表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/28

「あーさーくーらー!」←元ネタがわかったらオッサン

 女性の名を聞き、ユスタは目を見開いた。


 「フローレンス・ナイチンゲールですって?」


 どちら様でしょうか、とアンリが問いかける。


 「クリミアの天使と言われた超人看護師よ」


 ユスタの言葉に、ナイチンゲールは小首を傾げた。


 「クリミアの……何ですって? 私は人からそのように呼ばれたことはありませんよ」


 「まあ、あなたがそう呼ばれるようになるのは、もっと後のことだから」


 「……何を言っているのか、よくわかりませんね。そんなことよりも、こちらの方を早くベッドにお連れしないと」


 そう言いナイチンゲールは華奢な腕でマザランを抱きかかえ、しっかりとした足取りで退室していった。


 「それで結局、さっきの人って誰なの?」


 そう問うベルサに、ユスタはナイチンゲールについての解説を始めた。


 「フローレンス・ナイチンゲール。彼女を一言で言うなら、【看護の母】。まさしくこれね」


 「へー」


 「フローレンス・ナイチンゲールは1820年、イタリアで、両親の旅行中に生まれるわ。このナイチンゲール家はすこぶる金持ちで、フローレンスは子供の頃から様々な教育を施されていくの。そんな教育のおかげで、彼女は凄まじい天才と化していくわ」


 「どのくらい頭良かったの?」


 「幼くして、5ヶ国語の読み書きに加え、天文学、経済学、数学、心理学、地理、歴史、哲学等で専門の人間と会話ができるほどだったらしいわ」


 「スッゲー、私と同じくらいだ」


 そうね早く夢から覚めなさい、とユスタは冷たく切って捨てた。


 「そんな不自由のない生活を送っていたフローレンスは、ある日友人の勧めで貧民街の慈善活動に参加したことがあったの。この時の活動で貧しい人々の悲惨な生活を見るに連れ、フローレンスはあることを決心するの」


 「決心? 海賊王になるって?」


 ハハハ死んどけ、とユスタは笑みも浮かべずに言った。


 「人々に尽くすために、看護師になることを決心するのよ」


 「まぁ、慈愛に満ちた方だったのですね」


 アンリの言葉にユスタが頷く。


 「そしてフローレンスは家を出て、当時にしては珍しい看護師の育成を行うカイザースヴェルト学園で働き出すの。ここで彼女は先進的医療を学び、一流の看護師になっていくわ」


 「念願叶って、ナースのお仕事ができるようになったのですね」


 「あーさーくーらー!」


 黙ってなさい、とユスタが釘を刺す。


 「そしてこの時代、とある戦争が始まった。1853年十月にクリミア戦争が勃発したのよ」


 「クリミア戦争?」


 「ロシアがトルコを侵略しようとしたために起こった戦争よ。フランスやイギリスも、トルコを守るために戦争に参加したの。そしてフローレンスも自身が戦地に赴くことを決意したのよ」


 「何で戦争に行ったの? 観光?」


 「お前の頭お花畑かよ。知り合いだった戦時大臣ハーバードに戦地での看護活動を依頼されたからよ」


 「そんな若いみそらで見上げた精神ですね」


 「ええ、そうね。ハーバードからの依頼を受けて、フローレンスはシスター24名、看護師14名を連れてトルコのスクタリに向かったの」


 つまりはこの場所よ、とユスタが付け加えた。


 「しかしスクタリについた看護団は、当初活動の一切を禁止されるの」


 「何でさ!」


 「軍医長官が、許可がないからという理由で、あらゆる場所で活動を拒否したからよ」


 「うわ、嫌な奴やで」


 「そこでフローレンスはトイレ掃除がどこの管轄にもなっていないことに目を付け、トイレを掃除するところから次第に病院の中に割り込んでいったの」


 「おお、頭いいね!」


 「さらにはハーバードに頼んで、ある人に応援の手紙を書いてもらったの。この手紙を読んだ長官は驚愕し、フローレンスに何も言えなくなったわ」


 「誰からの手紙?」


 「イギリス・ハノーヴァー朝、第六代女王、ヴィクトリア女王陛下よ」


 「女王に手紙書かせたの!」


 そうよ、とユスタが頷く。


 「そうしてようやくフローレンスたちは、看護の活動を許可されるわ」


 そして、とユスタは一息ついた。


 「自由になったフローレンスは、この戦争で、ある強大なものと戦うわ」


 「何と戦ったの?」


 ベルサの問いにユスタはゆっくりと歩を進め、部屋の扉を押し開けつつ答えた。


 「【死】よ」





 医療が発達した現代の常識から鑑みれば、その病院内の光景は異様極まるものだった。通路の両脇に、数えきれないほどのベッドがどこまでも延々と並んでいるのだ。


 スクタリのイギリス陸軍病院。


 総延長6㎞にも及ぶこの病院には、戦いで傷を負った兵士たちが絶え間なく搬送されてきて、今や敷地を埋め尽くさんばかりだった。


 その通路の端に、また一つベッドが用意され、新たな患者が横たえられた。


 マザランだ。


 「さあ、このベッドでゆっくりお休みなさい」


 優しい口調で語りかけながら、ナイチンゲールはマザランの頭を慰めるように撫でた。


 「うぅ……もう無理です……」


 熱に浮かされるマザランの口から、悲痛な弱音が漏れる。


 「苦しい・・・…もう……死んだほうがマシです……」


 「ダメです」


 撥ねつけるような強い口調でナイチンゲールは言った。


 「この病院では、死ぬことが禁じられています」


 「え……?」


 「誰であっても、この病院で死ぬことは許されません。生きることを諦めてはなりません。例えどんなに苦しくとも、けっして死を望んではいけません」


 ナイチンゲールは、マザランの手を強く握りしめた。


 「死と戦うのです。戦えば、必ず死に打ち勝つことができます。私はあなたを治療することを諦めません。だからあなたも、けっして死に屈しないでください」


 「あぅ……」


 マザランが、涙に潤んだ瞳でナイチンゲールを見つめる。


 「さあ、これを飲んでください」


 ナイチンゲールは、湯が注がれたコップを差し出した。


 「柳の木の煮汁です。少し苦いけれど、全部飲み干してください」


 柳の木からは、鎮痛解熱効果があるアスピリンが抽出できる。


 「んん……」


 マザランは力を振り絞って上体を起こし、差し出されたコップの中身をコクコクと飲み干した。


 「さあ……もう大丈夫です。ゆっくり体を休めて。きっとあなたも、死に打ち勝つことができますよ」


 そう言いナイチンゲールは、もう一度マザランの頭を優しく撫でた。


 そんな姿を、ユスタたちは遠目から眺めていた。


 「これがフローレンスが誓った、死と戦う覚悟よ」


 どういうこと? とベルサが尋ねる。


 「戦争時には不衛生な環境から死の病気が蔓延。手術の苦痛や戦争のストレスもあり、そのせいで病院の死亡率は40%を超えていた」


 「うわ……この病院の生存率低すぎ……?」


 「フローレンスはこの死に打ち勝つべく、ある方法で戦ったの」


 「何したん?」


 「とっても簡単なことよ。死ぬの禁止にしたの」


 「HAHAHA! おもしれージョークだ」


 冗談でも何でもないわ、とユスタは返した。


 「この病院は麻酔なしの手術なんてザラに行われていて、あまりの苦痛から、自殺や安楽死が後を絶たなかったの。まずはその死んだ方がマシという考えを払拭しようとしたわ」


 「一旦死ぬのやめましょう」


 「ゆえにフローレンスは自分の許可なく死ぬことを禁止したの。例えどんなに死を懇願されても、けっして認めずひたすら治療したわ」


 「不屈の覚悟が死を撥ねのけるという信念、アンリにもわかります」


 「また、治療にしても働きぶりは超人的で、24時間働きっぱなしだったし、8時間跪いて包帯を巻いたこともある。夜中になればランプ片手に6㎞ある病院を歩き続けたわ」


 「看護の鉄人かな?」


 「さらにすぐに駆け付けられるように、患者の近くにベルを置き、ベルが鳴れば昼夜問わずに向かったわ。これが世界で初めてのナースコールよ」


 「え? ナースコールって、あの人が発明したの?」


 そうよ、とユスタが頷く。


 「看護だけではないわ。兵士に死を考えさせないように、何千冊という本を差し入れたこともあった。兵士の多くが文字が読めないと分かれば、病院内で学校を開き、文字を教えた。他にもチェスを教えたり、フットボールのクラブまで作ったわ」


 「何かもう凄すぎて圧倒されてきた」


 「献身的に尽くす彼女に、いつしか兵士たちの間では、死んでても彼女の前では生きていなければならないという謎のルールまで作られたほどよ」


 「ゾンビにでもなるのかな」


 「そうして彼女は、兵士たちから死の意識を取り除いていったのよ」


 そう結び、ユスタは再びナイチンゲールの方に視線を戻した。


 そのとき。


 「あっ」


 立ち上がろうとしたナイチンゲールの体がぐらりと揺らぎ、そのまま彼女は床に蹲った。


 「ナイチンゲールさん!」


 思わずベルサが駆け寄る。


 ナイチンゲールは自分の頭を抑えて、荒い息を吐いていた。


 「どしたの? 大丈夫?」


 「ええ……平気よ。少し疲れただけです」


 「でも顔色悪そうだよ?」


 そう言ってベルサは、自分の手をナイチンゲールの額に当てた。


 「……って、すごい熱じゃん!」


 ユスタとアンリもその場に駆け寄った。


 「本当だわ。すぐに休んだほうがいいわよ」


 ユスタの言葉に、ナイチンゲールは頑として首を横に振った。


 「何を言っているの……。患者さんたちが待っているのですよ」


 「でも……」


 「今、この病院には物資が不足している。私が実費で物資を購入することを申し出たのだけれど……軍医長官が許可をくれなかったのです」


 「えー、何それ! 女王様から手紙貰ったんじゃないの?」


 憤慨した様子でベルサが両手を振り上げた。


 「虎の威を借りても、万能とはいきません。だから今は食料も治療薬も足りていないのです。この状況で私まで休んだら、患者さんたちは何を頼ればいいの」


 だから自分は絶対に休むわけにはいかない、とナイチンゲールは拳を握りしめて宣言した。


 「だけど無理しちゃダメだよ。だって熱がこんなにも……」


 「放してッ!」


 ベルサの手を振り払い、ナイチンゲールは立ち上がった。


 そしてそのまま歩き出そうとしたが。

 すぐにふらついて。

 体が。

 床に倒れ——


 「いけません」


 ——てしまいそうになったナイチンゲールを、がっちりと抱き留めた者がいた。


 それは。


 「マザラン!」


 いつの間に起き上がったのか。


 さっきまで死にそうだったマザランが、倒れかけたナイチンゲールの体をしっかりと抱き支えていた。顔色もすっかりよくなっている。


 「ナイチンゲール様。あなたが無理をして体を壊してしまっては、患者たちの希望も失われてしまいます」


 マザランは、ナイチンゲールの顔を自分の胸に埋めるように、彼女を優しく抱きしめた。


 「マザラン、あなたもう大丈夫なの?」


 「ええ、さっきの煮汁が効いたようです」


 「いやそれにしても治るの早すぎでしょ」


 「さすがは枢機卿殿。瀕死状態からの回復力は超人並ですね」


 あまりに早いマザランの回復ぶりには、ユスタたちも目を見張るばかりだ。


 そしてマザランは、さっきまで自分が寝ていたベッドに、ナイチンゲールの体を横たえた。


 「さあ、ゆっくりお休みください」


 「でも……」


 なおも起き上がろうとするナイチンゲールに対し、マザランはさっき自分がしてもらったように、優しく頭を撫でつけた。


 「話は聞かせてもらいました。この病院に物資を補給するために、軍医長官からの許可が必要なのですね?」


 ならば私にお任せください、とマザランは言った。


 「あなたが……?」


 「ええ、必ず物資補給の件、許可を貰ってみせます。ですからナイチンゲール様は、ここでゆっくりお休みください。いいですね」


 そう押し込むように言われた後、ナイチンゲールはほとんど気絶に近い形で眠りについた。


 「ねぇ、お任せくださいだなんて言っても、どうするつもりなのよ」


 「そうだよ。相手は軍医長官なんだよ。そんな偉い人相手に、私たちが何ができるっていうのさ」


 言い募るユスタとベルサに、マザランは自信に満ちた笑みを返した。


 「フン、お二人とも、私を誰だと思っているのですか。軍医長官ごとき、何程のものでもありません」


 優雅に腕を組み、キュッと鋭く踵を返して、マザランは言った。


 「宰相マザランの外交戦術、お見せいたしましょう」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ