第五話:医療ミスの老患者
霜月の霞に蒼穹が弾けて吐息が歪む。
東京湾の揺らめく波頭を舐めて吹き抜ける潮風が、海岸通りを急ぐ人たちの肌を刺して身繕いをこじらせる。イチョウ並木の路上には、朝露をまとった銀杏の実が、木漏れ日に映えて異臭を放つ。
極楽安楽病院の外塀を巡る桜木は、朽ちかけの黒紅を梢に残して晩秋を留める。病院のロビーは季節の移ろいに関係なく、鬱陶しくて喧噪で無彩色であることに変わりない。
深夜勤務から日勤への申し送りが終わると、看護師たちはナースステーションを出て忙しそうに動き回る。
交代を終えた日勤の桜川麗子は、朝の巡回の為に体温計と血圧計をたずさえて病室を一巡し、最後に九号室の扉を開いた。
「みなさん、おはようございまーす」
台車を横に寄せた麗子は朝の挨拶もそこそこに、ステテコ腹巻姿で寝そべる鉄仮面虎蔵を睨み付けて一喝した。
「鉄仮面さん!」
語気荒く咎めるような眼差しで名指された鉄仮面は、思い当たる悪事のいくつかが脳裏をかすめて一瞬のたじろぎを見せるが、師長の藤巻ならともかく看護師の麗子が相手なら、しらを切り通してとぼけしまえば軽くあしらえるだろうと高を括った。
「何だよ、朝っぱらからきつい顔して。何もしてねえぞ俺は」
とぼける鉄仮面に麗子は口をとがらせる。
「なに言ってるんですか、カップ麺の食べ残しを窓から容器ごと投げ捨てるのはやめて下さい。下の部屋の患者さんが大騒ぎしてたって申し送りがありましたよ、空から生首が降って来たって」
「昨日は土砂降りの雨だったからなあ」
「雨が降ってるからって窓から捨てないでしょうよ、正常な人は。それだけじゃありません、勝手に厨房に入って料理を作らないで下さい。しめじの代わりに真っ赤な毒キノコが入ってるって、栄養士の先生が大騒ぎしてたそうじゃありませんか。どこから採ってきたんですか入院中に」
「毒には毒を持って制するって漢方の先生が言ってたぜ。人助けにやった事じゃねえか」
反省の欠片も見せない鉄仮面に、麗子が切れて怒りをぶつける。
「病気のどこが毒ですか。漢方に毒キノコなんか使わないでしょうよ。この前は研究室の実験用モルモットを盗んで串焼きにして食べて、胃痙攣と腸閉塞で九号室の全員が死ぬところだったのを忘れたんですか」
「お前、そう古い話を持ち出して小姑みたいにネチネチ言うもんじゃねえよ」
「古い話じゃありません。先週のことです」
言われるまでもなくしっかり脳裏に焼き付いている。焼き方が足りなかったのか善右衛門がゼイゼイ喉を鳴らし始めて口から泡を吹き上げた。健太郎と朝比奈がトイレに駆け込み、羅生門親分が頬を歪めて悶絶していた。
鉄仮面もまた激烈な胃痛に耐えられずに気絶してしまい、目を覚ますとなぜかストレッチャーに乗せられ縛られていた。横目で様子を窺って事態を察して身震いをした。
そこには師長の藤崎がいて、研究室の医師に頭を下げて頼み込んでいる声が聞こえた。
「モルモットの代わりに是非とも実験台に使ってください。臓器の一つや二つ無くなったくらいで死ぬような身体じゃありませんから。日本の医学の進歩の為に、ネズミより多少は役に立つでしょう」
脂汗が額から滲んでストレッチャーの枕を濡らし、生まれて初めて恐怖を覚えた。その件を麗子は咎めているのだ。
「覚えてるよ。一匹は食わずに返してやったじゃねえか」
「モルモットの代わりにドブネズミを返さないで下さい。冗談はやめて下さいよ。夜中に病棟をうろうろ徘徊して騒ぎを起こすのは金輪際やめて下さい。この前は院長の顔写真を貼り付けた藁人形を作って、外来のロビーの柱に五寸釘で額を打ちつけて、それを見た外来の患者が腰を抜かして入院したそうじゃありませんか」
「あれは俺じゃねえよ。小児科のガキに教えたら勝手にやったことじゃねえか」
「なんで教えるんですか、わざわざ小児科まで行って。夜中に子供がロビーの柱に藁人形を打ち付けたと聞いた親が発狂して、院長に始末書を書かせたって話を忘れてないでしょうね。師長さんが院長に呼び出されて厳重注意を受けて、そのあと尻から胃カメラ突っ込まれて悲鳴を上げたのは誰でしたっけねえ。いい加減にして下さいよ、ここは精神科病棟じゃないんですから。師長が本気で言ってましたよ、九号室のドアを鉄格子にして二重ロックにしようかって」
<医療ミス>
内科病棟の患者は入院の期間が長いので、暇で退屈な時間を持て余してしまう。
末期のガンに侵されて生きることを諦めた老人でさえも、拘束された閉塞感に耐えられなくて身悶える。ましてや常人よりも血中濃度が異常に濃くて、日々を天真爛漫に生きている鉄仮面虎蔵にとって、朝から晩までベッドの上で無為に過ごすことは死よりも辛い。
持病の慢性胃潰瘍の原因は、ニコチンタールとアルコールが原因で、おとなしく眠っていたピロリ菌が怒り狂って暴れ出したからであって、精神的なストレスでは絶対にないと医者が断言していた。そもそも繊細な情緒や神経など微塵も持たず、悪意も分別もなく院内をうろつき回って事件を起こすから始末に負えないのだ。
「そんな事よりなあ麗子、最近この病院で医療ミスがあったそうじゃないか。どんなミスだ」
しらっと話題を変えて鉄仮面が問いかける。
「知りません」
「知りませんじゃないよ。噂はそこら中に流れてるんだ。洗いざらい話してみなよ、悪いようにはしないから」
「何ですか悪いようにって。何をするつもりですか」
「お医者さまと俺たちは身内だぜ。同じ屋根の下で生活しているんだ。俺たちだって責任を感じるじゃねえか。そうだろう? 外科で盲腸の代わりに肝臓を切り落としたか。それとも産婦人科で赤ん坊を取り違えたか。間違った噂が広まるとマズいから、包み隠さず話してみろよ、医療ミスの詳細を」
「ミスじゃありません。事故ですから」
「同じようなもんじゃねえか。まあいいや、それで、どんな事故だ」
麗子は右手に持っていた体温計を鉄仮面の鼻面にかしげて口をとがらせる。
「絶対に秘密ですよ。他の部屋の患者さんたちに噂が広まったら、私が師長さんに叱られるんですから」
「皆まで言うな。俺たちはみんな人一倍口が堅いんだ。サザエの蓋よりもスッポンの歯よりも堅い」
今朝がた第二内科病棟に入院して来た患者について、申し送りの内容を麗子は小声で話し始めた。
「二十二号室に入院された患者さんです」
「おう、個室だな。どんな病気で、どんなミスをしたんだ」
「一年前に、心臓が痒くて胸騒ぎがするからって内科の外来を受診されたそうです。レントゲンを撮られたその時に、左心房にできた小さなガン細胞を医者が見落としてしまったんです。結局、胸騒ぎの健忘症だと診断されて、痒み止めと青汁を処方されたんだそうです」
「ほう、青汁をねえ」
「それから一年後の先週のこと、心臓が止まってひきつけを起こしたところを救急車で運ばれて検査したところ、巨大に成長したガン細胞が発見されたんですよ。慌てて手術室に運ばれて左心房をまるごと削除した結果、一命をとりとめたものの血圧も脳波も無くなって、もはや手遅れと宣告されて絶望した患者さんはショックを受けて失神したはずみに記憶を失い、目覚めた時には認知症の症状が出て、取り敢えず第二内科病棟の二十二号室に移されたんです。名前は紅鮭熊五郎さん、八十二歳です」
「おう、心臓を切り取られて記憶喪失に認知症とは何とも気の毒な。おい、天竺和尚、神と仏の力で熊五郎じいさんを何とかしてやれんだろうか」
「はあ、葬式ならば房総の山頂にて火葬を済ませ、我が金閣寺の本殿にて……」
「やかましい、勝手に殺してどうするんだ。八十二歳といえば、俺たちより二倍の人生を歩んでいるんだ。花も嵐も踏み越え踏み荒らし、忘れがたき青春の思い出が山ほどあるはずだ。生きてるうちに、せめて痴呆が進む前に記憶を取り戻してやり、共に人生を語り合って慰みにしてやりたいもんじゃねえか。それが医療ミスを犯した俺たちの責任の償いというもんじゃねえかい、ねえ、親分さん」
怪訝な顔つきで羅生門親分は首をかしげる。親分がミスを犯せば子分が命を張って償いをする。これがスジを通した極道の生きる道ではあるが、医者と患者の関係がいまいちスッキリできない。
「俺たちが医療ミスを犯したってことか?」
親分の素朴な疑問に、鉄仮面が胸を張って屁理屈を飛ばす。
「同じ屋根の下で息をして、同じ釜の飯を食ってる医者と患者の仲じゃありませんか。医者の罪は患者も同罪、俺たちが尻拭いをして罰を受けてやらなきゃなりますまい」
「同じ釜の飯を食ってるとは思えんが、何となくスジは通っているような気がするぜ。よっしゃ、このワルサーP38で脳天を打ち抜けば、たちどころに記憶が蘇るだろうぜ」
枕の下から拳銃を取り出して立ち上がる羅生門親分を牽制して麗子が両手を広げる。
「やめて下さいよ、バカなことは。どこのスジが通ってるんですか。まるで通ってないでしょうが。これは病院の問題なんですから、余計なことをして騒動を起こさないで下さいよ。鉄仮面さん、洗面器を持ってどこへ行くつもりですか、それは灰皿じゃありませんから。こら、健太郎、体温計でチャンバラすんじゃないよ」
部屋を出ようとした鉄仮面が立ち止まり、ふと思いついたようにベッドに戻ってくわえタバコを洗面器に押しつぶした。
「そういえば麗子、また看護学生たちの実習が始まるそうじゃねえか」
危険な予感を察した麗子は、眉根を寄せて言葉が強張る。
「それがどうしたんですか?」
「どうしたって言い草はないだろう。俺たちだって責任があるじゃねえか。わざわざ実習に来るんだろう? だったら現場の患者が身体を張って看護の基礎をしっかり教えてやらなくちゃ、一人前の仕事を覚えて学校に戻れないだろうよ。俺たちにまかせとけ」
「まかせてどうするんですか。責任なんか感じなくていいですから、余計な事をしないで下さい。いつも後始末が大変なんですから」
「余計な事なんかした覚えはないぞ。現場の基本を教えてやっただけだ」
前回の騒動の数々を鮮烈に蘇らせた麗子の口から怒りの言葉がほとばしり出る。
「現場の基本って何ですか。病院の車イスを分解して売り飛ばす手口が現場の基本ですか。二度と学生たちに教えないで下さいよ。毒キノコとゴキブリを粉末にして、新薬を開発したからと言って学生たちに試さないで下さいよ。看護服を着たまま立ちションの仕方を教えて、看護学生の寮が手に負えなくなったって、教官の先生方が院長室に怒鳴り込んで来た事を忘れてないでしょうね。学生たちの風紀が乱れるどころか、人間が人間でなくなってしまいますから。お願いしますよ本当にもう……」
麗子の剣幕をサラリとかわして唇をすぼめた鉄仮面は、肩をすくめて温和な口調で語りかける。
「なあ麗子、お前もお嫁に行ったんだから心を広く持って、もっと大人にならなきゃいけないよ。病院にはタチの悪い入院患者がたくさんいるんだから、対応の方法をきっちり教えといてやらなきゃまずいだろう。きちんと道理をわきまえた患者の俺たちが」
麗子の堪忍袋がひび割れて膿が吹き出す。
「病院の廊下で打ち上げ花火をやらかす患者のどこが道理をわきまえているんですか。タチの悪い患者って誰ですか。病室で禁煙のタバコを吸いまくって、雨の日に窓からおしっこをして、モルモットを串焼きにして食べる患者さんはタチが悪くないんですか。それだけじゃありませんよ、ガンの特効薬だと言って九十歳の患者に…………」
鉄仮面は頭から布団をかぶり狸寝入りに背を向けて、高いびきをかいて麗子の苦言をさえぎった。
<紅鮭熊五郎>
手術を終えた紅鮭熊五郎が、娘夫婦に付き添われて外科病棟から第二内科病棟の二十二号個室へと移されてきたのは午後の三時を回っていた。
八十二歳とはいえ足腰は丈夫で気力もみなぎっていたのだが、心臓ガンの宣告と手術のショックを引きずり気分は朦朧として落ち込んでいた。
手術中に三途の川の船頭が笑顔で手招きしている夢を見たが、目覚めたらそれ以外の記憶をことごとく失っていた。
渦巻く記憶の波間を駆け巡るのは、確かな過去の出来事ではなく白濁の妄想でしかない。思い出そうともがけばもがくほど、網膜がもやもやと揺れてイライラがつのる。
娘夫婦の判別も曖昧だし、自分が何者だったのかも分からない。どこかで生まれて今日まで生きて来たはずなのに、その軌跡をたどれないから苦渋が重い。健忘症だの認知症だのと医者に決めつけられたがその自覚はまるでない。その証拠に記憶はないが思考はできる。ただ少しだけ、認識と常識と思い込みが錯乱して混濁して倒錯しているだけに過ぎない。
「おとうさん、何も思い出せないの?」
娘が問いかける。
「お前の顔は分かる」
「お母さんのことは思い出せるの?」
「お前がお母さんで、隣りにいるのがお父さんだろう」
娘夫婦は言葉を失って顔を見合わせた。そして小声でささやき合った。
「しばらくは放っておくしかないな」
「そうね、一人になれば落ち着いて、そのうち記憶を取り戻すかもしれないから、それまでは看護師さんにお任せしましよう」
車イスに乗った朝比奈誠は、九号室の前の廊下をフラフラと行き来しながら二十二号個室の様子をうかがっていた。
九号室の中では窓越しの暖かい陽射しを受けて、羅生門親分が熱燗のお猪口を傾けている。
羅生門の向かいでは、鳥兜善右衛門がゼイゼイと喘息の喘ぎの合間に養命酒のボトルを口飲みしている。
はす向かいのベッドでは、鉄仮面虎蔵が足裏を持ち上げて魚の目を体温計でほじくっている。九号室には間仕切りのカーテンが無いので各々の動きが丸見えである。
突然に静寂を破って天竺乱漫丸の読経が始まった。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナムハンニャーハーラーミーター……」
「やかましいぞ、こら。病院でお経なんか唱えやがって縁起でもねえ」
鉄仮面が魚の目の皮脂を飛ばして怒鳴りつける。
「お経唱えたきゃ霊安室へ行ってやれ。俺たちゃまだ生きてるんだぞ。坊主だったらなあ、生きてる人間に有り難い仏法でも聞かせてみろよ」
智拳印に両手の指を結んで読経していた天竺和尚は、両の目を見開いてゆっくりと鼻から息を吐きだした。
「されば、そこはかとなく浅ましきも虚しき人間の煩悩について、神より承りし仏の御心について諭して聞かせましょう」
「仏が神から煩悩を承ったのか」
「煩悩は己じゃ。愚かなるしもべよ、聞きたもれ、コホン」
病棟に入院している患者同士はみんな行きずりだから、お互いを深く詮索することもなく適当に馴れ合いすれ違う。だから天竺乱漫丸がそれなりの修行を積んだ偉い和尚なのか、それともまやかしの生臭坊主なのかなんて誰も気にしない。
おもねる事もはばかる事もないから、互いに忌憚なく向き合い無事に過ごせる。鉄仮面も、九号室のみんなもそうだ。だから天竺和尚も説法の相手を拒みもしないし詮索もしない。
「コホッ、欲の衣に上限はなく、不幸と憂う泥沼に下限はない。夢が叶えばまた欲の上塗りをする。不幸を嘆いてどん底だと油断すれば更なる泥沼に突き落とされる。百万円の家を建てれば次に一億円の家が欲しくなる。経営の破綻が地獄の底だと嘆いていたら次に心臓をガンに侵されて短い余命を宣告される。恨みや妬みが愚痴になって絶望を知る。それが煩悩の基本ですから。煩悩を捨て去ることこそが悟りの道なれども叶わぬがゆえに、人間は中途半端でいかさまな心が一番よく似合うのでありましょう、コホン」
印を解いて咳払いをする天竺和尚に鉄仮面が毒づく。
「いかさまな心はお前じゃないのか。ペテンというか」
鉄仮面の悪態に心が折れるような天竺和尚ではない。厳しい修行を積んだ暁というよりも、単純に不屈な鉄面皮の厚さに過ぎなかった。
「かつてチベットの高峰で修業に邁進しておりました折、欲望と苦悶の心を禊によって祓え給いて、宝くじや賄賂などを当てにせずまた、競輪競馬競艇の賭け事による浅ましき欲心を捨て去る事こそが天下泰平の幸福への悟りだとダライ・ラマ先輩がおっしゃいました」
鉄仮面が鼻先でヤジる。
「どこの先輩だよ。あんたねえ、競輪競馬なんて今どきの小学生だってやってるぜ。欲とか不幸とか煩悩とか、耳にタコができるほど聞かされてわきまえてるぜ。にわか作りのバカ話をほざいて悦に入ってるんじゃねえよ」
「そう言いますけどね、あなた……」
天竺和尚がベッドから膝を乗り出した時、車イスの朝比奈が慌てた様子で入口から飛び込んできた。
「二十二号室から付き添いの人たちが出て行きましたよ」
待ちかねていた鉄仮面が、あぐらを崩して采を振る。
「おう健坊、打ち合わせ通り斥候に行って患者の様子を探ってきてくれるかい」
「うん」
ゆらりと半身を転がしてベッドから降りた健太郎は、スリッパをスタスタ鳴らして病室を出た。
<偵察>
夕食にはまだ早い頃合いで、エレベーターから見舞いの人たちが廊下に吐き出されては病室に消える。いつも変わらぬ殺風景な風情ではあるが、人の動きや表情は其々に複雑で、冷たくもあり温もりもある。
中学生の健太郎にとって入院生活は、医者や看護師や個性あふれる患者たちとの出会いをもたらす異世界として、社会に巣立つための起点になっていたのかもしれない。
健太郎は二十二号室のドアをそっと開いて中を覗いた。眠っているのか目覚めているのか、老患者はベッドの上で上向いたままピクリとも動かない。
「健太郎、何してるの?」
びくりとして振り返ると、看護師の桜川麗子が咎めるように睨み付けている。
「おじいさんのお見舞いに落花生を持って来たんだよ」
「それは殊勝な心掛けだこと。何をたくらんでるのか知らないけど、血圧を測るからどいてちょうだい」
健太郎を後ろに退けた麗子は思い切りドアを開き、血圧計を乗せた台車を押して中に入った。
「紅鮭さん、ご気分はいかがですか? 血圧を測らせていただきますよ」
老患者は表情を変えずに黒目だけを動かす。血色の無い唇から意外にもかくしゃくとした声が発せられた。
「あんたは誰じゃ。地獄の閻魔の鬼嫁か。さてはワシの魂を奪いに来たのか」
「鬼嫁じゃないよ、ナイチンゲールだよ」
そばから健太郎が顔を出して覗き込む。
「おじいちゃん、ここは病院だよ」
おじいちゃんと呼ばれて老患者は反駁の目をむく。
「おじいちゃんとは誰のことだ? なぜ病院にいる? そうか、ワシは生まれ変わって変身したのか」
「生まれ変わっちゃいないと思うけど。何か思い出せる記憶でもあるのかい?」
白濁していた老患者の眼色が精気を帯びる。麗子は構わず老患者の腕を取り上げて血圧の測定を始める。
「そうじゃ、思い出したぞ。昔ワシがスッポンじゃった頃のこと」
「スッポンだったのかい、じいちゃんは?」
老人の黒目が殺気立ってボルテージが上がる。天井を見つめる視線が何かを捕らえているかのように静止すると、口元が緩んでしみじみと語り始める。
「池の畔を歩いていた亀が、ワシの顔をしげしげと見つめたあげくに嘲るように抜かしやがった。お前は何と陰険な顔つきをしているのだろうかと。下顎が突き出て凶悪そうで不細工な鼻をしていると。ワシは悔しくて言い返してやった。ウサギにコケにされたドジ亀が何を抜かすかと」
「へえ、それで亀はどうしたの?」
老人の表情は強張ったまま、健太郎の問いかけに誘われて語り続ける。
「隣りの池でカエルが激怒していたぞと亀が言いやがる」
「ふうん……」
「カエルが池の掃除をしていたところ、鯉はご苦労さまと優しく声をかけてくれたのに、スッポンは何も言わずに噛みつきやがった。背骨が砕けて飛べなくなったと泣いていた。そんな野蛮な性格だから、スッポンとマムシだけは顔を見ただけで反吐が出るのだ。お前のことだぞ極悪非道の爬虫類、と、ほざいて唾を飛ばしやがるから、ワシは言ってやった」
「なんて言ったの?」
「月とスッポンの故事を知らないのかと。満月に照らされたスッポンほど美しいものはないと清少納言が詠んだごとく、月は優雅でスッポンは高貴の象徴なのだと教えてやった」
「その話、本当なのかい?」
「そうじゃ。そうしたらドジ亀は、バカは何でも自分に都合よく真実を捻じ曲げると抜かしやがった。常に正義を照らすのは太陽で、月とスッポンは陰湿な邪悪の権化の象徴なのだと言いやがる」
「それで、じいちゃんはどうしたの?」
「ふざけたことをほざきやがるから言ってやった。スッポン鍋はコラーゲンがたっぷりで美味しいが、亀は煮ても焼いても天婦羅にしても臭くて反吐が出るから、滝に打たれて甲羅を洗って出直して来いと言ってやったぞ」
「おじいちゃんはスッポンのくせにスッポン鍋を食べたのかい?」
血圧計の異常な数値に目をむきながら麗子がさえぎる。
「やめなさい健太郎。血圧が異常値を示してるから、患者さんを興奮させないでちょうだい」
血走った眼の老患者の手に、見舞いに持って来た千葉特産の落花生の包みをそっと握らせる。
「おじいちゃん、落花生をあげるから、喉につまらせないで食べなよ。また来るから、話を聞かせてくれよ」
麗子に促されてそそくさと部屋を出て九号室に戻った健太郎は、老患者の容態をみんなに報告した。
「ふむふむ、そいつは重症だなあ。記憶と妄想が戦って痴呆が仲裁に入ったところを月とスッポンが滝に打たれて出直したということか。ふむ、そうだなあ、まずは記憶喪失の体験者に意見を聞いて、専門的な見地に立って解決の糸口を見つけてやらねばなるまいなあ」
嘆息して紫煙をくゆらせる鉄仮面に、小学教諭の朝比奈が疑問をぶつける。
「記憶喪失の体験者なんてどこにいるんですか。認知症の患者に意見を聞いても理解なんかできないでしょう」
妙案を得たとばかりに鉄仮面が畳みかける。
「お前、たまには記憶を喪失してみるか。突発性慢性胃炎も全快するかもしれないぞ」
羅生門親分が呼応する。
「そいつは名案だなあ。おい朝比奈のお、末期の盃を交わそうじゃねえか。ほれ、一杯飲んで窓から飛び降りろ。記憶を失ったところで気付けに一杯飲ましてやるぞ」
「ま、待って下さい。冗談は性格だけにして下さいよ。本当に記憶を失って痴呆になったらどうするんですか」
善右衛門が割って入る。
「ゲホ、ゲホ、養命酒に青酸カリとトリカブトの根っ子を漬けて飲ませてみてはどうじゃろうか。記憶喪失に効くと聞いたが。ゲホ」
「善さん、そいつは名案だねえ。毒キノコとサソリの粉末も入れてかき混ぜれば特効薬になるかもしれねえなあ」
<看護学生>
その翌日、看護学生たちの実習が始まりナースステーションはざわついていた。一年生もすでに二度目の研修ということもあって緊張感は薄れて私語が乱れる。
「はーい、研修生の皆さん、師長さんから訓示がありますので集まって下さい」
麗子がざわつく学生たちに声を張り上げた。
「はい、静かに、静かに」
麗子に目配せされて看護師長の藤巻竜子が頷き、おもむろにテーブル席から立ち上がった。
「コホン、藤巻です。お早うございます。皆さんはすでに初めてではないのでくどい挨拶は省略しますが、実習といえども本物の患者を相手の実戦ですから、どんな些細なミスも許されないということを改めて肝に銘じてもらいたい。病棟にいる限り患者の命は常にあんたたちの手の上にあるってことを忘れるんじゃないよ。なめてかかると重大な過ちを犯すのが医療の世界の怖いところだからね。ああ、今さら言うまでないけど、九号室には安易に立ち入らないように。それから、二十二号室の患者さんについては、この後の申し送りをよく聞いて慎重に対応して下さい。それではしっかり研修に励んで下さい、よろしく」
師長の挨拶が終わると、麗子が研修生たちを連れて各病室を回った。八号室から九号室を飛ばして十号室へ行こうとしたところ、パコンと扉が開いて車イスに乗った鉄仮面が現れた。
「おやおや、研修生の皆さま方じゃありませんか。よく来てくれたねえ。まあいいから遠慮なく入んなよ」
慌てて麗子が入口をふさごうとするが、機敏な車イスの動きに邪魔されて看護学生たちは九号室に吸い込まれて行った。
「おう、よく来たねえ、鶯谷から来たのかい? ちょいとこっちへ来て酌をしてくれねえか、ウィッ」
先頭に入って来た看護学生に、羅生門親分が手招きをしてトックリを差し出す。すぐ後ろの学生に、善右衛門が両手を広げて鼻の下を伸ばす。
「ゴミためにも花とはよく言ったもんじゃ、ゲホッ。病室がボケの花で満開になったみたいで華やかじゃのう。しびれるのう」
全員が入り終えたのを確かめて、扉をバタンと閉めた車イスの鉄仮面は、目の前のお尻を白衣の上からポンと叩いて「キャッ」と叫んで振り向いた看護学生の顔を見上げて指差した。
「あっ、お前は、認知症の桃子じゃねえか」
「違いますよ。認知症は私のおじいちゃんです」
かぶりを振って頬を膨らませる桃子の手を鉄仮面がグイと握って引き寄せる。
「そうだ、そのおじいちゃんに用があるんだ」
「おじいちゃんに用って、どうしたんですか? おじいちゃんはこの夏の厳しい暑さに耐えられず、悪性の腫瘍が熱中症にいじられて狂い死にしてしまいましたわ」
「おおそれは気の毒な。おじいちゃんが狂って死ぬ前に、どんな様子だったか教えてくれないか。いや、実はなぁ…………」
診断のミスに、青汁を飲まされ、心臓を切除されたあげく記憶を失った認知症の老患者が、スッポンになった。鉄仮面の話はナースステーションで引き継いだ説明よりもはるかに真に迫って劇的だった。
これも研修の一環かと学生たちが顔を見合わせザワザワとする中で、「そういえば……」と、桃子が顔を上げ、思い出すままにとつとつと語り始めた。
「認知症のおじいちゃんはお風呂場でおしっこをして、トイレで身体を流していましたわ。釣りに行くと言って裏山へ行き、畑に行くと言って海でおぼれておりました。黄色い泡のビールを尿瓶で飲んでいたので、お母さんが羽交い絞めにして必死に尿瓶を取り上げていました」
「ふーむ……」
「時々おじいちゃんは小学校の卒業写真を開いて涙を流していたんです。私はその姿を見て、おじいちゃんが死ぬ前に少しでも記憶を取り戻してあげたいと思い、小学時代の思い出話を聞いてあげることにしました。一生懸命におじいちゃんの眼を見つめて相槌を打ちながら聞いてあげました。そしたら何と、幼少の記憶が刺激になって前頭葉に血が巡り始めたのか、青春時代の記憶を取り戻したのですわ」
桃子の話を聞き終えて鉄仮面が大きく頷く。
「相槌を打ちながらねえ。うむうむ、前頭葉に血が巡ったか……」
興味津々に耳を傾けていたもう一人の女子学生がそっと右手をあげた。
「あのう、うちのおばあちゃんはアルツハイマーだったけど、ふとしたきっかけで記憶を取り戻しました」
病室全員の視線がその学生に集まった。
「おお、お前は尿漏れ失禁症のウン子じゃねえか」
「ウン子じゃありません、雲子です。尿漏れはアルツハイマーのおばあちゃんですから」
「うん、それで、ふとしたきっかけってのは何だ、教えてくれ」
きっかけの実態をどこまで暴露して良いものかと躊躇していた雲子だったが、意を決した風に切り出した。
「夕陽を見ながらおばあちゃんが、死ぬまでに河豚を食べたいとしみじみ言うからお父さんが、東京湾にボートをこぎ出して河豚を釣って来て、踊り食いにして食べさせたら心臓が止まって死にかけたけど、ショックで記憶の回路が回復し、紛失してた財布を屋根裏から見つけて来ました」
「うむむ、記憶の回路がねえ……」
雲子の話は続く。
「アクアラインマラソンに参加したいとおばあちゃんが言うから、紙オムツを穿かせて走らせたら橋から転がり落ちて東京湾に沈没したけど、ショックで記憶が回復し、初恋の学級委員の顔に泣きぼくろがあったことを思い出しました」
「うむむ、学級委員に黒子がねえ……、それだけかい?」
「北国の露天風呂で雪見酒をしたいっておばあちゃんが言うから、東北道を車でひた走って雪深い宿に着いたけど、ばあちゃんは露天風呂に行くつもりが登山道をよじ登って雪崩に巻き込まれ、頭の先から爪先まで凍傷になって小指が二本壊死したけど、そのショックで自分が女だということを思い出しました」
「……」
「おばあちゃんが空を飛びたいって言うから、東京タワーのてっぺんからパラシュートで……」
「わ、分かった、もういい。要するにだなあ、命を懸けたショック療法が最善の方策ってことだな」
雲子は意味ありげに顎をさすり、自信無さげに口をつぐんでうつむいている。その表情を見やりながら鉄仮面は、何とか解決の糸口を見出そうと思案を巡らす。
「劇的な体験ということか。それにしてもなあ、紅鮭じいさんの妄想は半端じゃなさそうだからなあ。生半可なショック療法じゃあ痴呆も記憶も戻るまいが、ためしに東京タワーで宙吊りにしてみるか」
何をしでかすか分からない鉄仮面の性癖を案じて朝比奈が水を差す。
「いえいえ、それじゃあ慢性胃潰瘍の対策にはなるかもしれませんが記憶の回復にはならないでしょう。たとえ妄想であってもまずは患者の話をじっくり聞いてあげれば、何かを思い出すきっかけになるかもしれませんよ。妄想から出た誠って諺もあるくらいですから」
「お前んとこの小学校では妄想から誠が出るのか。まあいいだろう、朝飯が済んだらみんなでお見舞いにいくことにしようじゃないか」
ただならぬ不吉な予感を覚えた麗子は、学生たちを制して鉄仮面の前にはだかった。
「やめて下さい、余計なことは。患者さんの治療は主治医が責任を持って行います。あなたたちが関わったら認知症がこじれて、戻る記憶も戻らないどころか、残った記憶も木っ端みじんに破壊されて人間じゃなくなってしまいます。第一あなたたちは何の目的でここにいるのかを認識していますか。患者ですよ、患者。あなたたちは重病の患者なんですよ。他の患者の面倒を見る前に自分の病気と真剣に向き合ってください。安静にしてないと藤巻師長に言いつけますよ」
神妙な表情に半眼を繕っていた鉄仮面は、車イスから立ち上がると優しく麗子の肩をポンポンと叩いた。
「心配は無用だ、麗子。病院に迷惑をかけるような事を俺たちがするはずないだろう」
鉄仮面は麗子をいなして研修生たちに向き直った。
「よし、看護学生諸君、今日の授業はこのくらいにしておこう。この次は手軽な麻酔薬の作り方と、メスで脇毛を剃る方法について詳しく教えてやるから楽しみにしておきな」
研修生たちはそそくさと麗子に促され、ぞろぞろと九号室から出て行った。
<お見舞い>
朝食を済ませた入院患者たちが、歯磨きやトイレを済ませてベッドに落ち着く。看護助手が病室から下げたお膳を、空のカートに次々と乗せて廊下を移動する。そのうち人の気配が消えて、病棟はひっそりと重苦しい空気を取り戻す。
ここがシャバの空気ではないという常に、いつしか患者たちは慣らされて疑問を持たない。
午前中は見舞いの客もなく、時たま気の向いた医師が回診に顔を見せるくらいで平穏な時間が静かに流れるはずなのだが、九号室だけが熱気を帯びて息づいていた。
「それじゃあみんな、紅鮭じいさんのお見舞いに行くことにしようぜ」
鉄仮面の呼びかけに呼応して、羅生門親分が耳かきで歯クソを飛ばしながら腰を上げる。
「チャカはいるかのう……」
あからさまに顔をしかめて朝比奈が言い放つ。
「殴り込みじゃありませんから、ドスも手榴弾も耳かきもいりませんから……」
「おお、そうかい。じゃあ、気付けの酒でも持っていくか」
親分の声に応じてすかさず善右衛門が屈み込み、床頭台の扉を開けて飲みかけのボトルを取り出す。
「気付けの酒なら養命酒が良かろう、ゲホ」
天竺和尚は袈裟懸けに数珠を持って、身ごしらえをしながら神と仏に祈りをささげる。
「ナンマンダブダブ、ナンマンダ、ナンマンダララララ……」
健太郎はベッドから降りてスリッパをひっかける。みんなの準備が整ったことを確かめて、ゆっくり扉を開いて廊下をうかがう。
健太郎が二十二号個室の扉をそっと開いて顔を覗かせる。ベッドで寝ている紅鮭熊五郎以外に誰もいないことを確かめて、六人はぞろぞろと部屋に入る。
老患者は仰向けのまま目を見開いて天井を見つめている。
「じいちゃん、お見舞いに来たよ。友達をたくさん連れて来たよ」
健太郎の声が聞こえたのか、熊五郎は物憂げそうに黒目を動かす。一人一人の容姿を食い入るように見つめる。
視線の焦点が善右衛門の顔面にピタリと合わさった時だった。
「校長先生!」
老患者の熊五郎は、しわがれた声をうわずらせてたちまち感涙を滲ませた。
「お懐かしや、校長先生」
自分がいつ校長先生だったかと、善右衛門は記憶を遡るが思い当たらない。そうか、老患者は認知症だったんだと気付いて話を合わせることにした。
「わ、ワシが校長先生かの?」
「はい、忘れはしませんぞ。私が尋常小学校一年生の時、井戸に落ちて溺れそうになった私を見つけた校長先生は、担任の先生を突き落として、こいつを踏み台にしろ、と、叫んで助けて下さった」
「わ、ワシが助けた?」
「はい。校長先生が助けに来る前に、親友だったヒロシくんは井戸の上からビールの空きビンを投げ落として嘲笑っていた。ビンの底が右目に命中して血が出て星が飛んだ。痛かった。恋人だったミヨちゃんは、あの世に行ったら閻魔によろしくと叫んで満面の笑みを浮かべて手を振っていた。悲しかった。そして学級委員のクニオくんは、誰も見なかったことにしようと言って井戸の蓋をしようとした。こいつらみんな殺してやりたいと心の底から呪ってやった」
苦渋に眉をしかめて見開いた黒目が、健太郎を捕らえて叫び声を放った。
「お前はヒロシじゃないか!」
健太郎はなだめるように老人の肩をそっと叩いた。
「違うよ、じいちゃん。僕はヒロシじゃないよ」
健太郎の顔をまじまじと見直す。
「さては、ブラジルに移民で転校した小次郎くんか?」
「違うけど、小次郎くんは親友だったのかい?」
熊五郎の視線が病室の天井を貫いて、はるか彼方の幻影を見つめて輝いた。
「小次郎くんは移民船に乗ってアマゾンに転校して行ったんじゃ。一か月後に、近くの川で獲れたからと手紙を添えて、生きたピラニアを送ってくれた。金魚鉢に入れてやったら金魚をみんな食っちまいやがった。頭にきてゴキブリを入れてやったら、いい勝負で格闘してた」
「あの……」
「ボルネオに転校して行った又三郎くんは、近くの森で捕まえたからと手紙を添えて、生きたコブラを送ってくれた。鳥かごに入れてやったら小鳥をみんな食い殺しやがった。頭にきて野良猫を入れてやったら血みどろになって戦っていた」
「ああ……」
「ジンバブエに転校して行った与作は……」
際限のない老患者の語りを鉄仮面がさえぎる。
「ジンバブエの与作の話はまた後で聞いてやるよ。他に何か思い出す事はないのかい? 紅鮭のじいさん」
意識が途絶えた眠りの中で、夢幻の世界を駆けまわる。
人は夢を見ている時に、己の容姿も年齢も分からない。過去の記憶や願望やこびり付いた残像が入り混じり交錯して、ときめきの幻影が紡がれる。
記憶喪失と認知症に医療ミスを掛け合わせて心臓の一部を切り取られた熊五郎にとって、眠っている時に見る夢と、目覚めている時に見える幻との見境がないから際限もない。時を駆けるように時代が変わり、回り舞台のように佇まいが移ろう。
鉄仮面の顔に視線を移した熊五郎が再び叫び声をあげた。
「君はラバウルの空に散った特攻隊の長曾我部くんではないか。生きていたとは知らなんだ」
「俺が特攻隊?」
「そうだ、私も一緒にゼロ戦ヒカリ号で飛び立った。海を越えてラバウル上空に差しかかった時、突然の竜巻に襲われて思わずハンドルを右に切ったら西に向かい、ガソリンが切れてしまってビルマの寺院に不時着した。おお、あなたは、あのとき介抱してくれた僧侶ではありませんか」
袈裟懸けの天竺和尚を指差すと、熊五郎は手を合わせて黙祷したが、どう考えても生きている時代の辻褄が合わないだろうと鉄仮面が疑問を抱く。
「あのね、特攻隊って言うけどね、あんた戦時中は小学生じゃなかったのかい?」
問いかけを無視して熊五郎の妄想は無尽に弾ける。
「思い出したぞ、ワシの生まれ故郷はミャンマーじゃった。ウサギ追いしあの山、ウナギ釣りしかの川を越えて、ビルマの竪琴をつま弾きながら戦友たちを見送った……」
「あんたそりゃ浅草の名画座で観た映画の記憶じゃないのかい。インコを肩に乗せた水島上等兵が僧侶になって、日本に帰る仲間の兵隊たちを見送った話だろ。俺も小学校の学芸会でヤシの木の役をやらされたよ」
「ペンギンが空を飛び、狸が海を駆けていた」
「おい、ちょっと待てよ。いきなり話が飛ぶけど、何だ、いったい」
気負って身を乗り出す鉄仮面を制して朝比奈が口を挟む。
「まずいですよ。質問攻めで興奮してますよ。ちょっと落ち着かせた方がいいんじゃないでしょうか」
「俺は質問攻めになんかしちゃいないぜ。じいさんが勝手にしゃべってるだけじゃねえか」
「それにしても記憶と妄想が飛躍し過ぎていませんかねえ。誘導尋問の口調はダメでしょう」
「いつ俺が誘導尋問したんだ。お前なあ……」
険悪になりそうな気配を羅生門が断ち切る。
「まあ待て、こんな時こそ気付けの酒を飲ましてやろうじゃねえか。おう善さん、そこの吸い飲みに養命酒をなみなみと注いでやんなよ」
待ってましたとばかりに善右衛門が養命酒を取り出して蓋をねじ開ける。床頭台に置かれた吸い飲みを朝比奈が両手に持ち、注がれる養命酒が満杯になると熊五郎の口元にそろりと添える。
嫌そうに拒んで顔をそむけようとした熊五郎だが、ほのかなアルコールと生薬の微香に誘発されたのか鼻孔がツンと反応して、赤い薬液を一気に飲み込んで目を閉じた。再び瞼が開かれた時、吸い飲みの液体は空になっていた。
「なかなかの飲みっぷりじゃねえか。もう一杯飲ませりゃ記憶も痴呆も吹っ飛ぶんじゃねえか。今度はテキーラをストレートで飲ませてみよう」
羅生門が注ごうとする吸い口を慌てて朝比奈が手でふさぐ。
「記憶が飛んじゃダメでしょう。ほら、様子がおかしいですよ。ベッドから起き上がったじゃありませんか。あ、何ですか。僕を指差して……」
酔いが回っただけでなく、熊五郎の頬は紅潮して怒りの様相を呈しているではないか。
「貴様は憎っくき婦女誘拐犯のネズミ男。おい、そこの錨を取ってくれ、この男の脳天をかち割ってやる」
みんなで部屋を見渡すが、どこにも錨などあるはずもない。どうやら痴呆の幻視に違いないと鉄仮面がなだめて背中をさすって落ち着かせる。
「この突発性慢性胃炎のネズミ男が、じいさまに何か悪い事でもしでかしたのかい?」
鉄仮面の囁きに怒りが少しほだされたのか、いきり立っていた熊五郎は瞑目し、記憶を紡ぎ合わせるように吐き出していく。
「思い出したぞ……」
「思い出したか?」
鉄仮面が相槌を入れる。六人は聞き耳を立てて部屋は静まり返り、羅生門のお猪口を飲み干す以外に物音は無い。
「あれは月夜の夜の闇夜の真昼のことじゃった」
「いつのことだ、いったい」
「ワシは漁師で遠洋漁業に出ておった。はるか大西洋のカナリア諸島の漁港に錨を下ろし、ワシの帰りを待ちわびる新妻に電報を打った」
「電報かい」
「すぐに返事が届いた。クジラのハンドバッグやコバンザメの入れ歯もお土産に嬉しいけれど、早く無事に帰って来て下さることを願って毎晩裏山に行き、滝に打たれて修業をしていますと涙に滲んだ返信だった」
「どうして電報が涙で滲むんだ。涙が電波で飛ぶのか」
「その日のうちにワシは日本に着いた」
「なんでその日のうちに着くんだよ。漁船が空を飛んだのか」
天井を見上げる熊五郎の眼光が鋭く尖る。
「船が港に着くとワシは岸壁へ飛び移り、赤いモンペに黒髪のおさげを探して見渡した。そしたらどうじゃ、あろうことかワシの妻は、息子の学校の先生と仲良くお手々をつないでいるではないか」
「息子ってあんた、新妻だろ。なんで息子がいて先生がいるんだよ」
熊五郎は布団をはねのけベッドの上で仁王立ちになり、朝比奈を凝視して今にも飛び掛かろうという風だった。
「ワシは逆上して錨を持ち上げ、憎っくき先生の頭上目がけて振り下ろしてやった」
「どこから錨を持って来るんだよ」
「ヤツはうすら笑いを浮かべて体を交わし、ワシから錨を奪っただけでなく、新妻の手を引いて逃げだしやがった。ワシは銛を持って追いかけた。ワシが銛を投げたらマグロに突き刺さり、ヤツが錨を放り投げたら船が沈んだ。おのれ、お前のことだ。新妻をどこへ連れて行ったんだ」
朝比奈に食らい付いた熊五郎の背中を善右衛門が羽交い絞めにして、鉄仮面が間に割って入り羅生門がお猪口の酒を気付けに飲ませる。
「ぼ、僕は確かに先生ですが、モンペの新妻とは縁がありません。く、苦しいので手を放して下さい」
朝比奈が喘ぎながら助けを求める。鉄仮面がなだめてようやく正気を、いや、落ち着きを取り戻したのか力を緩める。
「じいさん、それで新妻はどうなったんだい」
鉄仮面がなだめながら熊五郎の身体をゆっくりベッドに横たえる。
「海に消えた」
「へッ、どこの海だい?」
「人魚になった」
「人魚?」
「ワシも海に飛び込んで追いかけようとしたが、どんなにあがいても人魚にはなれなんだ」
「そりゃなれんわなあ……」
「あいつが殺したんじゃよ、人魚になったワシの妻を」
夢うつつにまどろみかけた熊五郎に健太郎が呼びかけた。
「じいちゃん、人魚は生きてるかもしれないよ」
「生きてるじゃと?」
「人魚に会いたいかい?」
「会いたい……」
「じいちゃん、人魚に会えるよ」
健太郎の言葉に反応した熊五郎は目をむいて驚きを見せたが、鉄仮面も羅生門親分も健太郎の真意を読み取れずに呆気にとられた。
「研修生のお姉ちゃんが言ってたよね、ふとしたきっかけで認知症のおばあちゃんが記憶を取り戻したって。ショック療法が最善の方策だって」
しばし沈黙の後、朝比奈誠が両手の拳を打ちつけた。
「そうか、健ちゃん。よく思い付いたね。そうだ、ショック療法だね。みんなで行きましょうよ人魚の海へ。アリエルに会わせてやれば、何か思い出すかもしれませんよ」
さっぱり理解できずに羅生門親分は、訝しげな表情で朝比奈を見返す。
「千葉の港に人魚の住み家があるなんて聞いたこともねえが」
「いるんですよ、ディズニーシーのマーメイドラグーンに」
鉄仮面も善右衛門も納得したように大きく頷く。
「ディズニーか」
ようやくピンときた羅生門親分は、飲みかけのお猪口を放り投げて朝比奈から携帯を取り上げると、ピポピポポンとボタンをプッシュして送話口に向けて叫ぶ。
「おう、ワシじゃ。何だと、ワシの声が分からんだとテメエこのドチンピラ。おう、ようやく分かったか、良く聞けよ。今すぐに大型ダンプ一台転がして来い。なにい、バズーカはいるかだと。ダイナマイトもマシンガンもいらねえ、殴り込みじゃねえんだ」
<ディズニーシー>
第二内科病棟の裏口に、キュルキュルキュルンと大型ダンプが停車した。
待ち受けていた六人のパジャマ姿と一人の袈裟懸けを荷台に乗せると、大型ダンプは全速力で湾岸道路を突っ走った。
ポルシェもパトカーも追い越して、アッという間にディズニーシーの駐車場に到着すると、大型ダンプを残して七人は入場口へと向かったが、なぜか入り口前のセキュリティチェックで呼び止められた。
「あ、あのう、刺青のお客様は入場禁止になっておりまして、それからパジャマ男に僧侶の仮装も、ハロウィンのイベントはとっくに終わっておりまして、みなさまの服装ではいかがなものかと、はい……」
不平をあらわにして厳つい顔を突き出した羅生門を押さえ、健太郎がとっさの機転で事情を繕った。
「仮装じゃなくて、僕たちはみんな身体障害者なんです。病院の慰安でやって来ました。刺青はタオルで隠します。僧侶じゃなくて引率者です。分かりやすいように袈裟懸けをしているんです。八十二歳の重病患者がいますので、車イスを貸してください」
半信半疑のセキュリティも身体障害者と言われたら拒めない。
「はい、はい、そういう事情ですか。それでは車イスを」
熊五郎を車イスに乗せると六人は、「良い旅を!」の声を背中に受けてまっしぐらにマーメイドラグーンシアターへと向かった。
最前列に席を取って上を見上げると、間もなくして大音量の音声が場内の隅々まで響き渡った。座席は完全に埋め尽くされて満席となっている。
やがて意匠を凝らしたカニが出てきて魚が現れると、見よ、大天上から麗しき人魚が舞い降りて来た。
「じいちゃん、人魚だよ」と、健太郎が指差して叫ぶ。
熊五郎は微動だにせず目を見開いて、天井から吊り下げられたアリエルの舞いを凝視していた。
「紅鮭のじいさん、あれがあんたの奥さんかい?」
鉄仮面の言葉に反発した熊五郎は、怒りをあらわに歯をむき出して怒声を放つ。
「バカを言うな。空飛ぶ人魚なんかいるものか。人魚が何で金髪なんだ。あれは西日暮里のキャバクラのリリーちゃんではないか。ワシを愚弄しおって。おお、そうじゃ、あいつは人魚に変装した英米鬼畜の女スパイに違いない。ワシが戦闘機で撃ち落としてくれる。外で戦闘機がぐるぐる旋回しておったぞ」
「あれはフランダーのフライングフィッシュコースターだよ、戦闘機じゃないよ」
熊五郎は健太郎の説明を無視して、憮然とした態度で身構えている。
朝比奈誠と善右衛門は、舞い歌う人魚に向かって両手を振ってウインクしている。天竺和尚はお経を唱え、羅生門親分はポップコーンを口から吹き上げている。
中空で舞い歌うアリエルは愛嬌を振りまきながらも、得体のしれない七人の観客に向けて手を振りながら旋回をする。
「おお、人魚のスパイがこっちを目がけて攻めて来たぞ。ワシの目を睨み付けよる。やられてなるものか」
熊五郎はやおら立ち上がり、座っていた車イスを頭上に振り上げて、旋回して来るアリエルの顔面に叩きつけた。
いきなりの殴打に悶絶して宙吊りになり、怒ったアリエルは額から血を流しながら、カニから銛を奪い取って反撃に転じた。
熊五郎目がけて空中から猛然と襲いかかって来るアリエルに、天竺和尚が数珠を突き出して横から飛びついた。両腕と脚を絡めて力いっぱい抱きしめた。
尻尾をばたつかせて身をよじるアリエルの金髪を、鉄仮面が鷲づかみにした。ここぞとばかりアリエルの額に思い切り頭突きを食らわせた熊五郎は、衝撃と反動で脳震盪を起こして車イスに倒れ込んだ。
朝比奈と健太郎が熊五郎を助け起こそうとしているところに羅生門親分が立ち上がり、腹巻に隠し持っていた爆竹を取り出して床に並べて火をつけた。
凄まじい爆竹の閃光と破裂音に煽られて、いくつものポップコーンが客席を舞ってカレーキャラメルやペッパーの刺激が鼻をつく。
場内は騒然となるも、観客は新規のアトラクションでも始まったのかと歓喜して、拍手喝采を送りながら見守っている。
何が起こったのか分からず係員が飛び込んで来たものの、アリエルは天井から逆さ吊りになって鼻血を流して失神しているし、観客は総立ちになってまるで収拾がつかない。
七人のパジャマと袈裟懸けの姿は、誰に気付かれることもなく消えていた。
マーメイドラグーンを飛び出した七人は、噴火する火山の麓をうろついていた。
「偽物の人魚じゃやっぱりダメか。ショック療法どころか逆効果だったなあ。今度はゴンドラに乗せて運河のボートから突き落としてみるか」
「それは手ぬるいじゃろう。ジャングルクルーズのカバに脳味噌を食わせるほうがまだ効果的じゃろう。それともいっそのこと、あの火山の火口へ突き落としてみてはどうじゃろうか」
鉄仮面と善右衛門の会話に朝比奈が口を添える。
「せっかく来たんだからインディジョーンズかセンターオブジアースに行きたいですね。暗闇を探検しているうちに紅鮭じいさんも記憶を回復するかもしれませんよ。だけど人気のアトラクションだからなあ、一時間以上も並ばなきゃならないから、じいさんと一緒じゃ無理かな」
「並ぶこたあねえよ。うちの若いもんがドスとチャカを見せつけりゃあすぐに入れるぜ」
携帯で子分を呼び出そうとする羅生門を健太郎がたしなめる。
「ダメだよ親分、ここは夢の国なんだから。シンドバッドならすぐに入れると思うけど」
ということで、一行はシンドバッドの航海へと向かった。
「おう、あそこだ、あそこだ。お、なんだ、ネズミが二匹でじゃれ合ってるぞ。アヒルもいやがる」
羅生門親分が指差す先には、親子連れや女子高生たちがぬいぐるみを囲んで記念撮影に興じていた。
「ネズミとアヒルじゃありませんよ。ミッキーとミニーとドナルドですよ。ドブネズミだなんて言わないで下さい、ここは浅草の花やしきじゃないんですから。ダメですよ、ミニーの耳を引っ張っちゃあ」
朝比奈が羅生門親分を咎めて、シンドバッドヴォヤッジの入口へと皆を急がせる。
「こんにちはー」
はじけるようなキャストの笑顔に促されて入り口を入ると、長い通路を歩いて乗り場へと急ぐ。
「安全のために手荷物は座席の下のネットに入れるようお願いしまーす。出発です、行ってらっしゃーい」
船乗りコスチュームを着こなした若いキャストの声に見送られて、七人を乗せたボートはゴトゴトゴトンと漕ぎ出して行く。
「おい朝比奈、コラッ、踊り子のブラジャーの紐を引っ張るんじゃない。そいつはアラビアのベリーダンスだぞ。なに、嫁にしたいだと? ダッチワイフじゃねえんだバカ」
ボートから身を乗り出す朝比奈に鉄仮面が制して怒鳴る。
「バナナに手を出しちゃダメだよ親分。毒入りかもしれねえ」
「おい、じいさんがクジラの背中をよじ登り始めたぞ。早く連れ戻して来い」
翌日の朝、極楽安楽病院内科病棟の裏庭には、巨大な鳥に捕まえられた黒装束の盗賊が桜の木の枝から吊るされていた。その下にはネズミとアヒルの大きなぬいぐるみが寝転んでいる。
病院の応接室にはディズニーリゾートの責任者と浦安市長さんが訪れて、事務局長が粗茶をぶっかけられて土下座していた。
「おたくは患者にどういう教育をしているのですか。役者たちはみんな恐怖におののき半身不随で再起不能ですよ。キャストのお尻を触るし、機械はぶっ壊すし、通路で酒を飲むし煙草を吸うし、トラックで持ち出したぬいぐるみや人形を返してもらいましょうか。あーん」
「善処いたしますです、はい、はははい……」
事務局長から呼び出されて叱責を受けた看護師長の藤巻竜子は、局長室を出ると手術室に立ち寄りメスを百本握りしめ、放射線科に立ち寄り放射線発射装置を右手に掴み、さらに調剤室で百年分の睡眠薬を六人分もらって九号室へと向かった。
<再手術>
外科医の室町幸太郎は、第二内科病棟の一室で何もすることもなく不満をあらわに愚痴っていた。
「医療ミスを隠蔽するつもりで外科のベテラン名医を内科に送り込んで新人扱いしやがってクソ院長め。動脈と静脈をちょっと間違えてくっ付けただけじゃないか。患者の家族にバレないように隠し通して、ほとぼりが冷めるまで内科に潜んでおとなしくしてろって、ふざけんなよ」
忸怩たる思いというよりも不貞腐れて、内科病棟の患者のカルテを何となくめくりながら、一人一人の検査画像に目を通していた。
腎生検の画像を眺めて室町は呟いた。腎臓の毛細血管に張り付いたタコ足細胞の手足が伸びて、栄養素であるタンパクが体外へ排出しないように傷口を塞いで頑張っている。この中学生の少年はもうすぐ全快して退院だろう。
次の患者のカルテには慢性胃潰瘍と記されているが、画像を見て室町は驚愕して絶句した。
ニコチンタールに覆われてただれた胃壁にアルコールが溢れ、カビとコケにまみれて腐乱したピロリ菌が怒り狂って大暴れしている。インフルエンザ菌が溺れ死んでなぜかモルモットの前歯が浮いている。ガン細胞も殺されてしまうほどの凄まじい環境だから、今すぐにくたばらないまでもいずれ血の池地獄に突き落とされてしまうだろう。
そうして何人目かのカルテを広げて眺めていた時、外科医の眼差しが一枚の画像に釘付けになった。そのカルテの備考欄には、極秘の朱印が押されて医療事故の暗号が付してあった。
これは通り一遍の医療ミスではないと室町は疑念を抱いてよく見ると、心臓の腫瘍を取り除いた手術には成功しているが、脳の画像の異変を見落としていることに気付いた。
前頭葉から海馬にいたる神経細胞に、微細なカビが生えているではないか。これが記憶を錯乱させて脳の老化と妄想を引き起こしているのだ。頭蓋を開いて消毒し、カビ取りジェットを噴霧すれば記憶喪失も認知症も完全に治癒するに違いない。そうだ、自分の手で手術を成功させて、晴れて外科に復帰してやろう。
室町幸太郎はさっそく院長に掛け合い、親族である娘夫婦の了解を取り付けて紅鮭熊五郎を手術室へと運ばせた。
頭蓋を開き脳味噌をかき分け精密ルーペで患部を覗き込むと、思った通り、記憶をつかさどる海馬の神経に微細なカビが生えていた。と思ってよく見るとアカだった。まあ、どちらでもいい、とりあえず拭き取って清潔にしておけば、当座はしのげるだろうと判断して消毒液をぶっかけて頭を閉じた。
患者は再び内科病棟に戻されて二日間眠り続けた。そうして三日目の朝、紅鮭熊五郎は目覚めて煌めく虹を見た。虹の中に人魚が佇んでいた。
二十二号室の様子を見て来いと指示された看護研修生の雲子は、扉を開けたとたんに目覚めた患者の様子に狼狽えながら対応した。
「あ、紅鮭さん、気が付きましたか? 気分はいかがですか? あ、あの、パンツを穿き替えましょうか、それとも鼻毛でも抜きましょうか紅鮭さん」
熊五郎は目をしばたたかせて雲子を凝視している。舌をもつらせながら必死で何かを告げようとしている。
「き、き、君は、と、智子さんではないか。夕霧智子さんではないか……」
「い、いいえ、私は……」
慌てて雲子は否定するが、認知症の患者に対してむやみに否定して良いものかと戸惑って口をつぐむ。なおも患者はしげしげと雲子を見つめている。
「ああ、違う。鼻は低いし目も細い。見事なブスだから確かに違う」
熊五郎の呟きを聞き、眼光の鋭さを見て雲子は思った。もしやこの患者は正気を取り戻したのではなかろうかと。私をブスだと言い切って、智子という女とは違うと判断できた。
雲子は慌てて部屋を飛び出し、血相を変えてナースステーションに戻ると先輩看護師に報告をした。
連絡を受けて執刀医の室町幸太郎が飛んで来た。二十二号個室では桜川麗子が血圧を測定し、看護師長の藤巻が脈を取って対応していた。
患者の容態は落ち着いているが、時折うわごとを繰り返す。タイミングを見計らって室町医師が問いかける。
「紅鮭さん、私が誰だか分かりますか? あなた、自分の名前を憶えていますか?」
医師の問いかけに患者が怒る。
「無礼なことを抜かすな。ワシはボケてなんかおらんぞ。お前はヤブ医者で私の名は熊五郎じゃ」
手術の成功と成果を確認した室町幸太郎は、ホッと胸をなでおろして部屋から出て行った。
「紅鮭さん、これまでの記憶をすっかり思い出せたんですか?」
問いかける麗子の顔をじっと見据えていた熊五郎だが、そのうち瞼に涙があふれ、頬がみるみる紅潮してきた。
「あんたは、智子さんにそっくりじゃ……」
孫娘の名を呼ぶならば、さん付けではなくてちゃんだろう。さん付けで呼ぶからには心に残る女性に違いないと麗子は気を回して問いかけた。
「えっ、誰ですか、智子さんって。息子さんの嫁さんですか、それとも……」
老患者は苦悶の表情を浮かべ、拳を振って身をよじらせた。あわや体温計で喉を突き、血圧計のコードで首を絞めつけるところであった。
師長の藤巻は麗子を後ろに下がらせて、落ち着かせるように熊五郎の手を握った。
「思い出したんだね、青春時代の熱き想いを。どこかに置き去りにしてきた切ない哀愁の馴れ初めを。私は師長の藤巻といいますがねえ、誰なんだい智子さんて。良かったら話してくれないかね。聞いてあげるよ、あんたの捨てきれない大切な思い出話を」
「ああ……」
涙と鼻水を手でぬぐい、熊五郎の眼差しは次元を串刺しにして宙を見つめる。
「聞いてくれるか師長さん……」
<熊五郎の回想>
雪崩は消える花も咲く、青い山脈の麓に紅鮭熊五郎の通う高等学校はあった。緑の田んぼの中央に、真っ白い鉄筋の校舎が眩かった。
すでに戦後という言葉も現実味を失い、若者たちは明日に向かって希望を託し、少年たちは今日の青春を謳歌していた。
熊五郎は入学してすぐに野球部に入部した。伝説の剛速球投手として惜しまれながらも戦死してしまった沢村栄治選手に憧れて入部したのだが、熊五郎の投げる剛速球は全てホームランとなり、打者としてかっ飛ばせば全てキャッチャーフライに打ち取られるので、すぐに外野の球拾い係に格下げされた。
だけど不屈の熊五郎は、不貞腐れてこそ、いじけることはなかった。
一身上の都合にて、と、理由を告げて野球部を退部してしばらく熟考した後、次はバスケットボール部にしようと思ったが、ボールが大き過ぎるから卓球にした。
放課後、卓球部の部室に行って入部したいとキャプテンに決意を告げたら、肩を叩いて喜んで歓迎してくれた。
すぐに卓球台に向かって球を打ったら空振りをした。また空振りをして卓球台に鼻をぶつけてラケットを飛ばした。キャプテンの笑う唇は引きつっていた。
何度練習しても打ち返せない。やっぱり卓球もダメかと諦めかけていた三日後の事だった。
部室の扉が開いて、一人の女生徒が右手を挙げて入って来た。
「オッス!」
「ワァー、トモちゃん。入院したって聞いたから心配したよ」
女子部員たちが出迎えるので卓球部員に違いなかろう。
「入院じゃなくて検査だから」
トモちゃんと呼ばれた女生徒が破顔で答える。キャプテンもやって来て心配そうに声をかける。
「おう、トモちゃん。検査の結果はどうなんだい。次の試合には出られるのかな」
「はい、多分、大丈夫かな……」
「ああそうだ、新入部員を紹介するよ。一年生の紅鮭熊五郎くんだよ。トモちゃん、彼に教えてやってくれよ」
そう言ってキャプテンはその女生徒の肩に手を置いて、二年生の夕霧智子だと紹介してくれた。
好きなタイプの女性の顔を描けと言われても、どんなに想像をめぐらしたところで会ったことがなければ描けるはずがない。性格さえも予測がつかない。ところが、初めて出会ったとすればその瞬間に、その衝撃が天使の輪郭となって脳味噌のキャンバスに刻み込まれる。それが一目惚れというものだろう。
その日から夕霧智子による指導が始まった。
一学年後輩だからということで彼女は熊五郎を軽んじていた。その侮りが熊五郎の行動に甘えを生ませただけでなく、智子もまたことさら異性としてこだわりのバリアを張る必要がなかった。
「もっと丁寧に教えてくれよ。ラケットの握り方とか、打ち返し方とか」
「ラケットの握り方は昨日教えたでしょう。最初が肝心なんだから、しっかり球を見てなさい」
「見てるけど」
「見てるだけじゃダメでしょう。追っかけなくちゃあ」
毎日練習を続けるうちに球を返せるようになり、ゆるやかなラリーくらいは何とかこなせるようになってきた。
熊五郎は学校へ行くことが楽しかった。そして放課後が待ち遠しかった。卓球が楽しいからという理由ではないことは明白で、智子に会えるための手段として卓球の特訓にのめり込めた。
卓球の練習が終われば家に帰るだけで、また明日の放課後を待ちわびる切なさが忍びない。ところがその日は違っていた。
「ラーメン食べて帰ろうか」
智子が誘ってくれた。
「うん」
ユニフォームを脱いで着替えを終えた智子が部室の入口で待っていた。制服の襟元を覗き込めば胸の奥まで見えそうだ。ポニーテールの振れ際に露わになる襟足のほつれが初々しい。姉のように思える智子だが、女を感じた刹那に頬が火照る。
智子の瞳は人形のように大きかった。だからまつ毛も太く長かった。鼻は少し上向きだったが、肌は人魚のように輝いていた。
「もうすぐ試合だね」
田んぼの畦道を歩きながら智子が話しかけてくる。
「うん」と、応じたい気持ちを抑え込んで熊五郎は黙り込んだ。
「どうしたの、熊ちゃん。試合、頑張ってね」
隣町の高等学校との対抗試合のために、数日前から猛練習が始まっていた。智子は自分の練習などお構いなしに、熊五郎の特訓に終始していた。ダブルスでペアを組もうと言ったが無視された。
智子は試合に出られないから特訓の必要がないんだと他の部員から聞かされた。だけど、なぜ出られないのか理由までは教えてくれなかった。それがずっと気になっていた。
聞いてはいけない訳がありそうだけど、熊五郎はすでに恋の嵐の渦中にいたから、聞かずに済ます訳にはいかなかった。だから、仕舞い込んでいた疑問を口にした。
「智子さんはどうして試合に出ないんか?」
一瞬の逡巡をはぐらかすように智子は即答した。
「試合の日、わたし、入院しなくちゃいけないんだ」
智子はためらいを隠して笑っていた。女心に鈍感な熊五郎だが、笑顔の裏側に潜むかすかな陰りの一片を見た。
「入院って、どこが悪いんか?」
「この前の検査でね、軟骨肉腫だってお医者さんに言われたの。だから、しばらく入院になりそうなんだ」
「軟骨肉腫……、どんな病気?」
「わたしも詳しくは分からないけど、骨のガンだって。放っておいたら顔が無くなってしまうから手術をしないといけないんだって」
「顔が無くなるって、どういうこと?」
ガンという言葉を耳にして熊五郎はたじろいだ。いつもは恥ずかしくて正視できない智子の瞳を見つめ返した。
「頬骨がガンに侵されてるの」
「手術をすれば治るんか?」
「きっと治るわ。わたし、頑張るから、熊ちゃんも試合頑張ってね」
<手術>
熊五郎は二年生になって卓球の腕も上がり後輩もできたが、智子は三年生になってから入退院を繰り返すことになった。それでも智子は卓球部に籍を置いていたから、退院すればクラブの部室で会えた。そして時々、帰り道に町の食堂でラーメンを食べた。
そして熊五郎は三学年に進学したが、智子は出席日数が足りずに留年となった。
入院するたびに見舞いに行った。見舞いに行くたびに顔色が悪くなっているような気がする。苦し気な表情を歪んだ笑顔でごまかしている。訳の分からない病気が智子を遠くへ連れ去って行くような不安を覚える。
熊五郎は大学受験に没頭しながら智子を励ました。二人で一緒に東京へ行こうと手を握って励ました。智子は眼だけで笑って頷いた。だけど、夏の終わりに二度目の手術を終えてから、彼女は病院から抜け出すことが出来なくなった。
手術を終えて見舞いに行くと、智子の半顔は包帯で覆われていた。片目も覆われていた。あまりにも唐突に見せつけられた痛ましい姿に絶句どころか恐怖を覚えた。
たまらなく智子が可哀そうで愛しくて抱きしめたいと思った。ガンと化した頬骨を思い切り噛み砕いてやりたかった。熊五郎の初めての恋は浸潤して昂り、その時すでに後戻りを許さなかった。
「智子さん……」
「熊ちゃん、来てくれたのね」
「痛くないのかい?」
「うん、大丈夫みたい……」
気丈な智子はいつだって弱気を見せたことはない。だけど、今度だけは違う。痛くないはずがない。苦悶の後ろに痛みを隠しているだけだ。残された大きな瞳が訴えている。それでも瞳の中に希望を見ている。手術の痛みが希望の証だと信じている。だけどいつの日のことか、希望の証が絶望の闇に変わることを知らずに。
受験勉強に追われて病院に行くのも週に一度くらいになってからは、入院中の彼女から、熊五郎の自宅宛てに手紙が届くようになった。
何気ない文章の中に彼女の甘えと不安が垣間見えた。痛くて眠れない夜にはぬいぐるみを抱きしめて寝るのが癖になったとか、焼けただれて顔が崩れた人形になった夢を昨日も見たとか、面と向かっては言えない本音の悲しみが綴られていたけど、今日は気分がいいから苺のケーキを食べさせて欲しいなとか、久しぶりにお化粧をしてみたんだとか楽し気な日もあった。
そして何通目かに受け取った手紙には、真っ白い便箋にただの一言しか書かれていなかった。
「さようなら」
手紙を握りしめて熊五郎は病院まで自転車を飛ばした。病室に飛び込んだ時、智子はとっさに枕で涙を隠した。
自分の命の短いことを智子はついに知ったのだ。病気と闘うことの無意味さを悟ったのだ。
熊五郎は智子の両親からそれとなく聞かされていたけど、神に祈って受け入れる事を拒絶していた。
誰もが漠然と死というものを考える瞬間があるだろう。当面は縁が無いからと白を切って遠ざけてしまう。いずれ迎える死の瞬間を、怖くてバリアーを張って関係ないと他人事にする。
もしもその瞬間が今だと突き付けられたとすれば、自分はその日までの短く長い時間をどのような思いで生きてゆけるのか。痛みや苦痛が恐怖を和らげてくれるのか。頼れるものなど何も無い。生きるというあやふやな現実が消されて永遠の絶望に直面する。自分が消えてしまうということを、どのように認識できるのか。考えただけで胸が裂ける。
熊五郎はあらがう智子を抱きしめた。もう会ってはいけないんだと彼女はすねて嗚咽した。布団の上から抱きしめて熊五郎も泣いた。諦めちゃいけないと叫んで泣いた。手術をすれば必ず治ると医者が約束したと嘘をついて泣いた。一緒に東京に行ってアパートに住んでいつまでも幸せに暮らそうと叱咤して泣いた。
それから先の智子は病気との闘いではなく、自分との闘いだった。
はかない命を覚悟した人間が、どんな気持ちで生きていけるのか到底理解できなかった。だけど、恋は死とは無縁だった。
熊五郎が見舞いに行くと、智子はすこぶる上機嫌にふるまった。時には自暴自棄になって愚痴もこぼすけれど、これまで見せたこともない素振りで甘えてもくる。病室に両親がいない時を見計らって、二人は初めてのくちづけをした。
三回目の手術が行われたのは、熊五郎が受験のために東京へ出立する一週間後だった。出発の日に熊五郎は智子に約束をした。
「手術が成功して僕が大学に合格したら、お医者さんにお願いして智子さんを一週間だけ病院から連れ出すよ。寝台列車に乗って東京へ行って、東京タワーから大都会の市街を一望しよう。皇居にも行こう。浅草にも行こう」
「うん、本当に行けるといいね」
「大丈夫、きっと行けるよ。だから、僕も頑張って来るから智子さんも頑張ってね」
手を握って熊五郎は東京行きの列車に乗った。そして無事に試験を終えて十日後に合格の発表を確認すると、上野駅に急いで北へ向かう夜行に乗った。
翌朝早く駅に着くと、自宅へ戻るより先に病院へと向かった。息を切らせて病室の扉を開けると、そこには白いシーツが折り畳まれたベッドがあるだけだった。看護師から退院したと聞かされた。
慌てて智子の家に駆けつけた熊五郎は、襖を取り払われた表座敷に、白布で顔を覆われて横たわる智子の姿に愕然として立ちすくむだけだった。
衝撃だったが意外にも涙は出なかった。すでに涸れ果ててしまったのか、それともこうなることを覚悟していたからなのか分からない。ただ、智子の為に何かやり残した事があるような胸苦しさがとぐろを巻いて、苛立たしい焦燥となってまとわりつくだけだった。
智子の母親から一通の封書を手渡された。それは智子から熊五郎宛てに綴られた手紙だった。手術の前日の日付が記されている。
<手紙>
「熊ちゃん、きっと合格したんだよね。おめでとう。私は明日、三回目の手術ですよ。手術のたびに顔が切り刻まれて削られていく。そのうち目も鼻も口も無くなってしまいそうで、本当は怖くて手術なんかしたくないんだ。
熊ちゃんには言えなかったけど、病気のせいで私の視力はどんどん落ちて、何もかもがはっきり見えないんだよ。病室の窓から見える木々の枝葉も薄ぼけて、かげろうのように霞んで綿帽子みたい。
今度の手術が終わったら、手紙も書けなくなるかもしれない。だから、これが最後の手紙になるかもしれません。
私、やっぱり東京へは行けないよ。熊ちゃん、ありがとうね。これまでも我が儘ばかり言って、いつも熊ちゃんの足手まといになってごめんね。
もうすぐ卒業式だけど、私は出席できそうにありません。両親も先生も、もう留年なんて言葉さえ口にしません。なんだか全てが終わってしまいそうな予感がして怖い。
熊ちゃんは東京の大学へ進学して立派な未来を描けるんだね。ちょっぴり羨ましいな。
もしも熊ちゃんが東京に行っても覚えていてくれたなら、雑貨のお店か露店で花飾りの指輪を買ってきてくれたら嬉しいな。夢の中で、素敵なお嫁さんになれそうな気がするから。
私、目が見えなくなっても悲しいとは思わないよ。夢を見ることに決めたから。夢の中で人魚になって、知らない海の世界を自由に泳いで海底人たちとお話をして、魚たちと遊ぶんだ。 さようなら」
手紙は唐突にさようならと結んであった。目が見えなくても夢を見ると言いながら、花飾りの指輪を欲しいと言いながら、智子は旅立ちの覚悟を決めていたのだろうか。
その夜、熊五郎は夢を見た。人魚が底無しの海に消えていく夢を。熊五郎を置き去りにして、深い海の底へ消えていく夢を見た。
その後、熊五郎は彼女への思いを捨てて、大学時代に知り合った女性と結婚して娘が生まれた。それなりに幸せだった。
その妻が三年前に死んでから、圧縮されていたガスが火花を放って飛び散るように、密封していた過去の情景が走馬灯になって脳裏を走る。
<花飾りの指輪>
一気に話し終えて老患者はコホンと咳き込むと、視線を看護師長の藤巻に向けた。
「ワシは彼女を幸せにしてやりたいと心から願っておった。悲しかった。嘘じゃない。なのにワシは、東京の大学に進学すると浮かれてしまって故郷を捨てた。彼女はワシの身勝手な幸せを妬み、恨んでおるんじゃろうかのう、師長さん」
じっとうつむいて耳を傾けていた師長の藤巻が、ゆっくり顔を上げて老患者に向き直した。
「確かにあんたの幸せを妬んでいるかもしれないね。だけどね、妬みと恨みは違うんだよ。恨んでいたのは冷酷な病気で、妬んでいたのは宿命さ。あんたが恨みを感じるとすれば、あんた自身の心の中だよ」
意外そうな表情で紅鮭熊五郎はポツンと頷く。
「そうか、宿命か。ワシは見舞いに行くだけで、死を覚悟していた彼女の気持ちを汲み取ることも、痛みや苦しみに寄り添うこともできなかったということか。ならば、ワシは何をすれば良かったというのか」
死を覚悟した人間の心情を安易な言葉であしらう老患者の態度に、看護師長として藤巻竜子は義憤を覚えてたしなめた。
「あんたねえ、人間なんて簡単に死を覚悟できるもんじゃないんだよ。死ぬ間際まで生きる奇跡を信じて祈っているんだよ。若草も恋するような思春期に死と向き合って、絶対に変えられない運命という壁に閉ざされて彼女は打ちのめされていた。あんた、言ったよねえ、彼女の為に何かやり残した事があるような胸苦しさを覚えたって。それが何だったのかを考えなさいよ」
藤巻師長に畳みかけられて熊五郎の顔が苦悶に歪む。
「それが分からんのじゃ。教えてくれ、師長さん」
「私は女だからね、智子さんの気持ちがよく分かるよ。彼女は十代の若さで亡くなったけど、生きていれば今年で八十三歳になる。故郷の墓に彼女は眠っているんだろ? 誕生日はいつなんだよ? 故郷の墓地へ行って、お骨に花飾りの指輪を捧げて来なよ。最後の手紙に書いてあるじゃないか、素敵なお嫁さんになれそうだって。海底人というのはあんたのことさ。人魚の海はこの世のことじゃない、あの世であんたと一緒になりたいって彼女の夢だったんだよ。夢見ていたんだよ、あんたと夫婦の契りのお揃いの指輪を」
心の襞に潜んでいた憑き物がようやく振るい落とされたかのように、熊五郎は安堵の表情を見せて頬が緩んだ。
「そうじゃった。指輪じゃ。指輪を買う前に彼女が死んでしまったから、すっかり忘れておった、というのは自分を欺く大嘘で、何年もの間、心の隅にずっと刺のようにひっ掛かっておったんじゃ」
心の奥に閉じ込めてきた欺瞞のほころびが繕われるように、老いた瞳が輝きを帯びて虚空を見やった。
「私が買ってきてあげるよ、浅草の仲見世通りで素敵な花飾りの指輪を。彼女には赤い、あんたには青い指輪をね」
老患者の手を握って励ますように言い残して藤巻師長は部屋を出て行った。
一通りの検査を終えた数日後、娘夫婦に付き添われて紅鮭熊五郎は第二内科病棟を後にした。
正面の玄関口から出ようとしたら、どこか見覚えのあるような無いような、六人のパジャマ姿と袈裟懸けの患者たちが満面の笑顔で手を振っていた。
北へ向かう夜行列車に乗るのは何十年ぶりだろうかと熊五郎は記憶をたどる。東京の風はなまぬるく、冬の身支度は遠い先だが、北国の山々にはすでに雪が舞い降っているのだろうか。
娘夫婦が案じて上野駅まで見送りに来てくれたが、彼らは故郷を知らない都会の育ちだ。列車に乗った瞬間から懐かしい匂いを感じることが出来るのは、故郷の空気を記憶している者だけの特権だろう。
発車のベルが鳴って列車はゴトリと動き始める。喉が渇いてふと鞄を開いてみると、養命酒と落花生が衣服の上に乗っかっていた。誰が入れてくれたのか知らないが、チビリチビリとやっているうちに酔いが回って眠りに落ちた。
うとうとと浅い眠りに夢を見ていた。深い海の中で人魚と戯れていた。淡くしなやかな人魚の薬指には赤い花飾りの指輪が嵌められていた。碧く深い海の中へ二人で消えて行く夢を見ていた。
目を覚ますと窓外はすでに北の風景だった。雪がちらつく朝だった。緑の卓球台に雪が舞って、待っているよ、と、呟く智子の笑顔が眩しく窓ガラスに映った。
<入水>
千葉市の上空は久々に雲一つない快晴だった。
極楽安楽病院の屋根の上で爪楊枝をくわえながら日向ぼっこをしていたカラスが、病棟の廊下から聞こえるけたたましい声に驚いて屋根からずり落ちそうになり、アホアホ、アホーと叫びをあげた。
「皆さん、事件ですよー。事件、事件、大事件ですよー!」
看護師たちの立ち話をナースステーションで立ち聞きしていた朝比奈が、血相を変えて九号室に駆け戻って来た。
「落ち着け朝比奈。ネズミがゴキブリをくわえて廊下を歩いてるくらいで大事件だなんて騒ぐなよ。それだからお前はいつまでたっても突発性慢性胃炎が治らねえんだ」
鉄仮面に吐きかけられてむせるニコチンタールを手の平で払いながら、真剣な表情を崩さず朝比奈が告げる。
「本当に事件なんですよ。八十二歳の老人が、いや、紅鮭熊五郎さんが、海に飛び込んで入水したって大騒ぎですよ」
六人は顔を見合わせて暫し呆然とする。
「入水ってことは自殺かのう」
と、善右衛門が呟く。
「あの後じいさんは外科で再手術をしたらしいが、奇跡的に成功してしっかり正気を取り戻したって麗子から聞いたぞ。それなのに、何を血迷って海に飛び込んだんだ」
鉄仮面が首をかしげる。
「おう善さん、奴の鞄に退院祝いだとか言って養命酒を入れてたけど、漢方秘薬の毒でも仕込んだのかい」
羅生門親分が善右衛門をなじる。
「毒など入れとらんぞ。しかし、スッポンなら海じゃなくて池に飛び込むはずじゃがのう」
「いやいや、年増でも別嬪の人魚に出会えば善さんだって海に飛び込むだろうよ」
二人の駄弁を鉄仮面がさえぎる。
「おい朝比奈、看護師たちの噂話はそれだけか。もっと気の利いた情報は無いのか」
「はい、紅鮭さんの左手の薬指には青い花飾りの指輪が嵌められていたそうですよ。それに、なぜか右手には手垢で汚れた使い古しの卓球のラケットがきつく握られていたそうです」
再び鉄仮面が首をかしげる。
「指輪とラケットとはどういうことだ」
「そりゃあシンドバッドの宝物じゃなかろうか。アラビアの踊り子が金の指輪をしてラケットみたいな扇子をくゆらして踊っておったが、紅鮭じいさんもえらく感動しておったようじゃがのう、ゲフォ」
「踊り子に感動してたのは朝比奈だろ。嫁にしてダッチワイフにしたいと涎をこぼしてやがったじゃねえか。おい朝比奈、ほかに情報は無えのか」
羅生門親分が朝比奈に問い詰める。
「そうですねえ、はっきりしないんですけどねえ、どうも藤巻師長が何か関わっていそうな雰囲気で……」
「なんだと。おい、どういう事なんだ、そりゃあ」
鉄仮面と羅生門親分に問い詰められて、困った素振りの朝比奈に代わって健太郎が口を挟んだ。
「この前の夜にナースステーションで聞いたんだけどさ、花飾りの指輪を藤巻師長がじいちゃんにプレゼントしたらしいよ」
「な、なんと……」
藤巻師長が関わっていると知って全員絶句したまま黙ってベッドに潜り込んだ。天竺和尚の布団の中からくぐもって聞こえる念仏が、悪魔の呪いに響いて耳をふさぐ。
夕霧家の墓は海の見渡せる丘の上にあり、墓石の側面に智子の戒名と没年月日が刻まれていた。
麓の花屋で花束を買い求めて丘を登った熊五郎は、墓前に佇みゆっくりとしゃがみ込んで目をつむった。
しばらく瞑目したのち周囲に人影がないことを確かめて、おもむろに拝石をずらして墓の中を覗いた。うっすらと狭い空洞に骨壺が見えるが、どれが智子の物か判別がつかない。確かめる手段も無いので仕方なく、骨壺が並ぶ棚の上に赤い花飾りの指輪をそっと置いた。
拝石を元の位置に戻して線香の束を二つ取り出し、マッチで火をつけて墓前に捧げた。一つは智子のために、そしてもう一つは自分に……。
墓参を終えた熊五郎は丘を下りて港に向かい、三陸の海を巡る遊覧船に乗った。波頭を舐める潮の香りは心地良い。
老年になると死ぬまでの年月を指折り数えて憂いが深まる。老いてしまえば全てのことが無情に疎んじられる。恩も羞恥も努力も栄光も、生きる権利さえも例外ではない。
生きることが当然の権利だと信じていたから智子の死が許せなかった。天を恨み運命を呪った。呪いながらも自分はのほほんと生きて来たと思う。
八十二歳になって生きることが権利と断じるならば、死ぬことが義務かもしれないと今思う。思い上がりの人生で、権利も能力も運命もごちゃ混ぜにして弄ばれていた。
いまさら貯金も無いし年金も無い。友もいないし生きる希望も未練もない。人生の岐路に立つ方向指示器の電光文字が、希望から孤独、孤独から絶望へと変わっていく。
人間とは不思議なものだ。若い頃には死が怖かった。
山の樹木や街の風景は変わらない中で、自分の存在のみが消えてなくなる。地球でさえも大宇宙の中のゴミのような存在で、いつか永遠に消えてしまうと考えて怖かった。しかし今、妻がいなくなり友がいなくなり思い出にも取り残されて、老いと孤独の深さを初めて知って希望を失い、死が怖いどころか待ち遠しくなる。
藤巻とかいう看護師長は言った、人魚の海はあの世の夢だと。
もはやこの世に未練など何もない。目をつぶろう。そして再び目を開いたら、そのとき自分は少年になって、永遠の虹を見ているだろう。
終わり
最後まで我慢して読んでいただき、本当にありがとうございました。
さて、漫画家の皆様へ!!
藤巻竜子と六人の患者たちをマンガにして、世に問うてみませんか?
埼玉の次に弾けるのは、千葉の病院かもしれません。
思い立った勇気が運命の歯車です。