友だちになろう
「こんにちはぁ」
葉山書道教室の引き戸を、からからからっ、と滑らせる。万由子は、挨拶しながら、小さな三和土を上がった。桜の花びらがついた靴を揃えて、右手の和室に入る。
「万由子ちゃん、こんにちは」
葉山先生が、障子を背に、机に向かってちんまりと正座して、にこやかに迎えてくれる。笑うと目尻に、優しげなしわが寄る。
先生の机の横には、二年生くらいの男の子が、二人座っていた。一人はきちんと正座をしているけれど、もう一人はひざをくずし、先生の机に、腕とあごを載せている。二人とも、先生の朱墨の運筆を、じいっと見つめている。
書道教室は、先生の家のとなりにある。小さな平屋で、三つの部屋が連なっており、みんな好きな部屋で練習して、先生に見せにいく。玄関そばの和室には先生がいて、真ん中の洋室にはテーブルと椅子、それに筆を洗える流しがある。奥はまた和室で、いちばん小さな部屋だった。
万由子は、誰もいない洋室を通り抜けて、奥の和室へ向かった。小さい子たちの高い声が、少し遠のく。
型板ガラス越しに、夕方の淡い光が届く。和室には先客がいた。
六年生の藤掛さんだ。ベリーショートに、長い首。スカートのしなやかな足は、座布団の上で、薄く折り畳まれている。
藤掛さんは、右手の筆を、腕ごと手前に、すうっと引いた。筆を、硯の横に静かに置いて、お手本と半紙を見比べている。
部屋には机が二台あるので、万由子は、もう一方の机に荷物を置いた。書道セットを広げ、下敷きを敷いて、硯や筆を出す。下敷きの上、半紙を文鎮で押さえて、一撫で。
それから硯に、墨汁を注ぐ。硯の海に筆を浸し、毛の一本一本に墨を含ませ、丘で少し絞る。墨のにおいが、一層濃く、万由子を包んでいく――。
万由子が二枚書き上げる頃、藤掛さんが、先生のところから戻ってきた。手にした半紙に、朱色が透けている。
万由子が、墨汁を硯につぎ足すと、墨汁の容器から、きゅーん、ぶくぶくぶく……という音が鳴った。ちら、と藤掛さんのほうを見ると、目が合った。
「墨汁、使う?」
「だ、大丈夫、まだあるから。……ありがとう」
藤掛さんが、万由子の斜め前に、膝をついて座った。
「あ、あなたが真田万由子さん」
半紙の”小五 真田万由子”を目にして、言った。万由子は、奥二重の目を見開き、藤掛さんの、一重の大きな目を見た。
藤掛さんは、
「この部屋、この時間、いいよね。私も大体ここ。でもこれまで、会ったことないよね」
と口にする。
「うん。えっと、この春、先週から、火曜日に来ることになったの」
「そうなんだ」
なるほど、と頷く様子は、運動会の、クラス対抗リレーの、クールな印象と違った。
万由子の半紙の線を見て、藤掛さんは、続ける。
「うまいね。いつも表彰されてるよね。校長室の、前で見た」
「藤掛さんこそ、校長室の前に、トロフィーがある、ます、よね」
今度は藤掛さんが目を見開き、万由子の言い間違いに、吹き出した。万由子も笑った。
「友だちになろう。よろしく」
藤掛さんの凜とした声が、万由子の胸に響いた。