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婚約破棄とブランド香水と新たな出会い

 とある高層ビルの最上階にある、夜景が自慢のレストランにて。

 一組の男女が窓辺の席に座っていた。


 グレーのタイトなドレスを着た女性の名前は、岡本おかもと 紗江子さえこ。向かい合うイージーオーダーのスーツを着た男性は、長谷川はせがわ 幸二こうじ。二人は、いわゆる婚約関係にある。


 紗江子はスパークリングワインを一口飲むと、幸二に向かって微笑んだ。


「幸二、今日はありがとう。こんな素敵なところに連れてきてくれて」


「ああ、気にすることはないよ」


 幸二も、指を軽く組んで微笑んだ。




「だって、これが君との最後の食事なんだから。紗江子、君との婚約は破棄させてくれ」


「……は?」




 突然の言葉に、紗江子の口から気の抜けた声が漏れた。



 今夜は二人が婚約をしてから半年を迎えた夜、そして紗江子の誕生日だった。

 婚約をしてから仕事にかかりきりだった幸二が、今まで淋しい思いをさせたことを謝りながらプレゼントを渡し、改めて入籍や式についての話を切り出す。少なくとも紗江子の中では、そうなるはずだった。

 

「後輩と一緒に激務をこなしてるうちにね、本当の愛に気がついたんだ。彼女は自分がどんなにつらくても、笑顔で俺を支えてくれた」


 しかし、目の前の幸二は幸せそうな表情を浮かべながら、他の女性の話題を口にしている。

 その目に、目の前にいる紗江子は映っていない。いや、映ってはいるのかもしれない。


 ただし――


「それに比べて、君は俺を気遣うメッセージの一つも、送ってくれなかった」

 

 ――嫌悪の対象として。


 

「それに、今日だってそんなきつい臭いの香水をつけて……、本当に自分のことしか考えていないんだね」


「……」


 幸二のため息まじりの言葉と冷めた視線が、胸を締め付けた。


 メッセージを送らなかったのは、忙しい幸二の邪魔をしたくなかったから。

 無理して高級ブランドの香水を買ったのも、カッコいい幸二の隣にいてもおかしくないような、落ち着いた大人の女性になりたかったから。


 そんな言葉が、口からこぼれずに飲み込まれていった。


「やっぱり、共に生きるなら、彼女のように謙虚で相手のことを考えてくれる子が一番だよね」


 窓の外を見つめながらうっとりとした表情で呟く幸二に、何を言っても通じるはずがないと分かってしまったからだ。




「……分かったわ。なら、この婚約はなかったことにしましょう。じゃあ、私はこれで」

 

 紗江子はそう言って席を立ち、振り返らずに店を後にした。

 向かった先は、フロアの片隅にあるトイレだ。レストランの店内にもあるため、こちら側に他の利用客の姿はない。

 泣くのには、ちょうど良い場所だ。

 


 化粧直しコーナーの席に座ると、自然と深いため息がこぼれた。目の前の鏡には、普段よりも丁寧に化粧が施された顔が映っている。


「お化粧は苦手だけど……、幸二のために頑張ったんだけどな……」


 そんな言葉を口にすると、幸二の前ではこらえていた涙があふれ出した。


 ひどい顔だ。


 そう思いながら、ハンカチを取り出すためにバッグに手を入れた。すると、冷たく硬いものが、微かに指に触れた。

 

 目を落とすと、触れていたのは香水のビンだった。

 出かけるときに慌てていたせいで、間違えて持ってきてしまったのだろう。


 紗江子はビンを取り出し立ち上がると、入り口付近に設置されたゴミ箱の前に移動した。


「けっこういい値段したのに……、無意味だったのね」


 そう呟きながら、ゴミ箱に中身が入ったままの香水ビンを捨てた。


 まさにそのとき――


「なんてことをするんですか!?」


 ――男性の声が、頭上から響いた。


 振り返り見上げると、いつのまにかスーツ姿の背の高い男性が立っていた。


 まるで俳優みたいなイケメンだな。それに、なんだかリンゴみたいないい香りがする。

 

 などとぼんやりと考えていた紗江子だったが、自分がいる場所を思い出し我に返った。


「ちょ、ちょっと! ここ女子トイレなんですけど!」


「そんなことは、今どうでもいいですよね!?」


「いや、よくないですよね!? お店の人……、いえ、警察を呼びますよ!」


「あ……」


 警察を呼ぶという言葉に、男性もようやく我に返った。


「すみません……、俺の作った香水をつけてくれている人が、悲しそうな顔をしながら走っていったので、どうしたのか気になって……」


「だからって、女子トイレまでついてこないでくださ……、俺が作った?」


「はい」


 男は整った顔立ちに、穏やかな微笑みを浮かべた。


「申し遅れました、俺は調香師をしている、神谷かみやといいます」


 差し出された名刺には、高級ブランドの社名と、神谷かみや まことという名前が記されていた。


「調香、師?」


 問い返す紗江子に対して、誠は穏やかに微笑んだ。


「はい、香水職人と言った方が、分かりやすいかもしれませんね。先ほど貴女が捨ててしまった香水を担当していたんです」


「そう、だったんですか……」


「ええ。その、あの香水は試行錯誤を重ねて作り出した自信作だったんで、つい気が動転して……」


 気が動転したからって、女子トイレに乗り込んでくるのはどうなの?


 そんな言葉をこらえて、紗江子は誠に深々と頭を下げた。


「そんな思い入れのあるものを捨ててしまって、すみません……」


「いえいえ。自信作がお客様に気に入っていただけないことなんて、よくあることですから。ただ、今後の参考までに……、ここのラウンジで、気に入らなかった理由を教えていただけますか?」


 勤め先は判明しているけれど、急に女子トイレに乗り込んでくる男性の誘いに乗っていいのかな?


 そんな疑問が頭に浮かび、すぐに消えていった。

 

 ついていった結果、刹那的な関係を結ぶことになったとしても、叱ったり嘆いたりしてくれる相手はもういないのだから。

 

「ええ。それなら、是非」


「本当ですか!? ありがとうごさいます」


 紗江子は自嘲気味に、誠は嬉しそうに微笑んだ。


 そうして、二人はラウンジに向かっていったのだった。

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