織羽 第八章
「私、ここを出る」
翌朝になると開口一番、美月はそう告げた。突然のことに虚を衝かれた織羽は、思わず狼狽える。
「何がどうしてそうなったの」
「もともと怪我がよくなるまでの間って話だったでしょう。いつまでも居候しているのは悪いわ」
ごく当たり前のことを言っているはずなのだが、これまでそんな素振りはひとつも見せてこなかった美月の突然の宣言に、織羽は眉をひそめた。
「――他に理由があるね?」
図星を突かれて、うっ、と美月は息を詰まらせる。――ここまで世話になったのだ。本当のことを言わないわけにはいかないだろう。彼女は心を決めた。
「私は、故郷に帰らないといけない」
美月はこれまでの顛末を詳細に語った。織羽が聞く限りなかなかに荒唐無稽な話だったが、彼女はつまらない嘘をつくようなひとではない。だからこれは全て本当のことなのだろう。
――それにしても、やはり美月は姫君だった。いや、厳密には里長の娘だが、姫は姫だろう。以前、忍の弔いについて話してくれた時からなんとなく只者ではない空気は感じていたが、やはりそうだったか、と織羽は内心深く頷いた。
ふと、きゅっと唇を引き結ぶと、女は真剣な表情になって男を見つめた。
「きっともう、ここには戻ってこられない」
潤んだ赤琥珀の瞳を揺らし、震える声で彼女はそう口にする。織羽は息をつくと、指を組んで考え込む。
――いつかこの日が来ることはわかっていたはずだ。だが心のどこかで美月と共に過ごす日々が当たり前のように続けばいいと思っていたのも事実だ。もう会えないなどと言われて、それを簡単に受け止められるほど、自分は出来た人間ではない。
だが、故郷の危機に直面している彼女を、どうして引き止められるだろうか。美月は優しいひとだ。己の定めを覆すために飛び出してきたのだとしても、周りの人々が憎かったわけではないだろう。本当は、ずっと駆けつけたい気持ちを抑えて、真白と藤之助のことで悩んでいた自分を案じて、留まってくれていたのだ。
織羽は真っ直ぐに美月と目を合わせた。彼の答えは既に決まっている。
「君は行くべきだ」
それを聞くと、美月は傷ついたように目を見開いた。
「――引き止めては、くれないの」
織羽は困ったように笑う。
「里の人たちは君を待っているんだろう。なら行かないと」
「あなたの話をしているのよ」
声を荒らげた美月は卓子を叩いて立ち上がり織羽に近づくと、その肩をきつく掴んだ。
「あなたはいつも誰かのためとか、他人のことばっかり」
じわじわと赤く色づいていく目尻から涙がこぼれる。ふと悲しげな顔をすると、彼女は小さな声で問うた。
「それとも、私はもう必要ない?」
「――そんなわけない」
思わず美月の背に腕を回すと、織羽は彼女を強く抱き寄せた。温かいその身体は小刻みに震えている。
すると男の胸に顔を埋めた女は、たまらず嗚咽を漏らした。その背を擦ってやりながら、織羽は静かな声で話し出す。
「おれが誰かの支えになっているとしたら、それは結局は自分のためなんだよ。誰かのためになれば必要としてもらえるでしょ? そうすればその間はその人の傍に居ていいことになる」
結構自分勝手でしょ、と彼は寂しそうに笑った。だが美月は強く首を横に振る。――自分勝手なものか。里長の娘としての義務を放棄して逃げ出してきた自分とは大違いだ。この世の中は誰かに求められたって自分がかわいくて応えられない人間がほとんどなのだ。それがどうだ、理由はどうあれ結局、織羽は自ら進んで他人のためを選んでしまうのだ。それのどこが自分勝手だというのか。
「ねえ、それなら誰があなたを支えるの」
美月は織羽を見上げて問う。すると彼の瞳は戸惑うように揺れる。
「あなたが誰かのためになりたいように、私だってあなたのためになりたい」
慕う男の背に手を回すと、彼女は彼がそうしてくれたように、ぎゅっとその身体を抱き締めた。
「――あなたの傍に居たいから」
美月を抱く織羽の手に力が籠る。どうしても彼女を離したくない。そんな気持ちが溢れてくる。
彼は思った。自分はいつも見送るばかりで、誰かに掛け値なしに傍に居て欲しいという当たり前の思いをいつの間にか忘れてしまっていた。だから気付かなかった。
美月は自由なひとだ。傷が癒えていたならいつでも出ていけたはずなのだ。それなのに彼女はいつだって傍に居て、欲しい言葉をくれて、優しい笑顔で見守ってくれていた。彼女はずっと、掛け値なしに自分を支えてくれていたのだ。
本当はこれからも傍に居て欲しい。――でも、だからこそ思う。自分はこの手を離さなくてはいけない。
織羽は美月の背に回していた腕をほどくと、彼女の肩をそっと掴んだ。
「おれは引き止めない。――君が大事だから」
美月は戸惑いを露に彼を見つめた。だがそれに怯まず正面から女の目を見据えると、男は確かめるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ここで君を引き止めたら、きっとおれは一生後悔する。君は定めから自由になりたかったんだろう。なら、自分の気持ちに正直になった方がいい」
織羽は労るような笑みを浮かべた。
「故郷が、心配なんだろう」
彼が言い終わった途端、くしゃと顔を歪めた美月はまた涙を流して深く頷いた。織羽は彼女の額に自分の額を寄せると、ねえ、と声をかける。
「おれは、君がおれを思ってくれているだけで充分心強いんだ。だから、きっと大丈夫」
彼の鳶色の瞳はいままでになく優しい色を湛えて、愛しいひとを見つめていた。
「寂しいけど、寂しくないよ」
そう言うと、織羽は再び女を強く抱き締めた。美月も応えるように力を込めて抱擁を返す。
そうして二人は黙って、互いの温もりを確かめ合った。
――もう二度と感じることはできないかもしれない、互いの体温を。
かなかな、と蜩が物寂しげに鳴いている。季節はもうすぐ、秋になる。
閲覧ありがとうございます! 二人は幸せになれるのか!?