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第三話:線香花火を持つ少女

 梅雨の晴れ間に夏の訪れを感じるとき、キュートな恋の出会いを期待して胸がときめく。

 

 富士山の山開きや湘南の海岸風景が一斉に報道され、夏休みが始まり、朝顔が笑い、ヒマワリが太陽を仰ぎ、花火大会が催され、風鈴が夜風に舞って涼やかな音色をかなでる。セミが鳴き、ホタルが舞い、スイカを食らい、お盆になれば隣の町から従妹のチヨちゃんもやって来る。

 

 みんな他人事に思えるけれど、糸を手繰たぐればどれも夏の日の思い出に辿り着くことばかり。

 密やかに仕舞い込んでいた夢の予感や幻想が、灼熱の太陽にあぶり出される。たぶらかされたまやかしの蛇影が、炎夏の迷路にさまよい狂う。だから、夏の思い出なんて言葉を耳にすると、胸が華やぎ膀胱が緩んで小便をちびらしてしまう。


 極楽安楽病院・第二内科病棟・九号室の窓からも、白く膨らんだ入道雲を望める。無気力そうにもたげた頭が妙に歪んで痛々しい。

 病院にも本当の夏が来るのだろうかと、山内健太郎少年は釈然としない面持ちで七月の空を見上げていた。


「どうしたんだい、しみじみと空なんか見上げちゃってさあ」

 朝比奈誠が健太郎の肩をポンとたたいて空を見上げた。

「夏だね……」


「ああ。この病棟は古くてエアコンがいかれてるからなあ、昼間はまるでサウナの中にいるようだからね」

「病院にも夏は来るんだね」


「どこにでも来るさ。でもね、夏は短いから、暑い、暑いとふたことみこと言っている間に終わってしまうのさ。梅雨が明けると夏が始まり、お盆が過ぎると夏は終わってしまうんだよ。だからね、夏の出会いや出来事は走馬灯のように駆け足だから、大切な思い出を拾いそこねて悔恨の情にかられる事もあるのさ。健ちゃんもあるのかい、置き忘れてきた夏の日の思い出が」

「僕はこれからさ。でも、病院なんかにいたんじゃあ思い出なんか作れないよ」


「思い出はねえ、思いがけない出会いから始まるんだよ。どこにいたって出会いはあるさ。レモンのかき氷みたいな甘酸っぱい出会いがさ」

「人に出会うことが思い出なのかい?」


「人だけじゃないよ。動物だって昆虫だってすばらしい風景だってみんなそうさ。健ちゃんだって数年後になれば、この病院での様々な出会いや闘病生活が、消し去ることの出来ない大切な思い出としてよみがえることになるのさ。でもさ、せっかく太陽がギラギラと照りつける一夏の思い出としては、やっぱり素敵なマドンナとの情熱的なパッション・サクセス・ストーリーだよなあ」


「おい朝比奈、隣の榊原優子との思い出作りはもう諦めたのか」

 またぐらをボリボリ掻きながら鉄仮面虎蔵は、口をすぼめて天井に紫煙を吹き上げる。


「諦めちゃいませんよ。でもラブレターの乱発作戦はもうこりごりですから」(前編「心中未遂と片恋慕」を熟読のこと)


「そう言ってるうちに他の男にさらわれちまうんだ。だからお前の突発性慢性胃炎はいつまでたっても治らねえんだよ。おう健坊、どこへ行くんだい」

 窓辺から離れて入口へ向かう健太郎少年に鉄仮面が声を掛ける。


「思い出作りのために病院内を散歩してくるよ」


「おうそうかい。そいつはご苦労なこったなあ。婦人科か耳鼻咽喉科あたりを通りかかったら、小またが切れ上がって、うなじに色気のただよう四十前後の後家さんでも見つけたら教えてくれよ。善さんと一緒に挨拶に行かにゃあならんからなあ」

 養命酒をキャップに注ぎながら、善衛門がしみじみと天井を見上げてつぶやく。


「このところ生活に刺激が無くてのう、めっきり小便の切れが悪うなった。西日暮里の泡姫たちと、もう何年ご無沙汰しとるじゃろうか」

 大儀そうに頷きながら鉄仮面が紫煙をドーナツにして吹き上げる。


「一か月ほど前に、整形外科病棟の女子便所を何げなく覗いていたらねえ善さん、これまたヨダレのしたたれそうな年増のいい女がねえ、松葉杖をついてトイレから出てきたんだよ。どうしたんだって聞いたらねえ、亭主と別れ話の際に慰謝料の取り分でもめてねえ、カッとなって顔面に飛び膝蹴りを喰らわせたところ、見事な亭主の受け身技でかわされて、そのはずみにアキレス腱をぶち切ってしまったそうだ。そういう女には近寄らん方が賢明だろうねえ善さん。脳天岩石落としや三段飛びひねり腰蹴りも得意だと言ってたなあ」


「そういう女は警察に届けた方がええんと違うかのう、ゲホ」


 鉄仮面と善衛門の駄弁を背にして健太郎は九号室を出た。旧館の幅広い階段をギシギシ鳴らして階下に下りて、第一内科を素通りして外来のロビーへと回った。

 

 外来に近付くと、病棟で寝ている時とは違う臭いに触れる。鼻孔になじまされたはずの消毒液の刺激臭でさえも、ことさらに攻撃的な過剰さを感じる。

 診察を待つ人たちの顔つきはどれも亡霊のように陰鬱で弱々しい。いかにも病院の待合ロビーらしい胡乱な雰囲気を盛り上げている。街中ですれ違う人たちもここへ来れば仮面をかぶり、覇気を失った青白い表情をして別の人種に変身してしまうのか。


「お前らみんな病人なのか。ざまあ見やがれ」

 健太郎は腹の中で小気味良く罵った。罵りながら自虐した。こいつ等は俺を見て嘲り見下している。蒼白い顔をした少年が、皺だらけのパジャマを着て力なく病院の廊下をヨタヨタ歩いている姿を見咎めて、自分だけはあれほど惨めったらしい病人にはなりたくないと、腹の中でうとましそうに嘲っていやがるんだと勘ぐった。

 長い入院生活を送っていると、全身に受ける刺々しく白々しい他人の冷淡さに、なぜか奇妙な快感を覚えるようになってしまう。それは嗜虐的な開き直りのようでもあり、新入生を見下す高学年の生徒のようでもあった。

 

 

<女の子>


 渡り廊下から外来を抜けて新館へ向かう途中でふと外を見ると、小児科病棟の窓の下に一人の女の子が立っていた。

 小児科の窓からは、パジャマ姿の子供たちが顔を出して、女の子に向かって大声でわめいている。

 耳を澄まして聞いてみると、みんなで女の子を揶揄するようにあざけっている。


「ここはお前なんかの来る所じゃないんだ。何度来たって遊んでなんかやらないぞ。バカッタレー」


「知恵遅れのお前なんかには、ここが病院だってことも分からないんだろう。早く家へ帰ってションベンしてウンコして寝てろ」


「お前のカアチャンも知恵遅れなのか。ウンコタレのノータリンのアホー」


 十歳になったかならないかくらいだろうか、その女の子は何を言われてもニコニコと笑顔を崩すことなく、叫び声を上げる男の子たちに向かって両腕の拳を差し出していた。

 そのうち病室の窓がピシャリと閉じられて、女の子が一人取り残された。差し出した拳を下ろし、寂しそうに佇んでいる。


 女の子のあどけない笑顔に引かれた健太郎は、渡り廊下から芝生に出て近付いた。気配を察した女の子は、怪訝そうに振り向いて顔を上げた。

 日本人離れの鼻筋の通った黒目の鋭さにはじかれて、健太郎はどきりとしてたじろいだ。幼いながらもエキゾチックな彫りの深い目鼻立ちに、女としての柔媚な魅力を感じてたじろぎを覚えたのだ。


「お兄ちゃんは誰? ここに住んでいるの?」

 屈託のない問いかけに健太郎は素直に応じた。

「入院しているんだよ」


「ここに住んでいないの?」

「だから、病気を治すために入院しているんだよ」


「ここに住んでいないの?」

「分からないかなあ。病気なんだよ、病気」

 女の子から笑顔が消えて、剣呑な目つきになったので健太郎は会話の矛先を変えた。

「君はここへ何しに来たんだい?」


「お兄ちゃん、遊ぼうよ」

 女の子は左腕の拳を突き出した。よく見ると、少女の拳にはクシャクシャになった線香花火が握り締められていた。

「それ、線香花火じゃないか。誰にもらったの?」


「お父さんが買ってくれたんだよ。お兄ちゃん、一緒に花火をしようよ」

「えっ、こんな所で花火なんかできないよ」


「早く花火をしようよ。お兄ちゃん、早く火を付けてよ」

 健太郎は膝を折り曲げて、改めて少女の顔をじっと見つめた。男の子たちは少女のことを知恵遅れとあざけっていた。本当にそうだろうかと彼らの言葉を疑ってみたが、そうかもしれないとも思った。凛として艶気のほとばしる少女の顔立ちが、見せ掛けの道化師に誘い込まれたかのように、健太郎の分別を鈍らせてしまう。


「早く火を付けてよ、お兄ちゃん。ほら、お兄ちゃんにも一本あげるから。早く火を付けてよ」

「そんなこと言っても無理だよ。マッチもライターも持っていないんだから」


「お兄ちゃんの嘘つき。お兄ちゃんなんか嫌いだよ」

 少女は瞳をキッと怒らせるように健太郎を一瞥すると、背中を向けて裏門の方へと駆け出した。

 薄っぺらなガラスをパリンと割ってしまったような悪気を感じて、健太郎はしばし呆然とたたずんでいた。




<熱帯夜>


「今日も熱帯夜か。たまらんのう」

 羅生門親分は扇風機のスイッチを最強にして、房総名物クジラのタレをつまみに寝酒の焼酎をクイックイッとあおっていた。


 鉄仮面虎蔵は腹巻とステテコを膝下までずりおろし、縞柄パンツの紐を指で広げて団扇でパタパタあおぎながら、銚子漁港に打ち上げられた死に損ないのオットセイのように右へ左へ寝返りを打っていた。


 鳥兜善衛門は枕を抱いて、蚊取り線香の煙にむせているのか、喘息の発作に見舞われているのか、ゲホホ、ゲホホとうつ伏せの格好で喘いでいた。


 朝比奈誠は小学校の理科室で憧れの花子先生といちゃついている夢でも見ているのか、エヘラ、エヘラとよだれを垂らしながら半眼白目で歯ぎしりをしていた。


 額の鉢巻きに十字架を括り付けた天竺和尚は瞑目し、火のついたローソクと線香を振り回して冷気を呼び込む呪文の念仏を唱えていた。


 健太郎は、バタバタとあおいでいた団扇を放り投げてベッドから降りると、ペタリペタリとスリッパを突っ掛けてナースステーションへと向かった。

 

 健太郎がカウンター越しに顔を突き出すと、煎餅をポリポリかじっていた看護師の桜川麗子に横目でジロリと睨み付けられた。


「煎餅うまいか麗子……」

「やかましい! 今、何時だと思ってるのよ。夜中の十時過ぎだってのに、何の用事でガキがのこのこ起き出して来るんだよバカ」


「むし暑くて寝付けないから、冷蔵庫のカボチャアイスくれよ」

「無いよ」


「かき氷くれよ」

「無いよ」


「鍋焼きうどん作ってくれよ」

「ここはねえ、駅前の大衆食堂でもなけりゃあ仕出し弁当屋の直営店でもないんだよ。アイスもかき氷も鍋焼きうどんもカキフライ定食もカレーライスもエビ入りチャーハンも無いんだよ。分かったかよ」


「眠れないからモルヒネ一本打ってくれよ」

「いっぺん血を抜いてやろうか全身の。師長さん、どうしますか、このバカを」

 センターテーブルで準夜勤務の記録に目を通していた看護師長の藤巻竜子は、椅子の背もたれに背骨を預けて伸びをする。


「今夜はむし暑くて寝苦しいからねえ。無理もないよ。そこのメロンパンでも食わせてやりなよ」

 師長に言われて渋々麗子はテーブルに置かれた夜食用のメロンパンを差し出す。


「特別に食わせてあげるよ、メロンパンを」


「喉が渇いたからメチルアルコールかブドウ糖の封を切ってそこの試験管に注いで氷を入れてくれないかなあ麗子」


「張り倒してやるから、こっちへ来なよ」

 藤巻師長の向かいに腰を下ろした健太郎は、メロンパンをぱくつきながら昼間の女の子との出来事を切り出した。


「小児科の男の子たちにさあ、バカだアホウだって罵られても平気な顔して笑っているんだ。変な女の子だよ、まったく」


「そうかい。また来たのかい。その女の子はねえ健坊、母親がこの病院に入院していたんだよ」

 師長の藤巻が記録帳から目を上げてボソリと言った。


「えっ、師長さん知ってるのかい、あの女の子を」

 人差し指を唇に添えながら藤巻は小さく頷く。


「あの子はねえ、産まれて間もない頃に髄膜炎を発症したんだ。医者に見せるのが遅れて脳炎を起こして軽い知的障害の後遺症が残ってしまったんだよ。赤ん坊が少々ぐずついたくらいじゃあ病気だなんてなかなか気付かないからねえ。母親がインドネシア人だったと思うけど、言葉もしきたりも良く分からない日本だから、医者に見せるのが遅れたのさ」

 インドネシア人と聞いて健太郎は面食らった。


「その、インドネシア人の母親が、どうしてこの病院に入院していたんだい」


「あの子がねえ、子犬を追い回して路地に出た時、急にバイクが飛び出して来た。バイクに頭をぶつけたのはその子じゃなくて母親だった。娘をかばおうとして母親がバイクに体当たりしたのさ。幸いにしてかすり傷程度の軽症だった。ところがねえ、二、三か月後になって頭痛や嘔吐が激しくなり、手足にしびれを感じるようになって近所の医者に診てもらったら総合病院に行けと言われてここへ来た。CTの検査結果で硬膜下血腫と診断されたんだよ。バイクに体当たりして頭をぶつけた拍子に頭蓋骨と脳味噌の間に出血を起こしたんだねえ。すぐに血腫を除去する手術を受けて、母親は無事に退院したよ。ところがねえ、その半年後、救急車で運ばれて来た時にはすでに昏睡状態だったよ。硬膜下膿痬が進んでいて手遅れだった。あの子を残して異国の地に骨を埋めることになっちまったのさ。もう三年も前のことだねえ」


「そうか、顔が日本人とどこか違うと思ったよ。父親は日本人なのかい」


「ああ、建築だか土木だかの仕事をしているそうだよ」


「それにしても、どうして病院なんかに遊びに来るんだろう。病人しかいない消毒臭くて陰気で殺風景な病棟なんかにさ。誰も遊んでくれるはずもないのにさ」


「あの子の心の中にはこの病院のどこかに母親の面影が生きているのかもしれないねえ。母親が亡くなってしばらくの間は、時々ここのナースステーションにも遊びに来たこともあるけど、それ以来姿を見ないねえ。真っ白いペンキのように混じり気のない白目と、陰影を帯びた黒い瞳が母親そっくりだったねえ。たしか、あの子の名はメラ、そうだ、メラちゃんと呼んでいたねえ」


「メラちゃんか」


 


<線香花火>


 病院の夕食時間は早い。五時前になると配膳の大きな台車がエレベーターから順に運び出されて病棟の廊下をガラガラと移動する。

 内科病棟には様々な病気の人たちが入院しているから、患者によって食事の内容が微妙に異なる。


 健太郎のベッドテーブルの上に置かれた腎臓病食には、炒め物にも煮物にも焼き物にもサラダにも塩気が無い。わずかな無塩醤油の入った親指ほどの小瓶が、膳に並ぶ茶碗のかげにこっそりと添えられている。

 マグロの赤身の刺身にも、アジの開きの焼き魚にも、水びたしの絹目の豆腐にも、辛味の飛んだすり大根にも、生キャベツのみじん切りにも、微量の無塩醤油をたくみに配分して刺激を求める舌をごまかしなじませる。空になった小瓶を床に叩き付けたくなる衝動を我慢して、味の希薄な料理を喉にかき込む。

 塩分を省略された食事がいかに無味乾燥なもので食欲を減退させるものか、腎臓病を患った者でないと決して分からないだろうと健太郎はやっかみながら、白湯のような味噌汁を喉に流し込んで箸を膳の上に放り投げた。

 

 膳を台車に片付けて、鉄仮面から借り受けた使い捨てのライターをパジャマの胸ポケットに入れて部屋を出た。夕刻になって真夏の日差しが和らいだとはいえ、窓外に夕焼けを見るには早過ぎた。

 シンと静まり返った外来のロビーにぺタリぺタリとサンダルの音を響かせて、新館につながる渡り廊下に出た。

 芝生に足を踏み入れ小児科病棟を眺めたが、全ての窓は閉じられており、女の子の姿は見られなかった。

 あんなに罵声を浴びてコケにされれば、もう来ないかもしれないなと思いながら訪れた三日目のことだった。

 小児科病棟のナースステーションから、泣きべその女の子が看護師になだめられながら手を引かれて出て来た。渡り廊下から芝生に出た女の子は、拳で涙を拭いながら、看護師にバイバイをすると背を向けてトボトボと歩き始めた。

 看護師が急いでナースステーションに戻ったのを確かめて、健太郎は女の子に近付いて声をかけた。


「メラちゃん」

 ドキッとしたように女の子は振り向いた。ニヤリと口もとをゆるめた健太郎の顔を、涙をこらえた上目づかいでジッと見つめた。


「線香花火を持っているかい?」

 健太郎がたずねると、女の子はおもむろに左の拳を前に差し出した。


「線香花火に火をつけてあげるよ」

 こっくりとうなずく女の子の手を取って、健太郎は裏門に向かって歩を進めた。

「お兄ちゃん、どこへ行くの?」


「ここは病院だからさ、花火なんかできないから川のほとりに行こうよ」

「川へ行くの?」


「そうだよ」

「川にはホタルがいるんだよ」


「こんな所にホタルなんかいないよ」

「いるんだよ。川にはホタルがいるんだよ」

 憮然とした表情で少女は言い張る。


「そうか、メラちゃんには見えるのかもしれないな」

 病院の裏塀に沿って歩くと人通りの無い路地に入る。セミの声を聞きながら二、三分も歩けば路地を抜けて土手にぶつかる。その土手に沿って小川が流れている。

 健太郎は少女の手を引いて小さな木橋を渡り土手に上がった。陽はようやく西に傾き、畑地を飛び交う鬼ヤンマの羽が赤紫色の光を撥ねて輝いていた。


「ここなら花火をしても大丈夫だよ」

 健太郎の声が聞こえないのか、畑地の真中にスラリと伸びている一本のヒマワリを少女は指差していた。

「あれ、ライオンみたい」

 大輪の花弁が微風を受けて金色に、雄ライオンのたてがみのようにそよいでいた。


「本当だね、ヒマワリが夕日を眺めているようだね」

 健太郎が土手の上にドッカと腰を下ろして座り込むと、目の前に線香花火が差し出された。

 腰を上げてしゃがみ直した健太郎は、少女が手にした一本の線香花火にライターを近づけた。しけり気味の花火の先でライターを何度もこすると、ようやくシュッと火花が走った。


「ワー、きれい。ワー、きれい。ほら、きれいでしょう。ほら、お兄ちゃん、きれいでしょう」


「うん、きれいだね」

 まだ明るさの残る土手の上で、か細い線香花火の火花が懸命にはじける。やがて勢いが失われ、燃え尽きた焼き玉のしずくがポトリと落ちる。もう一本が差し出されてライターをこすって火をつける。

 男の子たちは知恵遅れとあざけり、藤巻師長は知的障害の後遺症が残ったと言った。本当だろうかと疑った。

 線香花火を嬉しそうに見つめる少女のあどけない横顔は、雌豹のように華麗でしなやかな可憐さと、大人の女に引けを取らない艶やかな色香を感じられる。


 知的障害の子供ならば、もっと違う顔をしているのではないかと健太郎は否定してみた。目付きだって、表情だって、言葉だって、仕草だって、匂いだって、美しさだって、きっと違うはずだと否定してみた。そう信じなければ許されないような、吹っ切れないやるせなさを感じた。倒錯と禁断の呪縛にまどろむような、奇妙なギャップに健太郎の心が当惑していた。


「メラちゃんは線香花火が好きなのかい?」

「うん」

 嬉しそうに少女は笑った。

「お母さんも大好きだったよ。じっと火花を見つめているとね、色んなことを思い出すんだって」


「そうか。お母さんと一緒に線香花火をしていたのかい?」

「わたしのお母さんはね、あの病院のお空の上にいるんだよ。線香花火をしているとね、お空の上からお母さんが見ているんだってお父さんが言った。だから、わたしが寂しくなった時、お母さんに会いたくなった時、線香花火をするんだよ。ほら、きれいでしょう、ねえ、お兄ちゃん」


 いたいけな拳に握りしめられていた一束の線香花火は、天に召された少女の母親の魂だったのだ。

 絹糸のように繊細な火花がチリチリとはじける時に、母の愛の温もりが少女の心を優しく包み込むのだ。母の形見として、少女は線香花火を左手の拳でしっかりと握りしめていたのだ。健太郎の心臓が少女の拳で握りしめられたかのように胸が締め付けられた。


 少女が差し出した最後の一本に、健太郎はライターの炎を近付けた。チリチリ、チリチリと火花が飛んで、赤黒いしずくとなってポトリと落ちる。


「メラちゃん、来週、千葉の港で花火大会があるんだけどさあ、お兄ちゃんと一緒に見物しないかい。線香花火よりずっと大きな花火が打ち上げられるんだよ」

「お空に打ち上げられるの?」


「そうだよ、赤や黄色や色んな形の大きな花火が、パッと空いっぱいに広がるんだ」

「お母さんも見ているかなあ」


「きっと見ているさ」

「うん。行きたいなあ」


「ようし、約束しよう」

「でも、駄目かもしれないなあ」


「どうして?」

「だって、お父さんはいつも帰りが遅いから。わたし一人で遠くまでは行けないよ」


「心配ないよ、メラちゃん。病院に来ればいいんだよ。病院の屋上から花火を見物するんだよ」

 少女は安堵したように笑顔を見せて、期待に胸を膨らませた。


 


<インドネシア>


 メラの父親である信彦は二十七歳の時、インドネシアのスマトラ島に渡り、大手建設会社の下請けとして土木の仕事に従事していた。

 現地の従業員と一緒に、または彼らを指導しながら道路の敷設や建築の仕事、他にも幅広い雑多な作業に明け暮れていた。


 大学で外国語を学び、マレー語を習得していたので、言語が似ているインドネシア語にもすぐに馴染めた。だから、言葉が通じる誠実な日本人として信頼され慕われた独身の彼は、現地従業員の家にしばしば食事に招待された。


 彼らのほとんどはイスラム教徒なのだが、敬虔なアラブ諸国の人たちのように厳しく教義に縛られることはなく、生活や会話に違和感を抱くことはことさらなかった。西欧との貿易によってもたらされたイスラム教は意識の表層を覆っているだけで、インドネシア土着の精霊信仰が彼らの心の底に深く居座っているからだと教えられた。


 ある日のこと、現場を取り仕切る中年の現地従業員に、是非と言われて食事に招待された。

 彼の家はジャングルを車で走り抜けた先の小さな村にあった。車から降りると村の子供たちが珍し気に寄って来た。誘われるままに家に入ると女房が出迎えて挨拶をする。その後ろに照れた仕草で娘が顔を覗かせた。瞳の大きな十七歳のその娘はベラと名乗った。


 赤道直下のインドネシアは、熱帯の太陽にさらされているのでみんな肌の色が黒い。しかしその黒さは、アフリカの人たちのような墨色ではない。真夏の湘南の海岸で一週間ほどキャンプでもすれば、みんなインドネシア人になれるだろう。

 南洋貿易の中継地でもあり、オランダに統治されていたこともあって、インドネシア人には混血も多く、色黒ながらエキゾチックな顔立ちの女性に魅入られることがある。

 信彦はその日、一目惚れというものは国籍も年齢も問わないのだということを初めて知らされたのだ。それがベラだった。


 スマトラ島は日本の総面積よりも広い。バリ島のように観光地が集約されている訳ではないので、車でいくら走ってもさして風景は変わらない。それでも日本人にとっては、ジャングルや田園風景や海や寺院が、いずれも目新しい観光名所だった。


 休日になるとベラを誘って車を走らせた。両親はそれを咎めはしなかった。どこへ行くにもベラは線香花火を持っていた。ベラは線香花火が好きだった。

 日本人にとって線香花火といえば、真夏の夕暮れの縁側というのが定番かもしれないが、スマトラは毎日が真夏だった。

 紺碧の空と淡緑の海がつながる水平線から、果てしなく続く白砂の上で線香花火に火をつける。やがて水平線に雲が立ちふさがり、大きな太陽に焼かれて空が茜に染まるとココヤシの木立がシルエットになって海に映える。

 ベラの笑顔も夕焼けに染まりながら線香花火を振り回す。そのあどけない姿が天使のようで愛おしい。


 ベラは負けず嫌いの勝気だったから、他人から施しを受けることを嫌悪した。だからそれとなく、日本語を学ぶ為ならいくばくかの学費を支援できると申し出た時にもきっぱりと拒絶された。

 ベラが高校を卒業する際に、信彦が従事するプロジェクトの現場で働かせてもらえないかと父親から頼まれた。信彦は喜んで工事現場の事務員としてベラを受け入れ、日本の文化や言語を教えた。


 信彦はこれまでに、恋とか愛とかをまるで知らずに生きて来たから、女性の手すら握ったこともなかった。高校時代に憧れた先生がいたけれど、しょせん恋とは縁遠い妄想の世界の物語だった。だから、女性の気持ちを推し量る物差しを持たない。


 ベラはまだ若い。信彦の事をどう思っているのか分からない。同世代の男友達もいるだろうと考えたら、好きだという言葉も気後れして言い出せなかった。

 そうしているうちにスマトラでのプロジェクトは終わり、東京の本社から帰国の辞令が届いた。


 とりあえずその旨をベラに電話で告げた。その夜のこと、信彦のアパートにベラの父親と近縁の男たちが押しかけて来た。彼らは一様に険しい目つきで、有無を言わせぬ威圧的な様相だった。

 叔父だと名乗る男が裾下に潜ませた短剣をちらつかせ、その腕を押さえて口を開いたのは父親だった。仕事場で見せる温厚な顔とは打って変わったしわがれ声で、ベラを捨てて日本に帰るのかと問われた。問われるというよりも、選択を許容しない問い詰めだった。


 父親の表情にベラの決意を汲み取った信彦は、ベラを日本に連れて行きたいと即答した。すぐにでもイスラムのしきたりに従って婚姻の儀式を行いたいと宣言して男たちを見据えた。正式な手続きは日本でするので、短期のビザでベラを日本へ連れて行く。

 男たちの表情から剣呑さが消えた。気が緩んだ拍子に男の腰から拳銃がポトリと落ちて床に転がった。


 信彦の脳裏に数年前の記憶が鮮烈によぎった。イランのテヘランでの土木プロジェクトが終わって帰国の準備をしている時だった。

 東京に妻子を残して駐在していた下請け仲間の先輩が、うら若い現地妻を置き去りにして帰国しようとした二日前の夜、女の親戚だと名乗る数人の男たちが彼のアパートに押しかけて来た。裾下にライフル銃を潜め、斧やなたを手にした男たちに面罵され威圧され、渡航のチケットを取り上げられてその場はなんとか収まったけど、この先どうなるか分からないと翌朝彼から打ち明けられた。契りを結んだ女を捨てて、日本へ逃げ帰ることなどイスラムの掟が許さないのだ。


 東京の本社に相談してはどうかと提案したが、そんなことなどできないと彼は大きくかぶりを振って顔を歪めた。

 その後その先輩は、イランからも東京からも姿を消してしまった。砂漠の砂の中に埋められてしまったのではないかという噂が流れたまま、彼の消息を知る人は誰もいない。

 今、自分も同じ状況にあるが、結果は違うと信彦は思った。先輩は中東の地で魂を奪われ運命を穢してしまったが、自分は夢を掴んで日本へ戻る。ベラの手にした線香花火がほのぼのと撥ねて夢を紡ぐ。




<花火大会>


 ドドドドドパパパーン

「たーまやー」

「かーぎやー」


「やっぱり夏は花火だねえ。あたしゃこの音を聞くと、生きてて良かったとしみじみ思うよ」

 老婦人患者の独り言に鉄仮面が応じる。


「随分しめっぽい事を言うじゃないか。あと半年くらいは充分生きられるぜ」


「半年で殺したいのかい、私を。あと十年は保証するって先生が言ってたよ」


「そいつは欲だぜ。どこのヤブ医者だって盆と正月くらいはお世辞を言うさ。人間、死に際はいさぎよくしなくちゃいけねえよ。用も無いのにダラダラと生き延びてたんじゃあ世間の皆様に迷惑がかかるというもんだ」


「私に喧嘩を売ってんのかい鉄仮面」


 極楽安楽病院の屋上では、毎夏恒例の千葉市民花火大会見物の患者たちでごった返していた。千葉港会場で開会を告げる第一発目のスターマインが、今しもドドーンと打ち上げられたところであった。


「おい大田原、そんな所でババロアプリンなんか食ってる場合じゃねえだろう。こっちへ来て酌をしろ、ウィッ。おう善さんも一杯やりなよ。酒なら売るほどあるぜ。みんな遠慮はいらねえよ、ウィッ」

 羅生門親分のお酌に善右衛門がコップを差し出す。


「ゲホ、焼酎はやっぱりイモに限るのう。香りが粋じゃのう。花火にイモとはよく言ったもんだ。ワシの畑で取れたピーナッツじゃ。つまみにしてくれ、ゲホ」


「ほう、花火にイモねえ。やっぱり善さんは学があるのう。どういう意味かよう分からんが、やっぱり清水の次郎長親分かい、そういう難解なキャッチフレーズを考え付くのは」

「西神田のキャバクラの客引きじゃったかもしれん、ゲホ」

 

 屋上入口から岡持ちを下げた出前の男が現れて、花火に負けないほどの叫び声をあげた。

「へい、お待ちどうさんでしたー。極楽寿司でございまーす」


「おーい、誰だあ、寿司屋の出前を取りやがったのは」

 浴衣に袈裟懸けをした天竺和尚が応えて手を挙げた。


「はい、私ですよ。こっち、こっち。サンマの肝吸いも付けてくれたでしょうねえ。あっ、ウニが無いじゃありませんか。特上の握りを頼んだのに。えっ、今日は海が荒れて漁に出られなかったって? 朝から快晴の海水浴日和だったような気がしますがねえ。箸は一本でいいんですよ、一本で」


「天竺の野郎、生きとし生けるものは蚊だって毛じらみだって殺生はなりませんなどとほざきやがって、ウニがねえだと怒っていやがる。タコだのマグロだの食ってバチが当たらねえのかよ」


「見逃しておやりよ」

 鉄仮面のボヤキを諫めるように老婦人患者が口を挟む。


「坊主だってたまには生臭をしなきゃあ身が持たないよ。ちょいと悪いけどねえ、鉄仮面さん、そこのウイスキーにビールを混ぜてハイボールのダブルを作っておくれでないかねえ。ギンさん、あんたも何かよばれなさいよ。折角の花火大会で羅生門親分さんのはからいなんだからさあ」


「はいはい、あたしゃテキーラにウオッカを混ぜてグラスのふちに塩をまぶしてもらいましょうかねえ」


「お前ら、よくショック死しねえなあ、その年でそんなもん飲んで。あ、待てこら。ビールで入れ歯を洗うんじゃないよ。屋上が水びたしになっちまうじゃねえか」

 いったい何の病気を患って入院しているのか、強い酒で心筋梗塞でも起こさないだろうかと気遣いながら、鉄仮面は適当にボトルの口を開けてコップに注ぐ。


「あたしゃねえ、若い時分にアメリカのアラバマに移住した頃は、トウモロコシ畑でバーボンウイスキーをストレートで飲んだもんだよ」


「この前はコロラドの牧場で牛の小便と馬のウンコをかき混ぜて飲んでたって言わなかったかい」

 冗談を飛ばしながらコップを両手に持った鉄仮面が、危なっかしい手つきで老婦人患者に差し出す。


「オットット、はいはい。悪うござんすねえ、お手間をかけさせて。夏の夜空に花火を見ながら一杯なんてオツでございますねえ。それじゃあ頂きますよ。グビグビグビリ、あっ、プップププーッ」


「おやおや、どうしたんだいギンさん。テキーラにサボテンのトゲでも入っていたのかい。はいはい、私も一杯頂きますよ。グビグビグププププー。な、何じゃいこれは。おのれ鉄仮面、ビールの代わりに酢をぶっこみやがったなこの野郎。ぶっかけてやる」


「あ、何てことしやがる。一張羅のステテコがすっぱくなるじゃねえか」


「ギンさん、あんたのもぶっかけてやりな」


「やめろ! お前らねえ、もうすぐ三途の川から迎えが来るってのに酔いつぶれてたんじゃあまずいだろうよ。酢でも飲んで花火を見て喜んでるのがお似合いなんだよ。酢はな、ババアの健康に良く効くって言うじゃあねえか。特に死に損ないのな。知らねえのか、あん」


「やかましい! 若造のくせに上等な減らず口をたたいてくれるじゃないか。あたしを怒らせたらどうなるかきっちり教えてあげるよ。ギンさん、ちょいとあんたの仕込み杖を貸しておくれ」


「あ、危ねえ。やめろ! 何で仕込み杖なんか持っていやがるんだオメエらは」

「うるせえ! ぶった切ってやる。逃げるかこら。お待ち」

 

 キャンプ用の小さな折り畳みイスを二脚並べて朝比奈と榊原優子(前編「心中未遂と片恋慕」を要熟読)が寄り添って座っていた。いや、朝比奈が一方的に寄り掛かっていた。


「ゆ、優子さん。花火がきれいですねえ」

「あら、上がっていませんわよ」


「あは、あは、先ほどの百尺玉の紅孔雀と枝垂れ柳の七変化バージョンは、あたかも七色の月光に照らされた華麗にして優艶な優子さんの浴衣姿とでも申しましょうか。あは、あは」

「今夜は風が無くて蒸しますわ」


「あはは、ぼ、僕のヒートなパッションが、きっと優子さんの愛の、愛、あ、あたたたた。な、何だ、何だ、イテテテデデ」

 老婦人患者に追い立てられて鉄仮面が飛び込んでくる。


「どけ朝比奈、邪魔だ! あ、危ねえ。おっととと、や、やめろ糞ババア! あー、額が切れた」


「ちょいと優子さん、こいつをぶった切って、屋上からたたき落としてやるからどいてちょうだい。ウリャー、ター」


「あー、私の寿司を踏んづけないで下さいよ。あー、大トロが転がり落ちた。海老が跳ねてイカと肝吸いがひっくり返ったじゃありませんか」

 天竺和尚は箸を片手に仰向けに倒され、羅生門親分はテキーラ割りの焼酎を呷りながら鉄仮面にボトルを差し出す。


「おうおう、鉄仮面のダンナ、苦戦をしてるようじゃあねえか。トカレフでも一丁貸してやろうか、あん」

 


 千葉市民花火大会は千葉港の本会場でも、極楽安楽病院の屋上でも、まさに佳境の盛り上がりに沸いていた。

 ドーン、パパーン、ドパドパドパパパパーン


「ワー、すごい、すごい。お空が花火でいっぱいだよ、お兄ちゃん」

「うん、綺麗だねえ。メラちゃん、イスの上に立ち上がっちゃ危ないよ」


「あれは大っきなバラの花みたいだなあ。あ、今度はチューリップだ。赤い花びらが散って落ちてくる。何だか、お空が裂けて血の涙が流れ落ちてるみたいだなあ」

「血の涙か……。初めてかい? 打ち上げ花火を見るのは」


「うん。お母さんにも見せてあげたいなあ」

「きっと空の上から見ているよ。だって、病院の空の上にメラちゃんのお母さんはいるんでしょう?」


 澄み渡った東の夜空に紅牡丹や八重菊の大輪が百連発の光彩を轟かせる。千輪花火の小花がファンタジックに光彩を添えて燃え尽きると、瞬時静寂の夜空が白煙に覆われる。

 南の天空にくっきりと浮かび上がった北斗七星の柄杓ひしゃくの先に、ひときわ鋭い光を放つ綺羅星を少女は指差した。


「わたし、大きくなったらあのお星様へ行くんだよ」

「あれは北極星じゃないか」


「違うよ、サザンクロスだよ。お母さんはそう呼んでいたもの」

「サザンクロスって、南十字星のことじゃないか」


「メラが大きくなったら一緒にあのお星様へ行こうねってお母さんが言っていたの。銀色の流れ星に乗って空をかけるの。でもね、わたしが大きくならなくちゃあお母さんもあのお星様へ行けないから、だから早く大きくなりたいの」

「へえ、流れ星に乗って行くのかい」


「流れ星にはねえ、幸せになりたい人達がたくさん乗っているんだってさ。流れ星に乗ればみんな希望の国へ行けるんだ。お母さんと一緒にあのお星様へ行くんだよ」

「そうか。銀色の流れ星に乗ってメラちゃんはお母さんと一緒にサザンクロスの国へ行くのかい」


 メラの母親はインドネシア人だと藤巻師長は言っていた。異国の夜空にきらめく北極星は、インドネシアの空に輝く南十字星なのかもしれない。

 母親は、メラが大人になった時にインドネシアで共に生活する夢を見ていたのかもしれない。だが、母が残した言葉をかてに、永遠に再会できることのない母に会えると夢を抱いてメラは生きている。


 希望というものは、いつか叶えられるかもしれないから希望なのではないのか。メラは生涯叶うことのない希望を、かたくなに夢の中に閉じ込めて生きている。

 サンタクロースがいないことを知った少年の日のように、生と死との狭間に人知を超えた境界線があるという現実に気付いた青年の日のように、希望のともしびがはかなく消えたことを知った時、メラの運命はどうなってしまうのだろうか。


 少年の健太郎には、軽度の知的障害という意味がよく分からない。言葉だけ聞けば、現実に直面しなければ、何となく理解できるような気にもなるが、具体的に自分とどこがどう違うのか、意識や分別の仕切りがどこにあって、小児科のガキとどういう風に考え方や見方が違うのか、物差しの違いも目分量も分からない。

 正常な人間だって、思考や判断の違いや歴然とした知力能力の格差があるではないか。互いの欠点をほじくり悪癖をあばき、バカだアホだと罵り、さげすみ、いがみ合って喜んでいるのが正常な人間の平常な姿ではないのか。


 顔だけ見れば近所のどの女の子よりもメラが美しいと健太郎は思う。その少女が、少年たちから知恵遅れだとかウンコたれだとか邪険にされながらも、母と再会できるという希望を糧に生きている。線香花火のチリチリと散る小さな火花に母の面影を求めながら強く健気に生きている。

 健太郎は己の生き方の甘さを恥じた。後頭部をカツオ節で殴られ、頭頂部をハエ叩きでひっぱたかれたような忸怩じくじたる思いに馳せられた。


「おう、お嬢ちゃん。どうだい、打ち上げ花火は気に入ったかい」

 羅生門親分がメラを抱き上げて肩車にした。


「わーい、大っきな花火を両手でつかめそうだよ」

「そうかい、そうかい。そいつあ良かった」


「メラちゃん、メロンアイスをあげるよ」

 看護師の大田原桃子が、ナースステーションの冷蔵庫に買い置きしていたアイスを一個、肩車のメラに手渡した。


「お姉ちゃん、ありがとう」

 ドパパパーン、ドドパパーン


「わしゃあ、あと何回この花火を見られるかのう。ゲホ」

 善右衛門の弱音をからかうように、老婦人患者が杖の先で尻を小突く。


「気弱なことを言うんじゃないよ。あたしの三倍は見られるよ」

 いよいよフィナーレが近付いたのか、スターマインの乱れ打ちが満艦飾の夜空に染まる。

 ミラーボールにきらめく栄町のキャバクラの浴衣祭りを思い浮かべながら鉄仮面は、屋上の隅っこで額から血を流しつつ夏の夜空の祭典を満喫して紫煙を吹き上げていた。


 


<希望>


 夏の終わりは一瞬の駆け足で、祭りの後の静けさよりも物寂しい。

 セミの声がプツリと消えて、コオロギと鈴虫の音色が秋を知らせて蚊とゴキブリが冬支度に入る。


 あれ以来、メラは病院に姿を見せない。寝て、起きて、本を読むくらいしかする事のない健太郎は、たまにメラの顔を思い浮かべてどうしたのだろうかと憂慮していた。


「浮かない顔をしてどうしたんだい健ちゃん。物思いにでもふけっているようだけどさ」

 はす向かいのベッドから朝比奈が気遣いの声をかける。

「うん。それほど深刻でもないけどさ」


「僕はこう見えても小学校の教師だからさ、相談に乗れるかもしれないよ。話してみなよ健ちゃん」

「うん……」

 言葉を探して口ごもっている様子に心中を察した朝比奈は、「屋上に行こうか」と、健太郎を誘った。

 

 病棟の屋上には誰の姿もない。欄干にもたれて空を見上げているだけで風が頬を撫でて心地良い。

「朝比奈さん、希望って何ですか?」

 健太郎はぼそりと言った。


「希望ねえ。健ちゃんは将来のことを見据えて病気のことでも悩んでいるのかい?」

「僕の事じゃないんだ。メラちゃんの事なんだけど。彼女はね、お母さんに会いたいって希望を持っているんだ。いや、必ず会えると信じているんだ。でも死んでしまった人に生涯会えるはずは無いじゃないか。そんな希望ってあるんだろうか?」

 素っ気ない顔つきで朝比奈が返す。


「希望なんてそんなものさ」

「そんなものって、どういうことなのさ。叶えられる可能性があるから希望じゃないか。だから辛くても苦しくても一生懸命努力して希望に近付こうとするんじゃないか。大人になれば必ず会えると信じてメラは生きているんだよ。それが希望だというなら惨めじゃないか」


「だから、ずっと信じていればいいんだよ。大人になっても疑う必要はないんだよ。死ぬまで希望を持ち続けて生きればいい。それがその人の希望なのさ」

「だって、希望が叶えられないと知った時、その人の希望は絶望に変わってしまうじゃないか」


「健ちゃん、パンドラの箱の話を知っているかい?」

「ギリシャ神話に出てくる話でしょう。箱を開いたら様々な災いが飛び出してきて、人間の世界が苦しみや災難や憎しみの感情であふれてしまったって話なら知ってるよ」


「パンドラの箱が、なぜ作られたか知ってるかい?」

「知らない」


「神々はね、自分たちの玩具おもちゃがわりに人間を作ったのさ。大地の泥を練り上げて自分と同じ形に作った神が男神だったから、作られた人間も男性ばかりだった。ある日、プロメテウスという神が人間に火を与えてしまったんだ。ところが、それを知った神々の王であるゼウスはね、人間の男たちが火を使うことによって知恵をつけることを危惧した。人間としての尊厳や誇りを持つことを恐れたのさ。だからゼウスは、人間が神を脅かす存在にならないように、人間たちの感情を混乱させねばならないと考えて、神々に命じて人間の女性を作らせたんだよ」

「それがパンドラかい?」


「そうだよ。その女性は、美しい彫刻をほどこされた黄金の箱を授けられたけど、ふたを開けることを固く禁じられた。ところが神々が女性を作る際にね、好奇心という緊縛破りの性癖を植え付けてしまったのさ。だからさ、西新橋の裏ビデオ屋のミカちゃんだって、鶯谷のコスプレ喫茶のマリアちゃんだって、みんな好奇心がいっぱいなのさ」

「朝比奈さん、よく行くのかい? 西新橋や鶯谷のそういう店に」


「胃炎を患ってからはご無沙汰だねえ。教頭先生なんかは補導係の鬼瓦先生を誘ってちょくちょく行ってたなあ。現場研修だとかPTA対策の一環だとか言ってさ。しかも校費で」

「それで好奇心に負けたパンドラが黄金の箱を開けちまったんだね」


「そうさ。憎悪、恥辱、嫉妬、復讐、苦痛、病気、犯罪、貧困、ありとあらゆる禍根が人間の世界に飛び出した。蒼ざめたパンドラが慌てて箱のふたを閉じたその時、ふたの隙間から最後に飛び出した禍根と、箱の中に残された唯一の禍根がある」

「箱の中に残された禍根というのは何なのさ。人間の世界には存在していないことになるんだよね、箱の中に閉じ込められたままなんだから」


「その通りだよ健ちゃん。それが何だか分かるかい?」

「この世の中に無い禍根なんて想像もつかないよ。教えてよ」


「それはね、自分の未来を予見する能力なのさ」

「ふうん、確かにね。神話だとしてもよく考えたものだね」


「それじゃあ、ふたの隙間をすり抜けて、最後に飛び出した禍根は何だか分かるかい?」

「きっとさあ、最大最強の厄災だよね。死に直面した恐怖心とかさあ、愛する人を殺されて狂気と化した復讐心とか、視力や神経を失って未来を虚脱した絶望感だとか」


「いいとこ突いてるねえ。でも違うんだよ健ちゃん」

 もったいつけるように朝比奈は、大きく溜息をつき、首を左右に振って見せた。


「それはね、希望なんだよ」

「えっ、どうしてさ。だってパンドラの箱の中には災いの元凶しか入っていなかったんでしょう。どうして希望が入っていたんだよ」


「ドイツの哲学者のニーチェはね、希望こそが最悪の禍根であると言い切っているんだよ。叶えられることのない願望という苦悶を、いつまでも抱かせ続ける災いが希望だと言っているんだよ。希望とは永遠に叶えられることのない幻影、だからこそ希望なんだよ。叶えられるような目標、そんなものは希望なんて言わないのさ。箱の中に閉じ込められた未来を予見する能力と、最後に飛び出した希望はね、表裏一体の禍根なのさ」


 朝比奈はニッコリ笑って大きく頷き、健太郎は眉をしかめて首をかしげた。

 屋上に映える夕日は街の雑踏に紛れてたちまち消えるが、真夏の涼風が夕映えを洗い清めて星座をくっきりと浮かび上がらせる。

 ぼんやりと見上げていると、東の空から流れ星が尾を引いて北極星を貫いた。まばゆい火花がはじけると、流れ星が二つに割れて南の空へと消え去った。



 消灯のスイッチがパチンと落とされ、ナースシューズのしなやかな足音が次第に遠のく。

 閉じられたカーテンの隙間から、チラチラと漏れる星明りが青かった。


 健太郎は眠ろうとして何度も目をつむってみたが、ナースステーションの冷蔵庫のパイナップルプリンが瞼の裏に張り付いたかのようにちらついて目が冴える。


 昼間の検温の際に看護師の大田原から、夜中にパイナップルプリンを盗み食いしたら容赦しないよと、きつく釘を刺されて脅されていた。ということは、間違いなく冷蔵庫にプリンは入っているはずだと健太郎は当て込んでいた。

 健太郎はベッドを降りて、ペタンコ、ペタンコとスリッパを鳴らしてナースステーションへ行くと、麗子が煎餅をポリポリかじっていた。


「煎餅おいしいか麗子?」

 振り向きもしないで麗子が一喝する。


「帰れ!」

 いつものように甘えて見せる。


「台風が来てるみたいだから眠れないんだ。添い寝してくれよ麗子」

「外は満月だよバカ。九号室だけ吹き荒れてるのかい、竜巻とか暴風が」


「餅でも焼いて、お汁粉でも作ってくれよ」

「ここは駅前のカフェじゃないんだよ。ここにあるのは消毒液と浣腸だけだよ。飲ませてやろうか注射器でかき混ぜて」

 テーブル席の肘掛に腰を下ろして看護記録に目を通していた看護師長の藤巻が、おもむろに視線を上げて健太郎に話しかけた。


「ああ健坊、調度いいところに来たよ。あんたにねえ、知らせがあるんだよ。悪い知らせだけどね。内緒にしておこうかとも思ったんだけど、あんたも、もう大人なんだから、やっぱり教えてあげた方がいいだろうと思ってね」

 師長が自分にいったい何の話だろうかと訝りながら、健太郎はおずおずとテーブルの椅子に腰かけた。


「ついこの前、定例の師長会議があってね、そのとき外科病棟の師長がみんなに話していたんだよ。数日前に救急車で小学生くらいの女の子が救急センターに運び込まれて来たんだそうだ。路地裏に突っ込んで来た軽トラックにはねられて、病院に運ばれて来た時にはすでに虫の息でね、かわいそうに手当てを受ける暇も無く息を引き取ってしまったんだそうだ。その子の左手の拳にはね、しっかりと一束の線香花火が握られていたそうだよ。付き添っていたお父さんが、メラと叫んで抱きしめていたそうだ」


 健太郎は思わず立ち上がり、膝がプルプルと震えるのが分かった。麗子も初めて聞いた話なのか、あんぐりと開いた口からかじりかけの煎餅をポトリと落とし、動揺してふらつく健太郎を支えた。

 テーブルの椅子に座らせてやろうと麗子は健太郎の両肩に手を添えたが、ヨタヨタと夢遊病者のように健太郎はナースステーションから出て行った。

 


 翌日の朝、健太郎は病院の近くのコンビニに行って売れ残りの花火セットを買い求めた。

 朝食を済ませるとサンダル履きで裏門を出て、川のほとりの土手に向かった。


 小さな木橋を渡って土手に上がると、畑地の真ん中に一本のひまわりが見える。老いた獅子のように大きな頭を垂れてうつむいたまま動かない。

 シオカラトンボが青空に跳ね、涼やかな微風が土塊を撫でる。


 ネズミモチの小枝をポキリと折って十字架に結び、土手の上の地面にブスリと突き刺した。

 あどけないメラの笑顔を思い浮かべて瞑目すると、夏の思い出をあざ笑うかのように、一陣の凄風が吹き抜けてかき乱す。夏の盛り上がりを妬んで冬を怖れる秋はいつも物悲しい。


 健太郎は花火セットのビニールをはぎ取り、線香花火を取り出した。パジャマの胸ポケットから使い捨てのライターを取り出して、花火の先に近付けてシュルッとこすった。

 夜空にきらめく北極星を見つめて、メラはサザンクロスだと指差した。その星でお母さんに会えると言った。会えたのだろうか。


 死ななければ叶えられない希望だなんて、そんな宿命を負わされたメラの希望は、余りにも残酷すぎる神の蛮行ではないか。希望と絶望が表裏一体の禍根だなんて、僕は絶対に信じない。

 インドネシアがどんな国なのか健太郎には見当もつかないが、南十字星の下で線香花火に興じる母子の姿が目に浮かぶ。


「楽しいね、お母さん」と、微笑み甘える幼い少女の声が聞こえる。

 チリチリ、チリチリと、パチパチ、パチパチと、ホウセンカの実がはじけるように火花を散らし、人の命が消えるように赤黒い火の玉が長く伸びてポトリと落ちた。


 健太郎の瞳から涙の粒がポツンと落ちて、十字架の前の小石を濡らした。暑かった夏の思い出が涙となって、ポトリと落ちて消えてしまった。




次の話は、病院内窃盗事件のからくり

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