1-12 サメくんのほんとの話
ハンサムの記憶はネズミを発見したあたりで途切れている。
猫を探して横道へ入ったら、若い男女が絡み合っていた。それで引き返そうとして――なにが起こったのかまったく分からない。
意識を取り戻したとき、最初に彼を襲ったのは混乱だった。
激痛がやって来たのは、もう少し後になってからである。
ただ寒く、鼓動に合わせて身体がだんだん小さくなっていくような感じがした。水の漏れ続ける水風船みたいに。
手足がぬめぬめと濡れていた。
指の股までドロドロしたもので真っ黒だ。身体が旨く動かせない。まるで泥の中でもがいているみたいだ。
口の中も泥まみれだった。吐き出してみて分かった。
これは血だ。
「……聞こえるか――言葉が……る事は知って――抵抗……ないなら、我々は――」
誰かが叫んでいるが、耳鳴りがひどくて聞こえない。あるいは鼓膜がどうにかなってしまったのか。
口と鼻に詰まった血を吐き出した。すると少しだけ聴覚が戻った。
「……隊長、危険です……!」
「大丈夫……背後は炎、だ。逃げ道はない――」
炎。
言われて初めて、背中に熱気を感じた。
爆竹のような音が響いている。
視界が霞んでいるのは、煙のためでもあるらしい。
爆発、という単語がようやくハンサムの頭に浮かんだ。自分は爆発に巻きこまれたのか。
「……俺は、どうなったんだ。ここは――」
ぼやけた視界のなかに半裸の男たちが見えた。
こちらへ向かって叫び続けているが理解できるまでには聞き取れない。
片手をこっちへ突きつけている。動物の本能でハンサムはその手へ、必死で焦点を合わせた。
銃だった。
二人ともがこちらへ銃を構えている。
「――俺が狙われているッ!」
弱っていた心臓が跳ね上がった。危機感が脳へむりやり血液を送った。
爆発と銃を持った集団。血まみれの自分。
事情の知らない彼が、S.H.B.Bを悪人だと考えても、それは仕方のないことだったろう。
彼は銃とは反対方向、すなわち火元である隘路の方へ走った。
泥のなかを進むみたいに身体は重い。
「隊長、逃……ます!」
「無……だ、動くな……!」
発砲音は水の中みたいに緩慢に聞こえた。
命中はしなかった。たぶん。ハンサムに確かめている余裕はない。倒れなかったのだから、まだ当たっていないのだろう。
「止まれッ!」
「『ドンパッチ』の建物へ逃げる気です!」
「いや違う――やめろ、焼け死ぬぞ!」
火元への逃走が功を奏していた。虚を突いたかたちにはなったのである。
計算してやったわけではなく、ただ怖い人たちから遠ざかろうとした結果である。ましてやティーンたちのことを案じる余裕はなかった。
熱がハンサムの皮膚を炙る。
背後で追っ手が叫んでいる。
「馬鹿者が! 撃つッ!」
ハンサムは肩越しに振り返った。
またもや美貌が彼に味方した。
傷ついた足取り。血をしたたらせながら火の中へ入っていくハンサム。
髪が熱風にたなびく。炎に輝く瞳から涙が一滴散った。
その悲壮美。
そのストーリー性が追っ手たちを捉えた。
「ハンッハンサム!」
「良いッ」
追撃が途切れた。
そのあいだに、ハンサムは燃えさかる路地へ飛びこんでいた。
火の中を這って進む。
「撃ってきた。なんなんだ、彼らは。なぜなんだ……俺を撃った。血……血が出ている……」
炙られた血がたちまち乾いていった。
その乾いた層を破って、新しい血が流れ出ていく。
手足を伝い、地面の塵と交じって泥だまりになる。
それも熱にあぶられて、すぐにタールのようになっていった。
「とにかく……遠くへ……逃げないと……」
必死に這い進むうち、手が何かぐにゃりとしたものを探り当てた。
前足をとられて、ハンサムはうつ伏せに突っ伏してしまう。
彼が躓いた何かは、若い男女の体だった。
あのティーンたちである。
いずれも動かない。この状況では生死確認の余裕はなかった。
担いで逃げるにも今のハンサムには重すぎる。
「……すまない、誰だか名前も知らないけれど、通らせてもらう……」
彼は二人を見ないようにして行こうとした。
そのとき、女の方がうめき声をたてた。
「生きている――無理だ……ホントに済まない……無理なんだ……どうにもできない。俺はほんとに何の力も持ってないんだ……頼る人もいない……」
二人を乗り越えて、数メートル這って行ったところで、また女が声を上げた。たすけて、と言ったように聞こえた。
「やめてくれ、あんたたちはお互いがいるじゃないか! 俺は一人なんだぞ。銃で撃たれた。なのに誰も助けに来てくれない。俺も誰に助けを求めたら良いか分からない。俺が誰でもないからだ――クソ……クソッ!」
のしかかる罪悪感に抵抗を試みたものの、とうとう彼は引き返して、二人を背負った。背負うというよりは、背中に乗せて亀のように進んだ。
自分の血と少女らの血、それと泥の混合物をハンサムは這いずりながら啜った。
「――死にたくない、このまま死にたくない……でも……クソッ! 今、この子の絶望を一番知ってるのは俺だ……自分の名前すら知らない俺が、誰よりこの子たちを理解している……こんなつながりしか存在しないなんて……畜生……」
罵倒で心を励ましながら、なんとか通路を抜けた。新鮮な空気の味で外だと分かった。
「ああッ!……ああッ!……出られたのか……俺はやったのか? おい……キミら大丈夫か?」
少女はまつ毛を震わせた。意識も戻ってきたらしい。目を開けてハンサムを見た。
少女の喉からほとばしったのは悲鳴だった。
「いやあああああああッ! 化け物!」
それはこれまでハンサムを見た誰とも違う恐怖の叫びだった。しかも彼を見たにもかかわらず、喰われていない。
「助けて、助けて誰か!」
「なんだ、爆発から逃げてきたのか?」
悲鳴を聞いて野次馬が集まってきた。
少女はハンサムを指さして助けを求める。
「あいつ、あいつ……」
「彼が何――うわああああ」
顔を見た野次馬たちも悲鳴をあげはじめた。
「こいつはッこいつは――」
「ちぎゃう、ちぎゃう」
俺が女の子に何かしてると思ったのか? 違う。
自分ではそう言ったつもりだった。が、口からは息がシューシュー漏れるばかりで、まともな言葉にならない。
自分がどんな顔をしているか、ハンサムは気づいていなかった。
口は三日月のように裂け、牙がのぞいている。サメの貌だった。
肉体がサメへ変化し始めている。
胴体にも口が無数に現れ、ガチガチ歯を鳴らした。
飢えている。サメの生存本能が優勢になっているのだ。
これは人間としての肉体が限界を迎えた事を示している。フェロモンをつくる生命力も尽きて、野次馬に対する魅了能力も失っていた。
ミートバーグの住人は、彼を新種のサメだと判断した。
「コイツ、喰おうとしたんだ!」
「ちぎゃう、ちぎゃう」
「威嚇したぞッ」
「こいつ!」
「ミートバーグを舐めるなよ!」
ここはビキニとサメの街、ミートバーグ。その市民たちもサメへの備えを怠ってはいない。
彼らは常日頃からビキニへぶちこんでいたマグナムを抜くと、腰だめにぶっ放した。
「サメがァアアアアッ!」
ハンサムからすれば、何が何だか分からない。
突如として市民たちが殺戮者に変わったのだ。
悪夢のような出来事だ。街のどこにも逃げ場はないという絶望が彼を襲った。
皆が自分を犯罪者に仕立て上げて殺そうとしている。彼からでは、そうとしか思えない。
「いやあああああああッ殺して! そいつ私と彼を食べようとしたわ!」
「やっぱりな!」
「正体を現したな!」
「サメがァアアアアッ!」
「誰かッ! 誰かーッ」
銃声と悲鳴でさらに人が集まってくる。
「どうした? なんだコイツ!」
「なんなんだ! 一体なにシャークなんだ」
「つまりは人を喰うってことだな!」
くどいようだが、ここはビキニとサメの街、ミートバーグ。
果物を売っていたビキニフルーツ屋も、手押し車にしがみつくビキニおばあちゃんも、ギターを背負ったビキニモヒカンパンクも、一斉にフルーツ爆弾を投げ、手押し車に仕込んだマシンガンを掃射し、モヒカンに隠したブーメランを投擲した。
「サメがァアアアアッ」
ハンサムの足下が爆ぜた。
精度は低いが、殺意を持った銃弾が降り注ぐ。
「なんで……なんでなんだ、この街は――!」
ハンサムは力を振り絞って跳んだ。路上駐車のトヨタの影へ飛びこんだ。
車には男が乗っていた。
「こいつ俺の車を喰おうとしてやがる!」
「違う……いいがかりだ……」
男は車を急発進させようとした。
車の盾がなくなれば蜂の巣にされてしまう。とっさにバンパーに掴まった。
ハンサムを引きずったまま運転手はトヨタを走らせる。
群衆が狙いを定める。
「おい撃てッ! 撃てッ!」
「オイッ! 俺が乗ってんだぞ! しかも新車だこいつは!」
「サメがァアアアアッ!」
弾丸のいくつかが脚の肉をえぐった。
タイヤにも当たった。
車が一回転し、ハンサムは十字路の真ん中に投げ出される。
「ああああッ――なんでッ! どこだ、どこなんだ」
ハンサムは這って逃げようとする。血の跡が黒々と残った。
「やったぞ!」
「みんな、俺が当てたんだ!」
「違うわ、私よ!」
「とにかくとどめは俺だー!」
「ついでに車も壊せー!」
彼を追って住人たちが集まってくる。
パトカーのサイレンも近くなってきた。
「どこだ……どこ……」
這いずりながらハンサムは「どこなんだ」「どこなんだ」と繰り返した。
すでにサメの身体を維持する力も尽きていた。
顔は戻ったが、血まみれで、それが何者とも分からない。
何より群衆は、サメのように血に酔っていた。
実は、群衆の中には流行のドラグをやったジャンキーが混じっていた。彼らの暴力的な振る舞いと、火薬の臭い、轟音、銃の重さ、狩りの興奮が、集団を狂気へ駆り立てていた。
とにかく、サメと名づけたものを殺す。手柄を立てたい。それだけが彼らの目的になっていた。
「サメ狩りやりまーす」
「カウントダウンしようぜ! 三、二,一……」
「誰か動画撮ってるゥー?」
「良く狙ってェーッ!」
「殺せッ」
「殺せッ」
「ディス・イズ・ミートバーグ!」
「ディス・イズ・ミートバーグ!」
「笑ってみろ化物ォーッ!」
「ざまあみろッ!」
「S.H.B.Bを呼べ!」
「それより誰かッ! チェーンソー持ってこい!」
そこまで聞いて、ついにハンサムは吠えた。
地面を殴りつけ、かきむしり、剥がれた爪を投げつけた。
「どこだなんだ――知らないところだ! この道も! あの路地も! あんたらがいる地面も、あんたらみんなが帰って行く家もぜんぶ! どこもかしこも俺の知らない場所だ! ぜんぶだ! どこにも俺の居場所はない、誰も俺を知らない。誰も俺の手を取ってくれない――」
血まみれの顔を大粒の涙がつたった。
嗚咽混じりの叫びは、ほとんど聞き分けられなかったけれど、思いがけない涙に、市民たちのあいだには白けた空気が流れた。
「――俺は! 俺はどこでなら生きていていいんだ!」
サメ人間の叫びがほとばしったとき、一つのエンジン音が応じた。
一台の車がうなりながら接近して来る。
住人たちが慌てて道を空けた。
S.H.B.Bの装甲車、ではない。消防やパトカーでもない。
それは場違いなほどビカビカに輝く、ピンク色をしたオープンカーだった。車両はサメ人間の目の前で、ちょっとふざけたようなターンを決めると、タイヤで円を描いた。運転していたのは海のような瞳をした少年だった。
「来いよハンサム」
そう言って手を伸ばしてきた。
後部座席には制服を着た日系の少女。少女も手を差し伸べた。
「来て、さあ!」
本当の話、朦朧としたサメ人間には、何が起こっているのか理解できなかった。
ただ、本当に夢見心地に、赤ん坊のような心で安堵した。
子供が家に帰るべきなのと同様に、この手を取るのが当然だと感じた。
だから手をのばした。
二人の手は温かかった。
少女がサメ人間を後部座席へ寝かせてくれた。
彼女は血まみれの顔にふれることをためらわなかった。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
優しい声が心に染みわたってくるのを感じながら、彼はミートバーグに来て初めて眠った。
ほんとは、と彼は言った。
言ったつもりだったけれど、それはもう夢の中へ入ってからの言葉だった。
ほんとは、ずっと寂しかったんだ。
ビカビカの車はミートバーグの太陽を跳ね返しながら、跳ぶように走って、サメ人間を運んでいく。




