迫りくるオスマン帝国
「ジャン・ド・ヴァレットですって!」
老人の名を聞くや、ユスタが驚愕の声を上げた。
「知ってるの、お姉ちゃん?」
「ええ、五百年も昔に活躍した、聖ヨハネ騎士団総長の名よ」
それを聞いたヴァレットは、訝しげに眉をひそめた。
「五百年前……? 何を言っておる」
お前たちは何者なのかと問うヴァレットに、ユスタたちはそれぞれ名乗った。
「何とも面妖な奴らであるな。とはいえ……」
ヴァレットは、死体となった男たちに視線を移した。
「こいつらに襲われていたということは、オスマンの諜者ではあるまい」
「この人たちは何者なの?」
ベルサの問いにヴァレットは神妙な面持ちで答えた。
「こやつらはオスマン軍の斥候兵である。本軍の到着に先んじて、こちらの様子を探りにきていたのだろう」
これを聞いたユスタは指を顎に添えて俯き、何事かを思案し始めた。
「ジャン・ド・ヴァレット……聖ヨハネ騎士団……オスマン軍……」
ハッ、とユスタが顔を上げた。
「するとここは地中海。マルタ大包囲戦が行われた、1565年のマルタ島なのね?」
「うむ? どうにも要領を得ぬが……。いかにも、ここはマルタ島である」
ヴァレットが振り返ると、すぐそこに、一頭の馬が立っていた。
「ここは間もなく戦火に包まれる。旅の者なら早々に立ち去るがよい」
重い口調でそう告げて、ヴァレットは馬に乗って去っていった。
「今のお爺ちゃんは何者なの?」
ベルサの問いにユスタは首を振って答えた。
「信じられないけど……今のはジャン・ド・ヴァレットよ」
「ジャン・ド・ヴァレット? 誰それ?」
「魔法のような戦法で、最強の敵を倒した団長よ」
彼について簡単に教えてあげるわ、と言い、ユスタはジャン・ド・ヴァレットについての説明を始めた。
「彼は1494年、フランスで生まれた、由緒ある名門貴族だったわ。幼い頃から多くの英才教育を受け、十代の時には、6ヵ国の言語を自在に話し、多くの戦いの歴史を学び、その戦術にも熟知していた。また非常にハンサムだったらしいわ」
「賢者かな?」
「さらに従順なキリスト教徒だった彼は、二十歳のときにある組織に入団したの。それこそ後に彼が指揮を執り、最強の軍と戦った【聖ヨハネ騎士団】だったわ」
「聖ヨハネ騎士団?」
「キリスト教のための戦闘団よ。キリスト教が異教徒と戦うために作った【十字軍】と共に戦った戦闘組織よ」
「中二ワードが凄い」
「そんな名誉ある聖ヨハネ騎士団なのだけど、彼が入団した頃の騎士団は国に属さない独立軍としてロドス島という地を拠点に独自で異教徒と戦っていたわ」
「まさに守護者だね」
「しかしこの時代、とある巨大な国が、騎士団が守るキリスト教国の征服を目論んでいたの。それが当時世界最強の名をほしいままにした、スレイマン大帝率いる【オスマン帝国】だったわ」
「オスマン帝国?」
「当時、世界制覇に最も近かった国よ。千年以上続いたビザンツ帝国を滅ぼし、全ヨーロッパが束になっても敵わない超強国だったわ」
「うえぇ……」
「その侵略はヨハネ騎士団がいたロドス島にも及び、ヴァレットたちが必死の防衛を行うも陥落。騎士団は領土を奪われてしまうの。その力で中東はもちろん、アフリカ、東ヨーロッパの大半を征服。もはやオスマン帝国を止められる者などいなかった」
「ひゃあ」
「そして領土を奪われた聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパに近いマルタ島という場所に拠点を移したのよ」
「マルタ島? それってさっき言ってた……」
「そう、どうやらこの島こそが、そのマルタ島のようね」
ユスタが死体となったオスマン軍の斥候たちに視線を移す。
「そして今再び、そのオスマン帝国がこの島へ進軍してきている最中ってわけみたいね」
「何でここ攻めるの?」
「もしこのマルタ島を落とせば、ここを拠点に全ヨーロッパへの侵攻が可能となるからよ」
「重要な島なんだね」
「ええ、だからさっき言われた通り、このまま長居していたら戦火に巻き込まれてしまいかねないわ。さっさと修理道具を見つけて、とんずらシケ込みましょう」
あのぅ、とアンリが声を掛けた。
「そのオスマン軍って、もしかしてアレのことでしょうか?」
アンリが指で示した先。
林が開けており、そこから海岸線までが見通せた。
そしてその広がる大海原の果て、水平線の彼方に、大艦隊がずらりと並んで迫ってきているのが視認できた。
うわぁ、とマザランが口を開ける。
「あれがオスマン軍? めちゃくちゃ大規模な艦隊じゃないですか」
「二千隻にも及ぶ大艦隊に、四万の兵が乗っているはずよ。あれが到着したら、マルタ島はひとたまりもないわ」
急ぎましょう、と言ってユスタは茂みを踏みしめた。
しばらくののち。
林を抜けて、島内に入り込んだユスタたちは、平原を歩いていた。
「見て、お姉ちゃん! 変な建物があるよ!」
「何ですって?」
ベルサの言う通り、草原のはるか前方に、石造りの砦らしい建造物が見える。
「あれホームセンターじゃないかな?」
「まず絶対に違うけれど、誰か人がいるかもしれないわ」
「じゃあ工具を分けてもらえるかもしれないね」
「ええ、とにかく行ってみましょう」
ユスタたち四人は歩を進め、砦へと近づいていく。
そして砦が眼前にまで迫った、そのとき。
「待て!」
鋭い声とともに、横手の林から甲冑姿の騎士が飛び出してきた。
「お前たちは何者だ。この聖エルモ砦に何用であるか」
騎士がじろじろとユスタたちを見た。
「あのね、私たち修理用の工具を貰いに来たの」
ベルサが言うと、騎士は明らかに警戒している態度で、四人の周りを歩きだした。
「見かけぬ顔だな。奇妙ななりをしているが、どこの国の者だ? オスマン軍の斥候ではあるまいな」
「そのオスマン兵なら、さっきアンリとヴァレットさんが成敗したよ」
何だと? と騎士が語気を強めた。
「ヴァレット総長のことを知っているのか?」
「ええ、私たちヴァレットさんとは友達だもの」
ユスタは咄嗟に嘘をついた。
「総長と……?」
「その証拠に、ヴァレットさんのことなら何でも答えられるわ」
ユスタが、さっきベルサにしたように、ジャン・ド・ヴァレットについて詳細に説明してみせる。
「たしかに……そこいらの市民には、ましてやオスマン兵などには到底知りえぬことまで、総長について詳しく知っているな」
ユスタの知識のおかげで、一応騎士からそれなりの信用を得られたようだ。
「総長はこのエルモ砦の中にいらっしゃる」
「本当? じゃあヴァレットさんのところまで案内してもらえるかしら」
「まあ、よかろう。総長の友人ということならば」
そう言うと騎士はユスタたち四人を連れて、砦の中へと案内した。
「あの、ユスタ王?」
砦内の石階段を上りながら、マザランがユスタに話しかけた。
「いいんですか、砦の中に入っちゃって。タイムマシンの修理用工具を貰ったら、とっとと退散するんじゃなかったんですか」
「仕方ないでしょう。今、マルタ島はオスマン軍の襲来に備えて厳戒態勢を敷いているわ。聖ヨハネ騎士団もかなりピリついてる。こんな状況で正直に事情を説明しても、怪しい奴らだと思われて、拘束されかねないわ」
やがて一同は砦の最上階に到着した。
そこは石敷きの広間になっており、広間の左右に十人ばかりの騎士がいる。そして最奥に、見知った顔の老人が立っていた。
ジャン・ド・ヴァレットだ。
「む、お前たちは……」
ユスタたちが広間に入ると、ヴァレットは片目を見開いた。
「お前たち、まだ逃げておらなんだのか」
「ええ、ヴァレットさんに火急の報せがあるの」
ユスタがそう告げると、ヴァレットはじっとユスタの顔を見据えた。
「何事であるか」
「地中海沖に、オスマン帝国の艦隊が現れたわ」
ざわり、と広間の空気が震えた。
いよいよオスマン帝国の軍勢がこのマルタ島に攻め込んできた。ついに決戦が間近に迫り、歴戦の騎士たちにも緊張が走る。
しかしヴァレットだけは、この報せを聞いても、素朴頑丈な顔を崩さなかった。
「そうか、よく報せてくれた」
そう言ってヴァレットは、広間の中央に立ち、声を張り上げた。
「皆の者! ついに我々の運命を分かつ時がきた! いざ決戦の時である!」
「オオオオオッ!」
怒鳴るようなヴァレットの声に、広間の騎士たちも豪気に満ちた気合を返す。
その声に紛れて、マザランがユスタに囁いた。
「あの、これってもしかして、私たちもこの戦いに巻き込まれちゃう感じですか?」
「こうなったら仕方ないでしょう。戦争が終わるまで、うまいことやり過ごすしかないわ」
そして。
後世において、地中海史上最も凄絶な戦いとされる、マルタ包囲戦が始まるのであった。