第四話:病院内窃盗団との対決
「岩牡蠣食らえば鐘が鳴るなり法隆寺。秋風吹けば野豚が屁をする伏見稲荷大社。舞妓が舞うよ助六が踊るよ、えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、源五郎。ウイッ」
秋は馬鹿を詩人にかき立てる。即興の詩人が俳句と川柳と歌舞伎と阿波踊りを糞味噌にして、美しい日本の伝統も文化も破壊する。
「イワシ雲、サンマとサバの煮付けに峠の釜メシと味噌トンカツを食い過ぎて、しろたえの洋式便器に顔を突っ込み嘔吐する。げにさまよえる男のもの悲しさよ、秋の空。源五郎」
怒涛の馬鹿は、美しい日本語を徹底的にぶち壊し、いずこの国の言語だかもわからない、不気味なポエムを詠んで恥を知らない。
「ヘイ、ポーラ、杏仁豆腐に毛じらみ一つ、そこのアミーゴ、友達値段に負けとくから寄って行きなよ社長さん、アンニョン・ハセ寺、三千院、恋に疲れたオカマづれが三人、職場を求めて祇園の花街へ行くけど文句あるかいお兄さま、人生やけくそ真っ暗闇で、ドスとチャカとが命綱、エスカルゴ食って腹を壊してゲロしたノースカロライナの夕暮れ、秋の空。源五郎。ウイッ」
羅生門源五郎親分の向かいのベッドから、小学教諭の朝比奈が声をかける。
「気は確かですか親分。初めから確かじゃないかもしれませんが」
「おう朝比奈、窓の外のコオロギの声がやかましくて気にさわるから静かにさせてくれねえか」
「無茶言わないで下さいよ。どうしたんですか一体」
「便秘だ」
「出せばいいじゃありませんか」
「お前はいつからバカなんだ。出せねえから便秘だろうが、うすらボケ」
「腐った生卵を腐った牛乳と一緒にゴキブリを入れてカビの生えたコップで一気に飲み干せばスッキリしますよ」
「お前は小学校の神聖な教壇に立って、そういう風に教えているのか、けがれを知らない少年たちに」
「今どき、けがれを知らない少年なんて、百億人に一人発見できるかどうかの希有なレアものですよ。大海原の天空に冥王星を見つけるようなものですね。それにしても二十四時間飽きもせずにアルコールを飲み続けて、よくも下痢をしないで便秘になりますねえ。ギネスも驚きの世界的に貴重な異常体質ではありませんか。肛門に箸を突っ込んで大腸をかき回すよりも、脳味噌の配線がショートして発狂していないかをCTスキャンかMRⅠで徹底的に診てもらったらいかがですか。幸いにして、ここの精神科には、奇人変人蛮人原始人型脳細胞治療の専門医がいるそうですから」
「身に余る親切なアドバイスをありがとうよ。感謝の印しに鉛の玉を一発お前の脳味噌に見舞ってやるからジッとしてろよ。なあに心配するこたあねえ、慢性胃炎の悩みなんぞ一瞬にして消えてなくなるぜ。どうだ、うれしいだろう」
「アワワワッ、やめて下さい、銃口をこっちへ向けるのは。あ、マジで危ないじゃありませんか」
「やかましい。動くんじゃねえ」
「あわわわわわっ」
「あいや、しばらく」
ベッドの上に仁王立ちしてチャカを構える羅生門親分を制するように、天竺和尚が右手を掲げて身を乗り出した。
「便秘ならば、私が良い薬を持っておりますぞよ」
そう言ってベッドの下から黒いボトルを取り出した天竺和尚が、ギュッと蓋をねじるとツンと鼻腔を突く異様な悪臭が放たれた。
どす黒い液がコップにドクドクと注がれると、アンモニアとメタンガスにスカンクの屁をかき混ぜて腐った納豆をもみほぐしたような刺激臭が九号室に充満した。
「な、何だ、そのグロテスクな液体は。そんなものが便秘に効くのか」
鼻をつまみ、目をしばたかせて羅生門親分はベッドの上でのけぞりながら身構えた。
「金閣寺に古くから伝承される特効薬でありまするぞよ。効かないはずがありませぬ」
「お前、飲め」
「ヘッ?」
「ヘッ、じゃねえ。試したことはあるのか」
「無論。金閣山の山中でヒグマの母親が産後の便秘で苦しんでおりました際に飲ませてやりましたところ、すっかり全快したと喜んで、お礼にローヤルゼリーの蜂蜜を一瓶くれました」
「どうもお前の言うことはまゆつば臭くて、素直に納得できねえんだ。原料は何だ、言ってみろ」
「コホン。ブーゲンビリアのおしべとめしべを練り合わせ、美しいバラの花蜜にハーブの香りを添えて、房総山系の湧水で煎じたものでありまするぞよ」
「そうかい、そうかい。どうしても本当の事が言えねえんだな。鼻の粘膜を赤唐辛子と八丈島のくさやの干物で引っぱたかれたような悪臭を、ハーブの香りとうそぶくテメエの脳味噌をこのワルサーP38で正常な思考回路に修復してやるぜ」
「アワワッ、乱暴はいけませぬ。飲みやすいようにとの親切心で、真実を伏せただけではありませぬか。コホン、原材料はムカデの足にコウモリの目ヤニとゴキブリの卵を練り合わせ、マムシの毒とヒルの小便をかき混ぜて一晩じっくり煮込んだものですぞ。希望によってはセミの盲腸のふりかけもありますが」
「聞いただけで浣腸を百本打たれたような気がするぜ。効能あらたか過ぎて脳味噌も内臓も背骨も溶けて、一週間分のウンコに混じって出てきそうじゃねえか、あん。早速試してみようじゃねえか、お前の身体で」
「あっ、私は健全な便通が毎朝、はい。はは、ははは。ご、ご心配なく。あはは、あはは」
「やかましい。さっさとコップの液体を飲み干さねえと、ワルサーP38がテメエの脳味噌めがけて火を噴くぜ」
狙いが天竺に移ったドサクサにまぎれ、朝比奈誠が出口に向かって走り出た。
「あっ、野郎、逃げる気だな」
羅生門親分の注意が朝比奈にそれた隙を見計らって天竺乱漫丸も出口に走った。
「あっ、テメエ、もう容赦しねえぞテメエら」
九号室の扉がバンッと開かれて朝比奈が左へ、天竺が右へ飛び出すのと擦れ違いざまに看護師の桜川麗子が真正面に姿を現して立ちすくんだ。
「な、何をやっているんですか、あなたたちはドタバタと。ここは夜店の射的場でも鬼怒川温泉のウエスタン村でもないんですから、いい加減にして下さいよ親分さんも。検温ですよ、検温! 血圧も測りますよ親分さん」
「おう、姉ちゃん」
「なんですか?」
「悪いけどなあ、ちょいと下腹をさすってくれねえか。時計回りに」
「どうしたんですか?」
「便秘だ」
「後で薬を持ってきてあげますわ」
「駄目だ。一週間も飲み続けているんだが、いっこうに効き目がねえんだよ」
「藤巻師長さんに報告しておきますから」
「バカ言うんじゃねえ。メスで肛門を切り裂かれちまうじゃねえか。それで泣いている奴を何人も知っているんだ」
「仕方がないでしょう、下剤を飲んでも効かないならメスで切り裂こうが放射能で溶かそうが」
「おう、姉さんよう。自分が白衣のエンジェルだってえ自覚を忘れちゃあいけねえよ。ウンコが出ねえで苦しんでる患者様がいたらねえ、子守唄の一つでも口ずさみながら舌で腹をなめるくらいのリップサービスは常識だって聞いてたぜ」
「どこの病院のどんな看護師ですかそれは。看護師は常に患者様の様子を観察し、身も心も捧げて誠心誠意の看護に尽くしているのですから、患者の皆様方も自分が病人だってことを肝に銘じて治療に専念して下さいよ。一日中、酒ばっか喰らっていないで。だいたい親分さんは何の病気で入院しているのかしっかりと認識しているんですか。主治医の先生から厳しく言われているでしょう。酒も煙草も賭博も暴力行為も夜間の無断外出も禁止だって。この前も一升瓶を抱えて夜中にどこへ出掛けて行ったんですか。栄町のピンサロの病院ゴッコのエンジェル娘がどうとかって口走って、先生に叱られたのを忘れたんですか。ちゃんと聞いているんですか親分さんよ」
羅生門親分は背中を向けて、狸寝入りのイビキをグウスカかいていた。
<病院荒らし>
「そういえば看護師さんや。また病院荒らしが出たそうじゃないか。さっき婦人科を通りかかったらその話で持ちきりじゃったぞ、ゲホッ」
善衛門の発言に聞き耳を立てた鉄仮面は、麗子に顔を向けて好奇心を丸出しに身を乗り出した。
「ほう、そいつは聞き捨てならねえなあ。おい麗子、どういう事なんだい。詳しく話してもらおうじゃないか」
「はい、このところ病棟内で置き引きや窃盗が多くなっておりますからね、皆さんも現金や貴重品をなるべく身の回りに置かないように充分お気をつけ下さいな」
愛想のない麗子の返答に鉄仮面が焦れる。
「アホウ、誰がそんな通り一遍のことを聞いているんだバカ。どこで誰が何を荒らされてどうなったかを具体的に聞いているんだ。そういう情報をきちんと患者様に報告して注意を喚起することこそが、病院側のあるべき姿勢というもんじゃあないのかい看護師さん、あん」
かたくなに開き直って麗子が応じる。
「警察官の取り調べでもないのに、患者様の秘密を勝手に漏洩する行為はかたく禁じられておりますわ」
「おい麗子、そういう意固地な態度が幸せな夫婦生活を破綻させるんだぞ。女というやつはな、もっと優柔不断な従順さと、卑猥な心が必要なんだ。東に悩めるオカマがいたら、正しい立ちションのエチケットを看護師の立場で手ほどきしてやり、西に嫁いびりの姑がいたら、親戚のトメ婆さんが二十年前の嫁いびりの仕返しに嫁と孫とでシカトされ虐待され、百倍返しの生き地獄の日々を送っているよと教えてやる。これがナイチンゲールの真の優しさというもんじゃあないのかい。お前も知っての通り、ここにいる連中はみんな口が堅い。キンバリーのダイヤモンドよりも堅い。何を聞いたって墓場に行くまで秘密は守る。歯科医にドリルで歯茎を血みどろにされたってしゃべりゃあしねえよ。そういえば二日前、婦人科のロッカールームからヴェルサーチの赤いパンツが盗まれたって、第一内科の若い看護師が騒いでいたなあ。どういう事なんだい。全てをゲロして楽になっちまいなよ、あん。お前がどうしても口を割らないと言うなら、俺にも考えがあるんだぜ」
「どういう考えがあるんですか。どうしても聞きたければ藤巻師長に聞いて下さい」
「お前ねえ、去年までは白衣のマリアみたいに素直でいじらしかったけど、いつからそんなにひねくれ女になったかねえ。保護者の僕としてはとっても悲しいよ」
「いつから私の保護者ですか。いいですか、ここだけの話ですから絶対に内緒にして下さいよ。決して口外してはならないと、きつく釘をさされているんですから」
「分かってるよ麗子、俺たちを信じろ」
九号室の面々はベッドから降りて通路に集まり、耳を寄せ合って麗子の話に聞き入った。
十日ほど前に婦人科病棟の看護師用ロッカールームが荒らされて、財布や預金通帳やブランド物が盗まれた。鍵が壊されることもなくロッカーの扉は開けられていた。プロの仕業に違いないと、もっともらしく巡査は言って、ロッカーや壁面に白色の溶液をベタベタと塗りつけて指紋を採取した。
そして五日前には、大部屋が荒らされ患者の小銭や貴金属が盗まれた。さらに三日前、個室に入院中のセレブを自負する宝石商の社長夫人の床頭台の引き出しから、現金三十万円と黒水晶の指輪が盗まれた。
これ以上被害が増えれば噂が広がり、市立病院としての信用どころか経営がゆらぐ。事態を重く見た院長は、積極的な捜査を千葉県警察本部に申し入れた。
これを受けた刑事部捜査第三課は、複数によるプロの手口に間違いないと判断し、私服の刑事を極楽安楽病院内に送り込んだ。
どんな顔で、どのような服装で、何人の刑事がどこに潜んでいるのかは、医師も看護師も誰も知らない。また、刑事が張り込んでいる事を、患者にはもちろん、院内外にも決して知られてはならないと緘口令がしかれていた。
「そういうことですから、絶対に極秘にして下さいよ。いいですわね鉄仮面さん。親分さんも善衛門さんも天竺さんも。もしも私がしゃべった事が分かったら、院長に蹴飛ばされて師長にメスで突かれるくらいでは済みませんから。くれぐれも承知しましたわね、口の堅い皆様方よ」
「聞きましたかい親分。こいつは病院のためにも市民のためにも、一肌脱がない訳にはいきますまい」
鉄仮面は眉間に深い皺を寄せ、羅生門親分を見据えて言った。
「おう、白衣のコスプレのお姉ちゃん、本日をもって大船に乗ったつもりで看護の業務に専念してもらいやしょうか。プロの始末はプロがつける。これがプロの常道だ。お天道様に背を向けて、まんまるお月様に眼を切り、極道の掟をなおざりにしてプロの道をはずれた奴は、東京湾の藻屑となってサメのエサにでもなれば良い」
「ちょっと親分さん、何を考えているんですか。何かしでかすつもりじゃないでしょうね。今も言ったでしょう、警察にお願いして私服の刑事さんが潜伏しているんだって。余計なことをして邪魔立てしないで下さいよ。私が師長さんに叱られるんですから」
渋面で唾を飛ばす麗子を制して羅生門親分は、岩石のように厳つい胸をはだけてポンと叩いた。
「心配は無用だぜ。ワシが乗り出した以上は盗人の十匹や百匹くらい、右手を上げて下ろすまでの間にふん捕まえて、両手両足背骨をへし折り、頭蓋骨をかち割り、きっちり詫びを入れさせた上で木更津沖に沈めてやるぜ。なあに、ご政道のさまたげや、ご法度にふれるような真似なんぞしやしねえ。おい朝比奈のう、お前さんの携帯とやらを貸してもらおうか。何い、病院内の携帯電話の使用はかたく禁じられておりますだとう。テメエ、院長でもないのに勝手に法律なんぞ作るんじゃあねえぞ。そんな役立たずのオモチャはこのワルサーP38でこっぱみじんに、おおそうか、素直だねえ。すまねえなあ。何、写真も撮れるって、こうかい」
「や、やめて下さい、爪楊枝の先でレンズを突付くのは」
ピーパパパッ ピッピーのピッ
「おう、ワシじゃあ。何い、ワシの声が分からんだとこのヤロー、オンドレぶち殺して風呂敷に包んで、おおそうか、ようやく分かったか。いいか、鼻クソほじくってんじゃねえぞ。耳クソかっぽじいて良く聞けよ……」
羅生門親分は若頭の鬼倉に、訳の分からない専門用語でボソボソボソリと何かを命じると、携帯を切ってパチンと閉じた。
看護師の桜川麗子は、不安というよりも尋常ならざる脅威と後悔の念を胸に抱きつつ、うしろ髪を引かれる思いで九号室を後にした。
<清水野痔呂長刑事部長>
千葉県警察本部・刑事部捜査三課の清水野痔呂長刑事部長は、市立極楽安楽病院の事務局長から連続窃盗事件のあらましを聞いて、単独の犯行ではないと判断した。
被害者が不在になるタイミングを正確に掌握しているにもかかわらず、誰にも姿を見られていないからである。あるいは、見られていたとしても、不審者という印象を持たれていないからである。
患者や看護師の行動を観察できる内部の仲間から連絡を受けた実行犯が、病室やロッカーに忍び込んで窃盗を働いている。内部の仲間とは、患者かその家族及び見舞い客ということになる。
清水野刑事部長は、婦人科病棟に入院中の患者情報を極秘扱いで病院から入手して、本人及び家族親戚に犯罪履歴者がいないかどうかを確認したが、一人も該当者はいなかった。窃盗の手口はプロだが、内部の通報者は素人の女性ということになる。
内部の仲間から連絡を待つ実行犯は、どこで待機するだろうかと病院の見取り図を見ながら清水野は思案した。
携帯電話を使用できる場所だとすれば駐車場だろうか。いや、すぐに行動を起こすには遠すぎる。携帯電話はバイブレーションでも感知できるしメールも送れる。
病棟内では顔を覚えられてしまうし、人気の少ない病棟外の周辺ではあやしまれる。結局、誰がいても不審に咎められることのない外来の待合ロビーしかないと清水野は推理した。
清水野は、ベテランの婦人警官を看護助手に変装させて、ナースステーションに常駐させた。月面噴火で生じたクレーターのようなニキビ跡を顔面にちりばめた中年の行かず後家の婦警は、眼光鋭い空手十段、合気道二十段の猛者だった。
清水野刑事部長はハンカチで口元を覆い、いかにも弱々しそうに背中を丸めて外来の患者を装い、ロビーの待合席で張り込みをすることにした。
玄関から入って来た患者は必ず受付カウンターの窓口へ向かうはずであり、見舞いの客ならば病棟へ通じるエレベーターホールへと向かうはずである。どこへも行かずに挙動不審にうろつく奴はあやしい。
犯罪者を見抜く眼力と、挙動を嗅ぎ分ける臭覚にかけては誰にも引けは取らないと清水野痔呂長刑事部長は自負していた。
張り込みを始めた翌日のこと、待合ロビーが患者たちの咳と吐息と熱気でむせ返り、待合席の長椅子があらかた埋めつくされた頃だった。
猫背だが肩幅が広く、がっちりと鍛えられた体格の良い長身の男が、白いマスクで口元を隠してうつむき加減に玄関からロビーに入って来た。
男は正面のカウンターへ向かったが、どの窓口にも声をかけることなく待合室全体を一瞥するように、スイッと素通りしてエレベーターホールへと向かった。
上目づかいに一瞥を放った眼光は、尋常の者とは思えない。チャコールグレイの背広に隠された肉体は、頑健に鍛え抜かれた筋肉質の体躯であろうとにらんだ刑事部長の清水野は、すぐそばの公衆電話にテレカを突っ込み、婦人科のナースステーションを呼び出した。
連絡を受けた看護助手に扮した婦人警官は、エレベーターから出て来るはずの白いマスクをした猫背の男を廊下の隅で待ち受けた。
「おや」と思って婦人警官は首をかしげた。
エレベーターから出て来た男は、猫背でもなく白いマスクもつけてはいないサラリーマン風の若者だった。だが、周囲の空気を威圧する頑健そうな体躯と、とぎ澄まされた刀の切っ先も刃こぼれしてしまいそうな眼光の凄さが堅気の人間ではないことを証明していた。
その男は婦人科病棟の廊下をゆっくりと進み、突き当たりで向きを正面にもどすとまたゆっくりと戻って来た。正面に向けた顔は上下にも左右にも振られることはなかったが、鋭利な視線は間違いなく左右の病室の中の様子を捉えていた。
見舞い客ではない。明らかに獲物を狙っている狼の眼だと婦人警官は胸の内で身構えた。でも、何か妙だとも感じた。
開け放たれた病室の中をうかがったところで、現金や貴重品が目に見える場所にさらされているはずもない。内部の仲間からの連絡を受けて現われたのならば、狙いを定めた病室へスイッと駆け込み、盗みを終えてすみやかに逃亡するはずである。ところがこの男は盗みを働く様子もなく、ゆっくりと時間をかけて病棟の廊下を歩いている。
ナースステーション脇の廊下にたたずむ看護助手の姿を認めると、男はピタリと立ち止まった。
男のまなざしが看護助手の瞳に向けて稲妻のような一閃が放たれたその刹那、ベテラン婦人警官の射るような視線が電光石火の勢いでバチチンッと激突し、紅蓮の火花がはじけ飛んであわや病棟の天井が焼け落ちてしまうかと思われた。
さては正体を見破られてしまったかと、婦警は月面噴火で生じたクレーターに似たニキビ跡をゆがめて下唇をギュイッと噛んだ。この男、ただの置き引きや窃盗犯ではない。暗黒世界のプロ中のプロだ。婦警のクレーターにひとすじの脂汗がにじむのを認めた男は、ササッときびすを返すと何も言わずにエレベーターへと消えた。
清水野は胸中に高まる早鐘を抑えるように、しきりに舌打ちを繰り返していた。白マスクの男はエレベーターの中に消えて病棟へ向かったことは疑いようもない。
婦人科病棟にはベテランの婦警を一人配しているが、もしも犯人のターゲットが他の病棟であったならば、そこで新たな窃盗が行われていたとするならば自分の失態である責任は免れようもない。男を堅気の人間ではないと看破しながら、どうして後を追わなかったかを悔やんでいた。
あせる気持が清水野の視線をエレベーターホールに向けさせていた。両側に三機づつ並ぶエレベーターの扉が開くたびに、清水野の視線は釘付けになった。と、その時、右端の扉がスイッと開いて白マスクの男が現われた。
清水野は、とっさに目を伏せて後ろ向きに身をすくませた。男の靴音がはっきりと聞こえる。その靴音が清水野の背後でピタリと止まった。
「お勤めご苦労様にございます」
ハッとして肩を怒らした清水野に、軽く一礼をした男はロビーを抜けて玄関を出て行った。
「あの野郎、何で気付きやがったんだ。俺を刑事と見破るとは小者の窃盗犯ごときとは思えねえ」
ひるむ思いを叱咤して、清水野は男の出て行った後を追いかけた。男は姿をくらます風もなく、駐車場に駐車中の黒塗りのキャデラックに乗り込んで、そのまま動く気配を見せなかった。
そして一時間後、白いマスクの男は長身の肩を猫背にして玄関からロビーに現われた。そしてエレベーターに消えて、また現われて駐車場のキャデラックに乗り込んで動かなかった。
キャデラックのナンバーを県警本部に照会したところ、危険組織マル暴の所有する車両一覧にリストアップされていたので男の正体はすぐに割れた。
「なぜだ」
阿修羅連合会の獄門組ほどの組織が、病院の置き引きや窃盗などのセコイ仕事をするとは思えない。ならば、何の目的であの男は極楽安楽病院に出没しているのか。しかも婦人科病棟だけに。
白マスクの男は毎日一時間おきに現われた。清水野は男を無視して張り込みを続けた。しかし、特に怪しい人物も現われず、事件も発生しないまま一か月が過ぎたので、これ以上の張り込みは無駄だと判断した清水野は、院長の了解を得て婦警ともども病院を引き揚げた。
刑事が消えて、白いマスクの男も消えた三日後のことである。警察の動きを見透かしたように事件は起きた。
「あたしゃねえ、この歳になって子宮の病を患うなんて思ってもみなかったよ。二十数年前に生理が干上がり、子宮にカビが生える年齢になるってのに、何だか気恥ずかしいよ」
「何を言ってんだいスエさん。あたしこそこの歳で乳房に悪い虫が棲みついたからって半分手術で持ってかれちまったよ。嫁も孫も馬鹿にしくさって見舞いにも来やしないよ。その点、あんたが羨ましいねえ。毎日かいがいしく嫁が世話をしに来てくれるじゃないか」
「冗談じゃないよ。外ヅラはいいけど、とんでもない鬼嫁さ。息子がだらしなくてさあ、ろくな職につかずに博打に明け暮れ、あたしに金をせびりに来るのさ。息子の馬鹿さ加減は私のしつけの失敗だと反省して渋々小銭を渡していたんだけどねえ、いよいよ様子がおかしいんだよ。嫁の入れ知恵じゃあないかと思っているんだけどねえ」
「一億円の生命保険でも掛けられたのかい。やっぱり一年間の限定掛け捨てかい。老い先短いあんたの歳でも、命を担保にできるのかねえ」
「あんた、割とシビアでしんらつな事を平気で言うねえ。保険屋なんてのはねえ、ババアの命だろうがゴキブリの糞だろうが銭になるなら何でも担保にしちまうのさ」
「ほう、やっぱり一億円の保険金目当てだね。それとも二億円かい。子宮の病で死ぬのが先か、嫁に毒を盛られてくたばるのが早いか、楽しみが多くて幸せだねえスエさんは」
「あんたねえ、他人のことなんか言ってられないよ。つい先日のことだったねえ、あんたとこの嫁に尋ねられたよ。トリカブトのカブト煮と、タランチュラの毒入りハンバーグはどちらが年寄りに好まれるでしょうかねえって聞くからさ、青酸カリウム毒入り味噌汁を添えてやればどっちだって喜んで食べるよって答えたら、そのカリウムはどこで売っているのかってしつこく聞かれたよ。いい嫁をもらって姑冥利につきるねえハナさんは」
「そんな事より、一億円の続きを聞かせておくれよ」
「実はねえ、生命保険なんかじゃないんだよ。息子夫婦が私の家へ同居したいと言い出したのさ。いよいよ私の財産を根こそぎ狙ってやって来たのさ。その気苦労がたたってカビの生えた子宮から血が噴き出してしまったんだよ。だからね、あたしゃここへ入院する際に現金と預金通帳を全部持ち出して来たのさ。多分ね、息子と嫁は家中を探し回っていることだろうさ。それをこのベッドと布団の間に入れて隠しているのさ。もしもの時のために看護師さんにだけは教えているけど、誰にも話しちゃあいけないよ、ハナさん」
「そんな事かい。わかったよ、スエさん」
<婦警と雛形小町>
四人部屋に入院中の七十六歳の老婦人の所持金と預金通帳が盗まれたと県警の清水野刑事部長に連絡が入ったのは、病院を引き揚げて三日目のことだった。
同室の患者が盗んだのではないかと疑いの目が向けられ、半狂乱になった老婦人同士が殴る、蹴る、噛み付く、点滴の針を腕から引き抜いて目を突き合うなどのいざこざとなり、これをなだめようとした隣室の患者や看護師が入り混じって飛び膝蹴りや回転鉄柱卍固め、イナバウアー脳天ラリアットの大乱闘の血の海となり、救急車が十台駆けつけたと報告された。
再び県警から派遣された清水野は、戦術を変えなければならないと思案していた。刑事が病院に張り込んでいた事を、なぜか犯人は知っていたのだ。同じやり方を繰り返せば、犯人はまた警戒して現われなくなるであろう。
清水野は大部屋の空きベッドを利用して刑事課のベテラン婦警を、今度は患者に装わせて潜入させることにした。院長と事務局長と婦人科病棟の看護師しか知らない極秘の入院手続きを済ませて六人部屋にもぐり込ませた。
日を同じくして、婦人科病棟の個室に病名不明の婦人患者が入院してきた。その女、雛形小町は、ケツの穴から血が出たと言って外来を訪れた。
それでは検査をしましょうと医者は言って、血液採取、検便、検尿、レントゲン、胃カメラ、血圧、脳波、心電図、腎臓、肝臓、盲腸、結腸、子宮、切れ痔、いぼ痔、ケツの割れ具合を調べた結果、どこにも異常はありませんと健康印の太鼓判を女のケツにバコンと押した。
そんなイカサマはないだろうと、雛形小町はケツをまくって開き直った。か弱い女がケツから血を出して、目眩と不感症と貧乏ゆすりに苦しんでいるんだから、本気出して精密検査をしてもらおうじゃあないか。それとも鼻血とメンスが出口を間違えて、ケツからズリズリ流れ出たとでも言うのかヤブ医者と叫んですごむので、ならば好きなだけ入院すれば良い。ただし、空きベッドは一泊十万円のアラブのスルタン・ラグジュアリー・ルームしか無いと言われて、女は嬉々として入院したのであった。
百カラットのダイヤモンドもどきの指輪をはめて、サファイアとルビーとトルマリンもどきのネックレスを首からダラリとぶら下げた雛形小町は、看護師に付き添われて特別個室に案内された。
扉を開けて一歩室内に踏み込んだ雛形は、大仰に肩をすぼめてのたもうた。
「何とむさ苦しく殺風景な部屋ですこと。パイプのベッドときたならしい袖机を廃棄して、天蓋付きのダブルベッドと天然エメラルドの小テーブルを入れましょう。二百インチのデジタル対応高精細液晶テレビを据えて、マークレビンソンのステレオセットを配し、壁紙にダイヤモンドの粉塵を散りばめ、床に直輸入のペルシャ絨毯を二枚敷きつめ、天井からホワイト・オパールのシャンデリアをぶら下げて、窓際に噴水付きのコチョウランを植えてもよろしいですわね看護師さん」
「何か言いましたかい患者さま」
「あら、そうそう。これは些少ですけれどもチップですわ。ほんの五十万円ですわ。ホホホッホのホッ」
看護師の小林千津世は、憮然とした態度で雛形小町を睨みつけた。
「ここは市立の総合病院ですよ。チップなんて受け取れません」
剥き出しの現ナマを見て心臓が五倍に膨張し、喉から両手が出そうな動揺を必死にこらえながら看護師の小林千津世は拒絶した。
「あら、少なかったかしら。ならばさらに五十万円、ホレ」
ハンドバッグよりも大きいウミガメの甲羅製の財布から剥き出しに見える大金を、うらめしそうに目をやりながらも小林千津世は毅然と言い切ったのであった。
「そういう問題ではありません。病院の規則ですから一銭たりとも頂くことはできません。緊急の際にはナースコールのボタンを押して下さい。それでは」
そう言って立ち去ろうとする看護師に、雛形患者様は問いかけた。
「お風呂は当然二十四時間入浴可の専用ですわよねえ? あら、時間割りですって? さらに曜日割りも? あらまあ。石鹸はありますのかしら、イヴ・サン・ローランの。シャンプーとリンスは私専用のシャネルの五百番を使用するからいいんだけれど、湯船の中にジバンシーの香水と有馬温泉の湯の花を入れて赤いバラの花を浮かべてもいいのかしら看護師さん。オッホホホのホッ」
「熱湯の風呂釜の底に頭の先から沈めてやろうか、クソ女」と、口走るところを必死でおさえ、入浴のルールを丁寧に説明して小林千津世は部屋を出ようとしたところ、雛形患者様は再度問いかけた。
「この部屋に貴重品を収める金庫はあるのかしら?」
憮然として看護師は答える。
「ありません。床頭台の引き出しに鍵をかけられますから貴重品はその中へ」
「あらまどうしましょう、こんなチンケな鍵で百カラットの宝石や五百万円入りの財布を守れるのかしら。まあいいわ、仕方ないわね、とりあえず引き出しに入れておきましょう」
「ここは舞踏会の会場じゃあないんだよ。地下の売店の商品を全部買い占めて五百万円出したら四百九十九万円のおつりが来るでしょうよ、うすらバカ低能患者」と、腹の中で罵りながら小林千津世は特別個室の扉をバタンと閉じて出て行った。
<看護師・小林千津代>
婦人科病棟に勤務する看護師の小林千津世は、二歳の誕生日を迎える前に両親と兄を失った。一人ぼっちになってしまった千津世は祖母のもとで育てられた。
システム・エンジニアとしてコンピューター会社に勤めていた父は、利益を優先して過当競争にあえぐ企業の戦士として犠牲となった。人権無視の過剰勤務を強いられて体調をこわした父は、ノイローゼを発症しウツとなり、薬漬けにされたあげく一年後に自殺を図って命を絶った。
父を死に追いやった会社を恨んだ母は、訴訟に踏み切り法をたてに戦ったが、会社の仕打ちは冷酷だった。過労で衰弱した母に病魔が追い打ちをかけ、幼い兄と千津世を残して父の後を追うように母は死んでしまった。
母の死がよほどのショックであったのか、小学生だった兄は庭の柿の木によじ登り、「シェーン、カムバック!」と叫んだ刹那、枝がポキリと折れてまっさかさまに転落し、運悪く脳天を打ちつけて死んでしまった。兄の口癖だった「敵は本能寺にあり」ではなくて、なぜ「シェーン、カムバック」だったのかは分からない。
孤独の意味も家庭の温もりも知らずに、千津世は一人ぼっちで取り残された。そして父の残した貯金のおかげで中学校から高等学校へと進学できた。
高等学校の倫理の授業で、愛という文字を見つめて何度も綴った。肉親の愛と他人の愛は違うのだと先生は言ったけど、どのように違うのかを教えてはくれなかった。
父の愛は天よりも高く、母の愛は海より深いと教えられたが、どのように高く、いかに深いかを具体的には教えてくれなかった。父と母が自分に与えてくれたのは、誰よりも醜い容貌だった。これが肉親の愛なのかと、鏡を見つめて罵った。
確かに私の醜さは天よりも高く海よりも深いかもしれない。犬も野良猫も顔をそむけるし、ゴキブリさえも避けて逃げる。化粧をすればピエロと言われ、化粧を落とせば化け物と言われる。どうすれば人間と呼んでもらえるのか。アバタもエクボだと祖母は慰めてくれるが、どう見たって土石流と溶岩だ。
反抗する相手もいないのに反抗期を迎え、愛の違いも分からないうちに思春期を迎えた。乳房は疼くのに振り向く男などいやしない。
目がしょぼくなくて、鼻が扁平じゃなくて、唇がナマコじゃなくて、顎がしゃくれてなくて出っ歯じゃない女の子がクラスにはたくさんいる。天は人の上に人を造らずっていうけれど、あたしの上にどんだけ人を造るんだ。天とはなんだ、ファミレスの天丼かアホンダラ。
父と母の遺伝子がどう絡まれば、こんな難解な顔ができるのか。これが愛の結晶なのか。愛とは絶望の類語なのか。生まれる前に分かっていれば、腹の中でへその緒を噛み切っていた。それでも鏡を見つめた。鏡に映る自分の顔の裏側に、母がいるような気がして語りかける。
今日一日、学校で何をしゃべっただろうか。友にも先生にも何も語ることなくいつものように孤独に過ごした。それを孤独だとも苦痛だとも思わなかったが、心の底で愛に憧れ、愛を夢想し飢えていたように思う。父に抱かれたくて、兄に甘えたくて鏡の中に幻を見た。醜いアヒルの子のままで我慢するから、夢の中に愛のちぎりを見せて欲しいと幻を追った。
愛が無くても孤独でも、人は幸せになれるのだろうかと考えた。なれるはずがない。幸せという文字を綴ってグシャグシャにもみ消した。あとかたもなくなった文字の薄墨が今の私の哀れな姿だ。
千津世が看護師という職業に憧れるようになったのには理由がある。ナイチンゲールの献身的な愛と奉仕の精神に触発された訳では決してない。そのような志など爪の垢ほども無い。
祖母が風邪をひいて微熱を出した時、祖母は薬局で薬を買い求めるよりも病院で診察を受けて処方箋を求める方を好んだ。
病院に付き添って行った千津世は、溌剌として働く白衣の看護師の立ち位置に気付いた。全ての患者たちから畏敬と親しみの眼差しで見つめられていることを、彼女たちは当然のように受け入れている。
それは学校の先生たちが父兄から受ける眼差しと、富士山とボタ山くらいに開きのある孤高の煌めきに思えた。
白いナースキャップが聖職の証として白衣に馴染み、ドブスもアバタも五割増しの美人に見せて、陰りも憂いも存在しない。
高等学校一年生のとき、千津世はクラスの男の子からバドミントン部に入らないかと誘われた。初めて男の子から声を掛けられた千津世は動揺した。
バドミントンなんかに興味はなかったし、その男の子は眉目秀麗どころか醜悪だった。だけど千津世は誘いに乗って入部した。何かが変わるような気がして、見知らぬ愛の未知なる手触りに触れることができるかもしれないと、ほのかな期待を抱いて誘いに乗った。
同好会として創部された仮の部室に集まったのは男子が三名、女子が五名ほどだった。和気あいあいと練習が始まったのだが、男の子は千津世に声もかけてはくれなかった。千津世が近付けば露わに邪険な態度で背を向けた。
男の子はクラスの全員に声を掛けていたのだ。部員が少なくて部費が付かないから、員数合わせに誘われたのだ。馬鹿にするなと千津世は憤った。あんな醜い男にまで愚弄されてと憤怒にまみれて、ニキビの膿が吹き飛んだ。
だから看護師に憧れた。鬱陶しい孤独のベールを脱ぎ去って白衣の天使になりきれば、今までに出会った誰でも自分を見つめる眼差しが変わるはずだと信じて夢を抱いた。
看護学校へ進学したいと祖母に告げたら、花も嵐も蹴飛ばして、世の為、人の為、患者様の為に汗を流して銭を稼ぎ、男に頼らず媚びを売らず、行くが近代日本の女の生きる道だと相好を崩して賛成してくれた。
本音はそうではなかった。看護師の資格さえ取得させれば、生涯男に縁が無くても生きていけるからと安堵したのだ。
<婦警の確信>
雛形小町の特別個室には、連日大勢の見舞い客が押しかけて賑わっていた。ベッドのまわりにはコチョウランやメロンなどの見舞い品が積み重ねられて、足の踏み場もないほどだった。
そうして三日目の夕刻になると、一通りの見舞い客が一巡したのか、開け放たれていた入口の扉がピタリと閉じられて人の出入りもなくなった。そして四日目の午後、五名の女性客が特別個室に訪れ、部屋を出たのは四名だった。
消えた一名の存在など誰も気にとめるはずのない、何気ない見舞い客の訪問風景であるはずなのだが、婦警だけは見逃さなかった。
自分と同じ日に入院してきた小柄な女に、ベテラン婦警の勘が反応していたのだ。病人にしてはあまりにも元気溌剌として顔色もすぐれ、水商売でもなくOLでもなさそうだが、普通の主婦にしてはスレている。
一日目も二日目も、特別個室を訪れる見舞い客の人相と人数はきっちりとメモに記した。三日目が過ぎてようやく客足が途絶えて気がゆるんだ。その翌日を狙った知能的戦術に、油断のできない相手だと婦警の職業意識に緊張が走った。
だがこれで、窃盗犯の一味を特定できたと婦警は確信した。実行犯は病棟の外部で待機していたのではなく、病室の中にひそんでいたのだ。あとは犯行の現場を押さえ、現行犯逮捕に持ち込むだけだ。
婦警は清水野刑事部長に連絡を取って、特別個室の患者の身元を洗って驚いた。セレブを気取るあの女は、産業界を牛耳る雛形財閥のご令嬢だった。
いやいや、そんな筈はない、その名をかたって病棟に潜入した窃盗犯一味に違いない。
もはや注意を散漫にしてはならない。大部屋の扉を開け放ち、通路側のベッドに横になって患者を装いながらも、はす向かいの個室の扉から一時として目を離すことはできないと、婦警は神経をとがらせた。
午後二時きっかり、特別個室の女がビニールバッグをさげて部屋を出た。空室になったはずの個室には、消えた女が一人ひそんでいるはずだ。出て行った女を尾行するか、個室に残された女の動きを見張るか考慮した結果、個室の扉の監視を続けた。
およそ四十分後、濡れた後ろ髪をつげの櫛でとかしながら女は戻ってきた。登別の温泉でも草津の露天風呂でもない、殺風景な病棟の入浴にしては長過ぎはしないかと疑念を抱いた婦警は、翌日の午後二時きっかりにビニールバッグをさげて部屋を出ていく女の後を追尾することにした。
<入浴>
女はエレベーターを使わずに階段で一階まで下りていった。病人とは思えない足運びで階段を下りた。窓の無い通路を進むと、気のせいかボイラー焚きのスチームのぬめりが鼻腔をくすぐる。
浴室の扉をガラリと開けて、女の姿が中に消えた。しばらく間合いをとって、ゆっくりと浴室の扉を開いた婦警の眼前に女の素肌がさらされた。
伏し目がちだが大胆に、肢体をあらわにする女の白いうなじから大腿部までのしなやかなもち肌と、横浜中華街で買った豚マンのようにふくよかな乳房の美しさに婦警は見とれて嫉妬した。
ともかく女の所在を確認してとりあえずの目的は果たしたのだが、このまま病室へ戻るのも不自然なので、婦警も寝巻きの紐をほどいて洗い場に入った。
何者かに尾行されているぞと、雛形の第六感が警鐘を鳴らした。一階の通路に続く階段での足音に耳を凝らすと、微妙にちぐはぐな歩行の乱れを感じたのだ。
それだけではない。浴室に入ってしげしげと自分を見つめる女の眼光は病人のものではない。さらに、寝巻きを脱いだ女の身体には、中年自慢の中性脂肪もぜい肉もない見事な筋肉質だった。パリのルーブル美術館の写真集で目にしたミケランジェロの秀作である力道山の、いや、ダビデの像でさえも苦虫をつぶしてしまうのではないかとさえ思われた。
雛形が湯船に向かい、婦警も続いて洗い場に入る。
おちょぼ口で天井を見上げながら湯船につかる雛形と、背中合わせに身体を沈めた婦警の間には、目には見えない一千万ボルトの電子の火花がスパークしていた。
雛形は尻の吹き出物のかさぶたを浴槽の底でボリボリとかきむしっていた。大きな背伸びをしてフゥーッと息を吐き出すと、湯船から上がりざまに女の顔面で屁をひった。
「ヴフッ、ヴッ、ウグググ」
何を食ったらこのような屁になるのでしょうか。宇都宮のニンニク餃子を腐らせて、八丈島のクサヤを焼いて毒ガスをまぶしたような殺人臭気をいきなり浴びせられて呼吸停止した婦警は、溺死寸前のところで鉄の気力を振り絞り、かろうじて湯船の中で身を立て直した。
女の行為が礼儀知らずの本能だったのか、それとも作意なのかを量りかねた婦警は鼻の穴をタオルでぬぐって気を取り直し、洗い場に移った女の隣にさりげなく腰掛けた。
女はビニールバッグからシャンプーとリンスの容器を取り出した。横目で容器に貼られたレッテルを盗み見ると、シャネル五百番セレブ御用達と洒落た文字で記されていた。
ふざけやがって、シャネルといえば香水でさえも恐れ多くて買えないというのに、この女は髪を洗い流すだけのシャンプーに使いやがって不埒千万な、と憤って目を見開いたその時、ピュピュピュピューと高濃度の液体が婦警の目玉に掃射された。
「グワッ、アヂアヂ、イテテ、イテイテテ、テテ」
サボテンのトゲを幾本も目玉に突き刺されたような鋭い刺激に目を閉じて、また見開き、シャワーのコックを慌ててひねって思いっきり洗眼したが、目玉の裏側にまでシャンプーの原液がしみ込んだのか、後頭部を刺身包丁で引っぱたかれるようにズンズンと痛みが走った。
「あらん、ごめん遊ばせませ。あらまあ、こんなにシャネルが飛び出しちゃって、もったいない事をしてしまいましたわん。オッホホホのホッ」
「こ、このクソアマ。わざとやりやがったな、チキショー。もう容赦しないよ」
女の悪意を確信した婦警は、シャワーの温度調節のコックを右に回るだけひねって摂氏三百度の目盛りに合わせると、シャワーの口を女の顔面に向けて蛇口を思い切り開放して噴射した。
「ギ、ギャー。アチチチチ」
熱湯火炎放射器の三百度を顔面に浴びた雛形は、断末魔の絶叫を上げてひるむかに思われたが、あお向けにのけぞった反動を利用して婦警の脳天に頭突きをかまし、足をすくって逆エビ固めの体勢に持ち込もうとした。
「そうはいくか、このアバズレ女が。私をナメんじゃないよ」
カッとなった婦警は己の立場も目的も忘れ、女の首根っこと股間をつかんで頭上に抱え上げ、脳天から湯船の中に放り投げた。
「ア、プァップッ、プァッ。な、何てことをしやがるんですか乱暴な。危ないじゃありませんか、プファッ」
「やかましいズベ公。これでも食らえ」
顔面とび蹴り攻撃で浴槽に飛び込んできた婦警の足を受け身でかわした雛形は、婦警の髪の毛をムンズとつかみ、体を入れ替えて湯船の底まで引きずると、潜水艦ノーチラス号のようにグルグルと旋回を始めた。
「ウ、グググウヴッググ、や、やめろ。し、死ぬ」
人間技とは思えない過激な攻撃に婦警は必死にもがきながらも、女の乳房をムギュッと握りしめて水中背負い投げで何とか体勢を立て直した。その隙に急いで浴槽から上がってゼイゼイと壁にもたれて呼吸を取り戻しているところに女が真空飛び膝回し蹴りを仕掛けてきたのをシャワーの蛇腹を伸ばして反撃した。
「くたばりなさい、醜い中年メス豚女」
「くたばるのはお前の方だよ、このアバズレ女。チンピラのズベ公がセレブなんぞ気取ってんじゃないよ。これでも食らえ」
「イタッ、野蛮人、死ね」
「イテテッ、クソッ」
洗面器と石鹸が宙を舞い、シャワーの蛇口とカミソリと点滴針と試験管とモルモットとメスと包丁が飛び交っているところに、浴室の扉が開いて入って来た老婦人が血みどろになって救急車で運ばれた。
それ以来、婦警と雛形は互いに牽制し合いながらも警戒を強めて動向をうかがい合っていた。
<怪しい四人>
調度そんな折であった。車イスに乗った四角い顔に太い眉の男が、婦人科病棟の廊下に現われた。
車イスを押しているのは、色素が抜けたように色の白い少年だった。その両脇には、寝巻きの肩から金色の袈裟を垂らして十字架を手にした坊主頭の男と、ハゲタカの眼をした厳つい顔の男が、周囲をうかがいながらフラリ、フラリとクラゲのようにふらついていた。
怪しい。誰が見たって怪し過ぎる。男四人が何用で婦人科病棟をふらついているのか。婦警は警戒を込めて目を血走らせた。
ナースステーション横の大部屋の入口で謎の一行はピタリと止まり、白面の少年がペタリ、ペタリとスリッパを鳴らして中に入った。
「皆さん、僕は第二内科病棟に入院中の山内健太郎というけがれを知らない少年です。南の島から白いイルカに乗ってやって来ました。本日は、皆様の病気の一日も早い全快を祈るために、房総の霊峰金閣山より偉いお坊さんを連れて参りました。三百年の座禅と五百年の絶食により神の教えと仏の慈悲を知り尽くし、あなかしこくも有り難き悟りを開いて八百年、昨夜遅く、はるか西方の聖地天竺から雲に乗ってお帰りになり、房総の地に降臨された生き神様、天竺乱漫丸さまのご登場であります。どうぞ」
ステップを踏んで天竺和尚が入場し、車イスの鉄仮面と羅生門親分が後に続いた。
「コホン、拙僧が高僧の天竺乱漫丸でありまするぞよ。なんですと、誰が小姓の森蘭丸と言うたかバカ。補聴器をしっかり耳に突っ込んで良く聞けよ婆さん、頼むから」
渋面を解いて天竺和尚が説法を始める。
「さて皆さま、中国の古いことわざに曰く、病は気から、孫悟空は石から、桃太郎は鬼が島の白桃からと申します。全ての病は皆さまの心中に巣食っている悪い虫にわざわいしているのですぞよ。気と向き合うために語り合いましょうぞ皆の衆。ではそちらの、バナナを皮ごと丸かじりしているご婦人。そんな物を食っている時ではありませんぞよ。名は何と申されるか。美空ひばりですと。名は体を現すと申します。嘘つきは地獄に落ちまするぞ。なに、美空ではなくうわの空ですと。ひばりではなくつわりですと。あんたねえ、有名人の名をズタズタにして弄んでると訴えられますぞ。この前なんかねえ、マリリン・モンローのことを、マリちゃんの痔ろうとか言って痴漢した南本願寺の坊主が訴えられてねえ、弁護士もさじを投げて知床の尼寺へ左遷されてしまいましたよ、コホン。して、何を患っておられますのか。なに、裏山で立ち糞してたら熊に乳房を食われて毒が回り、それ以来子宮から乳が出るようになったと言いますのかや。何とややこしい。毒におかされた乳が切れ痔に触れて、激痛のあまり毎晩失神するというのかい。それは難儀な、気の毒な。だが、拙僧に打ち明けられた以上は全快したも同然ですぞ。猫に小判、豚にタコ焼き、猛毒には猛毒をもって制すべしと、常々アインシュタイン博士は口癖のように申されておりました。先月房総の金閣寺にて粗茶を飲みながら、それでも地球は回っていると申された。コホン。幸いにして拙僧の寺にはコブラの毒より数倍も強い罪滅ぼしの毒がありまする。これを煎じて飲めばたちどころにして、なに、その毒は何からできているのか知りたいと。中国四千年の歴史の隣のロシアの罪と罰という薬草から抽出した西巣鴨のサリーちゃんという猛毒にして、なに、余計に子宮が痛み出したと。もう良い。次のご婦人は、コホン」
天竺和尚が患者を相手にたわむれている間、鉄仮面は卑猥な目付きで病室を見回してうら若い婦人を物色し、羅生門親分は瞳を半眼にして患者の一人一人を眼光鋭く観察していた。
そうして婦人科病棟の全大部屋を巡回し終えた結果、窃盗犯の一味とおぼしき怪しい人物は一人もいないと羅生門親分は断言した。
そして、特別個室のはす向かいの大部屋にいた目つきの鋭い患者を一目見て、ベテランの刑事だと羅生門親分は見破っていたのだ。
一方の婦警もまた、県警捜査本部の掲示板で見かけた危険人物手配者ポスターの記憶から、羅生門源五郎の顔を割り出していた。
それにしても阿修羅連合会獄門組の組長が、色白で利発な少年を先導し、下卑て卑猥な四角い顔の男を連れて、狂人じみて謎めいた得体のしれない坊主を仲間に、一体何の目的で病室を回っているのだろうか。
さらに加えて、浴室で凄まじい立ち回りを演じたセレブになりすます特別個室の女は何者なのか。自分を素人の患者ではないと見抜いた眼力と、鍛えられた筋力に機敏な身のこなしはとてもただの窃盗犯とは考えられない。そして特別個室にひそむもう一人の女は何者か。
何かが起こりそうだ。この病院で何か途方もない事件が起きるのではないか。かつて経験したことのない不吉な予感が戦慄となって婦警の背筋をつらぬいた。
<黒崎哲也と千津代の慕情>
二か月ほど前、看護師の小林千津世が日勤を終えてアパートに戻る途中のことだった。
公園脇の商店が並ぶ通りを抜けて、狭い路地に足を向けた時、前方から人相風体のいかがわしい二人の男が周囲を見回しながら息を切らせて駆けて来た。
千津世は思わず商店街のはずれで立ち止まり、買い物のふりをして二人の男をやり過ごした。すれ違いざまの背中越しに茶髪の若い男が吐き捨てるように呟いた。
「チクショー、くたばり損ないの身体でどこへ姿をくらましやがったんだ、あのヤロー」
二人の男は商店街の通りを一瞥すると、公園の中に入って藪の中や暗がりにくまなく視線を走らせていた。
千津世は急ぎ足で路地を抜けてアパートに向かった。二階建てのアパートには六世帯が住んでおり、一階の奥が千津世の借りている六畳一間の部屋だった。
鍵穴にキーを差し込んだ時、そばの暗がりからかすかな呻き声が聞こえた。ゾクッとして身をすくませながらも暗がりに視線を向けると、こちらを見上げて震えている男の視線とかち合った。
男は肩口を押さえてうずくまり、袖口から手首に血が滲んでいる。千津世の心臓はドキリと高鳴り乳首が震えて固まった。
恐怖の為ではない、その男の視線に本能が疼いたのだ。幼いころから憧れながらも世界が違うと遠ざけていた男という存在が、今、目の前で自分を見つめて弱者となって助けを求めてうずくまっている。
千津世はこわごわと男に声をかけた。
「救急車を呼びましょうか?」
「ダメだ、やめてくれ」
男は叫んで身体を丸めて暗闇に潜んだ。
「でも、血が……」
「だ、大丈夫……」
このまま放っては置けない。治療をしなければいけない。自分は看護師なのだから、助けてあげなければ。いや違う、傷ついた弱い立場の男が、自分を見つめて身をすくませている。だから自分の言いなりになる。
千津世は己を諭して男を部屋に招き入れた。
「明日の朝までかくまってくれないか。あいつらに見つかったら殺されてしまう。お願いだ、朝になったら必ず出て行くから、それまでかくまって欲しい」
商店街で二人の男が追っていたのは、この男に間違いないと確信した。男は黒崎哲也と名乗り、借金を返さなければ組織に殺されると言って唇を歪めた。
ヤクザな男たちの揉め事に関わり合って巻き添えになりたくはないが、窮鳥懐に入れば猟師も殺さずというではないか。でも、彼は窮鳥ではない。神様が自分に与えてくれた運命という贈り物に違いないのだと千津世は信じた。
自分から男に声をかけるなど絶対にあり得ないことだ。ましてや声をかけられる事もない、生涯男に縁は無いと諦めていた。
だけど今、男が自分を見つめて懇願している。この些細な出会いが自分の人生を劇的に変えてくれるかもしれない。
決してイケメンとは言えないが、吉野家の牛丼に例えれば並みの下かもしれないが、千津世にしてみれば生卵に紅ショウガ付きの特上だった。そんな男でも夫婦まがいに同居できるのなら、醜い女にとって男の素性などどうでも良かった。
朝には出て行くからと言いながらもそのまま男は居座った。いや、千津世が居座らせたのだ。
男は凶悪な組織から身を守るために自分を必要としている。自分は男の存在に溺れて癒されている。それで需給のバランスがとれているのだから今の関係を崩したくない。
私は蛭になると決めた。血を吸わなくてもいい、ただ吸い付いているだけでいい。これこそが恋に溺れた弱い女の性かもしれない。
<家政婦の行動>
婦警は大部屋のベッドで患者を装い、雛形小町の特別個室を徹底的にマークしていた。
金持ちが窃盗などするはずがないという、世間の常識を逆手にとって悪事を働く盗賊一味の現場を必ず取り押さえて逮捕してやる。その為に自分はこうして張り込んでいるのだ。それにしても気になるのは特別個室に潜む仲間の女の存在だ。
朝の検温に来た看護師の一人に婦警は耳打ちをした。雛形小町の特別個室に女が潜んでいるようだから、ベッドの下などを調べてくれと頼んだのだ。そしたら看護師は、部屋には人が潜む場所などありませんと即答した。だが、そういえばと言葉を継いで首をかしげ、付き添いの家政婦が泊まり込んで世話をしているようだと言うではないか。
訪問客がいつ家政婦に入れ替わったのか。そう言われて考えて見れば、時折部屋を出入りする女性がいる。てっきり病院の看護助手だと思っていたが、警察の目を撹乱するための窃盗犯の仲間だったのか。それならば、警戒すべきは雛形ではなくて、付き添いと称する家政婦の動向かもしれないと考え直して身震いがした。
昼の病院食を食べ終えて一息ついた婦警が、尿意を催してベッドから起き上がろうとした時、特別個室の扉が開いてバスタオルを手にした雛形が派手なパジャマ着で出て行く姿を目に止めた。
病棟の入浴は予約制になっていて、雛形が午後の二時に予約していたことは承知していた。
「風呂に行きやがったな」と、腹の中で呟いてパジャマ姿の背中を目で追っていると、またも扉が開いて看護助手の服装をした付き添いの家政婦が個室から出てトイレに消えた。
家政婦がトイレから出るのをひたすら待ったが、五分過ぎても十分過ぎても出て来なかった。いや、そうではない。家政婦はトイレに入ったと見せかけて、入口に身を潜ませてじっと何かを見つめていたのだ。
その視線の先を追って焦点を定めると、雛形の特別個室から濡れタオルを手にして出て行く看護師の姿があった。
家政婦の動向に気を取られて看護師の入室に気が付かなかった。家政婦は何を気にして看護師を見つめているのか。これも警察の目を攪乱させるための行動なのか。疑心暗鬼ながらも婦警は家政婦の動きと、その視線の先を追い続けた。
家政婦はトイレから出て素早く洗面室に移動した。家政婦の服装は看護助手と同じだったから、不審に思う者は誰もいないが、野獣が獲物を狙う様相に女刑事の勘がうごめいた。
看護師はナースステーションには戻らず大部屋の七号室に入った。七号大部屋から出て来た看護師の手に濡れタオルは無かった。
しばらくの間をおいて、見舞いの客とおぼしき男性が七号大部屋に一人で入ってすぐに出て行った。
家政婦はその男を尾行するように、さりげない素振りで男と一緒にエレベーターに乗り込んだ。婦警は先回りに階段で一階まで駆け下りて二人を待ち受けた。
エレベーターを出た男はロビーを抜けて玄関に向かい、駐車場に止めてあった小型の白い車に乗って出て行くと、その後ろに黒塗りの車が現れて、家政婦を乗せて追尾するように出て行った。
婦警は車のナンバーを控えて所有者を確認すると、白い車は盗難車で、黒い車は社有車と分かった。さらにまた、男が大部屋の誰の見舞いに訪れたのかを確かめようと部屋を覗いたところ、奥の一つが空きベッドになっていて、部屋の患者の誰にも見舞い客は来ていない事が分かった。男は何の目的で部屋に入ったのか。
女刑事の推理は混乱した。もしかしたら雛形は本物の財閥で、付き添いの女は警護の為に雇われた用心棒かもしれないとも考えたが、それはすぐに覆された。
刑事部長が雛形家に確認したところ、身内に入院した者などいないという証言を得られたからだ。
婦警からの報告を受けた清水野は、雛形が窃盗犯の一味であることはもはや間違いないと確信した。
<藤巻師長の勘>
夕食が終わり検温を済ませて看護師が消灯を告げると、第二内科病棟九号室では密かに、というか、いつものように酒盛りが始まる。博打と猥談と自慢話に花が咲く。
大人の会話から蚊帳の外に置かれた健太郎が夜長の退屈を紛らす場所は、夜勤の看護師が暇を持て余しているナースステーション以外にはない。
ベッドから降りてスリッパをひっかけ九号室の扉を開くと、病棟の廊下はひっそりと静まり返って誰もいない。
スリッパの音をたてないようにすり足でナースステーションに近付き、カウンター越しに覗くと看護師の桜川麗子と藤巻師長の姿が見えた。
「麗子……」
健太郎が呼びかけると鋭い声が返される。
「呼び捨てにするなって言ってるだろ。何だよまた、餌でもあさりに這い出して来たのかい」
「お茶漬け食わせろよ、焼きタラコのせて」
「あんたねえ、ここは駅前の茶漬け店でもなけりゃあ銚子の漁港でもないんだよ。どこにタラコがあってどうして焼くんだよバカ」
「目が冴えて眠れないんだよ」
「そういえば賞味期限切れの睡眠薬があったわねえ。消毒液に溶かして飲んでみるかい」
「それが天使の白衣を着た看護師のセリフかい。病弱でひ弱な患者がこうして助けを求めて来ているというのに」
「ここは遊園地じゃないんだから、帰れ」
邪険な麗子の対応をなだめるように、看護師長の藤巻竜子が二人の会話に割って入った。
「そういえば健坊、この前、婦人科の師長から聞いたんだけどさ、坊主頭の男と狼の眼をした男が子供を連れて大部屋を回ってうろついてたって話だけど、あんたたちの事じゃないのかい」
「うん、そうだよ。天竺さんと、鉄仮面さんと親分さんだよ」
「やっぱりそうかい。何しに行ったんだい」
「婦人科の患者様の病気の一日も早い全快を祈るためだよ」
「隠さなくてもいいんだよ健坊。窃盗事件と関係があるのかい」
藤巻師長に隠し事は通用しないとわきまえている健太郎は、前言を翻して素直に自供する。
「どの大部屋にも窃盗犯らしき奴はいなかったって親分が断言してたよ。患者ではなくて、外部の者の仕業に間違いないって」
「ふーん、そうかい」
「それに、婦人科病棟にスパイを潜り込ませたって親分が言ってたよ」
その言葉に藤巻の勘がピンとはじけた。病名不明の患者が特別個室に入院したと婦人科の師長が訝しげに言っていた。
雛形小町と名乗るその女こそ、羅生門親分が放ったスパイに違いないと藤巻は確信した。
雛形小町は全国高校レスリング大会女子の部で、精神運動興奮薬と交感神経アミン系興奮薬を粉末にしてご飯に振りかけ、モルヒネとニンニクとキムチをまぶしたレバニラ炒めをおかずに食べて試合に臨んで優勝したその後に、ドーピング検査を受けて永久追放になってしまった。
ついでに高校も追放されて女子プロレスに転向したが、度重なる反則技に愛想を尽かされ追放されて獄門組に拾われた。
本人は波瀾万丈の人生だと思い込んでいるが、野放図で身勝手なただの性悪に過ぎないということに気付いていない。その放漫な馬鹿さ加減と腕力を見込まれて、阿修羅連合会千葉獄門組の女舎弟として盃が交わされたのだ。
外来で用事を済ませた看護師長の藤巻は、第二内科病棟に戻る途中で婦人科病棟に立ち寄って、ノックもしないで特別個室のドアを開いてズカズカ入った。
ベッドの上でメロンを皮ごとかじり付いていた雛形は、目を見開いたまま手を止めた。付き添いの女は傍の椅子に座って様子をうかがっている。
腕組みをして見下ろすように藤巻は言った。
「患者さまにお願いしておきますが、ここで騒動を起こして他の患者さまに迷惑をかけるようなことがありましたら、即刻退院して頂きますからご承知おき下さい。きっちり申し上げておきますから、よろしく」
メロンのしたたりを手の甲でぬぐった雛形は、眉をしかめて小声で問うた。
「あんた、誰?」
「第二内科の看護師長だよ」
雛形の頬がピクリと引きつり、あやうくメロンを床に落とすところだった。羅生門親分からきつく釘を刺されていた。第二内科病棟の藤巻という師長には、絶対に逆らってはならないと。
「な、なんで第二内科の師長さんが……」
一呼吸の間をおいて師長が応じる。
「きな臭い患者さんは病棟を超えて看護しなきゃいけないんだよ。ここは戦場でもなけりゃあ事件現場でもないんだから、凶器を振りかざしてスパイのまね事は許さないよ」
「な、なんの事でしょうねえ。あたしは毎朝目が覚めると目眩がして、夜眠ると不眠症、胃がねじれて食欲が無くて目から血が出る、鼻から屁が出る、耳鳴りがする。もはや寿命が尽きるのではあるまいかとお医者さまに診てもらっているのですわ」
弱々し気にほざいてかじり付こうとしたメロンの果肉に、注射針がブスブスと突き刺さって果汁が飛び散った。弾け散る果汁の先に師長の後ろ姿がドアの向こうに消えるのが見えた。
羅生門親分が、自分の正体を看護師長に明かすはずがない。だのに師長は感づいていた。いや、はっきりと見破っていた。なぜだ、ただ者ではないと警戒した雛形だが、当面の敵ではないからと愁眉を開いて注射針を見つめた。
婦警は大部屋のベッドに横たわって千思万考の末、雛形と見舞い客を装った男が仲間であることは明白だと断じた。家政婦の役割は不明だが、彼らは何かをたくらんでいる。
それにしても判然としないのは、何の目的で男が七号大部屋に入ってすぐに出て行ったのか。男の役割りは何なのか。これから何が起ころうとしているのか。戦慄を覚えて鳥肌が立つ。
清水野刑事部長に報告すると、男が入った七号大部屋の空きベッドが怪しいと指摘され、決して目を離すなと命じられた。
<黒崎の正体>
白い車から降りた黒崎哲也はマンションの二階の角部屋に入り、待ち受けていた仲間の二人に濡れタオルで包まれたダイヤの指輪とサファイアのネックレスを渡した。
受け取った男がダイヤの指輪を取り出して、息を吹きかけルーペを覗いて舌打ちをした。
「おいおい、偽物じゃねえか。ガラス玉だぜ」
そう言って男はガラスのダイヤをゴミ箱に投げ捨て、サファイアのネックレスも一瞥しただけで放り投げた。
黒崎は放心したように突っ立っていたが、部屋を飛び出し再び白い車の助手席に乗り、仲間の男の運転で千津世のアパートに戻った。
宝石を鑑別してもらったらどれも偽物だったと黒崎から聞いた千津世は、愕然として午後からの行動を振り返って熟思した。
予約した時間に雛形が風呂に行き、付き添いの家政婦がトイレに出た隙を見定めて千津世は特別個室に入った。床頭台の引き出しを確かめると鍵は掛けられておらずスッと開いた。
そこに五百万円の札束は無かったが、ダイヤの指輪とサファイアのネックレスが無造作に放り込まれていたので、濡れタオルに包んで部屋を出た。そして打ち合わせた通り、七号大部屋に移動して空きベッドの傍の床頭台の引き出しに入れた。
すぐさま黒崎に連絡して、日勤から準夜勤に申し送りを済ませてアパートに戻ったのだが、ダイヤもサファイアも偽物だとはどういうことだ。
百カラットのダイヤというのは大見栄を張ってうそぶいたのか。だから盗まれても大騒ぎしないのか。ならば狙うは五百万円の札束だが、床頭台の引き出しには無かった。どこに隠したのか。
思い当たる場所はないのかと黒崎に問われてあれこれ考えた。そういえば、あの女は入院の際に自分の枕を持ち込んできた。枕が変われば悪夢にうなされ、人食い人種に殺されるからとうそぶいて、アラビア製の金箔の枕を持ち込んだ。そうだ、あの中に札束を隠しているに違いない。
あの日、黒崎は傷を負って怯えながらうずくまっていた。部屋に入れて傷の手当てをしているうちに、男の匂いを本能で感じて胸がときめき子宮が疼いた。
助けて欲しいと黒崎が言った。苦悶の表情を浮かべていた。借金まみれの抜き差しならない状況を聞かされて千津世は考えた。悪い男たちから彼を救ってやれば、自分の未来が見えてくるかもしれないと。絶望的な不惑の未来に虹が差すかもしれないと考えた。この男に人生を懸けて、蛭のように吸い付いてやろうと決意した。
だけど、自分の貯金は十万円ほどもない。通帳を舐めても引っぱたいてもゼロが増えるはずもない。五百万もの大金を組織に返済するために、何をしたら良いのかが分からなかった。
それを黒崎は教えてくれた。病棟内の盗みなんてどこにでもある事で、犯人が見つかったためしなどないと。人が殺されない限り警察だって本気で捜査をしないんだと教えてくれた。
窃盗は罪だが、見つからなければ罰せられない。五百万円たまれば借金地獄から抜け出せて、二人だけの新生活を築けると彼は約束してくれた。たとえ悪い噂が広がりこの病院を辞めたって、看護師の資格さえあればどこでも勤務できるではないか。
一方の黒崎は、病院荒らしの便宜を図るために看護師の協力が必要だった。黒崎が窃盗一味の仲間だとは知らずに、千津世は最初から計画的に嵌められたのだ。
何も知らずに千津世は泥沼の中で夢を見ていた。期待は悲惨で希望は絶望だと、千津世の辞書には書いてある。お先真っ暗とも書いてある。月が赤く染まり太陽が絶滅しても暗黒の闇から抜け出すことはできないとも書いてある。それでも女は夢を見る。
これまで考えた事もない不可能が、夜空に天使が舞って覆されることを。月が翼となって夢が現実になることを。それが今なのだと千津世は信じた。
雛形が風呂から戻って床頭台の引き出しを開けると、ダイヤの指輪とサファイアのネックレスが消えていた。雛形は慌てる様子もなく指をパチンと鳴らしてほくそ笑んだ。しばらくして、白い車を追尾していた付き添いの家政婦が戻って来ると、二人は顔を見合わせて頷いた。
そして事件は翌日に起こった。
<事件>
胃が痙攣して目眩がするので急性の胃炎かもしれないと案じた老患者は、極楽安楽病院の第二内科病棟に検査入院してレントゲンを撮られ、胃カメラを飲まされた結果、胃ガンと診断された。老患者の顔も手足も浅黒く、骸骨がパジャマを着ているような痩せようだった。
翌日の午前中に外科に移される予定で、午後には手術ということもあって朝から老患者は緊張ぎみだった。付き添いも無く孤独な老人に、看護師長の藤巻が朝食の前に声をかけた。
「おはようございます、髑髏塚さん、体調はよろしいですか」
老患者はベッドから身を起こし、渾身の力を振り絞って師長に問いかけた。
「師長さん、今日でワシの寿命は尽きるのか。誠のことを教えてくれないか。ワシは手の施しようもない末期のガンではないのか。医者は手術と言ったけど、本当は解剖室に送られて研修医たちにズタズタにされ、終われば鴨川シーワールドのワニの餌にされるのではあるまいか」
幼い子供を諭すように師長の藤巻が応じる。
「何を言っているんですか、ワニだってミイラみたいな不味い肉など口にしませんよ。今どきガンなんてねえ、メスでひと掻きすれば取れちまうんだよ。一週間もすれば元気になって退院だから、安心して手術を受けなさいよ」
「師長さん、看護師が手術室と間違って、霊安室に運ばれはせんじゃろうか。麻酔を効かされているうちに、火葬されてしまったという事件が過去にあったような気がするが」
「思い過ごしですよ、髑髏塚さん。患者を取り違えることはあっても葬式まではしませんよ。病院は寺じゃないんだから」
「師長さん、ワシの人生に悔いはないが、まだもう少し生きてみたい。金でなんとかできんじゃろうか」
「あんた、どんな商売やってたんですか。命は賄賂じゃ買えませんよ。飴玉しゃぶってるうちに手術なんて終わりますから、余計な心配は無用です。食事が終わったら外科病棟に移動しますからね」
雛形小町は午後の一時に入浴の予約をしていたので、昼食を済ませて一息ついた頃合いに着替えを持って部屋を出た。
間もなくして付き添いの家政婦も部屋を出た。一階の売店にでも行くのであろうか、手には財布を持っていた。
機をうかがっていた看護師の小林千津世は、加湿器から蒸しタオルを取り出してナースステーションを出た。何気ない素振りで特別個室のドアを開けて中に入った。
素早く床頭台の引き出しを開けて五百万円の札束が無いのを確認し、ベッドの上の金箔の枕を掴んでファスナーを開いた。
千津世の瞳が黄金に輝いた。夢が現実になると確信して胸が震えた。急いで札束を蒸しタオルに包んで部屋を出た。そして向かいの七号大部屋の空きベッドの傍の、床頭台の引き出しを開いて蒸しタオルを入れた。
すぐさまトイレに入ると、携帯電話で黒崎哲也にメールを送った。その一部始終を観察していた女が二人いた。雛形小町と付き添いの家政婦だった。
五分もしないうちに七号大部屋に男が訪れた。
見舞客を装ったその男、黒崎哲也はゆっくりと空きベッドに近付き、床頭台の引き出しを開いて蒸しタオルを掴み出した。
床頭台の裏側に潜んでいた雛形が、男の背中に怒声を浴びせた。
「私の五百万円の札束をどうするつもりだい」
驚いた黒崎は一瞬身体をこわばらせたが、飛び出して来た雛形に体当たりをして、ひるんだすきに階段に向かった。
「どろぼうー」
と叫んで体勢を立て直した雛形が階段に向かう。必死で逃走する男の後を追いかける。
叫び声を聞いて大部屋から飛び出した婦警は、雛形の姿を犯人だと勘違いして後を追う。
蒸しタオルを掴んで黒崎は病院中の廊下を駆けて逃げ回る。ナースステーションのカウンターを乗り越え、テーブルを倒して床を這いずり、階段を駆け下りまた駆け上がる。
雛形が黒崎を追いかけ、婦警が雛形を追う。患者や見舞客や看護師たちは、身の危険を感じて慌てて壁際に身を寄せる。
廊下を曲がって赤いランプの点灯している扉を開いて飛び込んだ黒崎は、レントゲン撮影中の放射能を浴びて眼球が歪んで焼け焦げた。下着姿の患者が驚いて、黒崎にしがみ付いているところに屈強な女が二人飛び込んできた。
焦った黒崎は患者の手足を振りほどき、ドアから駆け出して廊下を走って、階段を上がって下がって赤灯の点滅する部屋に飛び込んだ。
扉を開くと明るい照明を浴びて大勢が人だかりになって談笑しているので、お祭りでもやっているのかと思ったら手術の真っ最中だった。
黒崎は手術室の中を右と左に逃げ惑い、麻酔器と心電図と輸血用の機材を木っ端みじんになぎ倒す。メスやピンセットが乱れ飛んで血がほとばしり、臓器がねじれて患者が叫ぶ。
「ウ、グググ」
執刀医が慌てて麻酔科医に命じる。
「おい、患者が目を覚ましたぞ。何とかしろ」
「何とかって言ったってあんた、この状況でどうしますか。心臓に止血剤でも打って気絶させますか」
ベッドに駆け上がった黒崎は、天井から照明される無影灯に飛び付きぶら下がった。その勢いで看護師が持っていたメスが宙を舞い、鋭い切っ先が切り開かれた患者の腹の中の胃ガン細胞にグサリと突き刺さった。
思わず目覚めた老患者の髑髏塚は、目の上でシルエットになって暴れる男の姿が死神に見えて身震いがした。
「やっぱりワシは死んだのか。どうせ死ぬなら地獄じゃなくて天国へ行きたい。なんでマリアさまが迎えに来ないで死神なんかが来やがるんだ。お前なんかこうしてやる」
老患者の髑髏塚は半身を起こし、胃ガン細胞に刺さったメスを引き抜いて黒崎の尻に突き刺した。
執刀医と助手と看護師は慌てて老患者を抑え込み、麻酔器を引きずり起こして暴れる髑髏塚の口にかぶせて手術を続けた。
「胃がキリキリと痛むようだが、どうしたことじゃろうか」
「気のせいですよ髑髏塚さん。もうすぐ楽になりますから暴れないで下さい」
老患者の顎を必死で抑え込んだ看護師が、脂汗を流しながらなだめて手足を縛る。
雛形が黒崎を取り押さえようとしたら、尻から引き抜いたメスを振りかざして応戦する。婦警もまた雛形を犯人だと確信して攻撃している。その間隙に黒崎が逃げ回る。
劇薬の保管棚が蹴り飛ばされて塩化水素が宙を舞う。麻酔薬と筋弛緩薬の容器が割れて液が患者の顔に降りかかる。割れた瓶の破片が医師たちの顔面にブスブス突き刺さる。
執刀医は勘と気力でメスを振るって手術を続ける。怒った看護師が突然の侵略者に劇薬を浴びせる。
さんざん荒らしまくった黒崎と雛形と婦警の三人は、血みどろになって手術室を飛び出した。
<窃盗犯のアジト>
ちょうどその頃、窃盗犯一味のアジトを教えるというタレコミの電話を捜査第三課の署員が受けた。連絡を受けた清水野刑事部長は、数人の刑事を引き連れて現場に向かった。
そこに待ち受けていたのは、阿修羅連合会・千葉獄門組・若頭の鬼倉と、雛形小町の付き添いの家政婦だった。
「これはこれは、清水野刑事部長さんにおかれましては、お勤めご苦労さんにございます」
鬼倉の挨拶を清水野が邪険にかわす。
「まさかガセじゃねえだろうなあ。警察を振り回したら承知しねえぞ」
「わたしらにイカサマもガセもありゃあしません。常に命を張って生きておりやす。奴らのアジトはこの先のマンションの二階に間違いありやせん。踏み込んで現場を押さえて逮捕して、日本国民及び千葉の県民に、平和と安らぎをもたらしてやって下せえまし」
「逮捕しろったって、捜査令状も無しにどうやって踏み込むんだ。まさか証拠も無しに俺たちを呼び出したんじゃねえだろうな」
「証拠はこれからお見せしますぜ」
そう言って鬼倉はスタスタと歩き始めた。家政婦が黙って後ろに従った。マンションの前には盗難ナンバーの白い車が止まっていた。
あの日、雛形小町が風呂に行くとすぐに、濡れタオルを持った看護師が特別個室に入室した。部屋を出る時に看護師の手に握られていたのはビニールから取り出された剥き出しの濡れタオルだった。
看護師はナースステーションに戻ることなく七号大部屋に入り、出て行く時には濡れタオルを持っていなかった。
間もなく見舞客を装った男が現れ、七号大部屋に入るとすぐに濡れタオルを持って出て行った。その一部始終を付き添いの家政婦はトイレの入口から目撃していた。
男は濡れタオルに包まれた偽物のダイヤとサファイアを盗んで白い車に乗り病院を出た。その車を家政婦が乗った黒い車が追尾していた。白い車はマンションの前に駐車して、男が二階の角部屋に入ったのだ。
鬼倉の目配せで家政婦が角部屋のドアをノックした。
「お届け物です」
女の声に油断して男がドアを開いた瞬間に、鬼倉が男の脳天を一撃して悶絶させた。
間髪を置かずに土足で奥に踏み込むと、茶髪の男が目をむいて立ち上がり、窓から逃げ出そうとするところを取り押さえて口に銃口を押し込んだ。
恐怖に怯える男を白状させて、これまで盗んだ現金やカードや時計を押収し、ゴミ箱に捨てられていたダイヤの指輪とサファイアのネックレスを証拠品として拾い上げた。
家政婦の合図で刑事たちが踏み込んで、二人の男は清水野刑事部長によって手錠をかけられた。
<九号室へ>
脱兎のごとく手術室から飛び出した黒崎哲也は、外科、整形、リハビリ、小児科を抜けて旧館の内科病棟へと走り込んだ。
一階から二階への階段を駆け上ると、第二内科病棟のナースステーションが目に入って前方の廊下を見たら、病室の扉が開いてパジャマ姿の少年が出て来た。
よし、あそこに身を隠そうと黒崎は決めて、機敏な動作で少年に駆け寄り押しのけ、部屋に入って扉を閉めた。
息を切らしてしゃがみ込んだ黒崎に、鉄仮面がベッドから起き上がって声をかける。
「おう、兄さん、どうしたね。そんなに息を切らして随分と具合が悪そうだねえ。もしかして心筋梗塞か心臓弁膜症かい。おい朝比奈、お前のベッドに寝かせて添い寝してやれよ」
朝比奈が慌てて口をとがらせる。
「な、なんで僕のベッドなんですか。健太郎くんのベッドが空いてるじゃありませんか」
「お前も薄情なことを言うねえ。もしも脳溢血にでもなったらどうするんだよ。ねえ、親分」
羅生門親分が大きく頷く。
「おう、兄さんよ、脳溢血には酒が一番の治療薬だと院長が言ってたぞ。こっちへ来て盃を受けろ、ウィー。なんだと、そんな暇はねえだと、どういう了見だそれは。ワシの盃が受けられねえって言うのかい。いい度胸だねえ。暖かい人の親切をないがしろにしたら、冷たい拳銃の弾が脳天を貫くよ」
「ナンマンダブ、ナンマンダブ、生きとし生けるもの必定の死あり。葬儀の節は我が房総の金閣寺にて格安に……」
天竺和尚の読経をさえぎるように、九号室のドアが乱暴に押し開かれた。
雛形と婦警と健太郎少年がドタドタとなだれ込み、それを見た黒崎が渡り鳥のようにベッドの上を飛び回る。
「親分、その男が窃盗犯だー!」
雛形の叫びに全てを察知した羅生門親分が、枕の下からワルサーP38を取り出して引き金を引いた。
いきなりの銃声に婦警は床に身を伏し、黒崎は握り締めていた濡れタオルを天井に放り投げた。
ベッドに転がった札束の一つを取り上げた善右衛門は、咳き込みながら札束をめくって眉を吊り上げる。
「なんじゃ、こりゃあ、一万円札のコピーに挟まれた中身は新聞紙の束じゃないか」
信じられないという顔つきで、黒崎は札束を取り上げ確かめた。
「ワオオー!」
叫んで黒崎は札束を壁に叩き付け、窓から逃げ出そうとしてジャンプした。すかさずガラス窓をピシャリと閉めた羅生門親分は、窓に飛びつく黒崎の顔面を焼酎の瓶で殴打した。
一瞬のひるみを見せた黒崎だが、体をひるがえして善右衛門を押し倒しドアに向かって激走した。鉄仮面がちょこんと足を延ばしてけたぐりにする。
倒れ込んだ黒崎の背中に、朝比奈がベッドから三段跳びで馬乗りになり、健太郎が消毒液を鼻と喉に流し込む。天竺和尚は火のついた線香を、悶える黒崎の鼻孔に突っ込み、溶けだしたローソクの蝋を瞼に垂らして念仏を唱える。
「きみ死にたまうことなかれ、淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び、諸行無常の響きありて、おごれる者は常に滅びぬ、いとおかし。ナンマンダブ、ナンマンダブ」
婦警と雛形は部屋の隅っこに佇んで、唖然として事の成り行きを見守っているだけだった。
「おう朝比奈、その兄さんを立たせてやりな。今宵のワルサーP38の銃弾は血に飢えて泣いてるぜ。さあ兄ちゃん、立ち上がってこっちを向きな。目玉がいいか、肛門がいいか、好きなところへ撃ち込んでやろうじゃねえか、あん」
羅生門の図太い声でようやく気を取り戻した婦警は、人差し指を立てて親分を指差した。
「ちょっと待ちなさい。病室で拳銃をぶっぱなす愚か者は、銃刀法違反と騒乱罪で逮捕します」
羅生門が首をかしげる。
「あんた誰だい?」
「警察だよ。押収するから拳銃を渡しなさい」
「女刑事さんかい。へッ、バカなこと言っちゃあいけませんよ。こいつはねえ、拳銃なんかじゃない。御徒町のカフェバーで貰った火縄式のライターだよ。嘘だと思ったら署長さんにでも確かめてくれよ、ウィー」
「ライターが銃声発して天井に穴ぼこ開けますか。獄門組の組長がいったい何の病気で入院しているんだね、酒まで食らって」
婦警と羅生門親分のやり取りに雛形が焦れた。
「ちょいと女刑事さん、こいつにワッパをかけなくていいのかい。五百万円窃盗の現行犯だよ」
振り向いた婦警の顔が、苦々しげに引きつっている。
「あんたが犯人だと思って監視してたけど、まさか囮だったとはねえ。犯人逮捕の協力者だか邪魔者だか分からないけど、もしかしたら表彰されるかもしれないね」
「そんなものより、銃刀法とか騒乱罪なんて物騒な法律は無しにしてもらいたいね」
「そうはいかないよ。見てしまったんだから」
「俺は何も持っちゃいねえよ。あ、いけねえ……」
親分の手からポロリと落ちた拳銃が床に転がった。その衝撃で雷管が発火して暴発した銃弾が婦警の鼻先をピシュッとかすめた。
怒り狂った婦警は隠し持っていた拳銃を引き抜いて、羅生門親分の頭蓋骨に狙いを定めた。
とっさに鉄仮面が婦警を羽交い絞めにして背中からベッドに倒れ込む。被さるように善右衛門が馬乗りになり、拳銃を奪い取って婦警の鼻の穴に銃口を突っ込む。
その間隙を狙って、黒崎が立ち上がり逃走を試みる。
ドアに走る黒崎の足に朝比奈がしがみ付いて聴診器を絡み付け、倒れ込んだ顔面に健太郎が屁をかまして腕の動脈に注射針を突き刺す。
雛形が婦警の腰から手錠を引き抜き、黒崎の両手両足にガチャンとかけて一件落着となった。
九号室のドアの外側では、麗子が両腕を広げて大の字になり、廊下を歩く患者たちに危険が及ばないように立ちふさがって遠ざけていた。
「その部屋が騒がしいようじゃが、何かあったんかいのう?」
「何もありません」
「誰か死んだのか?」
「誰も死にません」
「ちょいと善右衛門さんに話があるんじゃがのう」
「面会謝絶です」
<夢と幸せ>
日勤を終えて帰途についた千津世は悶々として落ち着かなかった。準夜勤への申し送りの際に、窃盗犯が捕まったらしいと師長から報告がなされた。
やはり哲也は逃げきれずに捕まってしまったのだろうかと、千津世は悔し紛れの臍を噛んだが、窃盗に加担した自分の身を案じるよりも、夢が幻となって消えてしまうことが悲痛でやるせなかった。
師長の話が誤報であって欲しいと願った。師長は捕まったらしいと申し送りをしたが断言はしなかった。誰かが間違って捕まったとしても、哲也ではありませんようにと両手を握って胸に当てた。
余剰な金を盗まれて不幸になる者などいやしない。だけど、その金で幸せになれる者がいるのなら、黙って奪われることこそ理にかなっているのではないか。
五百万円さえ手に入れば哲也の借金は消えるから、横浜の丘の上にでもアパートを借りて、赤ん坊を産むことだって夢じゃない。私は悪い事などしてはいないのだと、裏の自分が暗示をかける。
もう二度と盗みなどしない、する必要が無いのだから。絶望の闇に架けられた虹の橋を、ようやくよじ登ることが出来るのだから。だから私は悪くない。
思い巡らしているうちにアパートに戻ると、部屋に明かりがついていた。哲也が戻っている、哲也は捕まらなかったんだと千津世は小躍りして一階奥の部屋に走った。
「哲也さん!」
と、声をうわずらせ、意気込んでドアを開けて部屋の中に入ると年増の女が畳の上に正座していた。年増の女が振り向いた。
なぜだ、なぜ第二内科病棟の師長がここにいるのか。しかもどうやって鍵を開けたのか。背中に気配を感じて振り返ると、いつの間に現れたのか、特別個室の付き添いの家政婦が立っていた。
女はドアを入ると、後ろ手に鍵をカチリと掛けた。
「突っ立ってないで座んなさいよ」
師長の声に戦慄を覚えた千津世は、立ち尽くしているだけで身じろぎもできなかった。自分を見つめる藤巻師長の視線は穏やかだが、瞳の奥には怒りの炎が燃えている。やはり哲也は捕まったのだ。
「あんた、婦人科の師長や看護師たちに合わせる顔があるのかい」
藤巻の言葉に反発を感じる。最初から合わせる顔なんか持ってはいない。醜いアヒルの私はいつも一人で、特段に意地悪をされないが親しくもされない。仲間外れではないが、気が付くと浮いている。みんな幸せそうな顔をして、哀れなアヒルを惨めったらしく見下している。
そんな私に幸せ行きの切符を託された。その切符を握りしめて夢の列車に乗ったんだ。だけどやっぱり夢の列車は夢だった。横転して転覆して墜落して破壊したのだ。
「病院を辞めます」
膝から崩れ落ちるように畳に手をついた千津世は、声を振り絞って頭を垂れた。
「辞めるだけじゃ済まないだろうよ。往生決めて話してみなよ」
黒崎哲也との出会いから、一部始終を藤巻に吐露した。そして藤巻から、黒崎哲也と二人の男たちとはグルで、すっかり騙されていたことを知らされた。
夢は仕組まれていた幻覚だった。
優しく背中を抱いて哲也が囁いた「可愛いよ」というセリフは、毒入りの薔薇の香りだったのか。醜いアヒルの心臓に、トリカブトの棘が突き刺さり、毒が猛毒となり再びどん底に突き落とされて虚脱する。
「子供がおねしょをする時はね、必ず夢の中で小便をしていているんだよ。目が覚めて気付いて泣きべそをかく。悪い夢を見ていたんだよ」
夢にも善と悪があると言うのか。醜い女には夢さえも見る権利が無いと言うのか。夢の意味が分からない。
「夢は、いつも夢なんでしょうか」
不承不承に呟く千津世に藤巻が決めつける。
「当たり前だろう。いつまでも夢だから夢なんだよ。夢が叶ったらまた新たな夢を追いかける。人間の欲ってのは際限がないんだよ」
「幸せになりたかった」
「あんたねえ、人間は五体満足に生きてるだけで幸せなんだよ。男が欲しいとか金が欲しいとかはねえ、欲にまみれた煩悩なんだよ。あんた看護師なんだから分かるだろ、目が見えない人や耳が聞こえない人、心臓や肝臓を患い癌で苦しんでいる人たち、あいつらみんな夢を見ているんだよ。普通の身体になりたいって、絶対に覚めない夢を見続けているんだよ」
「人間なんかに生まれなければよかった。油蝉やみんみん蝉が羨ましい。みんな同じ顔だから、厚化粧しなくても整形しなくても、いつも一人ぼっちで飛んでいられる」
「蝉はねえ、生まれてからのほとんどを土の中で過ごしているんだよ。そして死ぬ為に地中から這い出して来る。そのまま地中に埋もれていれば、生きる苦しみも死ぬ悲しみもないのにね。きっと、長く地中にいると夢を見過ぎるんだよ。蝉がトンボに問いかけたそうだよ、どうしてそんなに楽し気に飛び回れるのかと。冬が来れば死んでしまうから、今を楽しく生きているんだとトンボは答えた。蝉は人間に問いかけた。どうしてそんなに悲し気に生きているのかと。悲しい振りをしなければ、生きていくのが辛いからだと人間の女は答えて空を見上げたそうだ。空を見てりゃあ涙もこぼれないからねえ。その為に空はあるんだから」
返す言葉も気力も失って、千津世はボソリと呟いた。
「わたし、どうすればいいんでしょうか」
「仲間はとっくに捕まっている。ここにいれば警察が来るから、その前に自首するんだよ。あんたは利用されただけだから罪は軽いよ。すぐに釈放されるだろうけど、婦人科病棟に戻ってもいずらかろうから、あんたが望むなら第二内科病棟で引き取ってやるよ」
「ありがとうございます……」
家政婦の女がドアを開いて三人そろって外に出た。
藤巻竜子はアパートの裏に止めていたラッタッタのセルを回し、赤いヘルメットをかぶって商店街を抜けて自宅に向けて走り去った。
そのころ第二内科病棟九号室では、看護師の桜川麗子が検温に回って忙しく、いつものように平和で剣呑な空気をみなぎらせつつ、六人の患者たちは狸寝入りでくつろいでいた。
病院の屋根の上で腹をすかせたカラスは、屁をする代わりにアホーと鳴いて、夕食の残飯を狙って腕組みをしていた。
次の話は、認知症の幻想と愛の宿命




