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行く春の白藤へ  作者: まめ童子
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第七章 後編


 少年は、吹き(すさ)ぶ雪の中を彷徨(さまよ)っていた。手足がかじかんでうまく動かせない。それでも左手だけは強く握って離さなかった。


 繋いだ手の先には、幼い藤枝(ふじえ)の姿がある。


 ――これは夢だ。藤之助にはわかっていた。それでも、その手に感じる妹の体温は確かに温かい。


 足跡ひとつ残らない吹雪を二人は宛てもなく進んだ。どれほど歩いただろう。藤之助は、大丈夫か、と声をかけ藤枝の様子を(うかが)う。妹は微笑みを浮かべて兄を見返した。

 しかし、なぜか一言も声を発しない。先程からずっとそうだ。藤枝はなぜかにこにことこちらを見つめるばかりで、何も喋らないのだ。


 突如、激しい吹雪が二人を襲った。藤之助は咄嗟(とっさ)に妹を引き寄せようとしたが、虚しくもその手は離れてしまった。荒れ狂う氷雪の中に妹の姿が掻き消されていく。兄は必死に妹の姿を探した。しかしいくら見回しても、藤枝の姿はどこにも見えない。取り残された藤之助は、呆然とその場に立ち尽した。

 

 そして、唐突に気づいた。


(――俺はもう、藤枝の声も思い出せないのか)


 降りしきる白銀の粒が視界を覆い隠していく。そのまま何もかも真っ白になると、藤之助の意識は遠のいていった。



 次に気がつくと、今度は見慣れた屋敷の中にいた。なんだか身体が妙に重い。腕を挙げると、薄紫に藤の図柄があしらわれた長い袖が目に入る。――ここは郭だ。藤之助は直感した。


 その瞬間、周囲から嬌声(きょうせい)や呻き声がぐちゃぐちゃに混ざりあって響いてくる。途端に吐き気を催し、藤之助はその場に(うずくま)った。不意に目に入った足が、なんだか小さく見える。――これは恐らく、水揚げ間もない頃の自分だろう。恐怖に震える心の片隅で藤之助はそう思った。

 

 少年は重たく膨らんだ裾を引くと、後ろを向いて駆け出した。とにかくこの場から逃げ出さなくてはならない。


 彼は果てしなく続く廊下をいつまでも走り続けた。結い上げた髪に刺した(かんざし)の飾りががちゃがちゃと不快な音をたてる。過ぎる部屋過ぎる部屋、どこもぼんやりと灯りを湛えており、中の様子が影になっておどろおどろしく浮かび上がっている。藤之助はそれらを目にしないよう、一心不乱に進み続けた。だが突如、何かにぶつかる。思わず見上げると、図らずもそれと目が合ってしまった。


 それは首を吊った娼妓の遺骸であった。


 藤之助は腰を抜かした。そのまま後ずさると、手に何かが触れる。

 振り向くと何百何千もの娼妓たちの(むくろ)が、(ただ)れた腕で藤之助の打掛(うちかけ)の裾を引いていた。その中には赤子の姿も混じっている。

 

 少年は悲鳴をあげた。


 這いつくばって逃げようとしても、凄まじい力で打掛を掴んで引き摺られる。引き裂かれて裾からはみ出してしまった綿が、何かの内臓のように不気味にぶちまけられた。彼は必死に逃れようと腕を伸ばしたが、腐って崩れた娼妓たちの身体が無慈悲にも覆い被さってくる。


 世界が赤く塗り潰されていく。藤之助はまた、意識を失った。



 それからどれほどの闇を彷徨っただろうか。精魂(せいこん)尽き果てた藤之助は、ぼろきれのように引き裂かれた身体を引き摺って、あてどなく歩いていた。


 

 気がつくと、彼はまた郭に戻ってきていた。一瞬、はっと身体を強張らせたが、先程とは異なり、そこは静寂に包まれ、春の陽気が漂っていた。突然、何か言い様のない懐かしさが藤之助の胸を締め付ける。彼は足を踏み出すと、導かれるように屋形の中を進んだ。


 ふと、一つの部屋が目に入る。よく見慣れたその外見に藤之助は胸が高鳴るのを感じた。

 呼吸を整えると、意を決して戸を開く。


 そこには立派なたたずまいにそぐわず棚のひとつも(しつら)えられないまま、背後にそびえ立つ大きな(ぶな)の木に巻き付いて、ぼさぼさと野放図(のほうず)にあちこち枝をくねらせる白藤の木が、静かに(たたず)んでいた。

 

 藤之助は息を飲んだ。思わずそばに駆け寄る。


 満開の花房が風に揺れている。彼はその一房をそっと手で包むように掬い上げると、深く息を吸い込んだ。甘く優しい香りが、藤之助の肺を満たす。

 一陣の風が吹いた。白藤の花房がより一層激しく揺れる。その音が、香りが、庭じゅうに満ちていく。それは藤之助の傷だらけの身体を柔らかく包み込んだ。穏やかな温もりが全身に染み渡っていく。

 

 ふと目をやると、花房の後ろに誰かいるのが見える。少女らしき人影は袖で顔を隠していた。だが藤之助に気がつくとゆっくりと地面に降り立ち、うっとりと首を傾げてその姿を見せた。

 白銀の(まつげ)に覆われた翠玉の瞳が、慈しむように藤之助を見ている。


 少年は、はっと目を見開いた。


 それは不知火であった。


 彼は思わず、そのよく見慣れたその姿に手を伸ばす。彼女は応えるように、その指に触れた。途端に春の日溜まりのような笑顔を浮かべて、藤之助を見つめる。その手を握り込むと、藤之助は不知火の目をじっと見つめ返した。


 その瞳に映った幼い自分の姿を目にすると、藤之助は、全てを悟った。


 彼が白藤の木と初めて対峙(たいじ)したとき、不知火はそこにいた。

 今にも死にそうに弱りきった幼い少年の姿を、白藤の化生は目にしていた。その時からずっと、この少女は藤之助を見守ってきたのだ。あの満月の晩、嬉しそうに彼に話しかけたのは、長年目をかけ続けてきたかつての少年と語り合える日がようやく訪れたからだったのだ。



 頬を、何か温かいものが伝うのを感じる。それが涙だと気づいたとき、藤之助はようやく長い夢から醒めた。




 どれだけ眠っていたのだろう。外は既に日が落ち、夜の(とばり)に覆われていた。火鉢の炭は燃え尽きていて部屋はすっかり冷えきっている。

 だが、不思議と身体が温かい。ふと足元に熱を感じて目をやると、どこから入ったのか、そこには白い少女がぴたりとくっついて眠り込んでいた。何やら泣き腫らしたのか、目元が赤く色付いている。起こしてしまわないように静かに抱き寄せると、藤の香りがした。


 その温もりに、藤之助はこの上なく安堵した。


 彼は目を細めると、腕の中で眠る不知火の頭をそっと撫で、赤く腫れ上がった目元に唇を寄せる。



 ――ずっと探していたものを、ようやく見つけた。藤之助は、胸の奥で何かが静かに溶けるのを感じた。



閲覧ありがとうございます!なんとか着地しました!

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