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行く春の白藤へ  作者: まめ童子
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第八章 後編


 あの雪の日のあくる日、白藤の部屋に帰ってきた藤之助(ふじのすけ)不知火(しらぬい)から渡された柏木の日記を読んでいた。

 その言葉に触れると彼女の生前の姿が鮮やかに想起され、不思議と心が温かくなる。しかしその最期(さいご)にさしかかると、藤之助の胸の内は暗く塞いでいくような気がした。


 ふと、横に腰かけていた少女が彼の肩に寄りかかる。程よい重さと温かさが心地よい。同じように彼女に寄り添うと、藤の香りがした。

 藤之助は不知火を見やった。その横顔は、悲しげに曇っている。


「――柏木のことは、残念だった」

 不知火は黙って頷く。


 この白藤の化生(けしょう)はつい先日まで、親友の死を知らずにいた。

 よく考えれば、柏木が大切にしていた(かんざし)を置いたまま(くるわ)を去るわけはなく、あれが見つかった時点でその死は明白だったのだが、不知火は、まさか柏木が自分に何の別れも告げずに逝ってしまったとは思ってもみなかったのだ。

 しかもどういうわけか、本来なら感じることができるはずの柏木の魂の存在を感じることができなかった。まるで柏木の遺志で、己の死を不知火に悟られぬよう、その魂を隠したかのようだ。

 

 柏木がもうこの世にないことのみならず、彼女がその最期を自分に看取らせなかったという事実が、不知火には苦しくてならなかった。


 その消沈した様子に、藤之助の心も痛んだ。男が冷たくなった白い小さな手を握って温めてやると、少女はぽつりぽつりと語り出す。


「柏木は、気丈な女だった。あれが泣いているところは見たことがない。私には、死が人間にとってどういうものなのかわからなかった。だから私は考えなしに告げてしまったのだ。――おまえは死ぬと」

 不知火は痛みを堪えるように目を(つむ)る。


「その上、独りにしてしまった。――間違えてしまった、何もかも」


 その頬を涙が伝う。藤之助は何も言わず、そっとそれを拭ってやった。きっと何を言っても気休めにしかならないだろう。大切な人と別たれる苦しみが、彼にはよくわかっている。

 不知火の手をとると、藤之助は最後の(ページ)に挟まれた花弁にその指をあてがった。白い藤の花は水気こそ抜けきっているがその姿を美しく留めている。


 藤之助は思った。きっと柏木は、この花弁を眺めながらこの藤の庭を思い出していたのだろう。

 花房がたおやかに靡き、馥郁たる香りと涼しげな音に満ちた、あの春の庭の光景を。


 たった一人の友と過ごした幸せな時間を。


「――柏木はきっと、孤独ではなかった」


 不知火の肩を抱き寄せると、藤之助は静かにそう言った。少女は、はっと瞠目する。

 その言葉を噛み締めるように目を閉じると、ありがとう、と一言、小さく呟いた。



 そのまま二人は寄り添って白藤の庭を眺めていた。日はすっかり落ち、数多(あまた)の星が夜空に瞬いている。藤之助はふと思い立って、不知火にかねてよりの疑問を投げ掛けた。


「俺は、いつ死ぬのだろうか」


 不知火はぴしり、と凍りついた。藤之助は慌てて弁解する。

「いや、他意はない――少し気になっただけだ」

 不安げな表情を浮かべたまま、ぎゅっと藤之助の腕を掴むと、白藤の化生は小さな声で返す。


「実際のところは、よくわからない。数日のうちということもあれば、数年先ということもあった。私が柏木の死を知らなかったのもそのせいだ」

 だが、と不知火は続ける。


「本当に死期が近くなると、決まって同じ印が出るのだ」


 そう言うと、彼女の細い指が藤之助の(うなじ)に触れた。今にも泣き出しそうな顔で目の前の男を見つめると、不知火は震える声で告げる。


「おまえにも、それがある」


 藤之助はおもむろに立ち上がると、部屋の姿見に自分を映し、手鏡を持って後ろ首を確かめた。

 そこには確かに、花の形をした痣のような印がうっすらと浮き出ている。


「――俺は、死ぬんだな」


 男は静かにそう言った。不知火は、消え入りそうな声で、そうだ、と応える。


 改めて死を自覚したが、藤之助の心は不思議と落ち着いていた。

 初めてその事実を知らされたときはあれだけ動揺したというのに、今はどうしてか穏やかな気分だった。


 縁側を振り返ると、そこには心配そうな顔でこちらを窺う不知火の姿があった。

 それは、藤之助がずっと恋慕ってきた白藤の木、そのもののような存在だ。


 傍に戻って、彼はそっと少女を抱き寄せた。不知火は一瞬何事かと身体を強張らせたが、おずおずと両腕を藤之助の背に回すと、ふわりと力を込めた。互いの鼓動の音が重なって聞こえてくる。


(――俺は、生きている)


 今この瞬間、不知火と言葉を交わし、その温もりを感じている間は、間違いなく自分は生きている。藤之助は、とうの昔に失くしたと思っていた熱が再び胸に点るのを感じていた。

 ここに生きる意味があるのなら、生を全うしたその先に待つ死の定めなど怖くはない。彼はそう思うのだった。


(ただ――)


 彼は、柏木が残した日記の最後の頁を思い出す。


(――俺は、笑って最期を迎えられるだろうか)


 脳裏にふと、目元を赤く腫らしてこちらを見つめる妹の姿が過った。




 織羽は言葉を失った。見開かれた目には向かい合う男の姿が小さく映っている。

 湯呑みをきつく握り込んで白く冷えきってしまった織羽の手を、藤之助は自分の手で包み込んだ。


「――だからもう、俺には会いに来るな」

 

 あまりにも穏やかで優しいその声に、彼が言うことは真実なのだと思い知らされ、織羽は滂沱(ぼうだ)の涙を流した。



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