ナイチンゲール、クリミアの天使よ永遠に
「……様……ナイチンゲール様……」
どれほどの時間が経った頃だろう。
自分の名を呼ぶ声で、ナイチンゲールは目を覚ました。
おぼろげな視界に、自分を覗き込むマザランの顔が映っている。
「あなたは……」
「ナイチンゲール様、熱は下がりましたか?」
マザランはトレイを持っており、その上には、具がたっぷり入ったスープのボウルが乗っていた。
「さあどうぞ、こちらを召し上がってください」
「これは……」
ナイチンゲールが起き上がって周りの通路を見れば、ベッドの患者たち皆々が、熱々のスープを味わっていた。
「軍医長官が、物資調達の許可をくれたのです。じきに、あなたが発注した補給品がこの病院に運ばれてくるはずですよ」
「まさか、そんな、あの軍医長官が?」
「はい、この私めがきっちり話をつけてやりました。今後、あなたの調達活動を邪魔する者は誰一人としておりませんので、どうぞご安心ください」
「あ……」
ナイチンゲールは瞳に涙をにじませながら、マザランの顔をじっと見た。
「ありがとう……。本当にありがとう……」
「礼には及びません。これらの物資はすべて、あなたが患者たちのために、私財を投げ打って購入してくれたものなのですから」
そう言ってマザランは、湯気が立ち昇るスープボウルを、ナイチンゲールに差し出した。
「お姉ちゃん、このスープすっごくおいしいね!」
通路の端で、ユスタ、ベルサ、アンリの三人も、スープに舌鼓を打っていた。
「ええ、本当ね。そしてこのスープが味わえるのも、ナイチンゲールのおかげなのよ」
どういうこと? とベルサが首を傾げる。
「ナイチンゲールがこの病院で、患者から死の意識を取り除いていったことは話したわね」
「うん」
「でも自殺や安楽死を防ぐと、今度はある問題が上がった」
「問題?」
「二万人近くまで増えた患者に対して、圧倒的に物資が足りなくなったの。イギリスの補給連絡は完全に崩壊していたために、補給がほとんど届かなかったからよ」
「ああ、届かないなら仕方ないよ」
そう仕方なかった、とユスタはつぶやいた。
「仕方ないから、自分で買ってきたわ」
「え!」
「それだけじゃないわ。膨れ上がった患者に医師の数も足りなくなる。医師が足りないから、自分が雇ったわ」
「いや、待って」
「さらには病院の大きさも足りなくなった」
足りなくなったからもう一個作ったわ、とユスタは事も無げに言った。
「待ってよ! どういうこと?」
「そのままの意味よ」
「自分で買ったって、自腹で?」
「そうよ」
「医者雇ったのも?」
「そうよ」
「病院まで作ったの?」
「そうよ」
「好きな映画は?」
「SAWよ」
アハハハハハ、と二人揃って高笑いする。
「だからこのスープの具材も全部ナイチンゲールの購入品ってわけ。調達の邪魔をしてたあのホールって軍医長官もきっちりカタにハメてやったし、これで歴史通り、この病院の院内環境もよくなるはずよ」
それにしても、とユスタが溜息混じりに言う。
「マザランの奴、何が『宰相の外交戦術をお見せいたしましょう』よ。あんなもん外交でも何でもない、ただの美人局じゃない。ヤクザのやり口よ」
アンリが赤らめた頬に手を当てる。
「ちょっぴり恥ずかしかったですけど、アンリめの演技はうまくできていましたでしょうか?」
「んー、発声がイマイチだったわね。あのね、声を出すとき小指と薬指を曲げるといいわよ。そうすると自然に腹式呼吸になるから」
まぁでもよかったじゃん、と言いつつ、ベルサは視線を横に向けた。つられてユスタとアンリも通路の方を見る。
マザランが、ベッドのナイチンゲールにスプーンでスープの具を食べさせてあげていた。
いつも鉄面皮を崩さないマザランが、珍しく優しい微笑を浮かべている。
その光景には、さながら【看護の母】という表題を付けたくなる。
それは、そんな笑顔だった。
「本当にありがとうございました、マザランさん。それに皆さんも」
ナイチンゲールが、四人に深々と頭を下げる。すっかり体調が回復したようだ。
「いいのよ、ナイチンゲールさんが無事で、とてもよかったわ」
それで言いにくいんだけど、とユスタが頭を搔いてみせる。
「物資が不足しているところ恐縮なのだけれど、もしよければ、マイナスドライバーを一本いただけないかしら?」
「マイナスドライバー?」
「ええ、ほら、こうネジを締めるための細長くて先端が平たい金属の……」
「ああ、ターンスクリューのことですね」
余談だが、18世紀のイギリスでは、現在のドライバーはターンスクリューという名称で呼ばれていたという。
「わかりました。その程度の物でしたら、どうぞお持ちください。私からの、せめてものお礼です」
こうして念願のマイナスドライバーを手に入れたユスタたちは、タイムマシンのもとへと戻るのであった。
「遅いわよ、あなたたち」
ユスタたちがタイムマシンへと戻ると、苛立った様子のキトラが腕を組んで待っていた。
さすがに今回は乾涸びてはいないようだ。
「それで、マイナスドライバーは手に入れたの?」
「うん、ほらこれだよ」
ベルサがキトラにマイナスドライバーを手渡す。
「ふん、まぁいいわ。それじゃあチャッチャとタイムマシンを修理して、元の時代に帰るわよ」
一同は揃ってタイムマシンに乗り込んだ。
「ねぇ、お姉ちゃん。ナイチンゲールさんってあの後どうなったの?」
「クリミア戦争が終わるまで、彼女の超人的な働きぶりは衰えを見せず、病院の死亡率をぐんぐん下げていったわ」
「どれくらい下がったの?」
「ナイチンゲールは衛生管理を徹底し、下水処理や害虫駆除を行わせたの。その結果、赴任当初42%もあった死亡率は、最終的には2%まで下がるわ」
「らめぇ、生きちゃうのぉ」
「また現代でもナースステーションは病棟の中央に設置されているのだけれど、これはパビリオン式設計と呼ばれ、この方式を生み出したのもナイチンゲールなのよ」
「神祖様や! 看護師界の神祖様や!」
「クリミア戦争終結後は、イギリスに戻り、次は医療改革のために働くわ。兵士の死因の統計を算出し、自身が開発したグラフを使い、様々な政治家を説得して医療の先進化をさせたのよ」
「かっこよすぎてホンマ濡れる」
「彼女なくして今の看護の発展はなかった。相手を思いやり、尽くすのが看護の心。それを体現したナイチンゲールには、やはり看護の母という敬称がふさわしいわね」
たしかにそうですね、とマザランが感慨深そうに言った。
「あら、あなたが同意してくれるだなんて、珍しいわね」
「私はあの方の思いやりに命を救われましたからね。やれやれ、あなた方お二人にも、ナイチンゲール様の1%でいいから慈愛の心があれば、私も暗殺計画に精を出さずに済むのですが」
「じゃあ今度マザランが熱を出したときには、しっかりとお尻にタマネギをぶち込んであげるわね」
「殺すぞ、クソ紫」
睨み合うユスタとマザランに、キトラの声が割って入った。
「はいはい、お喋りはそこまでよ。今度こそ確実に直ったわ」
そしてキトラがタイムマシンを作動させる。
「これで絶対に間違いなく100%、元の時代に帰れるわよ」
フラグにしか聞こえねぇ、と四人が鼻白む。
しかしキトラは意に介さず、また呪文を唱え始めた。
「エパラキサメ以下省略」
「省略早いわね」
「リーチイッパツツモ! ジュンチャンタンヤオォォォッ!」
ジュンチャンならタンヤオつかねぇじゃん、と突っ込んだのは誰の声であったか。
ともあれ。
再びタイムマシンは浮上して、時空の彼方へと消え去ったのであった。