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行く春の白藤へ  作者: まめ童子
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織羽 後日譚

織羽編 最終話オブ最終話です。よろしくお願いいたします。


 「暇ね」


 美月は今日も卓子(テーブル)に肘を付いて窓の外を眺めている。


 季節は春を迎えた。人影まばらな往来にはどこからか桜の花びらが吹き込んできて、幻想的な光景を生み出している。差し込む陽光に目を細めながら、女はゆっくりと流れる時間を味わっていた。


 ふと頬に固いものを感じて、美月は自分の手を見た。その薬指には、派手さはないが上品なつくりの銀色の指輪が嵌まっている。そのまま向かいに座る男を見れば、その指にも同じものが収まっている。彼女は思わず口許を緩めた。――自分達は、先日ついに夫婦になったのだ。


 「暇なのはいいことだよ」


 織羽は書物に目を落としたままそう口にする。今日も実に難解そうな占術の書を読んでいるようだ。


 「そうねえ――本当に」


 夫の言葉に美月は深く頷く。織羽の元に嫁いでくる前は、それはそれは怒涛の日々を過ごしていた。自由を求めて命からがら故郷を飛び出したはずが、復興のために呼び戻され采配を振るうこととなった。たった一、二年のことなのに十年くらい経ったかと思うくらいには、あの頃は心身ともに磨耗していたように思う。それを考えると、今は本当に毎日心穏やかに過ごせている。


 「あ、そういえば」


 ぱっと顔を上げた織羽は、にやっと笑うとおもむろに席を立って炊事場に吸い込まれていった。美月が首を傾げていると、ややあって彼は何やら色々と盆に乗せて戻ってくる。

 それは荒く織られた布が乗せられた漏斗のような形の陶器と、茶瓶(ポット)、そして謎の褐色の粉だった。男はそれを卓子(テーブル)に置くと目を輝かせて、じゃーん、と披露してくる。


 「なあに、これ」

 「これはね、珈琲だよ」


 織羽はふふん、と鼻高々に言う。美月は眉根を寄せた。――珈琲といえば、確か前に二人で食べた餡蜜の味付けに使われていたものだったと思うが、こんな粉状のものでは無かった気がする。

 妻の疑念に応えるように、夫は得々と説明を始める。


 「珈琲というのはね、珈琲豆っていうのを煎ったのを粉状にして、お湯をかけて抽出した飲み物なんだ」


 なるほど、と美月は手を打った。確かに抽出液であれば餡蜜に混ぜ込める。しかし元々は飲み物だったとは意外だ。あの香りを飲料として楽しむという趣向が、いまいち想像できない。


 「この間、藤枝さんから教えてもらってね。道具を一通り揃えてみました」


 織羽はそう言うと着々と準備に取りかかる。――この漏斗みたいなのは抽出器(ドリッパー)って名前で、ここに濾布(フィルター)を乗せてそこに粉を入れるんだ、とか、粉にただお湯を入れるだけじゃ駄目で慎重に様子を見ないといけないんだ、とか、彼は手を動かしながら楽しそうに解説する。

 

 その様子を、美月はうっとりと眺めていた。彼女は夫がこうして嬉々として話している姿が一番好きだ。


 さて、と手を揉むと、織羽は恭しくやかんを持ち上げて、恐る恐る抽出器に湯を注ぎ入れていく。水を含んだ珈琲の粉がぽこぽこと泡を膨らませていくのを見ると、二人は思わず歓声を上げた。たちまち、あの日食べた餡蜜と同じ香りが漂ってくる。――一体どんな飲み物が現れるのだろう。美月は期待に胸を膨らませた。


 しばらくして抽出が終わると、織羽はそれを湯呑みに入れて妻に差し出した。白い霧のような湯気を立てるそれをそっと掌で包み込むと、美月はおもむろに口をつける。


 「――っ」


 女は衝撃に固まった。――とんでもなく苦い。そして酸っぱい。

 ぐっと眉間に皺を寄せる妻に、夫は、おや、と首を傾げた。


 「駄目だった?」

 「――凄まじいわ」


 うう、と唸ると美月は目元を指で摘まんだ。鼻を抜けていく香りこそいいが、味の猛攻に全ての感覚が削がれていくような気がしてくる。


 「餡蜜のときはあんなに美味しかったのに」


 どうしてなの、と涙目で訴える妻を見ると、男はそそくさと炊事場へ戻っていった。そして片手に牛乳、片手に砂糖の壺を持って現れた。美月は怪訝な顔でそれを見る。


 「あなた、まさかそれをここに入れるんじゃないでしょうね」

 「ご明察」


 織羽はにっこり笑うと、茶器に牛乳と砂糖を適量注いで、匙で混ぜた。いよいよどんな味になってしまうのかわからず女は眉間の皺をますます深くする。


 「そのままでは飲めないときはこうするといいらしいよ。飲んでみて」


 美月は正直恐怖しか感じなかったが、夫の凄みのある笑みの方がもっと怖かったので、仕方なく象牙色になってしまったそれを飲んでみた。――おや、これは


 「飲めるわ――美味しい」


 珈琲の風味はそのままに、さっき舌を蝕んでいた苦味や酸味は牛乳で中和されている。さらに砂糖が加わることで、全体に均衡の取れた味わいになっている。


 美月の言葉に織羽は得意気になってうんうんと頷く。それから自分の分も用意すると、席について啜り始めた。彼は美月と違い、そのまま飲んでも平気なようだ。――それにしてもなんだか


 「落ち着く――」


 気づくと二人は同時にそう口にしていた。はっと目を合わせるとどちらからともなく笑い出す。

 いつも飲んでいる茶でももちろん癒されているのだが、この香ばしい香りが何とも言えず(くつろ)いだ気にさせる。


 「不思議ね、味は変わっても香りはそのままなのね」


 美月は茶器からちびちび珈琲牛乳を啜ると、そう口にした。餡蜜の時もそうだったが、組み合わせる食材や調味料で味は全く違うものになるのに、この特徴的な香りだけはどうあっても失われないのだ。


 珈琲餡蜜のことを考えていたら、ふと、あの日のお出かけの記憶がよみがえってきた。美月は改めてふうふうと中身を冷ましながら茶器に口をつける男を見る。――あの時はまだ、恋人ですらなかった。それが今や夫婦として、こうして卓子を囲んでいる。そう長い時が経ったわけではないが、月日が巡るごとに、人は変化を余儀なくされる生き物なのかもしれないと、そう思える。


 けれど、関係こそ変わっているが、その前から彼に抱いている想いはずっと変わっていない。


 自分を見つめる視線に気づいたのか、織羽は顔を上げ、小首を傾げる。美月はそれを見ると(とろ)けるような笑みを浮かべた。


 「好きな顔してる」

 「なんだよ急に」


 妻の急な惚気(のろけ)に織羽の顔は真っ赤になった。想いが通じてしばらく経つのだからそろそろ慣れてもよさそうなものだが、彼は相変わらず照れ屋だ。美月はくすくすと笑うと夫の頬をつつく。


 「織羽、あなたはずっとそのままでいてね」

 「いちいち照れてたら身が持たないよ――」


 むう、と口を尖らせて抗議する彼に笑うと、女は茶器の中身を匙でかき混ぜた。茶器の表面に白く浮いていた脂が底の方に吸い込まれて、色が少し変化する。それを口に含んで、じっくりと味わう。――やはり最初に飲んだ何も入っていない珈琲とも、あの日食べた珈琲餡蜜とも違う味だ。


 美月は思った。いつかもっと時が経てば、二人の関係性はまた変わってくるのかもしれない。かつては恋人で、今は夫婦で、そしていずれ父母になる日が来る。そうなれば、今と同じ心持ちでいられるかはお互いわからない。

 ――けれど、それでも、きっとずっと変わらないものもある。


 今一度、彼女は茶器の中身を飲んでみた。味こそ姿を変えているが、鼻を抜けるその香りはいずれの時も同じく、不思議な懐かしさをもって胸に染み渡っていく。


 「好きよ、ずっと」


 彼を大事に思っているという、この気持ちだけは、生涯変わらないだろう。



 美月の言葉に織羽はいよいよ耳まで真っ赤になると、茶器に顔を埋めてしまった。


 赤面する夫を見て、そういえば、と彼女はかねてより気になっていたことを思い出した。


 「ねえ、真柴に何か耳打ちされてたでしょう。何て言われたの?」

 「今それを聞くの」


 織羽は若干怨めしげな目付きで妻を見やる。――そんな顔をされたら益々気になるではないか。力強く頷くと、美月は先を促す。

 すると困ったように頬を掻いて、織羽は物凄く小さな声で何事か呟いた。


 「何よ」


 じれったそうに顔を近づけた妻の耳にそっと唇を寄せて、夫はもう一度同じ言葉を繰り返す。


 聞くや否や、今度は美月が真っ赤になった。





 「初恋は実らないと言うけど、あれは嘘だな――って」



 

閲覧ありがとうございました!織羽編はこれにて完結です。本編並みに長くなってしまいましたが、本編で可愛そうだった彼が幸せになれてよかったです。ここまでお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。

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