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行く春の白藤へ  作者: まめ童子
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第九章


 春の日差しが心地よく降り注いでいる。庭の桜の木は見頃を迎え、その隆々とした枝には線帯(レース)を被せたように薄紅色の花弁が咲き誇っていた。


 藤之助(ふじのすけ)はいつもの藤の間を抜け出して、桜の見えるこの部屋に陣取っていた。とはいえ、さすがに複数の場所を独占するわけにはいかないので、客の来ない数刻の間だけである。

 男は片手に煙管(きせる)、片手に酒盃という昼間とは思えない格好で、日溜まりに堂々とそびえ立つ大樹を愛でていた。藤之助にとって白藤の木は心の拠り所であり、帰る場所であるが、たまにこうして別の花を愛でるのも悪くはない。―こんな浮気心を知られては不知火に呪われてしまうので、口が裂けても言えないが―


 いきなり部屋の扉が勢いよく音を立てて開いた。不純なことを考えていた直後の出来事に、藤之助の心臓は口から飛び出そうになった。

 戸口にはいつものように菜種(なたね)色の癖毛を生やした丸い金縁眼鏡の青年が、満面の笑みで立っている。


「今日はこっちなんだね」

「――お前は、どこにいても追いかけてくるな」


 藤之助は平静を装い、じとっとした目つきで織羽(おりば)を見やると、帰れ、と手を振った。菜種頭の男は意にも介さず、にやにやしながら手に持っていた包みを宙に掲げてみせる。


「いいのかな、そんなこと言って。今日は藤屋の――」

「桜餅か」


 思わず食い気味に言ってしまってから、藤之助はしまった、と両の掌で口許を覆う。ふっふっふ、と不敵に笑いながら、織羽は悠然と敷居を跨いで友人の横に腰かけた。


「――食べるよね?」

「悔しい」


 砂色の髪を掻きむしると、藤之助は(うずくま)って丸くなってしまった。




 己の命がもう長くないことを知った藤之助は、もう織羽には会わないつもりでいた。


 自分がどう死んでいくのかわからない。だが、この死の定めを、たった一人の友人に見届けさせることが、彼には心苦しかった。そんな傷を、この心優しい青年に負わせたくはない。そう思ってのことだった。

 何より、織羽には未来がある。外の世界で自由に羽ばたける友の翼を折るような真似を、彼はしたくなかった。


 だが、織羽は、藤之助に会いに来ることをやめなかった。

 はじめは会うことを拒んでいたが、何度追い返してもやってくる。とうとう根負けした藤之助は、友人の訪問を許した。


「おれは頑固で、騒がしくて、図々しいからね」


 織羽はそう言って笑う。その表情はいつもの泣き虫な彼とは違い、なにか決意したように、清々しい。


 思えば、出会った頃からそうだった。この男はどんなに拒んでも諦めずに藤之助に話しかけ続けた。そのひたむきさがあったからこそ、彼は今も藤之助の友人なのだ。


(――(かな)わないな)


 藤之助は織羽の手を握った。その体温が染み入るように伝わってくる。


「――なら、もう少しだけ、俺に付き合え」


 友人は、その手を力強く握り返した。




 桜を眺めながら食べる桜餅は格別だった。藤之助はその残り香を(さかな)に酒を啜る。桜の甘やかな香りと酒のふくよかな香りが混ざりあって絶妙な味わいを(かも)し出している。


「藤之助、大事な話がある」


 ほろ酔い気分で寛いでいた藤之助は、(にわか)に姿勢を改めて真剣な顔でこちらを向く織羽の言葉の唐突さに、おもわず()せてしまった。


「なんだ(やぶ)から棒に」

「ちゃんと聞いて」


 いつになく深刻そうな友人の様子に、彼は戸惑った。何か悪い報せだろうか。藤之助の鼓動が不穏に跳ねる。織羽は正座をして膝に手をつくと、落ち着いて聞いてほしい、と前置きをして藤之助の紫水晶の瞳をじっと見据えると、ゆっくりと口を開いた。


「結婚するんだ、藤枝(ふじえ)さんが」


藤之助は、長らく耳にすることのなかったその名を聞くと、衝撃に固まった。二の句が継げない。


「――誰と」


 やっとの思いで絞り出すと、次々と疑問が湧いてくる。―何故、織羽がそれを知っているのか、いつどこで聞いてきたのか、妹は今どうしているのか、何より―


(――藤枝は幸せなのか)


 動揺して震える藤之助の手を握って落ち着かせてやると、織羽は続ける。


「奉公先の若旦那さんと恋仲で、藤の季節になったら祝言(しゅうげん)を挙げるって」


 それを聞くと藤之助の全身から力が抜けていく。そうか、と一言呟くと、そのまま織羽の胸に寄り掛かり深く息を吐いた。


 藤枝が奉公に出たのは、両親が生前懇意(こんい)にしていた商家だ。本来なら兄妹揃って(くるわ)に行くしかなかったところを憐れに思って、藤枝だけでもと引き取り、一部負債の肩代わりまでしてくれた恩のある相手だった。

 妹を大事に預かってくれていただけでなく、嫁として迎えるまでに至るとは――。藤之助の目の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。

 

 何より最愛の妹が、自らが想った相手と結ばれようとしていることが彼にはこの上なく嬉しかった。彼女の幸せこそ、藤之助ががずっと案じ続け、願ってきたことだ。


「――何か、祝いを贈ってやらないとな」


 優しい声で藤之助が言うと、織羽は突如、その肩をぐっ、と力を込めて掴み、正面から目を合わせてきた。いつになく切実な形相に男は戸惑った。


「藤之助、ちゃんと会って、祝ってあげるんだ」


 友人の言葉に、途端に藤之助の表情が曇った。身を(よじ)ると織羽の視線から逃れるように袖で顔を隠す。


「俺は娼妓(しょうぎ)の身だ。商家の妻に合わせる顔などない」


 藤之助は男娼だ。いくら高位だといってもそれはあくまでこの花街での話で、一歩外に出れば卑しい影間(かげま)に過ぎない。それが、これから良家に嫁ごうという娘の兄だと世間に知れれば、妹の立場が悪くなるのは明白だ。藤枝の幸せを願えばこそ、自分が彼女に会うことは絶対にあり得ないと、彼はそう思うのだった。


「それでも、会いに行くんだ。――身動きがとれるうちに」


 苦しげに発せられた織羽の言葉に、藤之助は虚を衝かれた。


 「――気づいていたのか」


 彼は静かに友人に問いかけた。織羽は(とび)色の瞳を揺らがせて応える。


「最近、元気がないから、おかしいと思って世話係の子に聞いたんだ――」


 それを聞くと藤之助は黙って煙管に火を着けて、悠然とふかしてみせた。織羽は焦ったようにそれを止めるが、男は不敵な笑みを浮かべてかわす。彼は思わず、やめろ、と声を荒らげた。


 藤之助は肺を患っている。いつの間にか病はもう手の施し用のないところまで、彼の身体を蝕んでいた。

 己の寿命が迫っていることは、もうわかっていたことだ。宣告を受けても、その心は()いだように平穏だった。


 織羽が怒ったような、泣きそうな顔でこちらを見ている。――この男はやはりすぐ泣くな、と藤之助は内心、苦笑した。

 だが、やはり身近な人間の死となるとそう簡単に受け入れられないのは、彼にもよくわかる。


 さすがに意地が悪かったと反省すると、男は友人の鼻を細く長い指で、ぎゅっと摘まむ。心痛と鼻の痛みとがない交ぜになってしまった織羽は、苦しげに呻く。その様子に藤之助は困ったように笑った。


「俺の数少ない楽しみを奪うな」

「――まだ君に死んで欲しくないんだ」


 青年は、顔をくしゃくしゃに歪めて涙を流した。とうとう泣き出した織羽の菜種色の頭を撫でてやると、藤之助はその額に自分の額を寄せた。


「織羽、俺にとって大事なのは、今この瞬間だ」

 

 死んでしまった後のことは、わからない。それよりも、今、確かに生きているこの時間を、噛み締めていたい。藤之助はそう思う。


「俺に、付き合ってくれるんだろう?」


 親友の問いに、織羽は止めどなく流れる大粒の涙を袖で拭いながら、深く頷いた。その肩を叩いてやると、藤之助は続ける。


「だが藤枝には会わない。――きっとそれが一番いい」


 彼は思った。自分は娼妓の身の上であるうえに、命の刻限も迫っている。そんな人間が、これから日の当たる道を歩もうという妹の前に現れては、他の誰でもない、藤枝自身を戸惑わせるだけだろう。

 藤之助の願いは、藤枝が健やかに、穏やかに、そして幸せに、その生を謳歌することだ。

 それさえ叶うのであれば、自分は二度と彼女に会えなくてもいい。そういう覚悟で、いままで生きていた。これからもそうだ。――彼はそう自分に言い聞かせる。


 織羽は、なおも説得しようと顔を上げたが、親友の姿を見ると、何も言えなくなってしまった。



 その頬には、一筋の涙が伝っていた。




 日が暮れると、藤之助は白藤の庭が見える部屋へと戻った。いつものように戸袋の縁で器用に背を支え、そのままもたれ掛かると深いため息をつく。


 身体が重い。ここのところ調子が芳しくないが、今日は特に疲れが身体を痛めつけているのを感じる。

 額を押さえて沈み込んでいると、とん、と肩に何かが寄り掛かる感触があった。ほのかに藤の香りがする。藤之助は腕を伸ばして、不知火を抱き寄せた。彼女は応えるようにぐったりと脱力した青年の背に手を添える。

 二人はしばらくそのままの状態で黙っていたが、不意に少女が男の耳元で囁く。


「本当に会いに行かなくていいのか」

「聞いていたのか」


 不知火は気まずそうにこめかみを掻くと、藤之助の胸に顔をうずめた。


「盗み聞きするつもりはなかったのだ。ここ数日、おまえがこの部屋を出ていくから気になって付いて行ったら、たまたま――」


 くぐもった声で言い訳すると、不知火は男を抱く腕にさらに力を込める。まるで何処にも行かないように押し止めているかのようだ。藤之助が自分を放って桜の木を見に行っていたこと気に病んでいるのだろうか。昼間抱いていた邪心を申し訳なく思いつつ、彼は、ぎゅっと胸に押し当てられた少女の頭を撫でてやる。


「困った小娘だ」

「わたしは子供ではない」


 いつもの台詞も妙に鼻声で、覇気がなかった。先日の件が相当(こた)えたのか、最近の不知火はずっとこうだ。――織羽といい、この白藤の化生といい、自分の周りにはどうも涙脆い者が集まる。藤之助は苦笑した。


 ふと、不知火が顔を上げる。何事かと男が見つめ返すと少女はしばし迷う素振りを見せたが、心を決めたのか、慎重に切り出した。


「藤之助、おまえは妹に会いに行くべきだ」


 青年は困った顔をして微笑む。


「聞いていたならわかるだろう。藤枝には、会わない」


 穏やかな声音だが、彼はきっぱりと言い切った。それでも不知火は引き下がらない。男の名を呼ぶと、その腕をしっかりと掴んで正面から向き合った。


「死んだら、もう二度と会えなくなるんだ」

「わかっている」


 苦々しげに返す彼に、そうではない、と少女は頭を振った。


「おまえだけではない。――妹だって、おまえに会えなくなる」


 藤之助は鼓動が一瞬止まったような気がした。――そんなことは考えてもみなかった。

 

 彼の腕を掴む少女の手には、より一層力がこもる。


「私はもう二度と、柏木には会えない」


 涙を湛えた翠玉の瞳が、藤之助を見ている。あまりにも切ないその声に、彼の心は揺れた。


 自分は大切な人たちと別たれる苦しみを誰よりわかっていたはずだ。だがなぜだか、いつの間にか、残して逝くことばかりを考えて、残される者たちの思いを省みずにいた。その事実に気づいて、藤之助の胸が鉛を飲んだように重くなる。


 だが、あの日、藤枝の手を離した瞬間から、彼は二度と彼女には会わないと決めていた。そもそも、こんな自分が今更どんな顔をして妹に会いに行けばいいというのだろう。藤之助は苦悩した。


「――少し、考える時間が欲しい」


 不知火の視線から逃れると、彼はそう低く呟いた。



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