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決意することは簡単だった。けれど、行動を起こすのは難しい。何せわたしが目論むのはフェードアウト。大々的なお別れではない。『あれ、気付いたらいなくなっていた。ところで、どこへ?』を狙っているのだ。
前世で実は夫に失踪されたわたし。死亡よりも失踪の方がどれだけ残された家族にとって面倒かを良く知っている。だから婚約者の王子にも、偏った教育をし続けた侯爵家へもその面倒を味わわせたいと思ったのだ。
因みに前世のわたしの夫は浮気相手と失踪した。浮気相手はその時まで友達と思っていた、知り合い。残されたわたしは何故か浮気相手のご両親にまで責められるという貧乏くじを引いたのだ。しかも、預金は空になり大切にしまっておいた婚約指輪まで無くなっていた。
やり直すにも、忘れるにも、夫は失踪中なのだ、わたしの戸籍は配偶者と死別にもならないし、何をするにも頭の片隅を夫が過る。それでも失踪届から五年、あと二年で夫が死亡と見做される年だった。帰ってきてしまったのだ、夫が、悪びれもせず。否、どちらかというと嘲笑うかの表情で。
だって、おかしい。家賃を抑える為に引っ越したというのに、当たり前のようにわたしの前に現れたのだ。その上、失踪した理由をわたしが怖い女だからと吹聴して回るという暴挙にも出た。
本来ならば浮気相手と失踪した夫が責められるべきなのに、何故か周囲はわたしが酷い女だからこうなったと陰で言うようになっていた。まあ、わたしの耳にしっかり届いていたのだから陰ではないのかもしれないけれど。兎に角、夫と知人にしてやられたということだ。
まあ、夫の浮気絡みで色々あった前世。思い出してしまった以上、誠実な人と結ばれたいと思うのは当然のことだろう。だからあんな王子は論外。…なんだけど、侯爵家では後の王になる王子が全てという教育という名の洗脳を受けてきた。
小さい時から侯爵家では、粉骨砕身して国へ誰よりも尽くす王へ安らぎをもたらす存在になるよう言われ続けてきたのだ。そうかと言って、公務がおざなりになってもいけないと。全てにおいて王を支える妃でなければならない、そうなることがわたしの生きる価値であり生まれてきた理由だとまで。
だから、王を支える為の勉強に、安らいでもらえるようにと楽器の練習にお茶の淹れ方。繰り返し言われ続ける、如何に王子が優秀かという話。
男女の営みを知ってからは、王がわたし以外の女性へ安らぎを求めることがあれば、全てわたしの努力不足とも教えられた。
なんて酷い教育。そして、洗脳。お陰で、わたしは入学してから前世を思い出すまでの期間、見て見ぬ振りどころか、王子の視界に入り不興を買わないようにしていた。安らぎを与えられないならば、せめて不興は避けなくてはならないと。王子が言ったように、自由な時間を邪魔してはいけないと思い込み続けていたのだ。
可哀そうなアイメリア。アカデミーで二年間そんな生活を送ったとしても、事態が急変して明るい未来になるなんてことはなかったのに。仮令王子がアカデミーに在籍する二年間を耐えたとしても、その期間でアイメリアを見る他の貴族達の目は決まってしまう。
クレアに特別な女性なんていう別称を持たせ、怪我をしてもいないレイチェルの名前を当たり前のように聞き出す王子。この世界のこの国では、王子が他のご令嬢達と特別な関係になろうと浮気にはならない。侯爵家の言葉を借りるなら、安らぎを求めただけということなのだ。
前世を思い出したわたしが、こんな王子と結婚を回避出来たらと思うのは当然のこと。どう転んでも面倒しかない未来に突き進みたくはない。
何としても、王子が関わるなと言った期間の内に、この先も関わらなくていいようにフェードアウトしなくては。
頻りに考え続けていたせいか注意力散漫だったようだ、不意に吹いてきた風がわたしの手から書類を空に舞い上げた。
「これで全部だと思いますよ」
「あ、ありがとうございます。改めてお礼を」
「書類を拾っただけですから、お気になさらず。それにちょうど僕のところに飛んできたので」
わたしの書類を拾ってくれたのは、同じクラスのクライブ・ダウリングだった。まだ入学して日が浅いので、たいした交流を誰ともしていないが、自然と噂は入ってくる。クライブは伯爵家の庶子だと。隣のクラスに伯爵家の嫡男がいるとも。前世のわたしだったら、それってどうなのと言ってしまいそうだ。
「クライブ様、これはわたくしのではございません」
「ありがとうございます」
「ですが、わたくしも興味がございます。書類のお礼にテラスでお茶でもいかがでしょうか?」
「あなたは、ルーセント侯爵令嬢です。僕とテラスでお茶なんてしたら…」
「クラスメイトと勉強を共にするのに何かおかしなことが?」
「いえ、では、情報共有を致しましょう」
書類やハンカチを拾ってくれるのはイケメンだけかと思っていた。クライブはどちらかというと、もさっとしている。でも、長めの前髪で隠している瞳は綺麗だった。