捌 チビメイド、仕込みを始める。
「確か、悪魔と世界崩壊の関係性についてお話ししていたと存じますが」
場を仕切り直したエルヴェに向かい、皆が肯定の意を示す。
「先ほどお話しましたように、瘴気というものはある一定の濃度で魔物に変化し、生命に対して直接的な害を及ぼすようなものではなくなります。要は、エネルギー体から目視できる物体になるので、遭遇しない限りは被害が及ばなくなるわけです。ただ、魔物になると瘴気溜まりから抜け出すことが可能になるため、時折森の中や道中で鉢合わせることがあります。しかし、魔物は物体化、つまり現象として立ち現れているため、物理攻撃や魔法攻撃で撃退することができるのです。こうして討伐された魔物は魔石だけを残して後は霧散して消えるのですが、これ以上説明をすると先程の二の舞になりそうなので、割愛させていただきます」
研究者としての悪い癖です、と彼は失笑する。
「結論から申し上げますと、悪魔による生命への干渉は、強力な魔物を大量に生み出す原因にもなるのです。そうでなくとも生命は瘴気に耐えられないのに、獰猛な魔物によって死滅への道を加速され、遂には瘴気と魔物に満ち溢れた世界が残されてしまうということ。かくして、それまで何事も無く存在していた大地や山、海などが徐々に瘴気によって汚染されてゆき、生者のために創られた世界の秩序が崩壊していくのです」
ここまで説明された時、数藤が「ん?」と顔を顰める。
「生者のために創られた世界の秩序? つまり、世界崩壊といっても、世界そのものが崩壊するわけではないんですか」
「世界そのものの崩壊は、神の領域です。世界の中にいる者は、どう足掻いても世界そのものを無に帰すことは不可能でしょう」
「と、すると、生者のための世界が崩れると、今度は別の者――例えば亡者のための世界に変貌してしまう、という理解でよろしいでしょうか?」
相変わらず、梅野は頭の回転が速い。エルヴェはまるで教育者のような面立ちで深く頷いており、「はい、そうなのです」と答えた。
「これは過去に何度か行われた神託から継ぎ接ぎで得られた情報にはなるのですが、崩壊した世界は奈落に堕ちるとされています。そこには最早生者のための領域は無く、築かれてきた育みも文明も、その全てが無かったものとして扱われてしまうようなのです」
「だから、この国の人たちは世界を救って欲しいと言っていたんですね……」
思っていた以上に重たい話を聞かされ、クラス代表一同は複雑な感情に苛まれる。世界崩壊を食い止めるには悪魔という原因を叩けばいいことは分かっていても、その悪魔自体の強さが分からない以上、失敗してしまう可能性もあったからである。もしも失敗すれば、などという仮定を考えてしまうと、未だ青い彼らの心は押し潰されていった。
その中で、唯一ルアだけが別のことを考えていた。すなわち、如何様にして召喚されてしまった半数のクラスメイトを無事に帰すかという点である。というのも、散々この世界の成り立ちなり行く末なりを聞かされてきた彼なのだが、結局は悪魔が倒される未来は決定しているからである。何ゆえ決定しているのかといえば、答えは紅塚家が関わっているからの一択しかない。故に、ルアにとっては悪魔を倒すまでの過程が重要になってくるのである。
そういうわけで、誰一人欠けることなく悪魔の討伐を進めるには、悪魔そのものの強さを推し量っておく必要があった。ここでは都合の良いことに、アングラード王国の王女が今まさに悪魔関連で危機的状況に迫られているとのこと。つまり、周囲になんと言われようとも、この状況を利用しない事には事態把握の機会をみすみす失ってしまうことになるのだ。
そう考えたルアは、この場である提案を切り出した。
「世界を救って欲しいという理由は分かったが、今の段階でそれを皆に伝えたところでプレッシャーになるだけだ。なら、段階を追って徐々に覚悟を決めていくしかない」
例えば王女の件とか、とルアが呟けば、名案だと言わんばかりに柄谷が表情を明るくした。
「そう、そうだよ、月城君。いきなり大きく抱え込もうとするから大変なんだ。まずは、目の前の問題から取り組んでいくこと。それが、今の僕らにとって大事なんだ」
「確かに、言われてみれば私もそう思う。まずは、危険な状態に晒されている王女様を助けないと」
委員長、こと梅野からの同意も得られる。一方、ルアの友人三人も意見が固まったらしく、彼ら、特に木滝が希望を湛えた瞳でルアを見遣っていた。
六人の意見が揃ったところで、ルアはエルヴェを見据える。すると、彼は感極まったように目尻に涙を浮かばせていた。
「あぁ、あぁ、勇敢なる異世界人の皆様よ。あなた方は、真なる勇者様であらせられる」
唐突な態度の変容に、ルアは怪訝に顔を歪める。この状況に困惑した彼は皆の方をちらりと確認するも、彼らもまた、良い雰囲気を醸し出していたためにルアは押し黙った。
「何卒、何卒、宜しくお願いいたします……っ」
エルヴェがルアの両手を掴み、拝むように額に付ける。ここまで純粋に感謝されると、ルアはつい先程まで王女の件を利用しようなどと考えていた自分にバツの悪さを覚えた。
*
日が沈み、夕食を取った後、ルアは部屋に引き籠って美慧と連絡を取り合っていた。
『取り敢えず、手法としては団結の方向でやって行こうと思う。元からクラスの仲は良い方だし、皆の不安を取り除いていけばそれなりにうまく立ち回れそうだ』
『そうか。引き続きよろしく頼む。それで、こちらからも一部の悪魔がアストラを占領した経緯についての連絡がある。調べたところ、何者かが手引きをしていたようだ。恐らく、お前たちを巻き込んだ者と同一の者か、或いはその関係者辺りの仕業だと睨んでいる』
『いつの間にそんなこと調べてたんだよ。忙しかったんじゃないのか』
『奇怪なことを言う。体を動かす範囲には限界があるが、情報収集ならば幾らでもやりようがある。特に、今回の場合は自分の欲を優先させたあの眼鏡女を徹底的に扱き使ったから、それなりに有力な情報は得られている』
『いや、お前こそ何やらかしてんだよ。ってか、分かってんのは悪魔を手引きした奴がいるっていう自明な所までだろ。確か悪魔の住む魔界ってのは知的生命体がいる世界と繋がってはいるが、一定の条件を満たさないと回廊が開かない特殊な仕様になってるんじゃなかったか? そこから考えりゃあ、手引きした奴がいるなんて調べるまでもない』
『勿論だ。魔界は他の世界と比べると、特異な経由で成り立っている世界だからな。魔界が知的生命体の存在する世界と繋がっているのは、知的生命体の存在する世界側が排除しなければならない要素、ここでは過ぎた欲望を魔界に送り込んでいるからだ。要は、下水処理場に向けて下水道が流れているようなものだな。一方で、欲望という感情が各世界から流れ込んでくる魔界側では、溜まりに溜まった醜い感情の塊で欲望の権化とも言える悪魔が生み出される。ここで生成された悪魔は、決して自ら魔界を脱出することは叶わない。それというのも、下水道の流れが一方通行だからだ。だが、各世界と回廊が繋がっていることは確かである故、悪魔はその流れを逆行できる機会が訪れた時のみ、各世界に出現することができるという寸法だ』
『その話は前にも聞いた。後、欲望の塊と思念体は別物だってこともな。美慧らが対処しているバグがオカルト由来の思念体で、魔界が処理しているバグが知的生命体特有の欲望だから、担ってる役割が違うんだ、ってなことを言ってただろ』
『なんだ、一応頭には入っていたのか。あの時聞いていないように見えたから、てっきり聞き流しているものとばかり思っていたんだが』
『お前の説明、くどいんだよ。丁寧だし分かりやすいが、長い。もっと端的に話してくれ』
『今日は自棄に素直に申し出て来るな。さては、脱線し行く話を苦手な敬語の羅列で聞かされ続けて参っているな?』
『お前それ、絶対様子見てただろ』
『単なる推測に過ぎない。だが、当たっていたようだな』
『時々お前の思考回路が怖くなる。……それで、結局有力な情報ってのは何なんだよ』
『手引きされてきた悪魔についてだ。お前もそれなりに記憶力はあるようだから覚えているかもしれないが、悪魔が回廊と繋がった先の世界に出現できるのは、そちら側からコンタクトがあった時のみ。よくあるのは、悪魔を呼び出す召喚術とかそういったものだな。方法は様々だが、いずれも回廊の流れを一時的に逆行させる効果がある。かくして呼び出された悪魔は、大抵契約期間を終えると魔界に戻されるわけなんだが、それも単に、知的生命体との契約時において契約者側が付け足した安全装置であるに過ぎない』
『要は、魔界に戻ることなくそこに留まり続けることも、理論的には可能だってことだな』
『そうだ。ただ、悪魔にとって呼び出された世界はいわば旅行先に過ぎず、通常はある程度満足すれば帰巣本能によって勝手に帰って行く。加えて、あまりにも度が過ぎた行為をすれば、勝手に天界からの制裁が入る。つまり、知的生命体側が契約時に安全装置を設けるのは、天使が対処しに来るまでに、悪魔が契約者の元を離れて世界を好き勝手に壊す危険性を十分に考慮した、生活の知恵のようなものだということだ。実際、安全装置をつけ忘れていたとか、運悪く強力な悪魔を召喚してしまったとかで、悪魔を契約で縛り切れずに世界が破滅しかけた、或いは破滅してしまった、などという事例は幾つもある』
『なるほどな。じゃあ、アストラに悪魔が居座り続けている事態は、異常だってわけだ』
『そこが今回の調査で判明した内容の核心だ。アストラに居座っている悪魔は、決して現地の知的生命体に呼び出された悪魔ではない。何者かの手引きによって、魔界から逃げ込んできた連中なんだ』
ルアはそこで一旦返信の手を止め、送られてきた字面を睨みつけた。
『そんなことがあり得るのか?』
半ば放心しながら文字を打ち込み、送信する。すると、即座に美慧からの返信が来る。
『珍しいというだけで、有り得ない事態ではない。欲望純度百パーセントの悪魔でさえ、実に人間らしい徳の感情が芽生えることはあり得るわけだからな』
少しばかり話の内容が転換してきていることに気付いたルアは、眉間に深く皺を寄せた。
『アストラにやってきた悪魔は、何かしらの者に絆されているのか?』
『少なくとも、奴らがアストラに「逃げ込んで」いるという点がミソだ。欲望のままに生きる悪魔が、恐怖を覚えること。確かに、悪魔であっても強者に対し怖れを抱くことはあるだろうが、魔界というのは弱肉強食が掟の世界だ。何と言っても、純度百パーセントの欲望で出来た奴らのことだからな。食うか食われるかなんぞ日常茶飯事だ。故に、逃げ出すよりも歯向かって力を得る可能性の方を優先する悪魔にとっては、そもそも逃亡すること自体が選択肢にない。そのような中、ある種魔界の中で発生したバグとも言える人情味のある悪魔が、仲間の死を恐れてアストラに逃亡してきたのが事の顛末だという話だ』
これを読んだルアは、過去の自分と重なる部分を見出していた。同時に、仲間のために魔界から逃げてくるという選択肢を取る程の情を理解した悪魔が、何故逃亡先の世界を崩壊の危機に陥れようとしているのかが分からなかった。
その旨を美慧に問い尋ねようとした時、部屋の扉からノック音が鳴り響いた。就寝前の来訪者に若干の警戒心を抱きつつ、ルアは『少し用ができたから暫く連絡できない』と美慧に軽く一報を入れる。それから端末をポケットに仕舞い込み、ベッドから立ち上がった。
暗い部屋の中、良く見える視力を頼りに一直線に扉の元へと向かう。そしてゆっくりとドアノブに手を掛け、軋んだ音を立てさせながら扉を開いた。
くどいと言われても尚長々とした説明をするのは、彼がルアの上司だからなのだろうか?