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震えを止める声と香り

 紗江子は震える指で、誠の連絡先をタップした。

 呼び出し音が少しだけ鳴ると、すぐに通話がつながった。


「こんばんは、紗江子さん。電話をかけてくれるなんて、すごく嬉しいです」


 優しく穏やかな声に、ざわついていた心が少し落ち着く。それでも、のどが締め付けられる感覚がし、まだうまく声が出せない。口からこぼれるのは、ひゅぅ、という苦しげな呼吸音だけだ。


「……紗江子さん? 紗江子さん!? どうしたんですか!?」


「あ、の……、少し、時間……、いい、ですか?」


「ええ、大丈夫ですよ」


 ようやく紡ぎだした言葉に、あやすような声が返ってくる。


「ついさっき、すごく、嫌なことが、あって……」


「嫌なこと?」


「幸二の後輩から、SNSに、メッセージがきて……」


「幸二さんの後輩から……」


「はい……。それで、幸二のことで話したいことがあるから、会いたいって……」


 事情を説明するうちに、紗江子の目には涙が浮かんでいた。


「きっと……、また責められるんですよね……、お前は自分のことしか考えていないやつだ、とか、だから婚約者に捨てられたんだ、とか……、ひょっとしたら、自分勝手なくせに被害者ぶってるって言われるかも……」


「……そんなことは、ないですよ」


 嗚咽交じりの言葉を、優しげな声が否定する。


「突然、関わりあいたくない相手から連絡が来るなんて、すごく辛かったですね」


「……ん」


 スピーカーから聞こえる声に、声を詰まらせながらうなずく。すると、ふふ、という柔らかい笑い声が返ってきた。


「でも、どうか落ち着いてください。あなたが責められるいわれなんて、どこにもないじゃないですか」


「でも、私が身勝手で相手のことを考えなかったから、幸二は……」


 婚約を破棄した。

 そんな言葉が、誠のため息によってかき消された。


「紗江子さんのどこが身勝手なんですか? 俺としては、その後輩さんとやらのほうが、ずいぶんと身勝手で思いやりのない人間に思えますよ」


「愛菜さんの、ほうが、身勝手……?」


「ああ、愛菜っていうんですか、その人。まあ、どうでもいいですけれども」


 スピーカーからは、再び深いため息が聞こえてくる。


「だって、傷ついていることが分かりきっている相手にメッセージを送り付けるなんて、身勝手以外のなにものでもないですよね?」


「そう、かもしれません……」


「そうそう。それに、弱っているところに付け込んで他人の婚約者を奪ったんですから、性格が悪いにもほどがあります」


「たしか、に……」


 目をぬぐいながら返事をすると、またしても、ふふ、という柔らかな笑い声が返ってくる。


「紗江子さんはそんな性格が悪い女と、それに引っかかる馬鹿な男に傷つけられた被害者なんですよ。だから、自分を責める必要なんてないんです」


「そう、ですか……」


「ええ、そうですよ。その女のメッセージだって、いっそのこと無視してやればいいんですよ」


「無視、ですか……」


 誠の言葉を繰り返した途端、スマートフォンが短く震えた。耳から話して画面を覗くと、またしてもSNSアプリの通知だった。


 まだ少し震える指でアプリを開くと、またしても愛菜からのメッセージを受信していた。



  先ほどの件、

  すごく大事な話なので

  どうしても会いたいのですが。



 絵文字もなにもない短いメッセージには、どこか悲壮感が漂っているように見える。


「……紗江子さん、どうしました?」


 名前を呼ばれ、紗江子は我に返った。


「すみません、また、愛菜さんから連絡があって、どうしても会いたいって……」


「そうなんですか。それはまた、ずいぶんと粘着質ですね……。ああ、そうだ。それなら、俺が同行して、紗江子さんへの嫌がらせは一切やめるように、言ってやりましょうか?」


「えーと……」


 誠の言葉に、すぐに返事ができなかった。

 

 たしかに、一緒に来てくれるなら心強い。それでも、要件が本当に他言無用な話だったら、申し訳ない。


 それに、相手は婚約までしていた幸二を心変わりさせた女性だ。

 ひょっとしたら、今回も……。



「……一人で、大丈夫です」 



 紗江子の口からは、断りの言葉がこぼれた。


「そう、ですか」


 スピーカーからは、残念そうな誠の声が聞こえてくる。


「すみません、せっかく気を使っていただいたのに……」


「いえいえ、紗江子さんが謝ることじゃないですよ……、あ、そうだ!」


 突然、誠が声の調子を明るくした。


「明日って、こちらに来られますか?」


「え? 明日、ですか?」


「はい。きっと、お力になれると思いますので」


「そう言っていただけるのは嬉しいんですが、神谷さんの負担になるんじゃ?」


「ふふふ、さっきメッセージでも送ったでしょう? いつ来ていただいても、かまわないって」


「そう、かもしれませんが……」


 答えあぐねていると、再びスマートフォンが短く震えた。

 紗江子は、通知を確認せずに、スマートフォンをベッドに置いた。それから、ゆっくりと鏡台に向かい、香水を取り出して手首に軽く吹きかけた。


 モモとイチゴの甘い香りが、あたりに立ち込める。


 紗江子は深呼吸をしてから、ベッドに戻りスマートフォンを手に取った。


「……泊まりがけになってしまっても、大丈夫ですか?」


「……ええ、まったくかまいませんよ」


 誠の満足気な声が、耳に届く。


「仕事が終わったらそちらに、向かいます」


「わかりました。なら、駅まで迎えにいきますね」


「ありがとうございます。それでは、今日は遅くまで付き合わせてしまって、すみませんでした」


「いえいえ。紗江子さんとお話ができて、とても嬉しかったですよ」


「ありがとう、ございます……、それでは、今日はこれで……、おやすみなさい」


「おやすみなさい。よい夢を」


 優しく穏やかな声の余韻にひたりながら、通話を終了させた。


 神谷さんなら、本当に力になってくれるのかもしれない。


 そんなことを思いながら、SNSアプリを操作した。

 そして、三通目の愛菜のメッセージに、では土曜日の十三時に会いましょう、とだけ返信する。それから、スマートフォンを枕元に置いて、ベッドに倒れこんだ。


「……きっと、大丈夫」


 心地よい香りを深く吸い込んでから、紗江子はゆっくりと目を閉じた。

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