[15]ミッション③コンプリート?
エンデ伯爵は穏やかな雰囲気を消し去り、男爵家の男をキッと睨んでいた。
「な、んだよ」
男は狼狽えながらも、私の手を離さない。むしろ強く握られ、手首が痛んだ。
「嫌がる淑女を無理やり手籠にしようとは、貴族の風上にもおけんやつだ」
「なっ。なんだと、おっさん」
おっさんって………誰に向かって言ってるの。
貴方の首、これで飛んだわね。物理的に。
「さ、行こう。フィオリアさん」
エンデ伯爵は、男には取り合わず、私の背に手を添える。だけど私は動けない。男がどうしても手を離してくれないから。
それでも振りほどこうとすると、男が悪態をついた。
「ったく、お高く止まりやがって。王子に使い捨てられたお前のような傷物を、わざわざ相手にしてやったというのに」
ピシッと、張り詰めた音が聞こえるように、場の空気が凍った。
使い捨て、との表現は、すでに私が王子と体の関係があったにも関わらず捨てられた、と言っているようなものだ。
私だけでなく、婚姻前の性交渉を禁ずる王家をも侮辱した発言だ。
だけど、傷物、というのは当たっている。王子から婚約破棄された私は、その価値を大きく傷つけられた。今後、良縁は絶対に望めない。
とっくにわかっていたことだから、言われても特に気にならなかった。
けれど、エンデ伯爵は違ったようだ。
おっさん、と自身を馬鹿にされても淡々としていた彼は今、真っ赤な顔で男爵家の男に掴みかかった。
様子を見ていたのだろう、至るところで悲鳴が上がる。
だめ、止めなきゃ!『やめて』と叫ぼうとした、まさにその瞬間だった。
「ちっ、勝手にしやがれ!」
男の手が離れたと思うと、そのまま私は突き飛ばされた。「あっ」とエンデ伯爵の叫び声を聞いた気がする。
靴が滑り、体が後ろ向きに倒れていく。後ろにはシャンパンタワー。グラスが天高く並べられている。妙にゆっくりと流れる時間の中、グラスに突っ込み、割れた破片で血だらけになる自分と、びしょ濡れのドレスと髪を想像する。切りどころが悪ければ、死ぬかもしれないわね。でなくても、名実ともに私は"傷物"になるわけだ。そうなればアレクどころか、もう二度と、誰からも愛されなくなるでしょう。
ああ、なんてひどい結末。これもすべて、死神のせいよ。
ガシャン、とグラスの割れる大きな音。
そして───
背中に感じる温もり。
後ろを振り向く。泣き顔と笑い顔、半分ずつの珍妙なお面。死神だった。
───助けに、来てくれた。
床にはいくつかのガラス片。シャンパンタワーは片側の少しだけが崩れたのみだった。
「大丈夫か?」
問われ、泣きそうになる。死神のせいでこんなひどい目にあったというのに。彼の声が、温もりが、何より私に安心感を与えてくれた。
死神の胸に顔をうずめ、ジャケットを握る。
手が震えていた。助けに来てくれるのが遅いのよ。
死神にそっと、背を撫でられる。
見れば、男爵家の男は呆然と立ちすくんでいた。こんな大事になるとは思わなかったのだろう。悲鳴に罵倒、周囲は男に非難の視線を浴びせる。死神が来てくれなかったら、もっと酷いことになっていただろうけど。
「使い捨てに、傷物だと?」
私の背を撫でる優しい手付きとは裏腹に、低く唸るような、恐ろしい声が死神から漏れた。頭上で響く死神の声に、鳥肌が立つ。──激しい、憎悪。お面は、立ちすくむ男に向いている。
「言ったのはその口か?」
ひっと、男が#後退__あとずさ__#る。
「冗談じゃない。こいつはな、王子に捨てられたくらいで傷の付く女じゃねぇんだよ!」
その怒声に、男はとうとう腰を抜かした。
あわあわと口を震わせたかと思うと、そのまま白目を向いて失神した。そして、ズボンに染みが広がり……慌てて目を背ける。
死神が怒るところを初めて見た。
打っても響かない、いつも飄々としたこの男が、私のために怒ってくれている。
嬉しい──と、思ってしまった。彼の上着を握る手に、力がこもる。
と、頭上からポタポタと雫が落ちてくるのに気づいた。ドレスに落ちた雫は、茶色いシミを広げる。
雫は、死神の髪から落ちていた。
大変、グラスが頭に落ちたんだわ……!
「ビクター!」
初めて、呼びかけた。死神のお面がはっとし、こちらを向く。
「頭にグラスが落ちたのでしょう? どうしよう、怪我はない?」
焦って髪に触れようとすると、死神はバッと私から離れた。彼が自身の髪に手を沈め、確認した手の平は、茶色く汚れていた。
血……?──違う。そんな感じじゃない。
「ビクター、貴方髪が……」
濡れた毛先が、黒く変色していた。
──ううん、こちらが本当の色? 茶色は、もしかして、染料?
私が次の言葉を発する前に、死神はツカツカと、エンデ伯爵に大股で歩み寄った。
「エンデ伯爵、すまないが、帰りは彼女を馬車で自宅まで送り届けていただけないだろうか」
「え、ええ。それはもちろん、いいですよ」
「ありがとう。急用を思い出してしまった。私はこれで失礼する」
そう言うと、死神は声をかける間もなく会場を出ていってしまった。
あっという間の出来事だった。
遅れて、周囲の喧騒が戻る。
………
え……
ちょっと……!
私は置いてきぼり……!?