第二話:赤いアルファロメオに乗った演歌歌手
吹き抜ける海風に煽られて桜吹雪が舞い上がる。千葉市立極楽安楽病院の駐車場に一台の赤いアルファロメオがそろりと停車した。
重いクラッチから左足を開放して左ハンドルの座席から降り立ったのは、純白のスーツに身を包み、レイバンのサングラスと大きなマスクで顔を覆い隠した細身の若い男であった。
外来受付の窓口で入院手続きを済ませた男は、人目を避けるようにうつむきながら第二内科病棟の二十号個室、通称セレブの間に案内された。
八畳ほどの個室はさほど広いとは思えないが、テレビ、冷蔵庫はもちろんのこと、パソコン、電子レンジ、金庫、洗面所にウォッシュレット付き洋式トイレまで設置され、無いのは風呂だけだった。
男の名は錦王子銀之助。東京ドームでも武道館でも、ワンマンショーで満員御礼にできる若手ナンバーワンの演歌歌手であった。
三日前の舞台公演の際に、ノコギリで胃壁を裂かれ、刺身包丁で突き刺されるような鋭い痛みに苦しんだ。いや、実は、一か月ほど前からキリキリと針で突かれるような痛みを感じていたのだが、仕事のスケジュールに穴を開けてまで病院に行くことなど出来なかった。
痛みの原因は分かっているのだ。だけど、誰にも明かすことのできない秘密だからマネジャーにも話せなかった。しかし、いつまでこの痛みを我慢できるのか。放っておけば症状は悪化して、いつか舞台に大穴をあけて大勢の関係者やフアンに迷惑をかけることになるかもしれない。
いや、それよりも、もっと大切な事がある。その事を真剣に考えるために時間が必要だ。誰もいない静かな場所で答えを見つけなければ、急がなければ残された時間が無いのだ。
銀之助は決心して、激しい胃の痛みをマネジャーに告げた。そして、マスコミには内密に都心から離れた千葉の病院へやって来たのだ。
自転車代わりに車イスを乗り回している鉄仮面虎蔵が、九号室の前の廊下をフラリフラリと漂っていた。病室入口に置かれている消毒液を手に吹きかけて、ヘアトニックの代わりに頭髪に馴染ませている。
そこへ点滴用の交換液を手にした看護師の桜川麗子が、ツンとすまして通り過ぎようとした。
鉄仮面の車イスが急カーブを切って行く手をさえぎった。
「ギャッ、危ないじゃありませんか。車イスは玩具じゃないんですから、乱暴に扱って壊さないで下さいよ」
「おい、麗子」
「何ですか」
「セレブの間に客が入ったようじゃないか」
「何ですか、セレブの間とは」
「豪華個室の二十号室に決まってるじゃねえか。とぼけんじゃないぞ。めったに客の入らねえあの部屋の窓の明かりが昨夜からつきっぱなしじゃないか、あん。誰が入ったか教えろよ。大物の悪徳代議士かい、詐欺か脱税で姿をくらました社長さんかい、それともIT企業の成り上がりの成金野郎かい。そうでもなきゃあスポーツか芸能関係だな。どうだ、図星だろう、あん」
「あら、そうですか」
「あらそうですかじゃ答えになってないだろう。こういう事はな、きちんと報告してくれなくちゃあ俺の立場がないじゃないか。そうだろう」
「どんな立場なんですか。知ってたって言えませんよ。患者様の個人情報ですから」
「何が個人情報だ、俺だって立派な患者様じゃねえか。患者が患者の事を知ってこそ病棟のコミュニケーションが成り立つってえ道理じゃないか。それともそいつは何かい、他の患者とは口も利きたくないって魂胆かい」
「当然でしょ。個室を希望されているのですから」
「お前ねえ、そうきっぱりと決めつけるもんじゃないよ。せっかく温かく迎えてやろうって俺たちの好意を、そういう態度で踏みにじろうってのかい。ああいいよ、いいんだよ。奴だって朝になりゃあ洗面所で顔を洗うだろうし、歯磨きくらいするだろう。そこをふんづかまえて素性を吐かせてやろう」
「二十号室には洗面設備が付いていますわ」
「何だと。まあいいよ。どんな人間だって一日に一回くらいは小便くらいするだろう。トイレに行く時を狙って白状させてやろう」
「トイレも完備していますわ。しかも最新式のウォッシュレットで」
「なに、トイレまで付いてるのか。じゃあ何かい、押入れの中には防犯用の日本刀とかヌンチャクが入っているのかい」
「どういう発想をすればそこまで飛躍して考えられるんでしょうねえ。ここは武家屋敷でもカンフーの道場でもありませんのよ」
「じゃあいいよ。そこまでかたくなな態度で患者をないがしろにするのなら、じっくり考えて検討するから」
「何を検討するつもりですか。突拍子もないことを考えて、他の患者さんを巻き添えにして大騒動を起こさないで下さいよ。本当に困りますから」
「何も困ることはないじゃねえか。俺だけにこっそり教えてくれさえすれば何も起こらないよ。絶対に誰にも言いふらさないんだから」
「絶対誰にも話さないって約束できるんですか本当に」
「当たり前じゃないか。九十九里のハマグリだって俺の口の堅さに呆れていたぜ。一生涯誰にも話しゃしないよ」
鉄仮面の執拗さに根負けした麗子は、患者の素性と病名を明かした。廊下に車イスを乗り捨てにした鉄仮面は、九号室に戻ると早速みんなに暴露した。
「病名は俺と同じ胃潰瘍だってさ。体質も同じだってさ。精神も同じように繊細だってさ」
朝比奈が顔をしゃもじにして口をすぼめる。
「とうてい同じだとは思えませんが。暴飲暴食に博打とタバコとキャバクラが原因の鉄仮面さんとは本質的に体質も精神構造も違うと思われますが。しかし、あの人気若手歌手がどうして都心を離れてわざわざ千葉の病院を選んだのでしょうか」
同じ疑問に鉄仮面が頷く。
「どうやらそこいら辺に謎がありそうな気がするなあ。見たところマスコミにもフアンにも知られていない、完全なお忍びだぜ」
みかんの房を丸呑みにしながら天竺乱漫丸和尚が悟りの口調で私見を述べる。
「よもや、助かる見込みのない不治の難病を患ってしまったのではありますまいか。マスコミにも発表できず友にも言えず、都心から離れた病院を選んで極秘に緊急入院したということではありますまいか。ナンマンダブツ、ナンマンダ、ナンマンダ」
「まだ死んでねえよ。あんた出て来るとややこしくなるから静かにしててくれねえか。奴は胃潰瘍だって麗子は言ってたんだ。胃潰瘍が不治の難病で死ぬってことは俺が死ぬってことじゃねえかよ」
「鉄仮面さん、死んじまうのかい」
「やめてくれよ善さん。縁起でもない」
「ナンマンダブ、ナンマンダブ」
「殺してやろうか天竺」
「おう、錦王子銀之助なら知ってるぜ」
羅生門親分が岩石のような顔をゆがめて熱燗トックリを傾けながら口を挟んだ。
「千葉での公演の際にな、ワシの事務所へ仁義の挨拶に来やがった。赤いアルファロメオに乗って粋がってたぜ。あいつがワシと同じ病棟に入院したとは見事な縁じゃねえか。おう、どうだい、二階の手術室でも借り切ってワンマンショーでもやらせれば、患者衆の慰労になるってもんじゃねえのかい。いつぞやワシが世話になった刑務所だって、落語だの歌謡ショーだのって月に一度の慰安会があったもんだぜ。病院だってオメエ、たまには昼飯に生ジョッキとお銚子五本つけるくらいのサービスは常道だぜ。鴨川の温泉を芸者と一緒に運ばせて、手術台のライトをミラーボールにして、若い看護師にミニスカ穿かせて歌わせるくらいのことは常識だろうよ。それが開かれた病院の近代化ってもんじゃねえのかい」
「そりゃあ名案のグッドアイデアだ、ゲホ。さすが親分さんはシャバの素人とは思考のポイントが異常だねえ。入場料は五千円てとこでどうだろうか。その五割をワシらがもらって三割を病院に寄付してやれば四方八方丸く収まるってもんじゃないかのう。ゲホホ」
イカを顔にしたような喘息の善衛門が白い眉毛をひそめるようにしてほざいた。
明日からの検査の手順を告げて主治医が病室を出て行くと、錦王子銀之助はゆっくりとベッドに横たわり、五年前の追想に眼を閉じた。
<銀之助の追想>
雪深い津軽の寒村の高等学校の教室が目に浮かぶ。一学年に二百人余り、全校生徒六百人余の男女共学だった。
小学生から中学生になる時にはさほど感じなかったが、高等学校に進学した時には随分と大人になったような気がした。制服の女生徒を見るにいたっては、ことさら強く異性を感じて自分よりずっと大人びて見えた。まるで、青虫が脱皮してさなぎから蝶に変身したかのような眩しさだった。
錦王子銀之助の本名は、芋王子銀助だった。
銀助は子供の頃から歌唱が得意で、中学校では先生よりもピアノを上手に演奏できるともてはやされて得意満面の神童気取りだった。だから高等学校に進学した銀助は迷わず合唱部に入部した。
二年生になってリーダーに選任された。自ら詩を作り作曲もした。合唱部の部長教師もその卓越した能力を高く評価してくれた。そうして学業も無事に乗り切り、二年生の秋の候だった。
生徒会の役員は三学年の秋になると全員が解任されて、二年生の有志が立候補して選挙が行われる。
成績や足の長さ鼻の高さに加えて顔の凛々しさや根性のひねくれ具合を審判されて会長と副会長がまず選ばれる。その後に執行部の役員が選任されることになる。
他薦自薦で会長と副会長の各立候補者が決定し、学内ではまさに選挙の機運が盛り上がっていた。
掲示板や廊下の壁面には候補者のポスターが貼り出され、体育館に全校生徒が集められて選挙演説が行われた。休憩時間には立候補者が各教室を回って熱弁を振るう。学校中がすがすがしい熱風に吹き荒れていた。
投票を三日先に控えた昼休みのことだった。忘れもしない、昼休みの弁当をあらかた食べ終えて紅鮭の骨をしゃぶっている時のことだった。
いきなり教室の前扉がガラリと開き、二人の女生徒が肩からタスキをかけて入って来た。
「お願いしまーす! 静かにして下さーい! 烏丸沙織が最後のお願いに参りました。ご静粛にー」
応援の女生徒が大きな声で叫んで、選挙公約を筆で大書した垂れ幕を横に広げた。その前で烏丸沙織は一礼をして、副会長立候補の演説を始めた。
呆気にとられたまま銀助は、立候補者の演説を聞き入った。なぜ呆気にとられたのか。銀助は演説を聞いていたが聞き入ってはいなかった。聞いていたのは立候補者の声だった。
沙織の声音はサバンナの草原を軽快に駆けるインパラだった。淡く爽やかな声色はフラミンゴだった。清純な覇気に魅かれて耳を済ませた。
これまで廊下で彼女とすれ違ったことがあっても無表情で、上品な顔立ちだと気にした事はあるが縁がないのでそれ以上に興味を抱くことはなかった。彼女の声を初めて耳にして、唇の輝きに触れ、鼻筋を舐め、瞳と瞳が合わさった時、心臓を稲妻が突き刺し血が燃えた。
それまで銀助は生徒会の選挙などどうでも良かった。誰が選ばれようが自分には関わりの無いことだったから、その日までは無関心だった。いや、その後も無関心だったのかもしれないが、選挙が銀助の運命を変えた。
銀助の父は尊大で横暴だった。男尊女卑を旨としていた。母は家長である父に従順であり卑屈で陰鬱だった。農家の嫁として生き抜くための術だったのかもしれない。
一人息子の銀助は、幼い頃から父に遊んでもらったことも母に甘えた記憶も無く、弟や妹という夢想の存在を作り上げていつしか孤独という境遇に慣れきっていた。
合唱部のリーダーになったのだって、統率力や人間性を評価されたわけではない。誰よりも歌が上手くてピアノが弾けるから、祭り上げられた一人ぼっちのからくり人形のような存在だった。
だからといって、孤独という言葉が示すような悲愴感などまるでなかった。周りの風景が白い布に覆われているに過ぎなかった。そして今、その白い布に鮮血の飛沫がとぐろを巻いて滴ったのだ。
その日から風景が一変した。突然空に太陽が輝き雲が流れて山の木々が息づいた。脳味噌に烏丸沙織の声と瞳が貼り付いた。田んぼの畦道を歩いて家に帰って部屋に閉じこもり、晩飯だと言われて食卓に座しても恋の病で食欲が湧かない。
しかし一変したのは銀助の感情だけで、太陽も雲も山の木々も知らんぷりだから、沙織の心を振り向かせてくれはしない。
それでも銀助は沙織との出会いの感動を詩に綴り曲をつけた。そして一人で口ずさんだ。淡い青春の想いを口ずさんで歌った。
体育館の中央に置かれた投票箱を前にして、烏丸沙織と書いた投票札を手にして銀助は逡巡していた。
沙織が副会長に選ばれてしまえば生徒会の運営のために奔走することになるだろう。会長や執行委員たちと親しく顔をつき合わせて生徒会の運営に心が奪われてしまうことになる。
銀助は生徒会長に嫉妬して会の運営を妬んだ。沙織の存在がもっと遠くへ霞んでしまいそうな気がして投票を戸惑っていた。
銀助の逡巡とは関係なしに、沙織は副会長に選ばれた。生徒会長には大地主の息子が予想通りの大差で選ばれた。
これまでの古臭い学校主導のしきたりから脱却を試みる新会長の意気込みは激烈で、執行委員たちも忙しく動き回っていた。銀助は、そのような生徒会の活動的な運営に嫉妬して、沙織の陰影を引きずる日々を送っていた。
学年が変わり、野辺の雪が解けて水芭蕉が可憐な白い顔を覗かせる頃、生徒会は春季学園祭の企画作りで忙しくなる。
運動部や文化部のクラブ活動発表会を含めて、生徒会と各部門との打ち合わせが頻繁に行われる。生徒会長は主に運動部との交渉に当たり、副会長は文化部と新しい企画を推し進める折衝に当たることになった。
<提案の条件>
沙織が生徒会副会長として合唱部の部室へやって来たのは4月も末の金曜日の放課後だった。
合唱部のリーダーとして銀助は沙織に向き合った。ときめく胸を押さえて平静に、はやる気持ちを誰にも見破られないように心掛けながら沙織の話に耳を傾けた。
演劇部と吹奏楽部と英語部を複合的に連携させて、斬新な学園祭を盛り上げるために、合唱部が企画の中枢を担ってまとめて欲しいという提案だった。他の部とは了承済みで、フィナーレを合唱部で締めくくってもらいたいと付け加えて、尖った鼻筋を銀助に向けた。
全く異種の部を四つも束ねてリードするなんて、自分の能力を超えていると銀助は眉をしかめた。沙織の立場を考えて何とかしてやりたいと思えども、口をついて出るのは弱気な言葉でしかなかった。
「複合的にって簡単に言うけどね、限られた時間の中で合唱部の部員を配分して、各部門との合同練習を進めていくには無理があるんじゃないのかなあ」
銀助の渋る表情に沙織は気持ちを込めて力説した。
「だからこそ成功させたいのよ。例年通りのマンネリな学園祭じゃつまらないでしょう。生徒会も本気なんだから」
あの日と同じ情熱的な大きな瞳を輝かせて、淡く爽やかな声色で沙織は丁寧に企画の意図を語ってくれた。
銀助は思案に暮れてうろたえた。みずみずしいコスモスの頬にマシュマロの小さな唇が眩い。昔話の挿絵で目にした白蛇伝説の妖艶な化身を思い浮かべた。たぶらかされても食べられてもいいと思った。だけども、優柔不断で決断力のない男だと悟られたら、腐臭に塗れた軽蔑の対象として食べられるどころか二度と口をきいてくれないだろう。沙織が納得できる解決策はないだろうかと思案した。
沙織の説得は闊達で温柔だが、艶やかに尖る瞳が次第に鋭利さを増して焦れたように問い詰めてくる。無理だと断じて開き直る事なんかできはしない。
焦り、迷い、苛立ち、必死で思考を巡らせているうちに、いつもだらしなく弛緩してまどろんでいる怠惰な脳味噌が、太陽の直射を浴びたかのごとく閃光を受けて燃え上がった。
それは、火事場の馬鹿力にも似た、やけっぱちの狂気のひらめきの一策であった。沙織の申し出を承諾する代わりに一つの条件を提示したのである。
「分かったよ。でも、条件付きだよ。他の部と連携して打ち合わせや練習をとどこおりなく進行させる為には、生徒会がイニシアチブを執らなきゃいけないよね。だったら、副会長である君が合唱部の一員として参加することが望ましい。これが合唱部としての条件だな。絶対的条件だよ」
沙織は思いがけない切り返しの提案に戸惑いためらったが、生徒会の他の役員たちの参加も認めて欲しいという要望を入れて承知した。
翌週から、沙織を交えて文化部各部門との打ち合わせが始まった。そして、学校始まって以来の新企画を成功させるために合同の練習が開始された。
銀助は、毎朝学校へ行くのが楽しみになった。数学も国語も理科も英語の授業もまるで上の空で、ひたすら放課後になるのが待ち遠しかった。
合同練習というあつらえの夢舞台で銀助は沙織を独り占めにした。沙織の声音は清楚で優しく覇気があった。池の水面で小魚が跳ねるようなみずみずしい初々しさに溢れていた。
ウルウル、ベタベタ、ネチネチと、沙織にレッスンを施すうちにますます思慕が高まり、やがて銀助は節操という概念と理性を捨てた。
合唱部の女子部員たちからどんなにブーイングを受けてもひたすら鉄面皮を装った。恨まれようが、卑下されようが、妬まれようが、張り倒されようが、ど突かれようが、はては、合唱部が分裂しようが解散しようが、沙織の心さえ手中に収めることが出来るならばどうでも良いと覚悟を決めていた。
その情熱は沙織にも伝わった。彼女もそれを拒まなかったことが意外でもあったが嬉しかった。
学校中に広まる剣呑な噂を心配した彼女の友人たちが、合唱部から遠ざかるようにしつこく忠告していることを銀助は知っていた。しかし沙織は忠告を軽く聞き流すだけで、合唱部を中軸にした合同練習を銀助と一緒に熱心に推し進めた。
そして迎えた学園祭では、生徒会主導の斬新な企画と、演劇や英語劇と合体した合唱部の歌唱力が喝采を浴びた。
何とか無事に学園祭を終了し、生徒会役員を交えた合唱団は解散したが、銀助と沙織の絆は赤い糸のように深く睦みあった。
人生には要所要所に思いがけない仕掛けが仕組まれている。運命の流れに乗るか抗うか、いずれに転んでも天を駆けるか地を馳せることになる。
学園祭の当日に当校出身の作曲家が招かれていたことは前日まで誰も知らなかった。たまたま仕事の都合で津軽に立ち寄り、表敬訪問に立ち寄ったら学園祭だったということらしい。それが銀助の運命を決定づける導火線となったのだ。
歌が上手いだけの若者ならどこの田舎町にも転がっている。商売になると認められる逸材はきわめて希少であるが、抜きん出てただならぬ銀助の歌唱力にプロの耳が反応したのである。
寒村の農地に埋もれて腐らせてしまうには惜しい才能であることを作曲家は校長に伝え、一枚の名刺を残して学校を辞した。
銀助は合唱部の顧問の教師からその話を伝え聞いて、作曲家の名刺を迷わず受け取りポケットにしまった。
自宅の銀助の小さな机の下にはたくさんの唄本が積まれていた。小学生の頃から歌唱が好きで、教科書を開くよりも唄本を広げて流行の歌謡曲を口ずさんでいた。きらびやかなスポットライトを浴びて絶唱する、演歌の歌手になりたいと憧れていた。
高等学校の二年生になって銀助の焦りは募っていた。来年卒業すればいやおうなしに農家を継いで百姓になる。生まれ育った寒村を一歩も出ることもなくテレビを見ながら演歌を覚え、酒をくらいながらカラオケで憂さを晴らす。そんな生活なんか絶対に嫌だと思った。
かといって、東京に行ってオーデションを受ける度胸も自信も金もない。親にも言えず友にも話せず、やる方のない不安と苛立ちが膿のたまった風船玉のようにすえた臭いを湛えて浮遊していた。そんな時だからこそ、プロの作曲家の言葉に重みがあった。
銀助は家に帰り夕食を済ませ、頃合を見計らって両親に作曲家の名刺を見せた。そして自分の思いを告げた。
銀助は親父に頭突きをされて、アッパーカットを食らわされて後ろ回し蹴りと飛び蹴りを食らった。
そんなたわけた夢は、ため池のオタマジャクシにくれてやれと怒鳴られた。頭を冷やせと囲炉裏のヤカンの熱湯を頭から浴びせられて、吸いかけのタバコを鼻の穴に突っ込まれて口から火が出た。
血反吐を吐いて小便をもらしながらも銀助は主張した。自分を評価してくれた作曲家がいかに高名な実力者であるか、幼い頃からどれ程までに切なく思い続けてきたことか、死ぬ気で頑張りたいという決意を訴えた。
銀助は親父に膝蹴りを食らわされて、ヘッドロックで大黒柱に脳天を打ち割られ、流れる鮮血を見て気絶した。それでも歌手になりたい、東京へ行きたいと訴えた。天井の梁からロープで吊るされ脳天に血が溢れた拍子に決意した。
学校だって故郷だって失う不安は無かったが、年齢に追い討ちをかけられることだけが脅威だった。あっと言う間に十代が終わり、年齢を重ねるだけスターへの道は遠ざかる。
百姓の親父に何を言っても無駄なことだから、自分の人生は自分で決める。失敗したらどうしようという不安な弱気を封じ込めて、帰る家の無くなることを覚悟した。ひたすら未来に挑む強固な気力を漲らせた。
<旅立ち>
年が明けて正月ボケを締め括る七草の夕暮れ、村はずれの鎮守の森に沙織をこっそり呼び出した。雪がしんしんと降り積もる中、銀助はこっそりと土間を出た。
石段を上った森の境内は深い雪におおわれていた。すでに沙織は待ち受けており、羽織がけの赤いスカートが目に飛び込んだ。全ての息づきが白い世界に吸い込まれるなかで、スカートの赤さだけが二人の運命を毒づいているように殺気を感じて胸が疼いた。
いっぱしの演歌歌手になって、必ず迎えに来るから待っていて欲しいと決意を告げた。沙織の肩にボタンの雪が舞い降りる。凍てつく空からキラキラと星が舞い降っているようだ。
少しも寒いと思わなかった。身体の芯が燃えていた。身体に燃えるような芯があることを初めて知った。小指と小指を絡ませながら生まれて初めての口づけをした。
翌日の朝、教科書を放り出したカバンの中に、食パンと梅干と沙織の写真を入れた。お年玉を蓄えた僅かな現金を握りしめて家を出ると、学校へ向かうとみせて駅へ向かった。
津軽の無人駅のホームの隅に沙織が一人立っていた。
「がんばってね」と、沙織は言って、
「餞別だから」と、小さな包みを差し出した。
包みの中身がお金だと気付いた銀助は、「だめだよ、こんなの」と、拒んで押し返したが、
「待ってるよ」と、沙織は小さな声で囁いた。
作曲家を頼って東京に着いて、落ち着く場所が決まると早速沙織に手紙を書いた。筆不精のたどたどしい文面で、当面の事情を綴ってポストに投函した。
沙織から返事は来なかった。一か月後にまた手紙を出したが、やはり返事は来なかった。何度書いてもやっぱり返事は来なかった。
そして半年後、それまで自分が出した手紙の束が、封も切られないまま大きな封筒に入れられて、親父の差出人名で届けられた。
何と言うことだ。銀助の書いた手紙は沙織の目に触れることなく親から親へと手渡され、封印されたまま返送されてしまったのだ。
悔しいというより怒りが込み上げた。怒りが涙となって頬を伝った。同時に、両家の両親のたくらみによって、沙織がどこかに連れ去られてしまうのではないかという現実的な不安が胸をよぎった。しかし銀助は目をつむった。目をつむって耐えて、歌の修行に励むしか術は無かった。
そうして苦節の二年が過ぎた。芋王子銀助から錦王子銀之助と芸名に変えて、作曲家の支援を受けて花を咲かせた。スポットライトがまばゆく煌めくテレビの表舞台へと、華やかなデビューを果たしたのだった。
銀之助の活躍は、生まれ故郷の津軽の寒村をも賑わした。週刊誌の記者や芸能レポーターたちが、銀之助の実家に押しかけた。村おこしのために一役買ってくれと村長が頼み込んできた。
こうなると、勘当を宣言した両親も、歌手としての銀之助を認めざるを得なくなった。こうして両親との間は和解して、錦を飾って故郷へ帰ることはできたのだが、皮肉なことに沙織との密会は許されなかった。
どんなに些細な行動でも、マスコミの眼は執拗に見逃さない。売り出し中の目玉商品である銀之助は、芸能記者の視線に射すくめられて沙織に会うことも連絡を取ることさえも許されず、籠の鳥のように苦悶の羽をバタつかせているだけだった。
そして、あの知らせが届けられたのは一か月前のことだった。親父名の差出人の封筒に、一通の絹目の封筒が入っていた。表に銀之助の名が、裏に沙織の名が記されていた。
ようやく手にした沙織からの便りに心がときめき胸が震えた。銀之助は急いで封を切って書面を広げた。文字が乱れていると瞬時に感じた。沙織が書いたのではないのではないかとさえ疑った。しかし、文章を読み進んでいくうちに、文字の乱れの理由が分かった。手紙には、銀之助が家を出てからの経緯が詳しく綴られていた。
家出を知った銀之助の親父は烈火の怒りを抑えきれずに、田んぼのカカシの背骨をへし折り、野良猫を蹴飛ばし、トカゲの尻尾をぶち切ったと綴られていた。
沙織の両親は、銀之助から届いた手紙を沙織に内緒で銀之助の両親に手渡していた。そして沙織が成人式を迎えた年に、親同士が結託をして村長を仲人に立てて強引な見合いが進められた。見合いの相手は同級生で生徒会長だった松前孝太郎だという。
だが、沙織はかたくなに拒絶した。村長さんに恫喝されても、駐在さんに逮捕するぞと脅されても、駅長さんに電車に乗せないぞといびられても、ひたすら申し出を拒み続けたという。
だけど、相手は村の大地主の息子だから、村人たちの威圧に両親が苦しむ様が目に浮かぶ。銀之助からの便りは無いし、沙織はけなげな操に胸がつかえて苦悶していたのだ。
ところが、親父よりも村長よりも、もっと恐ろしい運命が沙織の身体に襲いかかっていたのだ。それはスキルス胃ガンという冷酷非情な敵だった。
ただの胃ガンではない。悪性の腫瘍が胃壁の深くに浸潤し、リンパ節から膵臓や肝臓に転移して、確実に命を奪ってしまう質の悪い胃ガンだという。
沙織自身の筆によって、その事が詳しく綴られているのだから、彼女は自分の運命を知っているのだ。弱々しく乱れかすれる筆跡が、命の尽きる刻限に近付いたことを示しているのだ。ああ、あれから二年近くの月日が流れてしまった。
鎮守の森で、必ず迎えに来るからと固い約束をして口づけをした。無人駅のホームで、待っているねと沙織がささやいた。どんなに歌の練習が苦しくても忙しくても、一日として忘れることはなかった。彼女が強い決意で約束を守ってきたのに、自分は約束を果たせない。
沙織の手紙の末尾に「さようなら」と書かれていた。たどたどしい文字で「おしあわせに」と書かれていた。
沙織は自らの運命を悟って身を引いたのだ。最後の気力をふりしぼってお別れの言葉を手紙に託したのだ。でも、沙織はきっと銀之助を待ち続けているに違いないのだ。消え行く命の炎を見詰めながら、銀之助が来るのを待っているに違いないのだ。
ああ、狂おしい。この結界から抜け出して会いに行きたい。苦しみながら死を待っている沙織と婚姻の儀を結び、そっと手を握りしめて口づけをしてあげたい。
悲しく切なく無情な思いに心臓と肺が破裂してしまうかと思っていたら、胃がただれて胃潰瘍になってしまった。
たかが胃潰瘍で、こんなところに転がっている時ではないのだ。いっそのこと、何もかもをかなぐり捨てて会いに行こうか。高速に乗ってアルファロメオで飛ばせば夜中までには青森の病院へ着けるだろう。
そんな事など出来るはずもない。情け知らずのマスコミから恰好の餌食にされて、大勢の人達に迷惑をかけ、大恩ある大作曲家の顔に泥を塗ることになる。レコード大賞さえも夢ではないというのに、完璧に表舞台から干されてたたき出されることになるだろう。
全てを失い、振り出しに戻ってしまっては、家出をする前と同じになるだけだ。せめて、沙織に自分の生の舞台姿を見せてあげたい。彼女の死出の旅路の前に、舞台の上から彼女の大きな瞳を見詰めたい。
<F1レースと赤いアルファロメオ>
健太郎少年は、朝比奈のベッドサイドの折りたたみイスに腰をかけてF1グランプリレースの実況放送を観戦していた。
舞台は南欧のモナコ。三千三百四十メートルを七十八周して走破するモンテカルロの市街地コースであった。
マシンが駆け抜けるコースの背後には、白亜のビル群やコートダジュールのヨットハーバーが映し出される。各要所に設営された特設の観覧席では、南フランスの避暑地に隣接するリゾートシティにふさわしく色とりどりの衣装の男女で賑わっていた。
「市街の公道を全面閉鎖してF1マシンを走らせるなんて物凄い発想だよね。日本じゃ絶対に考えられないなあ」
興奮気味に身を乗り出して画面に食い入る健太郎の横で、朝比奈はバリバリ煎餅をかじっている。
「日本どころか、世界でもここだけさ。道幅も狭いしトンネルもある。だから予選タイムでポールポジションを獲得できないと、後続車の追い抜きは超テクをもってしても難しいのさ」
七百馬力のマシンが四輪むき出しで疾駆する。レースはすでに中盤の佳境に入っており、昨日までの予選タイムでポールポジションを獲得したハネブトン・ブォードのミハエル・チューマッハが、マクラーレレン・チームのアイルトン・ゼナ、ヘラーリのニッキ・ラウダ、ユニバーサル・スタジオのアーノルド・ジュワルツネッガーなどを抑えてトップを走行していた。
直径六百六十ミリのドライタイヤに挟まれた流線の車体には、エルフ、マルボロボロ、ミシュランランなどのスポンサーロゴが派手にデザインされて、F1グランプリの華々しさを盛り上げていた。
日本から出場した注目のマシンは、トヨタヨタ、ヌッサンと、ポンダが開発した太陽熱ハイブリッドエンジンの八輪車であった。コクピットに座るドライバーは期待の新人、坂本龍馬である。
今しも、龍馬の運転するマシンがピットに入ってきました。おお、何ということでしょう、八名のスタッフがピットに飛び出してきて八輪全部を一気に交換しております。その間を利用して龍馬は自前のおにぎりを頬ばり始めました。キムチの粉末入り味塩を振りかけたのが隠し味だとインタビューに答えております。
続いてルルノーの白い車体がピットインして来ました。ドライバーのモバメッド・アリガトウがコクピットから飛び出して来て、あっと言う間にタイヤ交換を終えて走り出して行きました。ピットのクルーたちが呆然と見送っております。
連続したヘアピンを抜けて直線コースを三百キロのスピードでマシンは走る。消音器の無い轟音がテレビのスピーカーから吐き出されて尾てい骨を揺さぶる。
ゴールドフィンガーチームのアズトンマーチンDB5フォーミュラーが、ヘアピンを抜けて海岸沿いの直線に飛び出しました。
ハンドルを握るのは殺しの許可証を持つジェームズ・ポンドです。007のゼッケンを付けております。なぜかエンジンルーム後方から鉄板がスルスルと出てきました。一体どうしたことでしょうかとアナウンサーの声がうわずる。あっ、地面にオイルをまき散らしております。明らかに走行妨害であります。アナウンサーの声が興奮気味に引きつってきた。
後方から突っ込んで来たマクラーレレン・メルメルセデスが、オイルにスリップしてガードレールに激突か……、いや、寸前に片輪走行から空中三回転半してⅤサインの着地を見せました。ウルトラCのプロの荒業を、実況中のカメラが捉えてモンテカルロの観客を魅了しております。
アズトンマーチンの前方を走行する蛍光ピンクのマシンが狙われております。矢沢永吉のCDを聴きながら、青いイルミネーションランプをバチバチときらめかせて走る武豊のメジロマックィーンであります。
ジェームズ・ポンドの前輪がメジロマックィーンの後輪を突付いております。怒った武豊が急ブレーキを踏み込みました。省燃費走行装置のクルーズコントロールが解除されて走行安全装置のABSが働き、もたもたしている間にジェームズ・ポンドはアズトンマーチンのギヤを四輪駆動に切り替えてメジロマックィーンの上に登り始めました。
武豊は大外から内ラチへ斜走を繰り返し、アズトンマーチンの鼻ヅラにムチを当てております。
その隙を突いて、ベッカムの運転する赤いアルファロメオが追い抜いて行きました。ガードレールにぶつかりながら、赤いアルファロメオがグングンと先頭集団に迫っております。
かくしてモナコの町は興奮のるつぼに包まれて、テレビの画面からもその熱気が伝わってくるのでありました。
「そういえば病院の駐車場に数日前から赤いアルファロメオが停まっているなあ。健ちゃん、気が付かなかったかい」
朝比奈が、思い出したように呟いて問いかける。
「あれは、錦王子銀之助の車だよ」
「えっ、どうして健ちゃん、知ってるんだい」
「僕、見たんだよ。サングラスと大きなマスクで顔を隠していたけど、あれは間違いなく二十号室の錦王子銀之助だよ」
「ふうん、マスコミはまだ彼の入院を知らないのかなあ」
「だってさあ、二十号室のドアは閉めっぱなしで、看護師以外に出入りする者は誰もいないよ。面会謝絶の重病でもなさそうだし、何だか様子が変だよね」
二人の会話に聞き耳を立てていた鉄仮面が、向かいのベッドから口を挟んだ。
「そいつあ面白そうじゃねえか。何か事情があるかもしれねえなあ。おい朝比奈、お前どうせ暇なんだからさぐって来いよ。スキャンダルでもすっぱ抜いて週刊誌にでも売りつけりゃあ多少の銭にはなるかもしれねえよ」
「それはちょっと阿漕じゃありませんか。他人の弱みをさらして谷底へ突き落とすような真似はできませんね、常識ある善人の僕としましては」
「お前ね、何年小学校の教師をやってんだバカ。いつまでもそんな後ろ向きな思考だから慢性胃炎が治らねえんだよ。人間はね、幾千幾万もの呻吟辛苦を乗り越えて、ようやく一人前になるんだよ。錦王子なんて野郎はまだ二十歳を過ぎたばかしの若造じゃねえか。今からいっぱしのスター気取りで幅を利かせていたんじゃ先が思いやられるぜ。俺はな、別に意地悪をしようなんて考えはないよ。難しい事情でもあるなら聞いてやる。それが隣人のよしみってえもんじゃないのかい、あん。おい健坊、錦王子は病院を抜け出して車を運転しているってことかい?」
「多分ね。この前は夕食後のたそがれ時に駐車場から出て行ったよ」
<沙織の事情>
烏丸沙織は病院のベッドの上で、確実に迫り来る死の恐怖と闘っていた。考えたくない、見つめたくないと眼をふさいでも、闇の中から死の現実を突きつけられる。
一握の砂が潮水に浸されて崩れるように、命のしずくが手の平からサラサラと、こぼれて落ちる感触が恐ろしい。死のジョーカーを叩きつけられた人間でなければ、決して理解することのできない死出の恐怖が身体のひだにへばり付いて牙をむく。
身体中に黒い血が流れうごめく夢を見た。コウモリのように暗空を飛翔している夢を見た。毒牙をむいたマムシになって、泥地を這いずる夢を見た。漆黒の夕日の花園で、薔薇の棘に刺されて血を流している蝶の夢を見た。
沙織の家は水呑み百姓だったから、日々の暮らしも食事も質素でささやかだった。それでも両親は、中学校の先生の勧めもあって、成績の良かった沙織を県立の高等学校へと進学させた。そして、生徒会の副会長を務めたということが自慢であった。
沙織は高校を卒業と同時に進路指導部の推薦で村の役場に就職を決めた。沙織は一人娘だったから、本来ならば婿を迎えて家督を継いで欲しいと願うところであるが、水呑み百姓は自分たちの代で充分だと思っていた両親は、そこそこの良縁に恵まれて嫁に行くことができれば有り難いと考えていた。
そんな折、沙織宛に一通の手紙が届いた。それは、歌手になると言って親の反対を押し切り、高校を中退して家出した芋王子銀助からの手紙であった。
こんな放蕩息子と関わりを持たせてはならないと考えた両親は、沙織に内緒で未開封の手紙を銀助の両親に手渡した。幾度も届く手紙だが、昼間の勤めに出ている沙織の目に触れることはなかった。
そして、沙織が成人式を迎えた年、銀助の父親から沙織の良縁の話が伝えられた。相手は沙織と同級生で、生徒会長をやっていたという松前孝太郎であった。
沙織の両親は驚き、たじろいだ。松前家といえば村一番の豪農の大地主で、家柄も格式も一級品である。相手の家格が高過ぎて、とても釣り合いが取れないと言って辞退すると、意外なことに、先方の息子が本気で沙織に惚れて、村長を通じて話が来たのだというではないか。
この縁談がまとまれば、勘当して家出した不肖の息子も沙織のことを諦めて、手紙を寄越すこともなくなるだろうと銀助の父は考えていたのだ。
松前孝太郎は幼い頃から、村の誰もが父親にペコペコと頭を下げている光景を見て育った。村長さんも村会議員も警察署長も頭を下げた。村一番に裕福な松前家の誉れ高き家系と、威厳ある父親の風格によるものだと子供心に誇らしかった。
だから、自分が県立高等学校に入学し、生徒会長に立候補すれば生徒の全員が自分に投票することは当然のことだと考えていた。
事実、孝太郎は大差で会長に選ばれた。副会長には烏丸沙織が選ばれて、その他の執行委員は会長の権限で指名して、独自のやり方で生徒会を運営した。
孝太郎にとって、貧農の娘である沙織が副会長に立候補したことは意外であったが、成績優秀で学内での人気も高い彼女が選任されたのは、当然の結果であったかもしれないとも思った。
生徒会での活動でも、他の誰よりもてきぱきと役割を果たしていたし、会長である孝太郎への気遣いやフォローにもそつが無かった。
家格という仮面のプライドをはずして見つめたときに、溌剌としてけなげな沙織の美しさに心が動いた。孝太郎の中に二つの心が揺れ動いた。松前家の息子としての揺るがしがたい自尊の誇りと、純情な高校男子としての憧憬の情であった。
その二つの心が学園祭を期に火を噴いた。合唱部のリーダーを務める芋王子銀助に沙織の心が揺れ始めている。どん百姓の息子のくせに、副会長にまとわり付いて色目を使うとは生意気な。
沙織も沙織、副会長という立場を忘れ、会長である自分を差し置いて他の役員たちを引き連れて合唱部にのめり込んでいるのは許しがたい。プライドと慕情が交差して、侮蔑と嫉妬に火がついた。
銀助も憎いけれども、沙織のけれんみのない無邪気な立ち居振る舞いが鼻についてしゃくにさわる。どのように制裁を加えてやろうかと、悪意に狭小な頭脳を悩ませているうちに銀助の姿が学内から消えた。親父に勘当されて東京へ行ったという噂が流れた。
しかし、孝太郎の心の中に燃え上がった炎はおさまらなかった。そのまま心の奥深くに火種となってくすぶり続けた。
孝太郎は獣医を志して北海道の大学を受験して進学を決めた。そして成人式を終え、二十歳の誕生日を迎えた日、孝太郎は父に沙織との縁談を懇願した。
父は二つの理由で孝太郎をたしなめた。大学を卒業して獣医の資格を取るまでは早過ぎやしないかと。さらに、相手は貧しい水呑み百姓の娘にして余りにも格式が違い過ぎると。
しかし孝太郎はひるまなかった。今までに一度として父に逆らったことのない孝太郎が、己の意地にかけて引き下がらなかった。
それは、銀助に対する恨み、沙織の裏切りに対する復讐を心の裏にひそめた、捻じ曲げられた卑屈の愛であることを孝太郎は承知していた。
沙織は直裁に縁談をことわった。両親はうろたえた。仲人を買って出た村長は強引だった。両親の立場をおもんばかった沙織は、不承不承に孝太郎の誘いに応じた。獣医を目指し北海道の大学に通っている孝太郎が、休暇のたびに帰省して沙織を食事やドライブに連れ出した。
沙織は苦悶していた。いつまで待っても銀助からの手紙は来ない。津軽の寒村しか知らない自分には、東京の華やかさなど想像もできない。大都会に住むということが現実的にどんなことなのか、生き馬の目を抜くと言われる東京の喧騒に、どんな誘惑や危険が待ち受けているのか予想すらできはしない。
いわんや、泥沼のように混沌として、男女の愛憎が乱れうごめくといわれる芸能界に身を投げ出した銀助の運命など知るよしもない。
銀助は芸能界という色に染められ、毒々しい曼珠沙華の紅色の蜜に溺れて、田舎娘のことなど忘れてしまったのだろうか。
なぜ一通の便りも寄越さないのか。歌唱の練習に忙しくて手紙を書く時間も無いのだろうか。いえ、そんな事などありえはしない。ならば最初からきっぱり別れるつもりであの日電車に乗ったのか。あの日の口づけの温もりは、そうではなかったと信じたい。
時の流れはたおやかにして久しく、人の悲しみや苦しみを癒してくれるけれども、同時に人の心を狂わせて、無情に運命を変えてしまうことがある。
ひたすら縁談を拒絶する沙織も、孝太郎の執拗なデートの誘いに不快さを感じなくなっていた。むしろ、その情熱に心が動いて好意を抱いた。
そもそも生徒会長として、学内の尊敬を集めていた男である。ただ、自分には家柄が違い過ぎて縁が無いと決め付けていただけなのだ。獣医を目指し北海道の大学で勉強しているその彼が、寒村の農業や酪農の未来を示して夢を語る。どんな女でも二人の男を天秤に掛けて計ってみれば、金も幸せも保証つきの孝太郎を捨てて、はかない幻を追って魑魅魍魎の世界に飛び込み姿を消したウスバカゲロウのような男を選択するような馬鹿はいないであろう。
村長から督促される度にうろたえている両親とのはざまに立って沙織の心は傾いた。はじけるような恋ではないが、芳潤な愛に幸福を感じる。
沙織は、一通の手紙も寄越さない銀助に見切りをつけて、孝太郎の愛を受け入れなければならない時が来たことを覚悟した。
そんな時だった。胃壁の中を画鋲が転がるようにチクチクと痛みが走る。理由の無い嘔吐が続く。すっかり食欲をなくした沙織を心配した両親が、無理矢理に村の診療所へ連れて行った。すぐに精密検査が必要だと医師に言われて紹介された弘前市内の総合病院に行くと、すぐさま入院だと言われてたじろいだ。
孝太郎は、大きな胡蝶蘭の鉢植えを持って見舞いに来てくれた。しかし、その後、孝太郎の顔を見ることは無かった。
医者から病名を知らされた孝太郎は、少しの未練も躊躇もなく沙織を捨てたのだ。捨てられた事に沙織はしばらく気付かなかった。
手術によって胃が全摘され、十二指腸と脾臓が切除された。抗癌剤を飲まされて自分の姿が無残に変わり果てていくうちに、孝太郎の姿がいつまでも現われないことに気付いたのだ。そして知ったのだ。自分の身体をむしばむスキルス胃ガンの恐ろしさを。そして、自分の運命を。
タランチュラの猛毒が血管を走り獲物の身体をしびれさせ、やがては命を奪いとるように、悪性の腫瘍が体内の栄養を奪い取り、身体の衰弱とともに周囲の臓器に浸潤してガン組織を拡大していく。スキルス胃ガンによって遠隔転移を繰り返すガン組織を殺す方法はただ一つ、自らの命を絶つことだけだ。
絶望の底にうごめくウジ虫のように、沙織は悶え苦しみ涙を流した。神に祈り、仏に救いを求めても、選ぶ道を許されない宿命ならば、こんな時こそ孝太郎の優しいいたわりが欲しかった。
死ぬ時は一緒に死のうと手を握りしめた孝太郎の言葉は嘘だったのか。婚約指輪だと言って村長さんに預けた三百カラットのダイヤモンドの指輪は偽物だったのか。
男というものは、みんなこういうものなのだろうか。そもそも結婚を拒んでいたのは自分の方だから、女の運命を知った男が逃げて行くのは当然かもしれないが、それでも釈然としない虚しさや悔しさが込み上げてくる。
そんな時、ふとスイッチを入れたテレビの画面に一人の男性歌手がスポットライトを浴びてステージに登場した。
粋な着流しで颯爽と舞台に現われた若者は、まぎれもない芋王子銀助に違いなかった。
とうとう目的を達成したのだ。錦王子銀之助と名を変えて、まばゆいスポットライトを浴びて芸能界の表舞台に登場したのだ。銀助は私を置き去りにして、一通の便りも寄越さずに都会に消えた。夢を求めて自分だけの螺旋階段を上っていたのだ。
男にとって女とは何なのか。果てしのない夢を追いながら女をもてあそび、男の勝手な都合で女を捨てる。
自分はどんな夢を見ていたというのか。夢を見る前に死の現実を突きつけられた。愛も希望も喜びも悲しみも糞もない。努力も思いやりも友情も慈愛も幸福も倫理も糞喰らえだ。残酷な薄暮に引きずられ、暗黒世界の屍の幻影だけを糧に生きて行く。
鏡を見るのが恐くなる。死ぬのが恐くて、生きているのが呪わしくて、叫び出したくなることがある。気が狂いそうになることがある。それでも、大丈夫だよと強がりを言って、やつれた母を慰める自分が辛い。
でも、もうそろそろ、生きて行く人たちと、生きて来た自分にお別れを言う準備をしなければならない時が来た。孤独の壁に囲まれて、誰も付き添うことのできない無の次元へと消え去って行く。待っているねとささやいたけど、待つことさえも運命は許してくれない。沙織は銀助にささやいた。一言、さようならと、眼を閉じて呟いた。
芸能記者がデジカメを手にして銀之助の実家を訪れる。銀之助の両親は、幼少時代の思い出話や、栴檀が二葉よりいかに芳しかったかについて、照れを隠してとつとつと語ってみせる。
親に勘当された放蕩息子が都会で一躍ヒーローとなり、話題の少ない津軽の寒村に電撃的な噂が走った。
そんな折、銀助の父親が弘前の病院へ沙織を見舞いに訪れた。沙織宛の数十通もの手紙の束が、ベッドの上にそっと置かれた。ああ、それは、銀助が自分に宛てた手紙ではないか。
沙織は記された日付の順に書面を開いた。涙が溢れて文字が滲んだ。何度も何度も手紙を読んだ。慟哭を抑えて目がくらみ、燃える涙に疑心の暗鬼が振り払われた。
沙織は筆を取った。銀助が綴った数十通分の返事を書いて出さねばならないと思って筆を取った。だが、筆を支える指は鉛のように重かった。全身を襲う病魔の力が走る筆の勢いを鈍らせる。
沙織は時間をかけて、これまでの経緯を綴ってみた。どれほど便りを待ち続けていたか、松前孝太郎の申し出にどんなに苦悶したか、心を込めて長々と書いた便箋を破いて捨てた。
恋する思いがほとばしり、あの日の唇の温もりがよみがえり、抑えても抑えきれずに感情がこもり過ぎる。便箋が涙と涎で汚れてしまう。愛してはならない。愛されてもいけない。彼はこれから生きて行く人だから。別離の運命なのだから感情をあらわに書いてはならない。
狂いそうな心を厳しく自分に言い聞かせ、淡々と事情を記してお別れの言葉を添えて締めくくる。それが二人の宿命だから、次第に感覚の失われていく指で頬を伝う涙をぬぐった。
<ドライブ>
銀之助は病院の夕食を済ませて投薬を飲み終えると、サングラスとマスクをつけて病室を出た。
第二内科病棟の裏口から外に出て、ロビー側に回り込んで駐車場へ向かった。駐車場には見舞い客の車がまばらに残っていたが人影は無かった。
一番奥に停めておいた赤いアルファロメオの運転席に乗り込んで軽くエンジンを吹かし、ゆるゆるとハンドルを回転させて国道十六号線方面へと車を向けた。
銀之助は入院の前日に、市内のホテルの一室をリザーブしていた。マネジャーとの打ち合わせもあったが、バスルームを利用することが主な目的だった。
十六号線に入ると車が増えていきなり流れが速くなる。バックミラーにヘッドライトのハレーションが映り込み、思わず瞳孔がまばゆく縮む。
走行車線から追い越し車線へとハンドルを切ろうとした刹那、銀之助はふとバックミラーを覗いて仰天した。後部座席に下駄のような四角い顔に太い眉、うりざね顔の白面の少年、二つの顔がバックミラーの中で白い歯をむき出しにしてニッコリ笑いかけていた。
「ゲッ、誰だ、お前らは」
思わずのけぞった拍子にハンドルが左右にぶれて、危うく隣の車線を走行するビッグサンダーマウンテン号にぶつかるところだった。運転席から顔を出したドナルドダックのくちばしをした男に「バカヤロー」と怒鳴られてしまった。
ミラーを睨みつけて銀之助は、「何者なんだ、お前らは」と、怒鳴りつけた。
「別に怪しい者じゃないよ」
四角い顔が口をきいた。
「勝手に他人の車に乗り込んで、どこが怪しくないんだ。どうやって車に入ったんだ」
「ドアにキーなんか掛かっちゃいなかったぜ」
「バカなことを言うな。盗難防止装置の赤いランプがダッシュボードの上でピッカピッカ光っていたはずだぞ。どうやって解除してキーまで開けたんだ。自動車泥棒か、お前らは」
「車泥棒ならとっくに盗んでるよ」
「そうか、週刊誌のレポーターだな。でも、その恰好はなんだ」
「俺たちゃあ芸能記者でもなけりゃあ泥棒でもない。あんたの隣人だよ」
「隣人だと? 一体どこの隣人だって言うんだ」
銀之助が後部座席を振り返り、泡を飛ばして叫んでいるうちに前方の信号が赤に変わった。
「危ない。赤信号だぞ。停まれ」
健太郎少年の叫びに前を向き直った銀之助は、シフトダウンの余裕もなく思い切りブレーキを踏み込んだ。
キュルキュルキュルリ、キュルキュルキュッキュー、コツン
アルファロメオのバンパーの先端が、黒塗り、黒ガラス、ゴールドエンブレムのキャデラックの後部バンパーにコツンと触れた。
キャデラックの運転席と助手席のドアが目一杯に開かれて、黒メガネ、黒スーツのいかついお兄さんが大仰な動作で降りて来た。
アルファロメオの運転席と後部座席の窓がコンコンコツンとノックされ、オートウインドウをシュルシュルと下げるとドスのきいた声が飛び込んできた。
「おい兄さんよう、うちの車に激突しておきながら挨拶もなしに澄ました顔して座ってるってのはどういう魂胆だい。ワシら、みんなムチ打ち症になったかと思うて度肝抜かれたぜ、あん」
ヤクザな車に関わってしまったと後悔してもどうにもならず、何とか平穏に収まらないものかと銀之助は言い逃れをする。
「激突だなんて、大げさな言い掛かりを。バンパーに触れたかどうか分からないくらいじゃありませんか」
「ほう、とても罪を犯した人間とは思えねえ大胆な発言じゃあねえか。うちの車のバンパーはねえ、純金製の舶来物だからねえ、修理するとなりゃあ半端な銭じゃあ済まねえぜ。オンドレ、車を降りてよく見やがれ。地面に純金がボロボロこぼれ落ちて、バンパーが痛え痛えと泣いてるじゃあねえか。どうしてくれるんだ、この落とし前を」
「わ、分かりました。警察を呼びましょう。対物保険にも入っていますから」
「随分と手前勝手なことを言うじゃねえか兄ちゃん。テメエの不始末を警察や保険屋に押し付けて、オノレは涼しい顔でトンズラしようって魂胆かい。なかなかの根性じゃあねえか。なめんじゃねえぞこら。見たところ、派手な車にいっちょうらの服着て、ふくよかなツラして立派な腕時計をしてるようだが、欲の深い人達とつるんであくどい稼ぎをしてるんじゃあねえのかい、あーん。正直に言ってみろよ、どんな商売してるんだい、あん。ゆっくり話を聞いてやろうじゃあねえか」
信号が青に変わり、後続の車からけたたましく警笛が鳴らされた。キャデラックの後部座席から顔中傷跡だらけの黒メガネのお兄さんが出て来ると、警笛をかき鳴らしている運転手のフロントガラスに吸いかけのタバコを投げつけて、ボンネットに白刃のドスをブスリと突き刺した。後続の車は青ざめてスススッと車線を変えて逃げ出した。
「警察も呼ばずに、どうしろって言うんですか」
銀之助は、まずいことになったと思いながら、か細い声で黒メガネの出かたをうかがった。
「勝手に開き直ってんじゃねえぞこの野郎。廃車同然にされちまった車を買ってくれとは言わねえが、きっちりこの場で面倒見てもらわねえとカタがつかねえだろうよ、あん。後ろに乗ってる親父と子供、テメエらも同罪だぞこの野郎。自分らは関係ねえってツラして澄ましてんじゃねえぞこら。何だそのふて腐れた態度は。一度天国か地獄へ遊びに行って見たいかオンドレら」
脅しをかける黒メガネの目の前に、健太郎は後部座席から身を乗り出して一枚の名刺を差し出した。
黒メガネを額に押し上げて名刺を眺めた黒スーツのお兄さんの両目は、いきなり出目金のように顔から五センチ飛び出して、鼻の穴から鼻水と鼻糞を飛ばしてのけぞった。
金ブチ、金パク紋章入りのその名刺には金の盛り文字で、阿修羅連合会千葉獄門組組長、羅生門源五郎と記されていた。
隣に座っている四角い顔をよく見ると、ヤクザな暴言に動じることなく、窓から覗き込む眼光を睨み返している。
「あ、あんさんがたは何者でっか?」
「僕たちは羅生門親分の命令で、ある場所へ向かって急いでいるんだよ」
「へい、これはお見それ致しやした。それでは、あっしらの車で命に代えてあんさんがたの車を全速力で先導してみせやすので行き先を、へい、へい、分かりやした、へい」
銀之助は訳も分からず、警笛と急ブレーキをギュルギュルと鳴らしながら猛スピードで突っ走るキャデラックの後を追走し、あっと言う間に極楽安楽病院の裏口に着いてしまった。
<銀之助と獄門組>
銀之助は車から降りると、四角い顔と白面の少年に導かれるまま第二内科病棟・九号室に案内された。
「おう、よく来たな、錦王子のう。まあ、ドアに錠を下ろしてこっちへ座れや」
何と、内側から南京錠を下ろせる病室がこの世の中に存在していたのか。しかも大部屋で。そう思いながら銀之助は声の主を見ると、ベッドの上で胡坐をかいて手招きをしているのは、いつぞや千葉での地方興行の際に世話になった獄門組の親分ではないか。
「これは親分さん、その節は大変お世話になりました。お陰様で立派な興行ができまして、ありがとうございました」
「まあ、かたい挨拶は抜きにして一杯飲めや。さあさあ」
「はい。でも僕は胃潰瘍を患っておりまして、その治療のために入院しているのです」
「それはいかんな。ならば胃にやさしいロシア産のウォッカとメキシコ産のテキーラを熱燗にしてボルドー産のボジョレヌーボーを入れてかき混ぜれば飲みやすいかもしれんなあ。おい健坊、そこのトカレフの横にある透明のビンを取ってくれねえか。それはメチルじゃねえか、その右のやつだ」
「あ、あのう、ウォッカもテキーラも熱燗もヌーボーもメチルも今はちょっと」
「おうおう、遠慮はいけねえなあ。身体に毒だぜ。そっちの四角い顔の御仁はな、十年以上も胃潰瘍を患っているんだが、暴飲暴食は胃に良くねえからって自制しているらしいが、規則正しく毎朝冷やで一升やる分には食欲も増進して健康にもいいってんで、一日も欠かしたことは無いそうだぜ」
返事に窮してうろたえている銀之助に、鉄仮面がよだれと一緒に紫煙をプッと吹き上げながら声をかけた。
「お前さん、何で都心から離れた千葉の病院なんかに来たんだい。ゴシップ好きのマスコミから身を隠さなきゃならない深い事情でもありそうじゃないか」
銀之助は部屋の周囲を見渡した。十二の瞳がきっちり自分を凝視している。口の軽そうな老人がいて、物欲しそうな顔をした若者もいる。なぜか袈裟懸けをして呪文を唱える不気味な表情の患者が半眼で見つめている。うかつな話はできないぞと警戒して視線を落とす。
「……」
「おっと、心配することはいらないよ。ここは世俗の民衆とは隔絶された第二内科病棟の九号室だ。どんな秘密だって外に漏れることなんかありゃしない。扉には錠が下ろされてるから医者だって看護師だって警視庁のデカだって入室御免の密室だ。悩み事を一人で囲っていちゃあ胃を悪くする。俺がその良い例だ。毎晩、太陽系宇宙平和のために何ができるかを一心不乱に考えて、聖書とコーランと大奥の平和主義と拷問の考察に関する論文と大井競馬必勝の定義をこの前から読み始めているのだが、たまに気が狂いそうになっていつまでも胃潰瘍が治らない。分かるだろう、話してみろよ。解決の糸口が見つかる事だってあるんだから」
人は良さそうだが尋常ではない。気が狂いそうではなくて既に狂っているのではなかろうかと思いながら、四角い顔をつらつらと眺めて口をつぐむ。
「……」
「オメエ、黙っていちゃあ分からねえじゃねえか。ああそうかい、人の親切を黙秘で通そうってえ腹かい。そんならこっちにも考えがあるぜ」
「な、何ですか、考えって」
思わず口を開いた銀之助に鉄仮面がとどめを刺す。
「おい朝比奈、お前が愛読している週刊芸能実話の泥沼愛欲極秘シリーズてのがあったなあ」
「僕は愛読なんかしてませんよ」
「馬鹿野郎、だからお前は自分の教えてる小学生にまで見くびられるんじゃねえか。世俗の情報にうとい先生だって噂になって後ろ指を指されることになるんだ。錦糸町のゲイバーのサチオちゃんが双子の赤ん坊を産んだって話を知ってるか。小学校じゃあこの話で持ちきりだぜ。いいから広げてみろよ。記事の末尾に読者からの情報を歓迎します。採用された場合には泥沼印の補聴器を差し上げますって書いてあるだろ。そこの連絡先を教えてくれよ。お前の携帯で今すぐ電話してやろうじゃねえか。錦王子銀之助が二十号個室に高校生風の女を連れ込み、南京錠を下ろしてお医者さんゴッコをしていますってなあ。早く携帯を寄越せ」
慌てて銀之助は声を張り上げた。
「や、やめて下さい。分かりました。話しますよ」
「おう、そうかい。意外と素直だねえ。やっぱり女なんだろう、胃潰瘍の原因は。どこにいるんだい、その女は」
銀之助は一呼吸入れて、四角い顔の男を値踏みしながら考えた。この男は、単に好奇心だけで自分を捕らえて連れ込んだのか。それにしては常軌を逸した手段と行動力は人並みの思考とは思えない。
獄門組の親分を始め、ここにいる人達が尋常な人種でないことだけは間違いない。鉄壁の防犯装置を施したはずのアルファロメオのロックをいとも簡単に解錠したり、院内の病室に南京錠を下ろすという異常な行為が何よりも証拠だ。この男が言うように外部に秘密が漏れることは無いかもしれない。
いずれにしても、暗中模索どころか緊急無策の現状を打破しなければならないのだから。もしかすると、常識もモラルも卓越して恐れを知らない彼等に事情を話せば、思い掛けない発想で突破口を見い出してくれるかもしれないではないか。たとえ駄目でも振り出しに戻るだけだと考えて度胸をすえた。
「津軽にいます……」
「津軽といえばオメエの生まれ故郷じゃねえか。そうか、読めたぜ。津軽の雪深い寒村に残してきた初恋の娘に会いたいけれど、芸能記者の目がうるさくて会いに行けないって訳だな。どんな約束をしたんだい、その娘とは」
口火を切った以上は中途半端な話はできない。銀之助は往生を決めた。
「僕は、一流の歌手になって必ず迎えに来るよと彼女に固い約束を交わしました。そして、津軽の無人駅から動き始めた電車に飛び乗ったのです」
「津軽の電車ってのは何かい、ドアを開けたまま動き始めるのかい」
「言葉のアヤってものがあるでしょうに。僕が演歌の錦王子銀之助だってことをお忘れなく。演歌の歌詞はイマジネーションなんですから」
「ただの嘘と、どこが違うんだ」
「動き始めた電車のドアに鍵が掛かってたんじゃあ乗れんでしょうが。乗れなかったら今の僕はここに、こうしていないでしょうに。電車に乗り損ねて船に乗ったら北海道かクナシリ島へ行っちまうんですよ。それじゃあ納得できないでしょうよ」
四角い顔の鉄面皮がさらりと言葉尻を捕らえる。
「クナシリ島へ行きたいのか、電車に乗って」
「胃潰瘍がけいれん起こしそうなので帰らせてもらいます、二十号室へ」
立ち上がろうとする銀之助をまあまあと取り成して鉄仮面が酒を勧める。
「分かってるよ、その娘に会いたいんだろ。簡単じゃねえか。ここへ呼び出しゃあいいんだよ。九号室の見舞い客に見せかけて、内側から鍵を掛けりゃあ誰にも怪しまれずに逢い引きできるぜ」
「その程度の浅知恵ならクナシリ島のアザラシだって、津軽海峡の飛び魚だって思いつきます。彼女は重い病気に寝込んで動けないのです。スキルス胃ガンという不治の病魔に取り付かれた彼女の身体はカマキリみたいにやせ細り、はかなき命を死神に鷲づかみにされて苦しんでいるのです」
「スキルスってえ野郎は、そんなにタチの悪い奴なのかい」
「野郎じゃありません、悪性の腫瘍です」
「そのスキルス君に会いたいのかい」
「あなたは僕をからかっているのですか、それともスキルス性の馬鹿ですか。僕は昨夜、夢を見たのです。傷だらけの白鳥が天に昇っていく夢を。大きな瞳に涙を浮かべ、やせ衰えた白鳥が羽ばたいたボロボロの羽根があわれでした。仲間からはぐれて傷ついて、一人ぼっちで暗剣殺の天空へ導かれるように飛び立ったのです。彼女との約束を果たさなければならない時が来たことを、僕は暗示されたのだと悟りました。悔いを残せば醜い兇険な腫瘍となって、生ある間、私は脳も心臓も焼き尽くされてしまうでしょう。たとえ芸能界から面罵されても、放送界から放出されても、再び親に勘当されて村八分にされて都会の巷をさまよおうとも、一生の悔いを残して過去をつくろいながら生きるよりはましだと決心しました。その決意をマネジャー宛に書面にして市内に予約しているホテルに預けるつもりで車に乗ったら、バックミラーの中に下駄となすびがニッコリ笑っていたので仰天したのですよ」
膝を叩いて鉄仮面が応じる。
「なるほど、良く分かったぜ。オメエの彼女は醜い白鳥だったんだな。それで死んじまったのかい、そのアヒルは」
「誰がアヒルですか。アヒルだろうが白鳥だろうがボウフラだろうが、死んじまったら会えんでしょうが。できることなら彼女に僕の歌を聞かせてあげたい。ステージの上から彼女の瞳を見つめて語りかけたい。たとえ言葉を交わせなくても、たとえ肌を触れ合うことができなくても、きっと心と心が通じ合えると思っています。ああ。彼女の命はあと幾月も無いのです」
「オメエの事情は良く分かったぜ。聞きましたかい親分。こいつあ一肌脱がない訳にはいきますまい」
鉄仮面が四角い頭を掻きむしりながら、羅生門親分に視線を向けた。
「おう、錦王子のう。お前さんのアンハッピーな切ない悲恋の物語を聞いているうちに身体中の鳥肌が立って、危うく焼き鳥になるとこだったぜ。スキルスだか、すき焼きだか、数寄屋橋の後家さんだか知らねえが、心配するこたあいらねえよ。明日、マネジャーとやらをここへ呼んでもらおうじゃねえか。万事はこの胸の内だ。戦艦大和にでも乗った気分でいてもらおうか。おう、みんなも忙しくなるぜ。今夜は前祝いだ。クサヤを焼いて、クジラのタレをつまみに朝まで飲み明かそうじゃねえか。おい健坊、七輪に炭を入れて火を起こせ。誰が来たって扉の鍵を開けちゃあいけねえぞ。ウィーッ」
<一夜明けて>
時計の針が朝の六時を指すとたちまち、廊下の窓からナースステーションの奥にまばゆい曙光がパッと差し込み、丸テーブルや聴診器などを柔らかく浮かび上がらせて病棟はいつもの活気を取り戻す。
深夜勤務の脂ぎった重い瞼も、夜明けと共に生気を取り戻して奮い立つ。
看護師の大田原桃子はあくびをしながら、朝の小腹を満たすために冷蔵庫からココナツ・プリンを取り出して食べていた。師長は看護記録に目を通して補足事項を追記している。
桜川麗子は朝の検温のために、体温計と血圧計をのせた台車を転がしてナースステーションを出た。
「おはようございまーす」
洗面所で入れ歯をみがいている高脂血症の患者に声をかける。そして、トイレから出て来た慢性腎不全の老婦人に問いかける。
「おはようございます、小水の量はいかがですか」
「ああ、いつもと変わりませんねえ。今日はねえ看護師さん、久しぶりにうちの嫁が孫を連れて見舞いに来るそうじゃ。いつもの毒入り肉饅と農薬トマトを持って来ると言うておったよ」
「まあ、それは楽しみですこと。お孫さんの顔を見れば気が晴れるでしょう」
台車を転がしながら一号室から個室、大部屋を回って九号室の前の廊下に近付くと、何やら異様な臭気がプンプンと漂っていた。浮遊する空気の色さえも、そこだけが異世界に感じるほどだった。
麗子は鼻をつまんで九号室の扉を開けて中に入った。
「おはようございまーす。あ、朝のけ、検温……、な、な、何ですか、この臭いは」
どんな酒をどのように混合し、どのくらいの量を胃に流し込めばこのような異臭が吐き出されるのか。加えて、魚の腐ったようなすえた臭いが湿気に包まれ、世にも異様な臭気となって部屋の隅々までムンムンと淀みわたっていた。
麗子は床に散乱する酒ビンを避け、得体の知れない食物を踏みつけないようにして窓側にたどり着き、全ての窓を思い切り開け放って空気を入れた。窓枠にはじけるはずの陽光が、異様な臭気に殺気を感じて遠ざかった。
「善右衛門さん、ちょっと善右衛門さん、どうしたんですか。大丈夫ですか」
甲羅を閉じたアルマジロのように背中を丸めてうずくまる善右衛門は、ゼイゼイゼゼイと苦しそうに咳き込んでいた。
閻魔庁の赤鬼に首を絞められているような意識朦朧とした夢の原因が、夜を徹して飲み明かした酒のせいなのか、持病の喘息の発作によるものなのか、識別もつかずに夢幻の巷をまどろんでいる。
「善右衛門さん、処置室に行って酸素吸入をしてもらいましょうか?」
「ゲゲゲゲゲホ、ゲホホホホゲホ。い、いいや、そそそそれには及ばばばばばん。すすすすぐに直ると思うから。ゼゼゼゼゼゼイ」
隣のベッドに視線を移すと、胸もパンツもはだけた朝比奈誠が死人のように泥酔していた。その隣の天竺和尚は、摩訶般若波羅蜜多心経のいびきを掻きながら、野垂れ死にしたお地蔵様のように酒臭いよだれを垂らしてくたばっていた。
その向かいのベッドの上では、腐ったイワシの目をした健太郎少年が、古代ギリシャの謎の微笑アルカイック・スマイルを浮かべてまどろんでいる。
「健太郎、あんた、飲んだね。完璧に目がすわってるよ。ガキのくせに酒なんかくらって、親が聞いたら発狂するよ」
「添い寝してくれよ、麗子……」
「やかましい。私の名を呼び捨てにするなって言ってるでしょう! あんた、自分の病気が何だか分かってるのかねえ。行儀良くしていないと小児科病棟に送り込むわよ」
「おう、姉ちゃん」
背後から、スカンクの屁にアルコールをかき混ぜたような強烈な呼気が首筋をなでた。
「く、臭い。何ですか、親分さん」
「ちょうどいいところへ来たじゃねえか姉さん。白衣のコスチュームが良く似合うぜ。ちょいとこっちへ来て酌をしてくれねえかい。まあ、お前も景気づけに一杯やれ」
「いい加減にして下さいよ、まったくもう。いつから飲んで、いつまで飲むつもりですか。部屋のみんなを巻き添えにして。もうすぐ藤巻師長が日勤で来ますからね。この臭いを嗅ぎつけられたらメスで突かれるくらいでは済みませんわよ。覚悟はできているんでしょうねえ、皆様方よ」
「おい、麗子」
横合いから鉄仮面が声をかける。
「何ですか?」
「折り入って頼みたい事があるんだけどなあ」
「お断りします」
「お前ねえ、嫁に行ってからすっかり人間が変わっちまったねえ。嫁に行く前までは、そんな邪険に目を吊り上げて、患者様を睨みつけることなんてなかったよ。頼みってのはなあ麗子、一日お前の身柄を預かりたいんだよ」
「誘拐したって身代金は出ませんよ」
「お前の亭主も借りたいんだよ。なあに、一日だけ病院を休んでくれりゃあ済むことさ。亭主もな」
「何をたくらんでいるんですか。今度騒ぎを起こしたら九号室を閉鎖するって院長先生が宣言していましたわよ」
「いいから、入口の錠を下ろしてこっちへ来いや」
「ゲゲッ、いつのまに、誰が勝手に南京錠なんか取り付けたんですか、病室の扉に。どこの病院に内側から鍵の掛けられる病室がありますか。しかも大部屋で。あなた方はここへ何をしに来ているのか理解しているのでしょうか。ここが病院であるという認識と、己の病気を治癒させようという意欲と努力が百パーセント欠如しているのではありませんか。病棟の廊下で酔っ払って立ちションするし、中庭の池に病室からルアーを投げて金魚や鯉を釣らないで下さい。この前は手術室の前で打上げ花火をしたでしょう。盲腸を切り取るところを肝臓を切り取ってしまったと言って執刀医が怒っていましたわよ」
「そのぐらいの事はどこの病院だって常識だって話だぜ」
「どこが常識なんですか。どこの病院ですかそれは」
「いいから落ち着いて気を取り直して、ここへ座って俺の話を良く聞け」
<金閣寺>
一か月後の日曜日の午前六時過ぎ、プリンとババロアを食べ終えた看護師の大田原は、体温計と血圧計を乗せた台車を転がして第二内科病棟の病室を回っていた。
誰もが安静にして朝を迎える病棟内の廊下が静寂なのは当たり前なのだが、それにしてもいつもとは違う。ことさら不自然な静けさを感じながら九号室の扉を開けた。
「おはようございまーす。検温タイムですよー。はい、健太郎くん、体温計ですよ。はい、健太郎くん……。どうした健太郎、検温だよ、顔を出しな」
頭まですっぽり覆い隠した健太郎の掛け布団をサッとめくって大田原は驚いた。頭の代わりに枕があった。身体の代わりに毛布とトイレットペーパーの山が放り込まれていた。
鉄仮面虎蔵も羅生門親分も六名全員の布団の中には、エロ本や焼酎の空瓶や昨日まで病院の中庭で元気に花を咲かせていた夾竹桃の木などが各々の身体の身代わりに放り込まれていた。
大田原は絶句して青ざめた。また何かが起こる予感がして身ぶるいがした。きっとどこかで何か恐ろしい事件が起こっているに違いないと思いながらも、今日は藤巻師長は休みだし、何も見なかったことにしようと己の良心を説き伏せて病室を出た。
時を同じくしてはるか房総の丘陵では、立ち込める朝靄が太陽の光を切り刻んで山々の木々を舐め尽くしている。山桜が散りかけて新緑が芽吹き始め、峰々を渡る風にもみずみずしい精気がみなぎっている。
房総の山上は早朝から喧噪で、午前八時きっかりに百尺玉の大花火がドドドーンと打ち上げられた。それが合図であるかのように、色鮮やかに彩色されたアドバルーンが次々に大空へと浮かび上がった。
そして、はるか東京湾上からは潜水艦のような黒塗りの飛行船が、房総の峰に舳先を向けて悠然と飛翔して来た。
房総の古刹、金閣寺の境内には大ステージが設営されて、最上部には看板が掲げられ、紫色に銀抜き文字で ”演歌の貴公子、錦王子銀之助の房総森林浴コンサート” と、大書きされていた。
ステージの左右に重ねられた巨大なスピーカーからは、音声の微妙な調整のために放たれた超高音、重低音の音波が周囲の空気を切り裂いて唸り始めた。
すでに境内は昨夜から押しかけた熱心なファンで埋め尽くされて、狭い参道から山裾へ降りるいばら道にも入場を待つ人たちで溢れていた。
たちまちにして完売御礼となった一万人分の前売りチケットの下蘭には、主催者:房総の金閣寺、協賛:株式会社阿修羅連合会千葉獄門組、運営事務局:千葉市立極楽安楽病院・第二内科病棟・九号室と、小さな文字で印刷されていた。
「それにしても、この仏像は不気味じゃのう」
金閣寺本堂の正面に据えられた高さ三メートルほどの木像を見上げて、善右衛門は嘆息した。
「善衛門どの、それこそ国宝、さもなければ重要文化財に指定されて然るべき当寺の御本尊、阿修羅の像でありますぞよ」
黒袈裟を肩から掛けて正装した天竺和尚が神妙な口振りで、誇らしく両の腕を差し出してみせた。
「うーむ、どうもワシにはそうは見えんがのう。腐りかけの杉の古木の皮をはいで目鼻と口を描き入れただけの巨大なコケシ人形の失敗作としか見えんのじゃがのう。して、その右にある薄ぼけた百年前の写真のような図柄は何ですかのう」
「宇宙根源の真理を示し、永遠の世界平和を願う釈迦如来様と、天の岩戸から御尊顔をのぞかせる天照大神様の心霊写真でありまするぞよ。ナンマンダブ、ナンマンダブ」
「ふーむ、西船橋のゲーセンの女子便所をのぞき見するカオル君と、北千住のゲイボーイのミチル君にそっくりじゃがのう。して、本尊の左にどうしてミロのビーナスとジャイアント馬場の像が置かれているのかのう」
「何をおっしゃるか善右衛門どの。あれこそ裸のマリア様とジャングルの王者ターザンの御姿ではありませぬか。ナンマンダ、ナンマンダ」
目眩がして卒倒して床に後頭部を打ち付ける寸前の善右衛門を鉄仮面の腕が支えた。
「善さん、この程度の事でいちいち卒倒してたんじゃあ命が三つ四つ必要だぜ。そもそも寺そのものが冗談にイカサマを上塗りしてハッタリをつぎはぎしたような存在だからなあ。金閣寺っていうからにはどんなにきらびやかな金張りかと思って来てみたら、何と、崩壊寸前のトタン屋根のバラックじゃねえか。マリア様の像だって善さんにはミロのビーナスに見えるかもしれねえが、俺にはどうしたって通信販売で値切って買ったダッチワイフのマリちゃんにしか見えねえぜ」
憮然として息をついた天竺は、何をか言わんやとばかりに鉄仮面の下卑た口調をさえぎると、彼岸法要の檀家衆を諭すように仏の目を真似て語り始める。
「ウオッホン、かつて拙僧が若きみぎりに、万里の長城を東の端から西の端まで踏破して、揚子江の河口から上流まで泳ぎ切るという荒行をしておりましたところ、雲の上の蓮の葉影からお釈迦様がご尊顔をお出しになられ、金閣寺をよろしくと御声をかけられたのですよ。拙僧がこの寺を訪れた時にはもっと荒れ果てておりましてな、家ダニの親子でさえも雨つゆをしのぐ事さえできないからと舌打ちをして家財を背負って出て行きました。シダが繁茂し、ツタがからまる山林の奥からは、時折イリオモテヤマネコの親子やヤンバルクイナの姉妹が出て来ましてな、私の読経に耳を澄まし、しみじみと胸に手を当てておりましたぞよ」
「おおそうかい。ゴジラの親子やモスラの卵も南の空から飛んで来たって言わなかったかい。そんな事より善さん、山裾からいばら道の参道に並んだ入場客が境内に入れないからって騒いでいるんだ。朝比奈と健太郎が何とか対応しているんだが、蹴飛ばされたり、頭突きをくらったり手を焼いているんだ。ちょっと手を貸してやってくれねえかなあ」
「鉄仮面さんよ、そいつあ無理もないよ。なにせ百人も入りきれないような敷地の境内に、一万人分のチケットを売りさばいてしまったんだからのう」
善右衛門はあきれ顔で溜め息をついた。
「獄門組の若衆が周囲の森林を伐採しているんだがなあ。なかなかラチがあかないよ」
「おおそうじゃ」
天竺和尚が大仰に手の平を打った。
「村のババアをかき集めて巫女の衣装を着せて、十字架と位牌と弁当を売らせることにしましょう。おみくじとお守りの屋台も出さねばなるまい。冷えたビールは百円増しにして、熱燗トックリは三百円増しにしてもバチは当たるまい。山で捕獲して暇にまかせて作ったニシキヘビとコウモリのハンドバッグに金閣ヴィトンとブランドを入れて並べておくことにしよう。私も忙しくなってきましたぞ。色即是空、空即是色、ナンマンダブツ ナンマンダブツ」
うなじに風を送っていた扇子をパチリと閉じた乱漫丸は、寺の裏側の仮設倉庫へといそいそと消えてしまった。
金閣寺境内に特設された大ステージ裏側の控え室で、錦王子銀之助は不安そうに気をもんでいた。
「話の成り行きでこんな事になってしまったけれど、本当にうまくいくのだろうか」
朝から嘆息混じりに繰り返す銀之助に、マネジャーは確信に満ちた言葉で励ましていた。
「獄門組の親分さんはねえ、やると約束したら必ずやり通す人だから、どんな支障があったとしても、きっと彼女をここへ連れて来るでしょう」
「でもねえ、山裾からここまでの山道は、人一人がようやく通れる細いヤブ道だよ。しかもその山道には入場客であふれている。重病人の彼女をどうやってここまで運ぶのか。飛行機や新幹線にも乗れない彼女をどうやってここまで運ぶんだ。無理矢理に連れ出して彼女の命にかかわったら取り返しがつかないよ」
「ヘリを使ってでも戦車をかっぱらってでも必ずやり遂げますよ、あの人は」
「この狭い境内のどこにヘリを着陸させるというのですか。すでに観客が折り重なって、地面が見えない程ではありませんか。戦車が登る道なんてありませんよ。あの人たちは、彼女の病気の重大さを安易に考え過ぎているのではないだろうか」
なす術も無く彼等の善意のくわだてに同調し、一炊の夢を見ようと思ったけれど、とんでもない間違いをやらかしているのではないかという冒瀆の疑念が、会いたさ見たさの煩悩をおさえて銀之助の心を揺さぶっていた。
その頃、沙織を乗せた最新鋭の救急車パラメディック号は、東北自動車道を快走していた。
<救急車>
東北随一の桜の名所でもある青森県弘前公園では、お堀端の桜並木に若葉が芽吹き、雪国の遅い初夏の訪れを告げていた。
弘前城から岩木山へ向かって数分歩いたところに津軽ジョンガラ病院がある。
午前七時、津軽ジョンガラ病院の内科病棟では、シーツや点滴交換液や浣腸やカテーテルや三味線を手にした看護師たちが忙しそうに駆け回っていた。
三階の内科病棟南側中央に位置する沙織の個室のドアが、コンコンコツンとノックされて開かれた。沙織は薄ぼんやりとした意識の中で、うつろな瞳を入口へ向けた。
目をつむるたびに死を予感する。目を覚ますたびに生きる苦しみがよみがえる。眠るたびに夢を見る。このところ、夢の頻度が多過ぎて、目を覚ましていても、夢の中にまどろんでいるのか現実なのかの見境に自信が持てなくなってきた。
夢に現われる顔ぶれはまちまちだけれど、記憶にある顔はいつも同じで、見知らぬ顔の人たちが偽りの思い出をつむぎ、夢が覚めれば見せかけの記憶の中に消えてしまう。短か過ぎた人生だから、うたかたの夢の中でも思い出される顔は限られている。
抗ガン剤のせいか、体力も気力も知力さえも衰えて、何だか視力も落ちてきたような気がする。そう思いながら入口に視線を向けると、見知らぬ三人の男女が立っていた。白衣を着た二人の男女はお医者様と看護師さんに違いない。さてもう一人の男性は誰かしらと沙織は記憶をまさぐった。
白衣の看護師がそばに近付いて来て、きびきびとした口調で囁いた。
「烏丸沙織さんですね。お迎えに来ましたわ。錦王子銀之助さんがあなたを待っていますのよ。病院の先生には外出の許可をもらっております。少し長旅になるけど頑張って下さいね。私は桜川麗子と言います。看護師です。医者も同行しますから安心して下さい」
沙織は今朝の夢の続きを見ているのだと思った。それにしても何故こんな悲しい夢を見るのでしょうか。迎えに来るはずのない銀之助の迎えが来たという。たとえ夢の中でも迎えに来る者がいるとすれば、それは天国の天使か地獄の死神。ああ、目の上で、私の顔を見下ろしているのは紛れもない地獄の果てに住むという恐ろしい顔をした赤鬼ではないか。ああ、私は地獄へ召されてしまうのか。何の咎で地獄へ落ちるのか。沙織の顔をのぞき込んでいたのは羅生門源五郎親分だった。
「ちょっと親分さん、邪魔ですからどいて下さい。不気味な顔をのぞかせるから、彼女が怯えているじゃありませんか」
麗子に追い払われて羅生門親分が後ずさると、桜川雅彦がストレッチャーを沙織のベッドの横に沿えた。
麗子との結婚を親父に反対されて勘当された桜川雅彦は、親父に縁のある浜松の大学病院を辞め、きっぱりと実家を捨てて麗子と婚姻の手続きを済ませた上で東京の病院に勤務していた。(前編「同窓会に見た夢」を必読のこと)
「さあ、急ぎましょう」
桜川雅彦医師は二人をせきたてるように声をかけて救急センターのロビーまでストレッチャーを押して行き、そこに待機していた救急車に沙織を移した。
羅生門親分は救急車の助手席にすばやく乗り込み、黒メガネの運転手に声を放った。
「車を出せ。真赤なランプをピッカピッカ点滅させて、ピーポー鳴らしてさっさと走れ。高速に入るまでは飛ばすんじゃねえぞ、分かったな」
「へい」
五人を乗せた救急車は、市内を抜けて国道七号線に出て東北自動車道の大鰐弘前インターチェンジを目指して快走した。
「親分、赤信号ですぜ」
「アホウ、救急車が赤信号でビビッてどうするんだ。マイクをよこせ。スイッチ・ポン。えー、ご通行中の車の皆様方、えー、救急車が通行しまーす。救急車でーす。救急車が通行するってのが聞こえねえのかテメエら。おい、そこの黄色いポンコツフェラーリ、死にたくなかったら左へ寄れ。こら、そこの暴走ダンプ、生意気に上から見下ろしてんじゃあねえぞボケ。朝っぱらからハンバーガーなんか食らいやがってこの野郎。あー、救急車の前を横切りやがったなあのクソ野郎。おい、あのミニクーパーを追っかけろ。激突して踏みつぶせ」
「へ、へい。し、しかし親分、重病人がうしろに、へい」
「おう、そうだった。すっかり忘れとった。仕方がねえ。今日のところは見逃してやろう」
順調に東北自動車道までたどり着いた救急車は、大鰐弘前から東京方面に向けて追い越し車線を走行し、最初の休憩所である阿闍羅パーキングエリアに入った。大型車両のパークエリアに向かうと、一台の大型ダンプが荷台の後部を開いて待機していた。
救急車を認めたダンプの運転手は、荷台の両端から二枚の鉄板を引きずりおろした。黒メガネの運転手は、二枚の鉄板から左右の車輪を踏み外さないように慎重にアクセルとハンドルをさばいて救急車を大型ダンプの荷台に載せた。
不安そうな面持ちの沙織と麗子に、羅生門は大きくうなずいて言った。
「沙織さんとやら、心配するこたあいらねえぜ。救急車はトラックの荷台に鎮座した。もう、何が来たって手出しは出来ねえ。手榴弾だってバズーカだって魚雷だって装備してるぜ。救急車でノロノロ走るよりは二倍も早い。東北新幹線はやぶさ号にだって負けやしねえから、あっと言う間に東京に着いちまうぜ。銀之助の夢舞台を楽しみにしているんだな」
「親分さん、戦争に行く訳じゃないんですから、くれぐれも事故のないように、慎重に運転させて下さいよ」
「気づかいは無用だぜ麗子。それじゃあ桜川のダンナ、患者さんをよろしゅう頼んますぜ」
大型ダンプの助手席に乗り移った羅生門親分は、顔面ムカデ模様の傷跡だらけの男に「車を出せ」と一喝した。
「へい、インタークーラー付きスーパーターボチャージャー三十気筒一万馬力のディーゼルエンジンを百万回転させて激走しやすぜ」
「やかましい、御託並べてねえでとっとと走らねえかこの馬鹿。ベンツもパトカーも踏みつぶして突っ走れ。出せ、早く」
「へ、へい」
救急車を載せた大型ダンプは怪獣ガメラのような咆哮をあげて本線に向かって走り出た。追い越し車線を走るどの車も、後方から激走して迫り来る大型ダンプに恐れをなして走行車線へと進路を譲った。
「親分、パトカーですぜ。しかもフェアレディーZの高速パトカーですぜ」
「追い抜け」
「へい」
ビュンビュン ビュビュビュン
「親分、ピーポー鳴らして追って来やしたぜ」
「いいか、スピードを落とすんじゃあねえぞ。直前まで引き付けてから、ギアをローまで落として急ブレーキをかけてやれ」
「へい」
キュキュキュー ガション
「親分、パトカーが後ろで炎上してますぜ」
「適切な車間距離を保って走る事こそ運転の正しいマナーだってことが身にしみて分かったはずだぜ」
「勉強になりやすぜ」
救急車の中では、沙織の腕に挿していた点滴の針が、追突のショックで空中を二回転半して鼻の穴に突き刺さり、桜川雅彦医師は除細動器の角に脳天を打ちつけて血みどろになり、麗子は心電計のコードが首に巻きつき、あやうく呼吸困難で窒息死するところであった。
宇都宮を過ぎると都心に向かう車が増える。何事もなく東北自動車道を走り抜けた大型ダンプは、葛西ジャンクションから東関東自動車道に入り、館山方面に向けて激走を続けた。
上総湊あたりから左折して山道へ入り、金閣寺のある金閣山の山裾に到着した頃にはすでに太陽は真上に上りつめて、時計の針は午後の一時を回っていた。
正午の金閣寺の鐘の音を合図に房総森林浴コンサートは始まっているはずなのに、山裾では前売りチケットを手にした多くの人たちが会場に入れず騒いでいた。
今また最寄駅からピストン輸送の大型バスから五十人ほどの客が吐き出され、待ちくたびれてイラついている先客たちとこぜりあいになり、罵声が怒声となって山間の村々にこだまして響き渡っている。
「親分、山裾も参道も入場客であふれていますぜ。これじゃあ寺まで上がるのは無理ですぜ」
「やかましい。裏へ回れ。けもの道があると天竺の野郎が言っていやがった」
「へい」
「おう、あったぞ。そこだ、そこだ」
「お、親分。こ、これが道ですかい」
「テメエ、国家公認の大型ダンプの運転免許証を持ってるんだろうが。タヌキが通れる道をどうしてダンプが通れねえんだ馬鹿野郎。いいか、絶対に途中でアクセルを緩めるんじゃねえぞ。とっとと登れ早く」
「へ、へ、へい」
顔面ムカデ模様の運転手は額に恐怖の脂汗をにじませて、意を決したようにサブギアを特注の四輪駆動に切り替えた。おもむろにトランスミッションギアをローにぶち込んでインタークーラー付きスーパーターボチャージャー三十気筒一万馬力のディーゼルエンジンのアクセルペダルを一気に踏み込み、山裾のけもの道めがけて突っ込んだ。
ギャギャギャバリバリバコバコバココン
救急車を荷台に載せた大型ダンプは、うっそうと生い茂るシダやツタを踏みつけ、四十二度の急勾配のけもの道を馬力もトルクもフルパワーにして上り始めた。
<獣たち>
数日前、いつも静寂な寺の境内に、電動ノコギリやハンマーを持った大勢の人間たちがやって来た。
何が始まるのかと眺めていたら、いきなり周囲の大木を伐採し始めて大きな舞台や櫓や倉庫や屋台を作り始めた。
たちまちにして大ステージが出来上がったと思ったら、二日後には多くの人間たちがぞくぞくと集まり、山道も参道も境内も埋めつくされた。
打ち上げ花火がドドンと轟き、アドバルーンが上がり、鐘の音が響くとステージにきらびやかな衣装を着けた人間が現われ、境内にすさまじい絶叫が巻き起こった。
いったい何が始まるのかとカモシカやコウモリや野良猫たちは木立の陰から見守っていた。
余りに度外れた喧騒に危惧を抱いた山の獣の長老たちは、寺の裏の空き地に集まってどうしたものかと会議を始めた。
寺の周囲の森林は伐採されるし、山道も境内も人間たちに奪われて、このままでは獣たちの安息のすみかである山の平和が踏みにじられる。はて、どうしたものかとヤンバルクイナの長老がスカンクに意見を求めていた。
そこへ、ゴゴゴゴッ、ズゴゴゴゴゴゴッと地鳴りのような轟音を上げて、救急車を載せた大型ダンプがけもの道を抜けて突然広場に飛び出して来た。ヒグマもゴジラも獣たちは度肝を抜かれて一目散に林の中へ逃げ込んだ。
「親分、着きやしたぜ」
額から華厳の滝のように流れる脂汗をタオルで拭いながらムカデ模様が言った。
「よし、患者を降ろせ」
「へい」
ストレッチャーから車イスに移された沙織は、凄まじい車酔いにフラフラとよろめく看護師の麗子に車イスを押されてステージの脇へと向かった。
<愛の賛歌>
舞台正面でドスを片手に陣取っていた二人の黒スーツの男は、車イスを認めるとスイッと立ち上がり、麗子と車イスに場所をゆずった。
中継中の房総ケーブルテレビの第三カメラがその様子を捉えていた。
すでに舞台も会場も熱気に包まれ、♪いい湯だな いい湯だな 湯気が天井から……♪ を熱唱していた錦王子銀之助は、沙織の姿を認めて歌をやめた。
取り残された伴奏が続く中で、銀之助は沙織の大きな瞳を食い入るようにじっと見つめた。
頬はこけ、眼孔は落ちくぼみ、頭部が布でおおわれているのは抗ガン剤で毛髪が抜け落ちているのかもしれない。
「沙織!」
思わず銀之助は口の中で叫んだ。沙織は霞む視力で銀之助の唇の動きを察した。沙織は声にならない口の動きで「おめでとう」と、銀之助にエールを送った。「頑張ったね」と、ねぎらいの言葉を送った。「ありがとう」と、感謝の気持をあらわした。そして、「さようなら」と、つぶやいて涙を浮かべた。
中天の陽を受けてキラリときらめく涙の棘が、立ちすくむ銀之助の慙愧にくすぶる心をつらぬいた。
訳も分からず呆然と静まり返っていた観衆が、なぜ歌うのをやめたのかと騒ぎ始めた。銀之助は、皆を制するように両手を高く掲げてマイクに向かった。
「皆様、本日始めて発表します僕の新曲を聴いて下さい」
オオッーと、会場は一瞬どよめいて、銀之助の次の言葉に耳を澄ませて静まった。
「僕は津軽のちっぽけな村で生まれました。幼い頃から歌唱が好きで、いつも演歌を口ずさんでおりました。高等学校の学園祭で、僕の天賦の才能がプロの作曲家によって見い出され、僕は歌手を目指して津軽も故郷の両親も捨てて東京へ出て来ました。でも僕は、津軽にたった一つの大切な忘れ物を置き去りにしてきたのです。その、とっても大切な忘れ物が、今、僕の手の届かない遠い、遥か遠い所へ消えて行ってしまいそうなのです。津軽は冬になると、目に見える何もかもが白い雪に覆われてしまいます。それでも早春になると、フキノトウやザゼンソウが雪を押し退けるように懸命に可憐な花を咲かせます。貧しく厳しい寒村で夢見た小さな恋の物語を、僕が作詞して曲を付けました。一生懸命考えて詞を作りました。僕は一生この歌を、『愛の讃歌』を歌い続けるつもりです。ですから、どうか最後まで聴いて下さい」
銀之助は演奏のスタッフに目配せをして、マイクを手に取って目をつぶった。
ジャンジャンジャンジャン、ジャンジャンジャンジャン
津軽ジョンガラ三味線の激しいバチのさばきが、山林の涼気をぶっ飛ばすように巨大なスピーカーから吐き出された。
ジャンジャンジャンジャカ、ジャンジャカジャンジャカ、ジャジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ、バチン、ジョロロロ、ロン、と、バチがはじけて三味の手が止まった。
ポエムの朗読のような爽やかな銀之助の歌声が、山林の風に乗って雲になった。かろやかにピアノの伴奏が、ポエムの果肉をかじって跳ねた。
静かに瞑目した沙織は、短い記憶の中から学園祭での思い出を手繰り始めた。病のせいか抗ガン剤の副作用なのか、視力が著しく衰えて現実の光景を見失うようになってから、過去の記憶だけがますます鮮明に見えてくるようになったと感じていた。
銀之助の歌唱が青春の讃歌と重なって、学園祭で一緒に合唱したピチピチと輝く友の笑顔を思い出させた。友に出会い、友と別れた。熱き友情があり、激しく燃える恋があった。林檎の果蜜のはじけるような青春の愛の讃歌のメロディーが、瞑目した走馬灯のはかないともしびとなって甦る。
やがて、戯れるように優美なピアノの演奏にビオラやチューバや三味線のバチが加わると、激烈な恋のリズムに変わった銀之助の歌唱に、聴衆は熱気を帯びて昂揚した。歌詞につづられた切なく悲しい惜別の恋物語に、沙織は身を震わせて涙の堰を止めることができなかった。
銀之助は涙をにじませて、沙織を見つめて歌い続けた。彼女のために想いを告げる恋歌だから、涙にマイクが汚れても、血で観衆をけがしても、最後まで歌い続けなければならないと、沙織を見つめて歌い続けた。
沙織の黒目が虚ろに白濁しているようだ。その瞳に涙をたたえて銀之助を見つめている。微笑んでいるようだと銀之助は思った。その刹那、銀之助は沙織の微笑みの中に、くっきりと浮かび上がる死相をとらえた。心臓が引き裂かれた。血が逆流して目からあふれた。声が叫びとなって歌い終えた。
聴衆は歓喜して総立ちになった。金閣寺の境内は興奮のるつぼと化して、拍手とアンコールを求める声で沸き立った。
銀之助は他の何も見えなかった。沙織だけを見つめていた。沙織の唇がわずかに動いた。唇のささやきが銀之助に届いた。
「私の命の炎はもうすぐ消えようとしているけれど、最後に銀助さんに会えて幸せでした。痛みをこらえ、薬をうとみ、死に立ち向かう孤独に耐えながら今日まで生きながらえて来ましたが、これで思い残すことなく晴れやかな気持でこの世とのお別れができそうです。ありがとう銀助さん。死ぬことは怖いけど、勇気を持って一人で旅立って行きます。さようなら銀助さん」
沙織の身体がグラリと揺れた。容態の変化を察した看護師の麗子は、これ以上の無理をさせられないと判断して沙織を救急車に戻すことにした。舞台上の銀之助に一礼をして、麗子は車イスを押して移動した。
銀之助は、車イスに力なく寄りかかる沙織の背中を、血のにじむような苦悶の眼光で見送った。そして、もう一度、愛の讃歌を歌い始めた。
ジョンガラの三味のバチがうなり、ピアノが踊り、ビオラが叫ぶ。銀之助の狂おしい愛の軌跡が悲しいメロディーとなって空を舞う。
その時、ステージの端から一本の発炎筒が打ち上げられた。すると、山の峰に身をひそめていた潜水艦のような黒塗りの飛行船がヌーと姿を現し、舞台の上空へと舳先を向けて飛翔してきた。
舞台の真上にピタリと停止すると、一本の縄梯子がポンと投げ落とされた。熱唱する銀之助の身体が縄梯子にからまると、飛行船はグイッと船体を浮かせて銀之助もろとも東京湾上空に向けて飛び立った。
<別館・九号室>
翌月曜日、極楽安楽病院の外来ロビーでは、新患や通院の患者たちを押しのけて、一万人の健康な訪問客でごった返していた。
「払い戻しをしろ、バカ野郎」
「後援会公認のフアンをボウフラのウンコみたいにコケにしやがって、ただじゃおかねえぞ、この野郎」
「第二内科病棟九号室はどこだ。責任者を出せ、イカサマ師」
怒声に罵声が入り混じり、外来の事務員たちは米騒動勃発かバスチーユ宮殿襲撃のようなうろたえようで、何の対応もできずに右往左往するばかりであった。
第二内科病棟看護師長の藤巻竜子は事務局長室に呼び出され、憮然とした表情で局長の話を聞き入っていた。
「確かにチケットの下欄に印刷されているのですよ、藤巻師長。運営事務局が第二内科病棟九号室と小さな活字でねえ。入場できるはずのない狭い会場に一万人ものチケットを前売りにして、極楽安楽病院はイカサマの興行をやっているのかって怒っているんですよ。そもそも市立の病院が何の目的で演歌歌手の興行の胴元をやってアブク銭を荒稼ぎしたのか。第二内科の九号室とはどういう存在で、どんな人間がいるのかって、騒ぎを聞きつけたテレビ局や新聞社の取材の者にしつこく食い下がられて、私も対応に苦慮しておるのですよ。患者さんたちもねえ、初診を受けられないじゃないか、診察券を出せないじゃないかと叫んで、スクラムを組んでシュプレヒコールを始めていますよ。病院正門前の道路も人であふれてしまって、警官隊と機動隊まで動員されて交通整理を始める始末で、これ以上騒ぎが大きくなるようですと、自衛隊からバズーカ砲付き装甲車か最新鋭の戦車を借りて、催涙弾やレントゲン室のエックス線光線で防戦しなければなりませんぞ、藤巻師長」
額に十文字の血管を膨らませて事務局長室を辞した藤巻師長は、第二内科病棟に戻ると詰所の看護師たちに命じた。
九号室の全員がベッドに縛り付けられて、ベッドごとエレベーターで裏門の脇の空き地に移動させられた。
梅雨時に珍しく透き通るような青空の下、二列に六つ並べられたベッドの前に「第二内科病棟・別館・九号室」と書かれた立て看板が地面に打ち付けられた。
看護師たちは、ロビーで怒り狂っている群集を裏門へと誘導した。
咆哮して怒れる群集は、悪代官と結託した豪商の米倉を襲う百姓一揆の一団のごとく、裏門脇の別館・九号室と書かれた空き地へ目の色を変えてなだれ込んだ。
狩野山楽の描いた地獄絵図も顔負けの阿鼻叫喚のむごたらしき野外劇場を、病棟の屋根の上からカラスがヘラヘラ笑って見物していた。
夕日が沈み、お月様が鼻クソをほじくりながらニッコリ笑って顔を出す頃、生きているのか、死んでいるのか、裏門脇の立て看板の下に、全身一万か所の傷を負って血みどろの六名の男たちが折り重なるように転がっていた。
「善さん、生きてるかい?」
お月様を見上げて口を開いたのは鉄仮面だった。
「わ、わしゃあもう家に帰りたいよ。ゲホゲホ」
「ど、どうして僕までがこんな巻き添えを食わなきゃいけないのでしょうか。僕も小学校へ帰りたいです。」
「女々しいぞ朝比奈。見てみろ健太郎を。何も言わずに寝ているだろう」
「気絶しているんですよ。親分さん、よくこんな時に酒なんか飲んでいられますねえ。天竺さんも」
「お前も飲め。ウイッ」
午前零時を回るとさすがに夜露が冷えてきた。各々ベッドの上で頭から毛布をかぶってブルブルと身震いをしていると、夜警がまた冷やかしにやって来たのか、病棟の方から懐中電灯光が二つ近付いて来た。
「皆様今晩は。ご機嫌いかがですか」
「お、何だ。大田原と麗子じゃねえか。何しに来やがった」
「あら、随分お元気そうですこと。体温計だけ置いて帰ろうかしら」
「待てこら、ただ冷やかしに来た訳じゃねえんだろうよ」
鉄仮面が麗子に怒鳴る。
「沙織さんの心を救済するために一肌脱いだ純粋な善意の行為に免じて、皆様を病棟に連れて帰って差し上げますわ」
「そうだよな。お前だって一枚噛んでるんだからな」
「何を言ってるんですか。私も雅彦さんも病院を休んでボランティアで協力しただけですわ。それを何ですかあなた達は。一万枚ものチケットを前売りで売りさばいて。病人をダシに使って不純不当な心掛けで一儲けしようなんて企てるからこんな目に遭うんでしょうが。まだ反省していないようだったら、このまま帰りますわよ」
「お前ねえ、亭主にもそんなつっけんどんな口をきいているのかい。いけねえなあ。もっと白衣の天使の自覚を持ってだなあ、患者様には優しくいたわりの心を持って接するもんだってナイチンゲールは言い残していなかったかい」
鉄仮面虎蔵はいつものようにステテコの中に手を突っ込んで股座をボリボリと掻きむしる。その音が澄み切った夜空に心地良い夢を誘って響き渡る。
半月後、一通の手紙が九号室宛てに届けられた。
拝啓 第二内科病棟九号室のご一同様。益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。
僕は、お陰さまにて胃潰瘍の具合もすっかり良くなり、地方公演やテレビの仕事で忙しく充実した日々を送っております。これもひとえに皆様方のお陰と感謝している次第であります。
さて、僕は地方巡業で三日前から鹿児島県の薩摩半島先端にある指宿温泉を訪れております。そして今、桜島と錦江湾を望むホテルの一室でペンを走らせております。
本日午前六時、烏丸沙織の訃報を受け取りました。両親に見守られて静かに息を引き取ったと聞きました。ところが、終焉を迎える生命の極限の力とでも申しましょうか、臨終の寸前に意識も視力もしっかりと取り戻した様子の沙織が、大きな瞳を輝かせて両親に語ったそうです。
「お父さん、お母さん、こんな病気に負けてごめんなさい。でも、生まれて来て良かったと思ってる。たくさんの友達ができて、甘酸っぱい青春の風を感じることもできたと思う。私の信じていたものが嘘じゃなくて良かった。あの日、私を救急車に乗せて病院から連れ出してくれた不思議な人たちにお礼を言って欲しい。壊れそうだった真実の愛を見失わないように教えてくれた。衝撃的な感動に涙が滲んで何も見えなくなってしまった。その時、私の運命を感じた。だから、もう何も怖くないよ」
そう言って、虹が消えていくように沙織は静かに旅立って行ったと聞きました。
皆さん、どうか僕の話を信じて下さい。沙織が息を引き取ったというその時刻、沙織が僕のベッドのそばに現われたのです。
僕は確かに目覚めておりました。目も耳も脳味噌も、間違いなく覚醒しておりました。沙織の頬は高校生のようにみずみずしく、津軽の真っ赤なりんごの果実でした。大きな瞳でベッドに寝ている僕を見つめておりました。
僕は声を出すのも忘れて沙織の瞳を見返しました。沙織は何も言いませんでした。そして、いつ立ち去ったか分かりません。僕が、いつの間にか眠りに落ちていたからです。
僕は電話の鳴る音で目を覚ましました。それが沙織の訃報を知らせる電話のベルだったのです。
皆様、本当にお世話になりました。僕は、沙織の言葉を皆様にお伝えしたくて筆を取りました。もう一度、金閣寺でコンサートを開催したいと願っております。
梅雨も明け、いよいよ太陽の季節となりました。皆様のご健康を心よりお祈り申し上げます。 敬具
朝比奈誠の袖机の上に置かれた携帯ラジオから、お昼の歌謡バラエティのしんがり歌手を知らせる饒舌な司会の声が流れてきた。
「さて皆さま、お待たせ致しました。いよいよしんがりに登場いたしますのは、宇宙の彼方から彗星のごとくやって来ました二十一世紀のキラ星、日本の星、津軽の星、ギンギンギラギラ演歌の貴公子、錦王子銀之助さんでーす。歌いますのは甘く切ない愛と青春のラプソディ、ご存知、絶好調『愛の讃歌』でございます。銀之助さんどうぞー」
津軽ジョンガラ三味線の激しいバチのさばきが、小さなスピーカーをビリビリ震わせながら流れてきた。
次の話は、エキゾチックな少女と少年のノスタルジー