ハメてないのにハメられた
スクタリのイギリス陸軍病院。
その一室にて、大柄な男が一人、パンを齧りながらソファーに腰掛けていた。
「むふー。また本国から偉そうな指示通達が届いたよ、ピクシーちゃん。戦況報告なんて、軍医長官であるボクちんに振られてもしょうがないのにね」
部屋のテーブルには金魚鉢が置かれており、その中を泳ぐ金魚に向かって、男は語りかけていた。
「長官なんつってもさ、閑職だよねこんなの。死にかけの兵士なんぞ毎日眺めてても、ボクちんの輝かしい出世街道にはこれっぽっちの得にもなりゃしないってのに」
そう言って男はいかにも不満げに溜息をついた。
男の名は、ジョン・ホール。
この病院の総責任者である軍医長官だった。
「本当に嫌になっちゃうよん。ボクちんの心労、わかってくれるよね……? ピクシーちゃん」
ホールは齧っていたパンの粉クズを、ペットの金魚(名前:ピクシー)にパラパラと与えてやった。
「ああ、それにしてもムカつくのは、あのナイチンゲールとかいう女だよ。あの女が幅を利かせて病院を取り仕切っているから、ますますボクちんの威厳が薄まってる気がするんだよね。女王陛下の後ろ盾がなきゃ、あんな女、ボクちんの靴磨き役にでもしてやるのにさ」
がぶりとパンに食らいつき、ホールはどっかりとソファーにもたれた。
そのとき。
部屋の扉がコンコンとノックされた。
「誰だい」
ホールが呼び掛けると、扉が開かれ、赤い燕尾服の女性が室内に入ってきた。
マザランだ。
「失礼いたします」
マザランは、その手にバスケットを携えていた。バスケットの中にはワインボトルとグラスが入っている。
「軍医長官のジョン・ホール様ですね」
そう問いかけつつマザランは、自然な動作で、ホールの対面のソファーに腰掛けた。
「うん、そうだけど? キミは誰?」
「私めはマザランと申します。この度は、ホール長官にお願い事があって参りました」
「お願い事ぉ?」
ねっとりとした口調で言うホールに、マザランはバスケットに入っていたワインボトルを差し出した。
「まぁ、まずは一杯どうぞ。お近づきの印です」
「おっほ! こりゃ気が利くねぇ。最近は補給連絡もままならなくなってて、こういう逸品もなかなか入ってこないのに」
ホールはグラスを手に取り突き出した。マザランがそのグラスにワインを注いでいく。
「それでご相談なのですが」
「うん?」
「ナイチンゲール様からの、物資の調達申請に許可をいただきたいのです」
何ッ、とホールは鋭く叫んだ。一気に表情が険しくなる。
「ハァ、どこの誰かと思えば、あの女の差し金かい。ダメダメダメ、ああもうダメだね。民間人の一存で、出処もわからない物資を軍に補給できるわけがないだろう」
「搬入時の検査にも万全を期します」
「ダメっつってんじゃん! 大体あんな一般人に過ぎない女が、何を偉そうに口出ししてきてんのさ」
そう口を尖らせるホールを見つつ、マザランは小さく溜息をついた。
「ナイチンゲール様のことが気に入らないのでしょうか」
「大いに気に入らないね。女なんぞに何がわかる。女なんてね、スイーツとコーデと生理用品のことくらいしか頭に入ってないんだから。軍の方針に口出しするなんて以ての外だね。いいかい、女に生まれたからには、適齢期になったら嫁に貰われて、しっかりと家事をこなし、献身的に亭主に尽くして、子供は二人以上産む。これが女の正しい生き方ってもんなんだよ」
もし現代においてSNSで発信しようものなら、大炎上確実な持論をホールは述べた。
しかしマザランは涼しい顔で何度か頷いただけだった。
「そうですか。そこまで仰るのなら仕方ないですね」
うむ、と頷いて、ホールはワイングラスを煽った。
「わかったら、あの女に伝えなさい。女の分際ででしゃばるなと。そしてこれ以上、ボクちんの出世街道を邪魔立てする……」
パリン、という音が響いた。
ホールが手から取り落としたグラスが、床に落ちて割れた音だった。
「な……と……」
そしてホールはソファーからずり落ちて、グーグーと高いびきをかき始めた。
眠りこけてしまったようだ。
そんなホールを冷たい目で見据えながら、マザランはぽつりとつぶやいた。
「フン、他愛もない」
——寒い。
頭の中でそう意識したのをきっかけに、ホールは目覚めた。
やけに体が重く、頭もぼんやりとしている。
「うぅ……?」
呻きながら起き上がったホールは、すぐにこの寒気の原因に気が付いた。
「あ、あれ……? どうしてボクちん……裸なんだ……?」
いったいどういうわけか、ホールは全裸になっていたのだ。まったく状況が呑み込めない。しきりに頭を振っても、こうなった経緯がまるで思い出せなかった。
「えーと……たしか部屋にあのマザランって女が入ってきて……あいつが注いだワインを飲んだら意識が遠くなって……」
そのとき。
すすり泣くような女の声がした。
ホールが顔を横に向ける。
そこに。
全裸のアンリが、シーツ一枚だけを羽織って、ソファーに蹲って泣いていた。
「うわああああああああッ!」
素っ頓狂な声を上げて、ホールは飛び上がった。
「だっ、だだだっ、誰だねキミはっ!」
震える指を突きつけて詰問しても、アンリはただすすり泣くばかりだ。
「おやおや、ようやくお目覚めですか、ホール長官」
背後から声がした。
心臓が止まりそうなほど驚いたホールが、ゆっくりと振り返る。
そこに。
腕を組んでこちらを睨む、マザランが立っていた。
さらにその両隣には、ユスタとベルサもいる。
ヒッ、と叫んで、ホールは咄嗟に自分の股間を両手で隠した。
「やれやれ、大変なことをしてくれましたねぇ」
「は? 大変な……何だって?」
マザランが、裸で泣いているアンリを指で示した。
「ホール長官、あなたは軍医長官という立場にありながら、ワインをかっ喰らって酔っ払い、暴れ出したのですよ」
「え? ボクちんが?」
「ええ、まったく手が付けられなくなるほどの酒乱状態に陥っていました。どうしようもなくなった私が助けを呼ぶと、こちらのユスタ王とベルサ王、それとそこにいるアンリさんが部屋に入ってきて、長官を止めようとしてくれたのですが、あなたの興奮はまったく収まらず、ついには服を脱ぎだして、アンリさんに襲い掛かったのです」
「は? いや嘘? ちょっと待って? 何それ?」
「私たちも必死で止めたのですが、何しろ女ごときの細腕では、軍人であるあなたの力にはとても敵わず、ついにはアンリさんも一糸纏わぬあられもない姿にされてしまいましてねぇ。そのまま手籠めに……」
「はあああああッ? 何言ってんのおおおおおッ?」
「そしてケダモノと化したあなたは、アンリさんに凌辱の限りを尽くし、その後、眠りこけてしまったのです」
まるで立て板に水のごとき滑らかな口調で、マザランは説明した。
それを聞いたホールはガチガチと歯を嚙み合わせて身震いしていた。
「いやっ……いやいやいやいやっ! 知らないよ! ボクちん、こんな女まったく全然これっぽっちも知らないよぉっ!」
「えーん、えーん、ヒドイですー」
裸のアンリが、一際大きな泣き声を上げる。
「汚されちゃったー。アンリめは汚されてしまいましたぁー」
嘆くアンリに、ユスタとベルサが駆け寄った。
「可哀そうに。あんなひどいことをされたのだから、きっと心に大きな傷を負ったことでしょう」
「アンリ、元気出してね。コーラで洗えば大丈夫だよ」
マザランが、深い溜息を吐き出した。
「まったく、恐ろしい話ですねぇ、ホール長官? これほどの乱暴狼藉、もし本国に知られれば、解任程度じゃ済みませんよ?」
「バッ、バカなことを言うな! さてはお前ら、ボクちんをハメたな! 陰謀だ! これはボクちんを陥れようとする陰謀なんだ! 証拠もなしにこんな荒唐無稽な話、誰が信じるもんか!」
「証拠もなしに……ですと?」
マザランが懐からある物を取り出した。
「これを見ても、そんなことが言えるのですか!」
そう言ってマザランは、取り出した物をホールの顔に投げつけた。
それは。
「しゃ、写真……?」
セピア色ではあるが、それは紛れもなく写真だった。
そしてその写真に写されていたもの。
それは、裸のホールがアンリに覆いかぶさっている、あまりにセンシティブな光景だった。
「なななななななーっ!」
自分の股間を隠すのも忘れ、ホールは食い入るようにその写真を見つめた。
「ちなみにクリミア戦争では、発明されて間もないカメラによって何枚かの写真が撮られており、貴重な歴史資料として現代にも残っているのよ。これが世界初の戦争写真だと言われているわ」
そんな豆知識をユスタが披露する。
「だからこの時代にカメラや写真があってもおかしくないのよ。いいわね?」
「お姉ちゃん、誰に向かって説明してるの?」
コホン、とマザランが咳払いをした。
「この証拠写真をバラ撒けば、世論があなたに対し、どのような判断をするか、想像するのは容易いでしょう?」
「バ、バラ撒く……? この写真を……?」
ヘナヘナと崩れ落ちるように、ホールはその場に膝をついた。
「そっ、そそそそっ……」
そしてそのまま上体を倒し、床に頭を擦りつける。
「それだけはどうか、ご勘弁を……!」
完全に消沈し、ひたすらに頭を下げるホールを見ながら、マザランは笑みを浮かべた。
それは、この世のすべてを見下すがごとき、極上の冷笑であった。
「さてそれは……あなたの対応次第であるかと存じますよ。ジョン・ホール軍医長官殿?」
そう宣告してマザランは、キラリと光る片眼鏡をついと吊り上げたのだった。