織羽 第九章 後編
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その後、藤樹に書く手紙の指南をしてやり、すっかり満足した様子の真白を家に帰すと、織羽は美月への気持ちをしたためるべく筆を取った。だがいざ書こうと思うと、やはり何から始めたらいいかわからない。
どうでもいいことならいくらでも湧いて出てくるのに、肝心なことは何一つ言葉にできない。男は頭を抱えた。
不意にかたかたと格子が震えた。秋風が窓を叩いている。外を見ると赤や黄に色づいた葉が月明かりに照らされてひらひらと舞っている。――美月と出会った日も、ちょうどこんな秋の日だったな、と織羽は思った。
あの時は本当にただの気まぐれで散歩に出たら、路上に倒れ込む彼女を見つけたものだから、大層肝が冷えた。
でもあの晩、もし自分が気まぐれを起こさなければ彼女と会うこともなかったし、そもそも彼女が無事では済まなかったのではないかと思うと、定められた未来――宿命というものはもしかしたらあるのかもしれないと、そんな気がしてくる。
ふと、あの雑木林に足を運んでみようと彼は思い立った。もちろん、そこに彼女がいることを期待しているわけではない。ただ、何か、伝えるべき言葉が、あの場所に行けば浮かんでくるような予感がするのだ。
織羽は外に出る。冷たい空気を深く吸い込むと、そっと足を踏み出した。
黙々と歩き続け、目指していた場所へとやってきた。辺りを取り囲む木々は、あの日と同じように赤に黄に染まっている。落ち葉を踏み分け進むうち、美月が倒れていた場所へと辿り着いた。――もちろん彼女はそこには居ない。
空を見上げると、月が煌々と辺りを照らしている。
その光は美しかった。だが、ただただ美しいばかりで、何も教えてはくれない。
織羽は何か、伝えたいことを考えて言葉を探した。しかしどんなに思案しても、浮かぶのはたった一つだけだった。
「会いたいな」
もちろん、応答はない。これが真白が好みそうな恋物語であれば、感動的な再会が用意されているのだろうが、生憎これは現実だ。
織羽は嘆息してもと来た道を戻ろうとした。その時だった。
「景気の悪い溜め息だな」
後ろから声がした。それはもう随分と長いこと聞いていなかった懐かしい声だった。突然の出来事に呆然としつつ、織羽はゆっくりと振り返る。
そこには砂色の長い髪を無造作に靡かせ、紫水晶の瞳でこちらを見つめる美丈夫が居た。
(嘘だ――)
「――藤之助」
藤之助と呼ばれた男は小首を傾げると柔らかく微笑む。織羽は何が起きているのかわからず立ちすくんでしまった。
「先に断っておくが、これは夢だ」
「――そうだろうね」
困惑しつつもどこか冷静な頭で、織羽はなんとなく状況を理解した。――藤之助はもうこの世にいない。彼の言うとおりこれは間違いなく夢で、大方、自分は書斎で居眠りでもしているのだろう。――夢にしてはいささか明晰が過ぎるが。
それにしても美月のことを考えていたつもりが藤之助が現れるとは、自分はどれだけ親しい人間に固執しているのだろうと、織羽は苦笑した。
すると男の心の内を余所に、藤之助はぷっ、と噴き出した。織羽は怪訝な顔でそれを見る。
「なんだよ」
「いや、さすがのお前も惚れた女に対してはしおらしいのだな、と思ってな」
なっ、と織羽は言葉を詰まらせる。確かに美月のことを慕ってはいるが、いざ明言されると気恥ずかしい。しかも、この状況をしおらしいと言われてしまっては返す言葉もない。
砂色の髪の美丈夫はなおもくつくつと笑い続けている。その様子に男は渋面した。――というか、夢とはいえ感動の再会なのだから、もっと雰囲気を大事にして欲しいものだ。
一頻り笑った藤之助は目元に滲んだ涙を拭いながら、織羽を手招いた。彼が何かと近寄ると、藤之助はその鼻をぎゅっと摘まんだ。驚きと痛みに思わず呻く。
「いいか織羽、お前の取り柄は頑固で、騒がしくて、図々しいところだ」
「ずっと思ってたけど、絶対取り柄じゃないでしょそれ」
織羽は鼻をさすりながら恨めしげに親友を睨んだ。自分で言うならまだしも、人から言われても全く美点に聞こえない。何ならずっと鬱陶しそうにしていたではないか。
だが藤之助は構わず続ける。
「いいや取り柄だ――お前のそういうところが、俺を絆した」
「藤之助はお土産に釣られてただけでしょ」
男の言葉に、それもあるが、と美丈夫は目を泳がせて言い淀む。――やはりそうだったか、と織羽は肩を落とした。
(――懐かしいな、この感じ)
あの白藤の庭で語らった日々が甦る。藤之助は意外と不意打ちに弱く、痛いところを突かれるとよくこうして目を泳がせていた。そういう可愛らしいところも、織羽が彼を好いていた理由の一つだ。
織羽はふと、藤之助が目を細めてこちらを見ていることに気付いた。
「お前はもう、俺を思い出しても泣かないのだな」
男は目を瞠った。確かに、これまでは名前を聞くだけでも苦しかったのに、今は涙の一つも流さずに会話している。
(そうか)
――これが、弔いなんだ。
目の前に居る藤之助は、悲しみを呼び起こすこともなければ、ただ美しいばかりの思い出でもない。彼が生きていた頃に交わした思いをそのままに、この心に在り続けている。――いつの間にか自分はちゃんと藤之助とお別れすることができていたらしい。
織羽は不思議と熱くなった胸を押さえた。
「ねえ、藤之助、おれはどうしたらいいかな」
「さあな」
予想通り、親友が答えをくれることはない。
織羽が目を伏せて思案していると、だが、と藤之助は続ける。
「俺はちゃんと藤枝に会いに行ったぞ」
織羽の手を握ると、彼はうっとりと首を傾げて悪戯っぽく微笑んだ。
***
目を覚ますと、やはり書斎の机に突っ伏していた。織羽は身を起こし、柔らかく握り込まれた拳をそっと開く。
中からは白い藤の花弁が出てきた。
彼は愛おしそうにそれに額を寄せると、亡き友を思って、ありがとう、と小さく呟いた。
窓の外を見ると、月明かりを囲むように満天の星が煌めいている。織羽は再び胸を押さえた。掌にどくどくと熱く鼓動が伝わってくる。
(行かなきゃ)
これで本当に二度と会えなくなるとしても、自分は美月に会わなければならない。
――大切な思いは、直接伝えるべきなのだから。
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