夢のマイホーム
……う~ん、いいですねぇ。夢のマイホーム。新築二階建て。広すぎず狭すぎず。
窓から差し込む陽光は植物にも人にも優しい。程良い弾力のソファーは腰に優しい。
唇を潤わせるのは紅茶。愛しき淑女、マリアージュ。
静謐、平穏。白い壁には掛け時計がない。どうしてですか? 必要ないからです。本のページを捲る乾いた音だけが部屋に溶ける。でも、少々物足りない気もしませんか……?
はい。そんな時は歌でも歌おうか。
「マァイ……ホオォォォォォォォォムッ! ホォォォフォォォォ!」
と、オペラ歌手になった気分で歌っても近所迷惑にはならない。
なぜですかって? はっはぁ! 夢のマイホームですから。ここではすべてが許される。ふぅ……俺だけの癒しの空間。さいっこう……さて、ここはやはり定番のクラシック音楽でも
――ピンポーン
「……は? え、いや、は? あっちぃ!」
来客を告げる突然のインターホンの音に男は動揺し、紅茶を膝の上にぶちまけた。
彼は何をそんなに驚いているのか。驚くとも。なぜならここは
「……お前、なぜ、俺の夢の中にいるんだ?」
「おいっすおっすっす」
「いや、おい、勝手に入るなよ」
「ふーん、まあまあじゃん」
「おい!」
家の中にずかずかと入ってきたのは会社の同僚。
しかし、男は訳が分からない。なぜ奴が? この夢の中の家では自分の思いのまま。想像したものは、ほぼ全て出すことができる。
『ほぼ全て』とは、知らない物は出せないという意味。それは仕方がない。
味や匂いを知らない食べ物は無味無臭に。さすがに機械などはその構造を知らなくても大体の使い方さえ知っていれば出すことができるのだが、人間。これもどういうわけか無理だった。
男はどうにかして美女を出せないかと、風俗店に行き女というものを入念に観察、果ては解剖図を見て知識を深めるなどあれこれ試してきたができず、しかし今、どういうわけか会社の同僚が出現した。
ひとり、優雅に楽しんでいたところだったが、これは考えようによっては僥倖なのだろうか……。
と、男はむむう、と何とも言えない顔をしていると同僚は先程まで男が座っていたソファーに座り、大きく息を吐いた。
「お、なになに、紅茶飲んでたの? お前、普段飲まないじゃーん」
「え、ふっ、マリアージュだけは特別さ。俺の愛する女――」
「マリアージュって男だろ。しかも兄弟」
「へ? い、いや、そんなことはどうでもいいんだ!
お前、どうして俺の夢に出てきたんだ?
俺は想像もしていなかったのになんで? 深層心理ってやつかな……」
「いやそりゃお前、挨拶ぐらい行かないとさ。常識ってもんだろう?」
「あ、挨拶?」
「そ、ご近所さんだしさ」
「近所? は? いやいやお前、何言ってるんだ。お前はただの俺の夢の中の」
「登場人物だって? はははは! 違う違う! なんだお前、忘れたのか?
ほら、この前の飲み会でさ。お前自慢してたじゃん?
夢のマイホームを手に入れたってさ」
「え、あ……」
「思い出したか? それでやり方をレクチャーしてくれたじゃん?
寝る前の呼吸法やら体操やら呪文めいたことまでさ。
まあ、こいつとんでもない馬鹿だなと思って話半分に聞いてたけどさ。
んー、俺、天才? できちゃったんだよね」
「いや、それ、お前が天才と言うか俺のおかげ……いや、この夢、繋がるのか……?
そんな、俺だけの夢の空間が……ん? なんだ外が騒がしいな、あ、お前、まさか……」
「あー、そうそう。できるようになったのは何週間か前でさ。
で、彼女とかキャバ嬢とか友達とかにも教えてさ。ははは、楽しくやっててさぁ」
「お前、それ全然挨拶に来てなかったじゃないか!
いや、そんなことはどうでもいいんだ。
あ、あ、ああいつら! 俺の庭でバーベキューし始めたぞ!」
「あー、お前の話したらさ、みんな感謝してパーティー開こうとか何とか、ほら、歓迎パーティを」
「歓迎ってそれ、俺のためじゃないだろ、あ、あ、あ、どんどん人が……うわっ! なんか違法薬物的なやつを、あ、あ、あ……」
「ははははは! お前、その顔、面白っ! はははは! おー! みんなやってんなぁ! ははは!」
男を押しのけ、同僚は窓の外を見て大笑いする。
その笑い声から、外の喧騒から離れようと男は一歩、また一歩と後ずさりする。
そして、気づいた時には、いや、逃れられないと理解した時にはもうキッチンから持ってきた包丁を振りかぶっていた。
それ以来、男はあのマイホームの夢を見ることをやめた。
ゆえに、同僚やその友人知人があの夢の世界でどう暮らしているのかは知らない。会社では普通に仕事しているから上手くやってはいるのだろう。しかし、楽しみすぎているのか時々ボーっとし、上司に叱責される姿もしばしば。
反対に、男は邁進。仕事に打ち込み、やがて昇進。夢だけで満足しようとせず、ついに念願のマイホームを手に入れたのだった。
防音の地下室付きである。
そして、夜。最初に招いた客はあの同僚であった。
どうしても忘れられないあの快感を今、味わうために……。