新しい居場所と香り
一夜が明け、紗江子はまた香水をつけて、勤め先に向かった。
内心、仕事どころではなかったが、不安に押しつぶされそうになるたびに、モモとイチゴの香りが心を落ち着かせてくれた。そのおかげで、なんとか問題を起こさずに、定時で退社することができた。
駅のホームにたどり着くと、紗江子はバッグからスマートフォンを取り出した。画面に表示された通知をタップすると、誠からのメッセージが表示される。
お疲れ様です。
お仕事は終わりましたか?
お疲れ様です。
はい、今から向かうところです。
すぐに既読マークがつき、目を輝かせるウサギのイラストが返ってくる。
そうですか!
俺ももうすぐ着くので
駅で待ち合わせましょう。
分かりました。
今日はよろしくお願いします。
返信をすると同時に、ホームに電車が到着した。紗江子はスマートフォンをしまい、混雑した車両に乗り込んだ。
それから、15分ほど電車に揺られ、待ち合わせの駅に到着した。乗客の波に流されるようにしてホームを後にすると、改札機の外に立つ誠を見つけた。
誠も紗江子に気づき、笑顔を浮かべて小さく手を振る。
「お待たせしました」
その言葉に、誠は笑顔のまま首を振った。
「そんなことないですよ、俺も今来たところです」
「そうですか……、あの、今日は急にすみません……」
「いえいえ、誘ったのはこっちですから! むしろ、来てくれて本当にうれしいですよ。さて……」
「っ!?」
不意に抱き寄せられ、肩がびくりと跳ねた。
「ふふふ、そんなに警戒しなくても、さすがに人前では何もしませんよ」
人前じゃなければ、なにかをする気なのだろうか。そんな疑問を抱いていると、肩に添えられた手に軽く力が込められた。
「まずは食事にいきましょうか。この辺りに、いい店があるんで」
「え……、食事?」
「そうですが、なぜ驚いて……、ああ、ひょっとしてもう済んでました?」
「あ、いえ、そうではないんですが……、それだとお家にお邪魔するのが遅くなっちゃいますよね?」
「そうですね……、二十一時くらいにはなるかもしれませんね。でも、それがなにか?」
「あの……、帰るときに終電に間に合うかどうか、不安で……」
紗江子は学生のころ、平日の夜に幸二の下宿先でレポートを手伝ったことがあった。そのときは、終電ギリギリまでかかったにもかかわらず、疲れたから、という理由で追い出すように帰された。それも、一回ではななく、同じようなことは度々起こった。お互いが社会人になってからも。
だから、今回も誠の提案したことが済めば、帰されるのだと思っていた。
しかし――
「ああ、すみません。今日は、うちに泊まってもらうつもりでした」
――誠の口からでたのは、予想外の言葉だった。
「メッセージで、ちゃんと伝えておけばよかったですね。すみません」
「あ、いえ……、こっちこそ察しが悪くて……」
「いえいえ、それじゃあ、今日はどうしましょうか? 俺としては、一緒に過ごしてほしいんですが」
急に泊まったりしたら、迷惑になる。そんな言葉は、軽く首を傾げた淋しげな表情にかき消された。
「それじゃあ……、駅ビルで着替えを用意してきますので……」
その言葉に、誠は表情を一気に明るくした。
「本当ですか!? じゃあ、俺はそこのカフェで待っていますので、ごゆっくりどうぞ!」
「分かりました、ありがとうございます」
紗江子は軽く会釈して、駅ビルへの足を進めた。
その後、紗江子は替えの下着やブラウスを購入し、再び誠と合流した。それから、近くの和食店で夕食を済ませ、マンションに向かった。
「どうぞ、座ってください」
「どうも」
「それじゃあ、俺は用意をしてきますから」
白い革張りのソファーに紗江子を残し、誠はリビングを出ていった。程なくして帰ってきたその手には、木箱が抱えられていた。はじめてこの部屋にきたときに、抱えていたものと同じものだ。
「それも、香水ですか?」
「ええ、そうです。紗江子さんにつけてほしいものを、またいくつか選んできました。ただ、前回とは少し、趣向が違いますが」
「趣向が違う?」
「はい。かなり厄介な相手に、一人で会いにいくことになったわけですからね」
そう言うと、誠は紗江子の隣に腰掛け、木箱のフタを開いた。
「『強さ』を感じる香りを集めてみました」
そんな言葉とともに、箱から次々と小さなスプレーボトルが取り出され、テーブルに並べられていく。
「強さ、ですか……」
「そうです。さあ、ぜひ試してみてください!」
「そうですね……」
差し出されたテスト用の厚紙を受け取りながら、自然と口からため息がこぼれた。
思い返せば、幸二と交際しているときは、相手の言葉に流されることが多かった。そんな自分に、「強さ」を感じる香りなんて似合うだろうか。
そんな気弱な思いで、スプレーボトルの中身を吹き付けると――
「うっ!?」
――えずくくらいにキツい花の香りが、あたりに広がった。
すぐさまボトルとテスト用紙をテーブルに置くと、誠が苦笑を浮かべた。
「ああ、やっぱりこの香水は、合いませんでしたか」
「す、すみません……、ちょっとこれは……」
「いえいえ、謝ることじゃないですよ。たしかに、この香水は高評価をつける方でさえ、『ただし、食事と人混みには絶対つけていかないこと』と、注釈を入れるくらいですから」
「そう、ですか……」
「ええ。なので、気を取り直して他のものも試してみてください」
「はい……」
紗江子は涙目になりながらうなずくと、次のボトルに手を伸ばした。
それから、柑橘系に近い香り、スパイスのような香り、タバコに似た香りなど、さまざまな香水を試した。その中で、紗江子の心にとまったものは一つだけだった。
「あの、この香りが気になりました」
手が添えられたスプレーボトルからは、どこか薬品のようでありながらも上品な香りが漂っている。その香水を見て、誠はニコリと微笑んだ。
「なるほど。なかなかいいものを選びましたね」
「そう、なにですか?」
「ええ。こちらは約百年前に香水の世界に革新を起こし、今でも世界中で愛されている素晴らしい香水なんです」
「へえ……」
「そう、中には……」
「っ!?」
突然、長い指に手の甲をなでられ、紗江子は肩を震わせた。
「眠るときにはこの香水以外なにも身につけない、なんて言う愛用者もいるほどに、ね」
耳元でささやかれ、背筋が粟立っていく。
「……今夜、試してみませんか?」
熱っぽい言葉に、紗江子は手を握りしめてうつむいた。この家に、ベッドは一つしかない。だからといって、香水だけを纏った紗江子をベッドに寝かせ自分はソファーに眠る、という提案をしているわけではないことも明白だ。
「明日も、仕事がありますし……」
「でも、自分が魅力的だとを思われていると知ることは、自身という強さに繋がると思いますよ?」
だからといって、甘い言葉に流されるのは、強いと言えるのだろうか。
そんな疑問は、首筋に何度も落とされる唇の感触と、背筋を走る快感によって塗りつぶされていった。