだろう。


 21世紀初頭の技術で商業採掘可能な究極埋蔵量は、採掘開始前で約1100億バレル。

 過去約30数年間の採掘で既に約3分の1が採掘されているので、残り700億バレル程度と言われている。日本の消費量の約50年分だ。西暦2060年頃まで、日本は石油の心配をしなくてよい事になる。


 石油の価格が大幅に高騰すれば、さらに数百億バレルの石油が採掘できるとも言われている。また、周辺部には、詳細は未確認ながら別の油層がある。

 原油価格が70ドルを超える場合、究極埋蔵量は1500億バレルを超えるとも言われる。


 また、石油同様に無尽蔵に存在する天然ガスも合わせて採掘されており、石油採掘から数年遅れながら採掘が盛んに行われている。

 天然ガスの埋蔵量は、発見時で約12兆立方メートル。既に約20%が石油採掘の過程で失われるか商業採掘されているので、残り9~10兆立方メートルとなる。

 しかし究極埋蔵量などの増加で、むしろ発見時より増えているとも言われる。

(全世界の埋蔵量は2023年で約206兆立方メートル)


 年産は1500から2000億立方メートルなので、あと半世紀ほどは採掘可能な計算だ。

 この産出量は、日本が消費する全ての天然ガスを賄って、さらに液化天然ガス(LNG)を利用する近隣の国々に大量に輸出も行われている。

 こちらも別の埋蔵場所が未確認ながら発見されている。

(この世界の21世紀初頭の天然ガスの年間採掘量2000億立方メートル、国内の年間消費量約1400億立方メートル。)


 つまり日本は、この尖閣油田のおかげで、石油、天然ガスを国内で自給出来ている事になる。天然ガスについては、環太平洋最大級の大輸出国ですらある。

 状況としては、北海油田に頼っているイギリスや北欧諸国に少し近いだろう。


 また日本は、尖閣油田によって国内に巨大な石油企業、天然ガス企業が存在する事になった。

 だが、石油の多くを自国内で消費してしまうため「石油輸出国機構(OPEC)」には加盟していない。

 一方で、1970年代後半に一躍巨大化した日本の石油企業は、オイルメジャーの仲間入りを果たした。


 しかし同油田の存在は、日本の現代史を大きく揺さぶり、そして翻弄する象徴であり、また最大の原因でもあった。

 では、まずは尖閣諸島の簡単な歴史と概要から振り返ってみよう。



 尖閣諸島は北緯26度付近に存在するが、黒潮(北太平洋海流)の恩恵により、非常に温暖な気候である。

 島の周辺海域には豊かな珊瑚礁が形成され、亜熱帯よりは熱帯の海に近い自然環境にあった。


 総面積は700平方キロメートルほど。全体の3分の二を占める尖閣本島(尖閣島)を中心にして、大きく尖閣島と大正島に分かれ、大小十数個の小さな島々から構成されている。諸島の総面積は、奄美大島に近い。海外だと、シンガポール島の大きさに近くなる。


 島の相対的な位置は、台湾島から約100キロ、沖縄本島から約350キロ、中華大陸からも約350キロとなる。日本本土だと、九州南端からでも700キロ以上離れている。日本国全体で見た場合、完全な辺境に位置している。

 諸島自体は南東方向に伸びる形で連なっており、最も南東側にある岩礁に近い島だと沖縄諸島の北部にまで及んでいる。


 人口の殆どが集中する二つの島の全般にわたって山岳部や斜面が多く、利用できる平地は陸地面積に対して精々40%程度しかない。

 この数字も、20世紀後半に土木機械により造成された土地面積を含めるので、前近代までだと20%程度にまで低下する。そして広い平地の多くが油田と鉱工業施設が占めるため、島を訪れると坂の多い街と感じるだろう。


 島の最高峰(尖閣大山)は1300メートルに達し、「尖閣」という名も遠くの海からも見える鋭い山並みから付けられたものだとされている。山間部のほとんどは森林で覆われ、緑の山並みが連なるため、「尖閣」という名以外にも「緑壁」などと呼ばれる事もある。


 ただし山並みの多い地形のため、沖縄本島よりも雨量はやや多い。島のイメージは、近在の沖縄本島よりも奄美大島や屋久島に少し近いだろう。尖閣本島には、一定程度の池や湖も存在する。


 山がちのため自然は豊富で、固有種としては「センカクヤマネコ」など多数が存在する。だが、急速に開発が進みすぎたため、絶滅した種も少なくない。センカクヤマネコも、野生は絶滅危惧種で、島の西部にある保護センターで繁殖と研究が行われている。


 同諸島に人類が最初に上陸したのは、台湾や先島諸島、沖縄本島とほぼ同時期と考えられている。時期的には、氷河期に大陸と地続きだった最後の頃だと考えられている。

 そして氷河期の終わりと共に島として孤立し、その後台湾方面からカヌーを使った人々が若干数到来していると考えられている。


 その後、利用可能な土地面積が限られているため島の人口増加は限られ、国家を形成するほどの勢力は成立しなかった。また国家を形成しなければならないような環境的な圧力(=厳しい自然環境)もないため、人が住んでいるという以上で歴史的に注目されるような事件は殆ど無かった。

 住民達も農業と漁業で生活を成り立てるも、ほとんどが村落単位での生活を行うに止まった。


 島内各所の狭い平野部では多少大きな村落も出現し、ある程度争いや統廃合が行われた。

 だが、古代国家以上の政治形態は出現しなかった。

 大きな政治勢力からも海によりそれなりに離れた位置のため、どこかの支配を受けるという事もなかった。


 尖閣の名が歴史上に最初に登場するのは、後期和冦の拠点の一つとしてだった。

 この時代、尖閣にあった古代国家(集団)のほとんどが和冦によって滅ぼされ、一時は「海賊の島」となった。尖閣という名も、この頃に登場したのではないかと考えられている。


 またこの頃には、後期和冦の主軸を占めた中華沿岸部の人間が、侵略的な移住を一部で実施しているし、島の住民との間の混血も多数誕生した。元から住んでいた尖閣諸島の住民にとっては、苦難の時代だったと言えるだろう。


 その後和冦の最中、16世紀後半に琉球王朝の勢力下に組み込まれ、琉球を介した明朝の貿易のための中継拠点の一つとして人々の往来が行われるようになる。尖閣に琉球がやって来たのは、明朝による後期和冦への対策の一環だった。


 とはいえ琉球王朝の時代は、船が入ることに向いた入り江や湾が多かったので、水や生鮮食料の補給基地という役割が与えられただけだった。しかしこの過程で、尖閣諸島の文化や生活、そして何より言葉が琉球とほぼ同じとなった点は重要な変化だろう。言語が日本語化した第一歩とされるからだ。


 文明的な建造物も造られるようになり、護岸工事や堤防の建設、さらには小規模ながら「グスク」と呼ばれる琉球式の城塞も建設された。



 そして17世紀初頭、琉球王朝が日本の薩摩藩の侵攻を受けて間接的な支配下に置かれると、尖閣諸島も日本人の実質的な支配下となった。江戸時代における、日本最西端の領土というわけだ。


 とはいえ、尖閣諸島は物産に乏しく、砂糖を税として琉球王朝と薩摩藩に納める時代が長らく続くことになる。日本列島に与えた影響も、砂糖の国内供給量を若干増やした程度でしかなかった。


 しかし、清船の中継点となり、砂糖栽培が活発になった事で、島の経済力も多少は増し、島には裕福になった有力者が複数誕生し、現代に至る島の名家の系譜を作り出したりもしている。生活や習慣も、かなりが日本や琉球から持ち込まれた。



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こんな採掘可能な大油田が尖閣にあったらかなり変わりそうですね
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