第二章
※10/16 改行等修正
日が暮れると、若い衆たちが庭の灯籠に火を入れていく。今夜はやけに月が近い。灯籠と月に照らされた白藤が夜闇にぼうっと浮かび上がっていた。
藤之助は昼間とほとんど変わらない姿勢で相変わらずそこにぼんやり腰掛けていたが、手にしているものは煙管から酒に変わっている。
この部屋はもともと客室であるが、郭でも高位の藤之助がそこに居座っているため、誰も使えなくなっているのが現状である。だが庭を設えた部屋は他にもある。楼主が何も言わないうちはまあいいだろうと、周りも特段気にかけることはなかった。
涼しい夜風が藤之助の前髪をそっと梳く。今日も幾度となく嗅いだ藤の香りが、やはりやわらかく身体を包んだ。酒を湛えた盃には月がゆらゆらと映り込む。彼はそれを夢うつつで眺めていたかと思うと、勢いよく飲み干した。酒が喉を焼く感覚が妙に心地よい。珍しく酔いが回ってきたのか、久々に穏やかな心持ちであった。
強い風が吹いた。白藤の花房がざあっと舞い上がる。いよいよ香りが庭じゅうに満ちると男は息を深く吸い込んで、そっと目蓋を閉ざした。
藤の花の命は一瞬だ。今この瞬間を身体に焼き付けたい。藤の香りが身体を巡るのを味わうと、藤之助はゆっくりと目を開いた。
その刹那、彼は、はっと身を強張らせた。いま、何かと目があった。何かはわからないが確実に視線が交錯したのをはっきりと感じた。
(――飲み過ぎたか)
ここのところの怠惰な暮らしが祟り、酔いが回りやすくなっているのかもしれない。酒はいき過ぎると幻を見せることもある。これもその類だろう。
また一陣の風が吹く。白藤の花房がめくれ上がり、枝が露になったとき、それは突如、姿を現した。
「――っ」
藤之助は思わず息を飲んだ。抜けるように白い肌に白い髪、白い着物を纏った、真っ白な少女が、橅に絡まる藤の、一番高い位置にある枝に腰掛けて、白い睫に覆われた翠玉の瞳でこちらを見下ろしている。
「――おまえ、私が見えているな」
白銀の月に照された白く眩い少女は、うっとりと首を傾げると、薄紅色の唇を開いて確かにそう言った。
あまりのことに、藤之助は硬直した。さっきまで藤の木の周りには誰もいなかった。昼からずっとここにいて、この庭で起こる一部始終を眺めていたのだから間違いない。昼間の織羽の話が不意に蘇ってくる。
「――出た」
「出たとはなんだ、出たとは」
白い少女は枝からすとんと地面に降り立つと、不満げに足を鳴らして近づいてくる。藤之助は思わず後ずさった。
「私はずっとここに居たぞ。おまえに見えていなかっただけだ」
少女はずんずん進むと、突如、縁側の前に両手を広げて立ち、はち切れんばかりの満面の笑みで彼に話しかけた。
「私が、見えているのだな」
当の藤之助はとうとう気が狂ったと思った。酒が見せる幻にしては真実味がありすぎる。かといって目の前の存在は、あまりにも浮世離れしている。あんな高いところに上れる人間も、そこから無傷で降り立てる人間もこの世に居やしない。それでもこの少女はそれをやってのけて、そして確かに自分の方を見て、話しかけてくるのだ。
男がかろうじて頷くと、少女はいよいよ嬉しくてたまらないといったように跳び跳ねる。不気味には違いないが、その無邪気な様子に、彼の心は幾分か落ち着いてきた。
「お前は、なんだ?」
かすれた声を絞り出して、藤之助は少女に問うた。少女は嬉々として答える。
「私は紫山は白藤の化生、名は不知火だ」
不知火と名乗る少女は、口を開こうとした藤之助に人差し指を突き出して遮る。
「おまえの名前は知っているぞ。藤之助だろう」
少女は得意気に、ふふん、と鼻を鳴らした。
名乗るつもりで口を開こうとしたわけではなかったうえに、名前を当てられた藤之助は恐怖を覚えつつもどこか腹立たしくなってきた。この人の話を聞かない感じが誰かに似ている――。
「その名で呼ぶ者は、ここにはいない」
郭に生きる娼妓には、本名とは別の名が与えられる。郭は夢を売る場所だ。一夜の夢を見せる花たちに現世の名はふさわしくない。藤之助もまた、「藤之助」という本当の名を隠してこの郭に生きている。
彼の返答に、不知火はきょとんとして首を傾げた。
「そんなはずはない。よくここに出入りしているたんぽぽ頭がおまえをそう呼んでいるのを聞いた。」
(――たんぽぽ頭、織羽のことか)
「確かにそれは俺の名だが――」
「ならやはり藤之助なのだな」
やはり人の話を聞かないところが件のたんぽぽ頭にそっくりだ。藤之助は天を仰いだ。うるさいのは織羽だけで充分だ。――と考えたところで、重大なことに気づいた。
「――待て、お前いま、藤の化生といったか?」
いかにも、と不知火は胸を張って応えた。藤の化生、つまりは藤の精。ということは――
「――幽霊」
「幽霊じゃなくて、化生だ」
不知火は憤慨する。――どっちでもいい。否、状況は悪い。見えなければいないのと同じだったのに、見えてしまっては「いる」ことになってしまう。なんということか、俺はこの藤を平穏に眺めていたかっただけなのに――と藤之助は頭を抱えた。
俄に立ち上がると、青年は部屋の中に滑り込み、ぴしゃりと戸を閉じた。庭に残された不知火は、なんだ、と声をあげる。
「帰れ、今日は店じまいだ」
藤之助は障子越しに見える不知火の影にそう言い放った。不知火は何事か言い募っているようだったが、
「また来るぞ」
と声がしたかと思うと、その影はふっと消えてしまった。男は慌てて戸を開け放つも、そこにはもう不知火の姿はなかった。
「――本当に、出た、のか」
腰から力が抜けて、その場にへたり込む。やおら見上げると、つい先程までと変わらず白銀の月に照らされた白藤の花が、風にそよいでいる。
藤之助は呆けた顔で戸を閉めると、残っていた酒をあおる。たちまち喉が焼けるような感触がして身震いした。いよいよ今夜の出来事が真実起こったことであることが実感として、嫌でも身に染みてきたのだ。彼は急いで寝床に潜り込んだ。一晩経てば、これは夢だったことになるかもしれない。いやこれは間違いなく酒が見せた幻だ――。
固く目を瞑り布団に丸まると、しばらく身を強張らせていたが、寝酒が効いたのか、段々と眠りに落ちていった。