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第一話:九号室六人目の入院患者

 極楽安楽ごくらくあんらく病院・第二内科病棟・九号室の開け放たれた南の窓から、早春の息吹を孕んだ香気の風が舞い込んでくる。房総の森で弾けた杉の花粉をいっぱい溜め込んで、窓辺の風鈴を淡い音色でかき鳴らす。

 

 入口右側のベッドの上では、絶対安静を命じられている急性腎臓病の山内やまうち健太郎けんたろう少年が、ウサギのように充血した両目を人差指でこすりながら悶えていた。

 隣りのベッドから慢性胃潰瘍の鉄仮面てっかめん虎蔵とらぞうが、心配そうに健太郎少年を見下ろしている。


「おい健坊、花粉症かい。そんなにこすったんじゃあ目がはれちまって見えなくなるぞ。看護師さんに頼んで浣腸でもしてもらいな。毒が抜けてすっきりするぜ」

 ステテコ腹巻の脇腹に左手を突っ込んだ鉄仮面は、片膝をつきながら四角い顔の口をおちょぼにしてニコチンタールの煙を天井に向けて吹き上げる。

 

 窓側のベッドでは、阿修羅あしゅら連合会千葉獄門組ごくもんぐみ組長の羅生門らしょうもん源五郎げんごろう親分が朝からコップ酒をあおっている。

 脾臓腫大症の手術を先延ばしにして、別荘代わりに第二内科病棟の大部屋に居座っているのだ。ベッドの横には黒メガネのお兄さんが、空気のようにさりげなく立哨している。


「ゲホ、ゲホ、親分さん、ワシにも一杯くれんかのう。ゲホホ」

 喘息を患う鳥兜とりかぶと善右衛門ぜんえもんは、養命酒の空瓶を布団の横に転がしながら、向かいのベッドから身を乗り出すようにしてコップを差し出した。


「おう善さん、焼酎でもブランデーでも売るほどあるんだ。遠慮なしに飲んでくれ。何といっても食前酒と朝風呂が一番の薬だって院長が言ってたぜ。あとで病棟の一番風呂へ若い看護師をはべらして入ろうじゃねえか。ウッ、ウィー」


「善右衛門さん、また養命酒を一本飲み干したんですか。怒鳴られますよ、若い主治医に」

 突発性慢性胃炎を患う小学教師の朝比奈あさひなまことが、白面のしゃもじ顔で善右衛門をたしなめる。


「キャップでチビリチビリやっているうちに後を引いてしもうてな、気が付いたら無くなっとった。腹の中が薬草臭くてなあ、飲み直しをせんと気分がすぐれんのじゃ」

 額に三筋の皺をきざみ、スルメを顔にしたような肉付きのうすい細身の体をよじらせて善右衛門は溜め息をつく。


 

 九号室は六人の患者を収容できる大部屋であるにもかかわらず、間仕切りのカーテンが無いので患者同士の挙動が丸見えになってしまう。

 そもそも九号室は談話室だったのだが、突然六人の急患が飛び込んできたので、臨時に病室となってしまった。(前編参照のこと)

 臨時であったはずの九号室が、いつまでたっても臨時のままだから、今だに間仕切りのカーテンが無い。


 

 朝の六時半を過ぎる頃には、看護師たちの立ち回る足音で病棟の廊下は慌ただしくなる。各病室の扉がパタパタと開かれ看護師たちの巡回の声が聞こえてくる。

 九号室の扉が大きく開かれて、看護師の桜川(旧姓早乙女)麗子れいこが台車を転がして入って来た。


「お早うございまーす。検温ですよ。はい健太郎、体温計だよ」

 健太郎が布団から気だるそうに顔を覗かせる。


「麗子……」

「私の名を呼び捨てにするなって言ってるでしょう! 何だよ?」


「浣腸してくれよ」

「昨日は下痢だって言ってたのに、今朝は便秘かい?」


「違うよ、花粉症だよ。ポンコツのエアコンが役に立たないから、窓を開けっぱなしにしてるんじゃないか。眼がかゆくてはれちまったよ」

「浣腸を眼に垂らしてめくらになるかい。それとも鼻の穴に打ち込んで花粉と一緒に腐った脳味噌を吐き出すかい。いいから早く手首を出しなさい。握手じゃないよバカ、脈をとるんだよ」


「亭主の雅彦は元気にしてるかい?」

 健太郎のませたセリフに麗子の眼がつり上がる。

「余計なお世話だよ」

「お出かけのチューはしてきたのかい。イデデデデデ」

 爪先をグイッと手首に突き立てられて、動脈がぶち切れそうになった健太郎は思わず腕をひっこめた。


 体温計を渡して麗子は隣の患者に声をかける。


「鉄仮面さん、病室内は禁煙ですよ。洗面器を灰皿にしないで下さい。それは詰所の消毒用の洗面器じゃありませんか。いつの間に持って来たんですか」

「おおそうかい。てっきり灰皿だと思ったが、いつからここにあるんだろうねえ。隣の部屋のババアが夜中に寝ぼけて持って来たに違いねえ」

「そんな訳ないでしょう。洗って戻して下さいよ」

 

 床頭台の引き棚に体温計を置いた麗子の背中に、舌のもつれた羅生門親分の渋い声がかけられた。


「おい、姉さん」

「何ですか?」


「ちょいと、お酌をしてくれねえか」

「朝っぱらから酔っ払ってる場合じゃありませんよ。禁酒禁煙ですよ、ここは。規律を守れない患者さんは迷惑ですから出て行ってもらいますよ」


「白衣の天使がそんなにきついことを言うもんじゃねえよ。そういえばオメエだろう、この前ワシの熱燗トックリの中に七味トウガラシを仕込みやがったのは」

「知りませんよ私は」


「オメエ、嫁に行ってからとぼけるのがうまくなりやがったなあ。ダンナにもそうやってとぼけてるのか」

「バカなこと言わないで下さいよ。この前は日本酒と間違えてウォッカを熱燗にして一気飲みしてひっくり返ったのは自分のせいじゃありませんか。その前は金粉と間違えて鉄粉を日本酒に散らして飲んで、喉が血みどろになったと言って大騒ぎしていたし、さらにその前はアブサンとテキーラとジンと泡盛と老酒ラオチューを掻き混ぜて、気付け薬だからと言って介護病棟の八十歳の患者さんに飲ませて、心臓発作と心筋梗塞と脳溢血を併発させて悶絶寸前のところを電気ショックで危うく命を取り留めたものの、病棟の師長さんに張り倒されたのを忘れたんですか」

 羅生門親分は背中を向けて狸寝入りの体勢に入っていた。

 

 麗子は善右衛門と朝比奈にも体温計を渡し終えると、コホンと咳払いをして皆に告げた。


「午前中に新しい患者さんが九号室に入院されますので、皆様よろしくお願いします」


「何者だい、そいつは?」

 鉄仮面が麗子に尋ねた。


「男性ですわ」

「アホウ、そのぐらいなら俺でも予想はできるだろうボケ。年がなんぼで、どんな職業で、どんな病気で、酒と女と博打が好きかどうかくらい教えるのが親切ってもんじゃあないのかよ」


「知りませんわ」

「随分とつれない返事じゃねえかよ」


「個人情報の守秘義務がありますので、患者様のことを明かすわけにはいきません」

 そっけなくいなして麗子は九号室を出て行った。




天竺てんじく乱漫丸らんまんまる


 朝食の後片付けが終わり、大きな台車が空の食器を載せてエレベーターに消え去ると、患者も看護師も一息ついて束の間の静けさが訪れる。

 見舞いの客も無く静まり返った病棟の廊下に、ぼろ布を引きずるような音がシュルッ、シュルッと聞こえてきた。やがて九号室の前で音が止んでパタリと扉が開けられた。


 そこに現れたのは髭面に坊主頭の僧侶だった。左肩から右脇に五条の金袈裟を着用し、胸の前で両手を合わせた小柄な男が念仏を唱えながら入室してきた。


「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、ナンマンダー」


「おい、何事だ。誰が坊主なんか呼びやがったんだ、縁起でもねえ。まだ死んじゃいねえぞ俺たちは」

 歯をむき出して鉄仮面が怒声をあげた。


「ワ、ワシを迎えに来たのか。ワシはまだ三途の川は渡らんぞ。ゲホ、か、帰れ、クソ坊主。ゲホホ」

 善右衛門はベッドの上でのけぞりながら養命酒の瓶を握りしめて後ずさった。


「冗談も行き過ぎたら死を招くってことを教えてやるぜ。一直線に霊安室へ送り届けてやる」

 羅生門親分が枕元からワルサーP38拳銃を取り出して、髭面の眉間にピタリと照準を合わせようとしたところ、僧侶は懐から扇子を取り出してパラリと開いた。白檀びゃくだんの強い香りがカビ臭い病室の空気を追い払ったところで、うやうやしくこうべを垂れて挨拶を始めた。


「あいや皆様、私は本日よりこちらのむさ苦しい大部屋にてお世話になることとあい成りました天竺てんじく乱漫丸らんまんまると申す僧であります。春は夜桜、世は情け、袖すり合うも他生の縁、縁もゆかりもないけれど、ゆかりちゃんは西日暮里の女学生、嘘つきは泥棒の始まりにして物忘れは痴呆の始まり人生の終わり、すべての出会いが天運の定めにして仏のお導きなれば、病院もまた草庵に等しく厳かなもの。皆さま方、ひとつ、よろしゅうお願い申し上げまする」


「何だよ、病人かよう。いきなり念仏なんか唱えやがってビックリするじゃねえか。どこの寺の坊主なんだいアンタ」

 鉄仮面が四角い顔をとがらせて頬骨をピクピクさせる。


「はい。房総半島は上総国の古刹、金閣寺の高僧であり、住職でありまする」

「金隠しの抗争だと?」

 羅生門親分が拳銃を収めて問い返した。


「金隠しではありませぬ、金閣寺です」


「おおそうか、横浜中華街の関帝廟の隣の珍閣楼の親戚だな。フカヒレのホイコーローと肉まんのフルコースをもらおうじゃねえか。チーフのシェフに電話して姑娘クーニャンに持って来させろよ、紹興酒も付けて」

 知識と常識のタガを掛け違えた親分の発言を善右衛門がたしなめる。


「親分、そいつあ勘違いも甚だしいよ、ゲホッ。金閣といえば吉原の火災できっぱりと廃止になったと聞いておったが、今なおそのような酒池肉林の別天地があるとは知らなんだ。して、それは房総のどこにあるのかのう」

 善右衛門の時代錯誤な勘違いを小学教師の朝比奈が咎める。


「善右衛門さん、それは金閣ではなくて遊郭の間違いじゃありませんか。どうして金が遊に文字化けするのでしょうか。金閣と言えば焼酎に決まってるじゃありませんか。房総の湧水を仕込みに使い、丹精込めて造った味わい深い銘酒ですよ」

 輪をかけた朝比奈の見当違いを健太郎が咎めて質す。


「それは栄町のホルモン店の焼酎の事でしょ。金閣と言えばゲーセンに決まってるじゃないか。先生のくせにそんな事も知らないのかい。格闘ゲームにパチスロに射的にUFOキャッチャーまであって、景品に焼酎や養命酒もあるよ」


「ほう、養命酒もあるのか吉原のゲーセンに。舞妓はんもおるのかのう、ゲホゲホホ」

「珍閣楼の飲茶がゲーセンだとはどういう事だ、ウィー」

「金閣がホルモンの養命酒だとは知らなんだ……」


「あの、私は皆様の会話を聞いておりましたら目眩めまいと寒気がしてきましたので、ベッドに横にならせていただきます」

 ベッドに足をかけて潜り込もうとする天竺和尚を羅生門親分が呼び止める。


「まて、天竺の乱漫丸とやら。その金閣というゲーセンはどこにあるんじゃ」

「ゲーセンではない、寺です。北回帰線の北、東経百四十度の子午線に交差する北緯三十五度三分の地点、太平洋を望む房総丘陵の山上にありますぞ」


「お前の寺へは地球儀を回さなけりゃ行けねえのか」

「車載のナビゲーション・システムをお持ちですかな。まず、房総半島を検索していただき、ゴルゴダの丘を入力してプッシュしてもらえばそのうち到着するでありましょう」


「ゴルゴダだとう。遠い昔にどこかで聞いたことがあるような名の丘だなあ。桜の花は咲いているのかい、その丘には」

「山の麓には見事なウバ桜が満開に咲いております。我が寺へは日本橋から東京湾をまたいで六十五キロ、この病院からですと国道十六号線を南に向かい、黄色いフェラーリで約二時間というところでしょうか」


「フェラーリでなきゃ行けないのか、お前の寺へは」

「ローバーミニで二時間半」


「国産じゃ駄目なのか」

「日野レンジャー8トン貨物で三時間」


「わざわざ車で行くほど価値のある寺なのかい」

「よくぞ聞いて下さいました。いずれ世界遺産に登録されるでありましょう古刹こさつ金閣寺は、人の気配も欲の汚れもない森閑とした房総の山中にひっそりとたたずんでおりまする。周囲には熊笹やシダ類がうっそうと生い茂り、夜になりますと山林から狸の親子やカモシカたちが寺の境内に集まり酒宴を開いて踊っております。ポンポコ狸が踊るのは月夜の晩だけではないかとおっしゃるのですか、とんでもありません。満月だろうが三日月だろうが闇夜だろうが、獣に節操などありはしません。しかしながら、中秋の名月ともなりますと、遠方の山のいただきから狼男の悲しそうな遠吠えが聞こえてくるのです」

 羅生門親分が茶碗の熱燗をゴクリと飲み干す。


「どうでもいいけどなあ、あんさんはそんな山中の金閣寺とやらで生まれ育った訳じゃねえんだろ。どこで生まれて、どうやってそのボロ寺にたどり着いたんだ、話してみろ」

「よくぞ聞いてくださいました。私が気高き房総の草庵にたどり着くに至りましては複雑怪異な経緯がございます」

 

 我が意を得たりと胸を張る天竺乱漫丸は、いにしえの記憶を手繰り寄せるかのようにしばし瞑目したかと思うと思い切り目を見開いて、窓越しに空を見上げて語り始める。


「わたくしは白神山地の山奥の奥の空遠く、忍者が住むと人の言う、幽玄なるブナの林の山里で生を受けました。幽谷秘境の滝壺で産湯うぶゆを使い龍と戯れ、幼少のみぎりには遥かサバンナの草原でライオンキングと獲物を奪い合いました。そして十五の春のある晴れた日に、空が裂けて天地が鳴動して鈴虫が鳴き、聖なる神よりお告げを受けたのです。真実の悟りを求めて西方へ旅立てと。仏の導きにより悠遠の彼方なる神の国ガンダーラを目指し、仏塔に眠る経典を求めて祈りを捧げよとめいを受けたのです。わたくしは母の作ってくれたおにぎりを握りしめて中国に渡り、ひとこぶ駱駝に乗ってシルクロードを三年かけて横断したのです」


「マジか……」


「たどり着いたチベットの高僧のもとで怒涛の修業を積みました。絶食、火だるま、逆さ崖下りの荒行に脳が悲鳴を上げて頭骨がひび割れ、ふくらはぎが千切れたうえに不治の伝染病を患いましたが、求道研鑽の志をもって無心に祈りニンニクカレーを食べて復活し、煩悩と輪廻と懺悔の道理を開眼したのです。ダライ・ラマと義兄弟の盃を酌み交わし、ありがたき十戒の経典を天皇陛下へと届けるべく託されたのです。私は素足でチョモランマの峰を越え、黄河を泳いで日本海に漂着し、遊覧船タイタニック号で海を渡ろうとして津軽海峡で沈没し、タカアシガニの甲羅をかいにして遊泳していたら台風に襲われるも漂着したのが勝浦の港だったのです。後光の煌めく神々しい姿を見つけた漁民たちは私を神と崇めて平伏しました。それから先はお話しするまでもありません。神輿みこしに乗せられ房総の銘寺であります金閣寺へと奉られたのであります。我が本殿の中央には、いずれ国宝に指定されるでありましょう、十字架を背にした聖徳太子の像が鎮座しておりまして、天井からは左甚五郎の作と伝えられる人魚の木彫りがぶら下がっております」

 鉄仮面が人差し指でほじくった鼻糞を天竺目がけてはじき飛ばした。


「あんたねえ、神と仏を糞味噌くそみそにして冒涜ぼうとくしてねえか。モラルも節操もまるで無いじゃねえか。よくばちが当たらねえもんだな。どこからどこまでがハッタリで、どこから先が出鱈目なのか言ってみろ」


 漫画の世界でこそあり得るような冒険奇譚といえども、天竺乱漫丸の話は半信半疑を通り越して人を小馬鹿にしたような奇想天外さに呆れてしまう。無視して聞き流す前にぶん殴ってやりたくなりそうな話しぶりが余計に鼻につく。九号室の面々は両目を糸のように細めて新入り患者の僧を見つめていた。

 

 しかし、白けてしまいそうな天竺乱漫丸の述懐は、一見突飛で軽薄に思えるが決して嘘ではないのだ。さりとて真実でもない。うたかたの幻想を確固たる現実と信じ込んでいるだけだから罪もない。

 人はみな夢を見る。眠っている間に見るのが夢で、うつつのうちに見る夢が幻想である。オギャーと生まれた時に一つの夢を見て、目が開いた時に現実を見る。夢と現実が蓄積されていくうちに幻想が生まれて記憶の壁に貼り付けられる。

 

 脳味噌には百億万個の引き出しがあって、前生から今生までの記憶が古い順にきちんと収められている。ふとした拍子に引き出しがひっくり返り、あふれ出た記憶がごちゃ混ぜになったならば、夢と幻が微塵に弾けて幻想が倒錯されて現実となる。

 夢と現実の狭間で鎧をまとい、夢幻の漂流を繰り返すことになる。それが軌跡となって脳裏にしっかと焼き付いてしまうのだ。人間ならば誰しもたまにあることだろう。

 神を敬い仏を崇拝する天竺和尚にしてみれば、夢と現実の見境がつかないくらいは当然で、夢をでっちあげるくらいの根性が修行の基本だと心得ているのだ。だから天竺が憤る。


「何と不届きかつ無知蒙昧な原始人の発言でありましょうか。いまどき小学生でもそのような愚かな疑問は抱きませんぞ。神であろうと仏であろうと真理に揺るぎは無いのですぞ。生きることの道理、信義の思想の法則にどのような整合性を求めよというのか。人は誰しも宿業を背負って生まれてくる。運命というレールの上を走るうちに背負わされた業の重さに耐え切れず、救いを求めて叫び声を上げるのです。究極の辛苦に直面して生きる気力を失いそうになった時、あなたは誰に救いを求めるのですか。その対象が神であろうが仏であろうがソープランドのリリーちゃんであろうが歌舞伎町のホストクラブのケンちゃんだろうが、救ってくれるのならば誰でも良いではありませぬか。我が宗教宗派だけが正義正道であると排他誹謗する者こそ強欲蒙昧な愚か者なのですぞ。神と仏は一体なのです。そうは思いませぬか皆の衆」

 天竺の憤りを狂気だと警戒してたじろぐような九号室の面々ではない。むしろ異常さでは遥かに勝っているかもしれない。


「腑に落ちないところもあるが、言われてみればもっともだのう。立派にスジが通っているような気がするのう、ゲフォ、ゲホホ」

 ゆるんだ気管支を両の指で広げて、喘息を抑えながら善右衛門が感嘆して口を挟む。


「実に独創的な思考ではあるがのう、お盆の法要に牧師を呼んで、お経の代わりに聖書を唱えてもらっても良いのかのう。仏壇のおはぎを十字架で突付いて食べるというのも罰当たりな気がするがのう」

 鼻クソを指で飛ばしながら鉄仮面が茶化して盛り上げる。


「いやいや、善さん、罰当たりなんて考えることが邪道ってことらしいぜ。仏壇にマリア様の涅槃像を飾り、戒名の真ん中にクリスチャンネームを入れて、線香の代わりに十字架を突き立てて燃やしてみるってのも案外モダンでしっくりくるかもしれねえよ」


「よし、ゲホ、孫娘の婚礼は和洋折衷、神仏混合にして執り行えるよう式場と掛け合ってみよう。赤い絨毯のバージンロードでは数珠を持たせて歩かせて、牧師の代わりに巫女さんを呼んでコーランを読ませよう。披露宴での新郎新婦入場の際には新郎の肩に十字架を背負わせ、新婦にツタンカーメンの仮面をかぶせ、ホッテントットの太鼓のリズムに合わせて登場させることにしよう。宴席のメニューは言うまでもなく、最後の晩餐に饗された一切れのパンとワインの味噌汁。引き出物は戒名とおみくじとロザリオの三点セット。神と仏に見守られて孫娘の幸せな旅立ちを祈るとしよう」

 胸の前で十字を切り、天井を見上げて養命酒をあおる善右衛門に鉄仮面が追い打ちをかける。


「善さん、そいつはちょいと手ぬるいんじゃねえかなあ。バージンロードには霊柩車のオープンカーに乗って現われるってのがスジだろう。それに、引き出物に戒名は縁起が悪い。やっぱりモナリザかマドンナの涅槃像のカマボコが相場だと思うがねえ。新婚旅行は三途の川下りと黄泉の国への地獄めぐりツアー格安プランてのをJALパックで募集していたような気がするなあ。披露宴には恐山のイタコを呼んでウサギのカチューシャを付けさせ、客の手相を占いがてらに酌をして回らせるというのも場が華やいでいいと思うよ」


「あいや、お待ちを」

 着けていた袈裟をほどいて白衣の寝巻きに着換えを終えた天竺乱漫丸が奇声を放って割り込んだ。


「我が金閣寺でも婚礼の儀をうけたまわっておりまするぞよ。しかも格安に。コホン」

 眉をしかめた鉄仮面が立膝にして身を乗り出す。


「何だよ、金閣寺というのは結婚式場玉姫殿の出張所も兼ねてるのかい。どうもさっきから胡散うさん臭いと思っていたんだが、あんた本当は僧侶じゃなくてプロの山師じゃないのかい」

 図星を突かれそうで顔色を変えた乱漫丸は、鉄仮面の懐疑をさえぎるように大きくかぶりを振った。


「古刹金閣寺の名僧に対して何と無礼なことを言われるか。本来ならば国宝級重要文化財であるかまた世界遺産に指定されるかと囁かれる我が金閣寺が、なぜ古刹なままにして古刹であるか」

 さらに身構えるように姿勢を正して乱漫丸は言葉を紡ぐ。


「日本経済の凄まじい発展の末にバブルがはじけた結果、まやかしの繁栄が不景気の嵐となって大都会から房総半島の山中深くまで高潮のように押し寄せて、富裕な檀家は土地転がしで大損をして、株にはまって大火傷をして、寺への喜捨は無くなった。中流家庭が下流に転落して家賃に苦しみ小遣い銭が無くなれば、寺へ寄り付かなくなるし賽銭を投じる者もいなくなる。法事だって初七日だって坊主抜きで済ませてしまう有様ですよ。私どもとしましては食べる物も着る物も無く、雨つゆとハスの香気と樹木の精気で飢えをしのぎ、ひたすら神と仏を奉るために身を捧げておりまするが、千年万年の歴史を残す本殿の建屋は風雨にさらされ、副収入で浄財を稼いで補修をしなければ維持が叶わず、あわれ世界遺産も崩壊してしまうのですぞ。ならばこそ、若者たちが人生の旅立ちの門出として契りを結ぶ縁結びの神聖な式場として、恐れ多くも神々と御仏とやおよろずの精霊にはぐくまれて祝う事こそ正義正統の副業の道。そうではありませぬか皆の衆」

 

 屁理屈を並べ立てられては張り合えないと察して聞き流しを決め込んだ鉄仮面は、短くなったタバコの火をもみ消して話題を変えた。


「ところであんた、死人を生贄いけにえにして商売をしてる寺の坊主が、商売がたきの病院に入院とはどういう魂胆だい。さては、死にそうな患者の按配を偵察に来たのかい」

 姿勢を崩さず乱漫丸は憤る。


「滅相もないことを。罰当たりな濡れ衣を押し付けられては心外な。私は神に祈り仏に仕え、生きとし生けるものの幸せを願いつつ粗食を旨として質素な精進料理をたしなんでおりましたが、弘法も筆を誤り木から落ちると申しますが、不慮の病に……」


「ちょっと待て。木から落ちるのはマントヒヒじゃなかったか、それともペンギンか」


「どうでもよろしい。要するに食事療法を誤って糖尿病を患ってしまったのですよ」


「どんな食事療法だよ。粗食の割には随分と腹が出てるし丸々と太ってるじゃねえか。肉も魚も食わずにどうやって糖尿病みたいな贅沢病になれるんだよ。雨つゆと雑草だけじゃそうはいくまい」

 鉄仮面のいじりに少しも動じることなく天竺は、顔色も変えずにきっぱりと応じる。


「はい、確かに。原因は蜂蜜なのでありますよ」

 思った通りだと言わんばかりに鉄仮面がなじる。


「随分と豪勢な話じゃねえか。房総の山奥でローヤルゼリーの食い過ぎで病気になったと言うのかい」

 天竺乱漫丸は苦渋をあらわに眉をひそめて語り始める。


「自給自足を旨とする我が寺院の裏山には、ミツバチの巣箱が十三個ありました。房総の花畑に咲き誇る菜の花やポピーやベニジュームの蜜を集めて栄養たっぷりの蜂蜜を巣箱に蓄えるのです。私は毎朝夜明けとともに裏山へ行き、ミツバチに激励の念仏と説法を唱えて労り、ともに平和に暮らしておりました。ところがある晴れた日のこと、突然スズメバチの一群がやってきて、ミツバチの巣箱に襲いかかったのです。ミツバチがスズメバチにやられて全滅してしまったので、怒り狂った私は復讐の為に、コウモリとゴキブリを飼い慣らしてスズメバチの一群と戦わせることにしたのです。そしたらそこにヒグマとカラスとツチノコが現れて乱戦となりまして、面食らった私は市役所にスズメバチを撃退するプロを寄越してくれと電話で頼んだら、ヒグマとゴキブリの駆除が先だろうと言われてガチャンと切られたのです。仕方がないので私はスズメバチを手なずけて、ミツバチの代わりに花から蜜を運ばせて新種の蜂蜜を製造したのです。ところが、あろうことかスズメバチのバカは、房総の裏山を飛び交いドクダミの葉やトリカブトの根っ子から蜜ならぬ毒液を集めて来たのです。知らずに製造してローヤルゼリーとして食べた結果、膵臓が破裂して悪性の糖尿病を患ってしまいました」


「マジで言ってんのか」


「こらしめの為に、くちばしをへし折ってやりました」


「何のために市役所に電話したんだ……。膵臓が破裂したわりには首周りから下腹までずいぶんと栄養が行き届いているようだが、蜂蜜だけじゃそうも見事にふくらまないだろうよ。好きだけ肉食って、魚食って、甘いもん食って、浴びるほど酒飲んで贅沢三昧しなけりゃそれ程までの豪華な出っ腹にはならねえんじゃないのかい、あん」

 鉄仮面がとどめを刺すような口調で揶揄すると、乱漫丸は両手を胸に合わせて経を唱えた。


「ナンマンダブツ、ナンマンダア、ナンマンダア」


「この野郎、都合が悪くなったらお経を唱えやがって。その神聖な式場とやらで幾らふんだくってるんだい」


「はい。由緒ゆかしき本殿にて挙式を執り行いまして、境内におきまして食料持ち込みのバーベキューによる披露宴を行っていただきます。私どもとしましては、玉姫殿の半分程度の謝礼をいただくだけであります」


「何だこら、元手いらずのぶったくりじゃねえか」


「とんでもありませんぞ。山林で捕獲したトカゲの尻尾やコウモリの唐揚げくらいはご提供いたしておりますぞ」


「ひでえ坊主だな。生きとし生けるものはハエや蛆虫でさえも殺生しないのが仏の道、坊主の掟だと小学校の先生が教えてくれたぞ」


「ついでながら、我が寺院では台所用浄水器も販売しておりまするぞ。ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダ」


「なにが浄水器だ。包丁と俎板まないたも売ってるんじゃねえだろうなあ。あんたも坊主の端くれなら、ありがたい説法の一つや二つくらいわきまえているだろうよ。退屈しのぎに聞いてやるから話してみろや」

 

 鉄仮面の揶揄を助け舟と受け取った天竺和尚は、両腕を大きく広げて天井に視線を移した。


「おお、その殊勝な心掛けこそが信心悟道への救いの道。人すべからく業に従い罪を犯せば罰に処されるべし。背徳があり堕落があり、裏切りがあり欺瞞がある。天あり地あり生あり死あり。けがれた魂が宿命に逆らえず業の重さに耐え切れずに罪を犯す。誰の事でもありませぬ、あなたの事ですぞ、コホン。神の御前に伏して祈りを捧げ、懺悔ざんげ解脱げだつによって極楽浄土へ旅立つのです。聞かせてあげましょう、一人の青年の話を。何もかもに恵まれた男が罪を犯した。大自然に抱擁される生命の掟を無視して、神のそしりを畏れぬ大罪を犯したのです。昔々、ある町に、一人の青年がおりましたとさ。天は人に二物を与えずと申しますが、彼を見れば神も仏も夏目漱石も驚愕の余り腰を抜かして便秘も二日酔いも吹き飛ばしてしまうに違いありません。まず、知能に恵まれておりました。彼はトンビがクルリと輪を描くのを見て日の丸の国旗をデザインしたのです。旭山動物園のペンギンの歩行を見て夢遊病を発見しました。さらに彼は晩秋の侘しさを憂い、ゲーテの詩を朗読しながら赤や黄色の落葉を集めているうちに、赤タン青タン猪鹿蝶いのしかちょうでお馴染みの美しい花札を発明したのです。それだけではありません。何と、蚊とハエとゴキブリと蜘蛛を交合させて、世界で最初のカハエブリクモを生み出して大金を手中に納めたのです」


「ちょっと待て、こら。そんな虫が世界のどこに生息しているんだ。何でそんな虫で大金を手にできるんだ。そもそもいつの時代の何者なんだその青年は」

 

 並外れて世間の常識からはみ出した鉄仮面でさえも、絶対について行けそうもないハッタリの数々に業を煮やして突っかかったが、もはや妄想の底なし沼を徘徊する乱漫丸には通用しない。鉄仮面のヤジをさらりと無視して話は続く。


「彼は武道においても天賦の才を発揮したのであります。剣道百段、真剣白刃のツバメ返しの技をもって百万人の兵が立てこもるドラキュラ城から白雪姫を救い出し、ケンカ空手二百段の荒業をもってマダガスカルのゴジラと闘い、北極海を望むツンドラの平原に於いては柔道五百段の豪腕をもってキングギドラを一本背負いで投げ殺したのです。スキーをさせれば八甲田山の頂上から樹氷超えの三回転半ジャンプを見せ付けるし、北極から南極までの太平洋縦断の遠泳では得意の猫掻きでサンマもシーラカンスも追いつけなかったという話です。彼の芳顔を表現するならば、イケメンとハンサムとダンディーをたして2で割って聖徳太子に砂糖をまぶして3をかけたような後家殺しとでも申しましょうか、神田のキャバレーでも西日暮里のピンサロでも決して彼を放っておく女など一人としておりませんでした」


「どんな顔だ、バカ。それでどうした青年は」

 鉄仮面はやけくそに鼻息で鼻毛を飛ばし、羅生門親分は投げやりに熱燗の焼酎をグビッとあおった。


「話に多少の誇張はありましたが皆の衆、要するに文武にたけて容貌に恵まれ、さらに大金を手にしてこれ以上の望みも欲もあり得ないはずの青年であることを皆様に分かりやすく説明したかったのでありまする。さて、そのように世に現存する何もかもに恵まれた青年が歳を重ねて壮年になった時、どうしても手に入れなければならない重大な事実に気付き、恐ろしい罪を犯すに至ったのです。人は生まれて死んで行く。業を背負い、宿命に従い、時に流され、老いさらばえた後に死んで行く。彼は老いて行くことを拒んだ。そうです、輪廻転生の掟を破り、死後の世界を金で買おうとしたのです。いや、永遠の生命を得ようとしたのです」


「皆まで言うな」

 羅生門親分が熱燗トックリを持ち上げて、乱漫丸の話を制するように声を放った。


「そこまで聞きゃあいくら勘のにぶいワシだって先は読めるぜ。昔なあ、西洋の映画で見たことがあるぜ。老人になったその男の脳味噌を取り出して、イキの良い若者に移植手術を施してよみがえろうってえ魂胆だろう。どうやらお前さんの大ボラも底が見えちまったようだなあ」


「げに素人の思考は愚かしい。脳が人体の一部である限り老いることに変わりはない。身体だけ若返っても脳はおとろえていくのです。そのうち痴呆になり、記憶を失くし、失禁を繰り返して息子の嫁に張り倒される。そも、人間は何で出来ているのか。五臓六腑と脳味噌と骨と筋肉と脂と皮で出来ている。それらの一つ一つは細胞という微小なタンパク質で出来ている。ならば、人が死に、火葬場の炎によって全てのタンパク質が燃え尽きるとともに全てが消えてなくなるのか。いな、さにあらず。脂質や糖質や生体物質がエネルギーとして合成され、さらに染色体と変態が交合され、ミトコンドリアと水戸黄門とミドリムシとゾウリムシと電気クラゲが合体した時に未曾有の精気を生み出すのです。人は脳細胞で物事を思考し判断し、神経細胞を通して筋肉を刺激し身体を動かす。ゆえに人の心は脳にあるのか。いな、さにあらず。血液は心臓から送り出されて全身を巡りまた心臓に戻る。心臓は脳の命令で動いている訳ではなく、自らの力で鼓動を続けているのです。人間の生命を支える機能であるがゆえに途方もない生気を内包しているのです。心臓移植によって命を取り留めた人間が、以前の臓器の持ち主の性格を現すという事例が多く報じられております。心臓に内包された生気が脳細胞や神経細胞を制御している証拠なのです」


「ちょっと待ちなよ」

 鉄仮面がステテコの中に手を入れて、股ぐらをボリボリ掻きながら顔をしかめる。


「その青年が心臓移植を繰り返して千年も万年も生き延びたってのかい。天竺さんとやら、教えてやるぜ。心臓移植の手術を受けて長生きをしたってえ話はな、近代医学のアメリカだって、中世のヨーロッパだって、中国四千年の漢方の歴史をひもといたって、吉川英治の三国志全八巻を読んだって出ちゃあいねえよ。それにオメエ、心臓だって身体の一部だから脳と一緒に老いるじゃねえか。どうやって永遠の命を得られるんだよ」

 愚説を一蹴するかのように天竺は、人差し指を口先に立てて十字を切った。


「心臓移植でも脳の移植でもありませんぞよ。大自然の摂理、大宇宙の原理、永遠の生命の掟を無視して彼は魂の維持を図ったのです。もう一人の自分を創るために自らの塩基配列を操作して遺伝子の組み換えを行ったのです。そうです。転写結合の技術をもって遺伝子のクローンを再生したのでありますぞ」


「もう一人の自分を創ったら、それは自分じゃなくて他人じゃねえか。自分はどうなっちまうんでい」

 鉄仮面が吼えた。


「さよう。自分を抹殺することによって自分を新たに甦らせるのです。ナムアミダブツ、ナンマンダ」


「ナンマンダじゃねえよ、何だか良く分からねえが、成功したのかいその青年は」


「むろん。何を隠そう、そうして甦ったのがこの私ですぞ、コホン」


「おい、みんな、バカバカしいから寝ようぜ。タコの世迷いごとをいつまでも聞いてたらこっちまでタコになっちまうぜ」

 鉄仮面は言い放って布団の上に転がった。


「そういう化け物みたいな人間ならこのワルサーP38で撃ち殺しても死なねえかもしれねえなあ。一発試してみるか」

 羅生門親分が枕元から取り出した拳銃の安全装置をコチンとはずして天竺の眉間に照準を合わせた。


「あ、ワッ、や、やめて下さい。ワッワッワッ。えっ、な、何ですと、私の金色の袈裟を貸してくれと言われるのか。何に使うのですか。あ、わ、分かりました、袈裟でも十字架でもローソクでも何でも貸しますから銃口を下げて下さい」




<タツ婆さんの死>


 夕刻を過ぎた頃、八号室の出入りが慌ただしくなった。心臓がかゆいと呟いていたタツ婆さん(前編「心中未遂と片恋慕」を要熟読)が、突然下血して危篤状態に陥った。


 内科病棟一の長期滞在といわれるタツ婆さんは、糖尿病だとか白血病だとか結核だとか腎不全だとか、いや、慢性子宮癌だ、エイズだ、アルツハイマーだと様々に噂されながら本当の病名を知る者は誰もいなかった。

 同室の患者たちは、間仕切りのカーテン越しに医師や看護師の動きを静観していた。しばらくして健太郎少年が様子を窺いに行った時には、すでにタツ婆さんは息を引き取っていた。

 

 内科病棟では十三歳の健太郎は子供扱いなので、女性患者たちが入院する大部屋へも天下御免の出入が認められ、と言うよりも、誰も咎める者がいないので勝手に出入りしていた。

 

 そのうちぞろぞろと集まった親族たちの会話に耳を澄ますと、老婆の死を悲しむどころか安堵して喜んでいるではないか。

 そういえば、生前にタツ婆さんは愚痴っていた。幸せになろうともがけばもがくほど運命の階段を踏み外して奈落の底へとずり落ちていく。山の向こうに幸せがあると人が言うから山を越えたら鬼がいた。生きている事の意味も分からずに生きていた。必死で育てた子供たちも大人になれば屁理屈を垂れて牙をむく。さんざん苦しみながら年老いてようやくここまで辿り着いたんだ。私は老人ホームなんかへは行かないし家へも帰らない。みんなに囲まれてここで死にたいんだとうすら笑っていた。

 

 病院なんかじゃなくて畳の上で死にたいとは思わないのかと尋ねたら、畳にも色取り取りの模様があるから、針の山や牢獄のような畳の上で毎日寝起きするよりも、暖かい人の温もりの中で最期の時を過ごしたいだけなのさと悲し気に呟いていた。甘い物は食べられないから箱ごと持ってお行きと言って、純白の髪を梳きながらお見舞いで届けられたカステラやゼリーを箱ごと渡してくれた。

 

 タツ婆ちゃんは、本当は老人ホームへ行くのが嫌だからここにいたのだ。医師がいて看護師がいて若い患者たちもいて自由な温もりを感じたかもしれない。だけど、病院という閉鎖された檻の中で、はたして本当に幸せな夢を見られたのだろうか。婆ちゃんは天国へ行けたのだろうか。天国で幸せな夢を見られるのだろうか。

 

 健太郎の報告を聞いた鉄仮面は、タツ婆さんが天国へ行けるように供養をしてやらねばならないだろうと、天井に紫煙を吹き上げながら皆にけしかけていた。


 

 病院の夕食の時刻は早い。運動もしないで安静に寝て過ごすだけなので、胃が萎えてしまって胸やけが食欲を封じ込める。


「おい健坊、これを食え」

 隣のベッドから鉄仮面が使い捨てライターであぶった海苔を健太郎に手渡す。受け取った海苔を破いてご飯にかぶせて包むようにして口に放り込む。おにぎりのようで煮込み野菜の切れ端でも添えれば少しは食が進む。

 

 窓際の羅生門親分はご飯にたくあんをのせ、ポットで熱燗にした日本酒をぶっかけて箸で喉に掻き込んでいた。

 

 天竺和尚は何やら怪しげな粉末を袋から取り出して、ご飯に振りかけて美味しそうに頬張っている。隣のベッドの朝比奈に粉末を差し出してしきりに勧めているのだが、黒紫色に濁った不気味な色合いに怖気おぞけを感じて朝比奈は頑なに拒んでいた。

 

 夕食が終わり、見舞いの客や親族たちが引き上げると廊下に足音が途絶えて病棟は本来の静けさを取り戻し、長療養の患者たちは不安な神経を揺さぶられながら夜を待つ。

 最後の検温が終わって消灯の時間になると、夜勤の看護師が病室を巡回して明かりのスイッチを落として行く。

 

 

 廊下に看護師の足音が聞こえなくなったのを確認して、暗闇の中を鉄仮面が起き出し動き始めた。ベッドに足を取られて「イテッ」と叫んで向かいのベッドに倒れ込む。

 

 いきなり鉄仮面に覆いかぶさられて、体重をもろに受け止めた朝比奈が「ウギャ」と悲鳴を上げて仰け反った。それが合図であるかのように羅生門親分がむっくりと起き上がった。

 

 健太郎少年は眠ることを諦めていた。今日は迂闊にもたっぷりと昼寝をしてしまった。絶対安静こそが闘病回復の術だと厳しく言われたけれど、昼寝をすれば眠れない夜が長く辛くなる。そんな時はいつもナースステーションに行って不眠を紛らす。

 健太郎はベッドから降りて、そっと扉を開けて廊下に出ると、ペタリペタリとスリッパを鳴らしてナースステーションへ向かった。


「麗子……」

 入口から顔だけ出して覗き込む健太郎に、看護師の桜川麗子が振り向いて口を尖らす。


「何しに来たんだよ、消灯時間も過ぎたのに」

「トイレのついでに立ち寄ったんだよ」


「あんたねえ、トイレは九号室の向かいでしょ。何でわざわざここまで出向いて来るんだよ」

「月の光が明る過ぎて眠れないから、添い寝して子守歌の一曲でも歌ってくれよ」


「今日は闇夜だよバカ。どこの月が明るいんだよ。師長さん、どうします、このバカを」

 テーブル越しの肘掛椅子に腰かけて書類に目を通していた師長の藤巻竜子は、ゆっくりと顔をあげて健太郎に目配せをする。


「まあいいさ、眠れないんだろ。こっちへ座って、そこにあるメロンパンでも食べなさい」

 健太郎はテーブルの椅子に腰を下ろすと、メロンパンをちぎりながら気になっていた事を師長の藤巻に問いかけた。


「タツ婆さんは何の病気だったの?」

 あどけない少年の口から問いただされたような切り口に一瞬ひるんだ表情を見せた藤巻だが、しばらく逡巡したのち口を開いた。


「年を重ねて高齢になるとね、頭も体も衰弱してしまって、いろんな病に侵されるのさ。タツさんはねえ、心臓も足腰も丈夫だったけど、どんな丈夫な臓器を持っていても孤独という病にはもろいのさ」


「孤独という病気で死んだのかい?」


「そうだねえ、孤独という盾が打ち寄せる怒りや憎しみにくじけてしまい、悔しさや悲しみや惨めさに負けてしまって身体中の細胞が壊れてしまったんだよ」


「タツ婆さんは誰かを憎んでいたのかい?」

 藤巻はテーブルから上体を起こし、腕組みをして健太郎を凝視する。


「タツさんはねえ、戦時中に中国の満州で息子を出産し、終戦直後に旦那は銃殺されてしまったのさ。それから食うや食わずの死に物狂いで日本に引き揚げて来たものの、生きていく為には身を落としてでも金を稼がなければならなかった。一人息子を一人前に育てる為に、後ろ指を指されても誹謗され中傷されても歯を食いしばって頑張った。おかげで一流の大学まで行かせてやれた。ようやく見栄を晴れると喜んだのも束の間で、息子は自分の物じゃなくなった。息子が見初めた女性は同じ大学の同級生で大企業の役員令嬢だった。その女が嫁になってからタツさんの地獄が始まったのさ。孤独とか鬱屈とかいう悪魔が牙をむいてタツさんに襲いかかって、いろんな病気に見舞われたんだよ。分かるかい?」


「その嫁が悪い女だったのかい?」


「悪い女じゃないよ、どんな嫁だってね。良家のご令嬢と頑固な姑の戦いなのさ。宿命だねえ。健坊も大人になって結婚したら分かることさ」


「ふーん」

 納得できずに健太郎が言葉を継ごうとしたら、ナースステーションのカウンターから声が掛かった。




<葬儀社の営業>


「皆さま、深夜勤務ご苦労さまでございます。健康長寿葬儀社でございます。あ、これは師長さんも、天国印の棺桶最中をお持ちしましたので、皆さまでお召し上がりください」

 師長の藤巻が顔をあげて対応する。


「こんな夜中に手土産下げて営業とはご苦労だねえ。それにしても、ハイエナが死臭を嗅ぎ分けて獲物を狙って集まるようにタイミング良く現れるねえ」


「そんな、師長さんも口が悪い。夜中の勤務は大変ですから、甘味を身体が求めるって言いますからお口汚しにお持ちしました。ああ、そこの坊ちゃん、線香味の塩饅頭でもいかがですか」


「ダメだよ、この子は急性腎臓病なんだから塩分禁止だよ」


「ああ、それならば、カルシウムのたっぷり入った骸骨がいこつせんべいはどうでしょう」


「変な物食べさせるんじゃないよ。あんた、仏に用があって来たんじゃないのかい。地下の霊安室で眠ってるよ。会って来るかい」


「いえ、滅相もありません。明日の早朝に搬送させて頂きますから。それより師長さん、ちまたの噂を耳にしたんですけどね、三途の川葬儀社と喪主の間で頻繁に金銭トラブルを起こしているそうじゃありませんか。突然の臨終に落ち着いて判断ができない遺族の目の前で、遺体をさっさと運び出して高い請求書を突き付ける。怒った遺族が苦情の矛先を紹介した病院に向けて、事務局も師長さんも巻き添えにされて迷惑しているそうですよ」

 他社の悪評をひけらかして顧客にへつらうのは営業の常道だからと承知して、看護師長の藤巻は眉も動かさず気にもしない。


「あんたも、他人ひとの事は言えないんじゃないのかい。棺桶の蓋を透明ガラスにして売りつけたから、焼き場で骨を拾うのにガラスの破片が邪魔になって大変だったって遺族の老婦人が愚痴っていたよ。九谷焼の骨壺も色鮮やか過ぎて墓に収めるのか、床の間に飾れば良いのか迷っているとも言っていた。死者をダシに奇をてらった商売をして儲けようなんて考えるんじゃないよ」

 ポケットからハンカチを取り出した葬儀社の男は、首を縦横に振りながら額の汗を拭う。


「いやあ、私たちも生き残りをかけて知恵を絞りませんと、消費者の方々に見放されてしまいますもんでねえ」


「消費者ってあんた、死人だよ。病院の玄関で死にそうな患者を相手に棺桶の前売りセールをしようって魂胆じゃないだろうね。防災グッズとか万一の常備品だとか言って」


「とんでもありません。これからはAIの時代ですから。この先団塊世代の人たちが高齢を迎えて孤独死が増えていくって見込まれていますからねえ、わが社も知恵を絞って色々と研究開発を進めておりまして」


「何を研究しているんだね」

 興味を抱いてくれた様子の藤巻師長に、葬儀社の営業は得意げに胸を張った。


「はい、棺桶の中で添い寝するダッチワイフのロボットを各種研究しておりまして、それはもう精巧な動きを極めたカラクリで、はい」

 藤巻師長の眼がつり上がり、メスと注射針をつかんだ腕を看護師の麗子が必死に押さえつけていた。


「気が狂ったのかい、あんたの会社は。棺桶の中で死人に何をさせる気だね。その気になって死者が生き返ったら責任とれるのかね、あんた。そんなもの売りつけたら、永久に出入り禁止にするから覚悟しなさいよ」

「あ、や、や、や……」




<深夜の徘徊>


 極楽安楽病院の一階受付ロビーの一角に、用務員の休憩所を兼ねた小さな警備員室がある。

 白髪初老の夜勤警備員は、定時巡回の前に夜食を済ませてしまおうと、コンビニで買ってきたざるそばの封を切った。

 

 窓ガラス越しに薄ぼんやりと透けて見える深夜の表通りに人影は無く、時折、貨物トラックのヘッドライトが揺れて通り過ぎるだけだった。水銀灯の弱々しい明かりに桜並木がくすんで見える。夜陰の冷気を拒むかのように小さなつぼみが頑なに花弁を閉じている。

 

 警備員は帽子を脱いで椅子に投げ出し、細い白髪を指先ですきながらソバ麺に箸をつけて口に運ぶ。机上に置かれた携帯ラジオが午前零時の時報を告げた。

 最後の一箸を付け汁と一緒に喉に流し込んで一息入れると、魔法瓶に入れてきたインスタントコーヒーをカップに注いで口に運んだ。

 おぼろ月夜に星影も無く、なま暖かい空気が病棟全体を包んでいた。今夜は何となく不穏な予感がして、どうも気が乗らないなと思いながらも警備員は懐中電灯を持って椅子から立ち上がった。

 

 警備員室からロビーを抜けて外来の診察室や検査室を巡回したのち、裏口前の階段から地下へと向かう。

 深夜の院内の廊下の中でも霊安室のある地下の通路はことさら陰惨として不安をあおる。病室で命を絶って、行き場を失った霊魂がさまよう死霊の道だと考えるから、さらなる怖気がよぎり不安をつのらせる。

 

 足早に通り過ぎようとした警備員は、霊安室の扉がわずかに開いていることに気付いてドキリとして歩みを止めた。耳を澄ますと部屋の中から呻くような声が聞こえる。呪文のような、念仏のような、不可思議に異様な声が聞こえる。

 不治の病の末期で夜中に臨終を迎える患者も多い。そのような場合、死体は葬儀屋の棺桶に納まる前に霊安室で一夜を過ごすことになる。もしかして、今夜も峠を越せずにこの世を去った患者がいたのだろうか。それにしても、遺族も看護師も出入りのない真っ暗な霊安室で、いったい何者が何をしているというのか。

 深夜の霊安室に潜むとすれば、最近頻発して問題となっている病室やロッカーを荒らして金品の盗みを働くコソ泥か、さもなければこの世に恨みを残して三途の川を渡りきれずにさまよっている死者の亡霊か。

 そういえば、今日の夕刻に老婆が亡くなって霊安室に運ばれたと聞いた。九十歳を越えて大往生だと交代の警備員は話していたが、よもや霊魂がさまよっているのではなかろうか。

 

 初老の警備員は立ち去りたい気持を必死で踏ん張り、ベルトから抜き取った警棒を右手でしっかりと握り締めて霊安室の扉をゆっくり開いた。

 ストレッチャーに乗せられた遺体が部屋の中央に安置されていた。はためくローソクの明かりを背にしてゆらりゆらりと黒い小船のように揺れていた。くぐもった呪文の声は、遺体の裏側から聞こえてくる。


「そこに誰かいるのですか? ご遺族の方ですか?」

 警備員が声をかけると奇妙な声はピタリと止まった。

 息を殺してじっと待ったが何の物音も聞こえてはこない。保冷された空気がヒヤリと喉元をかすめた。緊張の余り室内灯を点けるのも忘れ、懐中電灯を照らしながら震える足をジワジワと前に進めて遺体の白布で覆われた顔面を覗き込んだ。

 以前に看護師から聞いた話を警備員は思い出していた。死んだばかりの遺体の肺から空気が漏れて、ブツブツと鳴る音が念仏を唱えているように聞こえることがあると。確かめてみようと遺体の口のあたりに頬を寄せて耳をそばだてた。

 

 羽がこすれるほどの音にハッと気配を感じたその瞬間、ローソクの炎が揺れて遺体の反対側から三体の影が立ち上がった。とっさに懐中電灯を照らして物体の正体を視界にとらえた警備員は、恐怖の悲鳴を上げる猶予もなく泡を吹いて硬直して悶絶して倒れてしまった。


「おい、卒倒しちまったぜ」

 ねじり鉢巻の額に十字架を十本はさみ、ステテコ腹巻の上に金色の袈裟を肩からかけて、わら人形と五寸釘を手に持って立ち上がった鉄仮面が胸で十字を切りながら囁いた。


「まずいですよ。警備員じゃありませんか。警察に通報されてしまいますよ。早くここから出ましょうよ」

 神主の衣装にどくろ彫りの大数珠を首から提げて、四谷怪談お岩の絵ローソクを持ってたたずむ朝比奈が、昏睡状態の警備員の顔を心配そうにのぞき込んで急き立てる。


「おう、タツ婆さんはワシらの祈祷できっちり成仏したようだし、次は外科病棟を訪問して術後の患者たちを慰安してやろうじゃねえか、あん」

 銀糸のステテコに金色の袈裟懸けをして口に聖書をくわえ、位牌と熱燗トックリを持った厳つい顔の羅生門親分が酒臭い息を振りまきながら促した。

 

 この世のものとは思えない、夜中に鏡で見れば本人でさえ卒倒してしまいそうな三体の姿を目の当たりにした初老の警備員は、悶絶した悪夢の中で三人の悪魔に追いかけられてうなされていた。

 鉄仮面がドアから外を覗いて目配せをする。静まり返った地下の廊下に人影はない。階段を上がり、一階のロビーを抜けてまた階段を上がって外科病棟の通路を覗くとナースステーションのライトが見えた。


 

 胃の全摘手術を受けて麻酔から醒めたばかりの男性患者は、細いゴム管を鼻の穴に突っ込まれ、点滴の太い針を足首の血管に突き刺されたままベッドの上で考え事をしていた。

 勤務先の定期健診で胃の再検査を指摘され、病院の外来に来たらいきなりガンだと宣告されて手術をされた。

 気の小さいその男にとってガンの告知は辛かった。せめて胃潰瘍が悪化して緊急に手術の必要があるくらいに言ってくれれば思い悩むことも無かった。

 ところが、洋行帰りの若い医師は、欧米ではガンの告知は当然だと言わんばかりの強腰で、家族の承諾もなしに本人に告げてしまった。ガンは死ぬ運命と認識しているその男にとって、ガンの告知はどんな慰みを言われても死の宣告と同じであった。

 それでも手術を受けるまではまだ他人事のような気がしていたが、オペが終わって麻酔から醒めてしまうと、死に直面しているという現実が恐怖と絶望感を呼び起こし、助けを求めて叫び出したいような戦慄に襲われる。

 

 神でも仏でもお釈迦様でもイエス様でもマリア様でも誰でも良いから救って欲しいと願う反面、目をつむった瞼の裏に去来するのは、恐ろしい死神の跋扈ばっこと地獄の閻魔の姿であった。

 胃の一部でも半分でもなく、全部摘出しなければ駄目だと医師は言った。抗ガン剤治療とも放射線治療とも言わなかった。それはすでに、他の臓器にもガン細胞が転移している可能性が高いということではないのか。いや、きっとそうに違いない。来月には肝臓を、また一ヵ月後には心臓を丸ごと摘出しなければならないのだ。

 

 妻をめとり、子供に恵まれ、今日まで順風満帆に平穏無事に生きて来られたというのに、大三元と国士無双を続けて振り込みドラが二百個もついてしまったような晴天の霹靂へきれきのごとくに人生がひっくり返ってしまった。死にたくはない。もっと生きたい。

 明日の朝になれば若い医師が来て言うだろう。手術は成功しましたと。嘘だ。胃の摘出手術には成功したかもしれないが、ガンの摘出など出来はしないのだ。ああ、死神が自分の命を捕らえるために、すぐ目の前までせまっているのだ。いやだ。それでもまだ死にたくはないのだ。

 

 その時、病室の扉が音も無しにスーと開き、暗闇の中に薄青白い火の玉が揺れた。男は眼球だけを動かして怪しげにゆらめく火の玉の後方を見た。その刹那、男の目玉はデジタルカメラの十倍ズームのように三十センチほど顔から飛び出した。

 悪鬼のような厳つい顔つきをした死神が、死霊に呪われた霊魂を見詰めるように男の顔を覗きこむ。その横に、十字架を額に据えた四角い顔の閻魔大王が頬骨を怒らせて睥睨するように立ちすくむ。そして、地獄の火の玉を操る怪しげな神主が闇にただよう。

 男は恐怖のあまり全身を痙攣けいれんさせて、鼻の穴からゴム管を吹き飛ばし、足首の点滴を思い切り蹴飛ばして、死神から逃走したい一心から失神してしまったことは言うまでもない。


「イデテテテテテテ」

 朝比奈が、お岩の絵ローソクを振り回して叫び声を上げた。

「うるせえなあ。静かにしろ、真夜中なんだから」

 鉄仮面が怒鳴った。


「て、点滴の針が僕の鼻の穴に突き刺さったんですよ。鼻の穴からブドウ糖の液が、ががが」

「やかましいなあこの野郎。この十字架で引き抜いてやるからこっちを向け。オットットット」

 鉄仮面は点滴用の支柱につまずいて、思い切り前のめりに倒れてしまい、隣のベッドのパイプに肋骨をゴゴツツンと打ちつけた。

 

 

 震度8.5の地震と勘違いして眼を覚ました隣のベッドの老患者は、白内障の瞼をこすって目の前を見た瞬間に、己の運命の尽きたことを悟った。

 悪性の腫瘍に冒されて膵臓と盲腸を切り取られ、さらに小腸と肺と心臓を切り刻まれて気力だけで息をしていた老患者は、ついに天国へ行く時が来たのだと往生を決めた。

 

 十字架と聖書と位牌となぜかワラ人形とトックリまで持ってたたずむ二人の坊主と、大数珠を首から下げて火の玉を掲げた神主を見て、神と仏が迎えに来たのだと老人は納得した。そして、やおらベッドから起き上がった老人は、覚悟を決めたかのように口にくわえていた酸素吸入器を天井に向けて吹き飛ばし、右腕の血管に刺さった点滴の針を引き抜いて枕にブスリと突き立てた。


「老人の様子が何だか変ですよ。放っておいてもいいんでしょうか」

 ヨタヨタヨタタとベッドから降りて、すがりつくように両手を差し伸べてきた老人の挙動をいぶかるように朝比奈が動揺した。


「見ろ、ワシらのおかげで元気を回復したようじゃないか。見舞いの祈祷に来たかいがあったというもんだぜ。親分の念仏もいよいよ神の域に達してきたようだねえ。やおよろずの神仏の効能はさすがだねえ」


「ウムム、身体中の血が騒いで燃えてきたぞ。五臓六腑に神の気迫が染み渡るってのは、この事かもしれねえなあ」

 鉄仮面と羅生門親分の能天気な会話に朝比奈が口をすぼめる。


「僕は何だかとても悪い予感がするんですが」


「やかましい。ガタガタ抜かすんじゃねえぞ。ワシらは人助けをやってるんじゃねえか、そうだろう。金閣寺の袈裟の効能もまんざら捨てたもんじゃねえな。おう、次はどこへ行くんだ」


「うん、婦人科へ顔を出さない訳にはいかんでしょう。ご婦人方に義理を欠いてしまったんじゃあ、後々までも言われちまうからねえ」

 鉄仮面はベッドのパイプで打ちつけた肋骨をなでながら、絵ローソクを手にした朝比奈を先に行くように促した。

 ステテコ袈裟懸けの坊主が二名と神主が、一名のヨタヨタの老患者を従えて外科病棟の病室を出た。


 

 翌日の朝、極楽安楽病院のあちこちで奇声が発せられた。廊下やトイレや霊安室に重体の急病患者が発見されて、看護師や医師が担架をかついで顔色を変えて走り回っていた。

 

 胃の全摘手術を終えた患者が仮死状態で死神と戦っているようだとか、婦人科の病棟で外科病棟の老患者が行き倒れか野垂れ死にしているのではないかとか、腸ねん転を起こした婦人患者の腸が子宮に巻き付き、膀胱がひきつけを起こして肛門がふさがれてウンチが出ないから手術をしてくれと叫んでいるとか、整形外科病棟の骨粗鬆症の老婆の背骨が複雑骨折を起こして、レントゲンを撮ってみるとピカソとミロの抽象画になっていたとか、さらに、霊安室から運び込まれた初老の警備員はCTとMRIと脳解剖の検査の結果、電撃的悪性ショックによる精神分裂ではないかと診断されて、精神科医と脳神経外科医が互いに治療を譲り合っていた。

 

 ナースステーションの呼び出しコールは間断なく鳴りひびき、おかげで外来患者の診察が後回しにされ、さんざん待たされて激怒した患者たちが待合室でバリケードを組み、ロビーはシュプレヒコールの渦につつまれ騒然となっていた。


 

 大会議室に各科の医師や看護師長が呼び集められて緊急対応の協議が行われていた。患者たちの一命は何とか取り留めたものの、一夜にして何ゆえにこのような非常事態が生じたのか、深夜の看護態勢に不備はなかったかを指弾された。

 しかし、患者たちの行動を判断するに看護態勢の問題ではなく、患者自身の突発的と思われる不可解な病的現象であると各病棟の師長たちは反論した。

 患者の家族には内密にして、しばらくは病棟の監視体制を強化して様子を見ることにしていただきたいと、副院長の言葉で早々に会議は終わった。

 

 第二内科病棟看護師長の藤巻竜子は、会議テーブルの上に置かれたワラ人形と、五寸釘と、見覚えのあるトックリ一本を、脂汗を浮かべながら毛細血管ぶち切れの燃えるマグマの眼差しで凝視していた。それらは緊急患者の病室や廊下で発見された不審物として提出されたものであった。

 大会議室を出た藤巻師長は手術室に立ち寄って、百万グラムの麻酔液と直径五十センチの注射器を両手に抱え、点滴用支柱をガラガラと引きずり第二内科病棟九号室へと向かった。

 

 九号室はいつものように平穏で、善右衛門はキャップに注いだ養命酒をゆっくりと口に含んで平和を噛み締めるようにかすかな酒精を愉悦していた。

 健太郎少年は食欲を促すために読書をやめて、ベッドにうつ伏せになって平泳ぎと腹式呼吸を繰り返していた。

 昨日入院したばかりの天竺和尚は洗顔を済ませて胡坐あぐらに座し、乾布摩擦をしながら般若心経を唱えていた。

 鉄仮面と羅生門親分と朝比奈の三名は、深夜徘徊の心地良い疲労感にひたってぐっすりと熟睡を享受していた。

 

 突然、ドガーンと雷神も腰を抜かすような轟音とともに九号室の扉が蹴飛ばされて開かれた。

 善右衛門は驚いてキャップの養命酒を口に入れる代わりに目玉に注ぎ、健太郎は危険を察知して布団にもぐり、天竺和尚は石の上に三年座った達磨のように乾布摩擦をしたまま全身が固まった。

 熟睡中の三名はいきなりの雷音に目を覚まし、仁王立ちの藤巻師長を認めて背筋を凍らせた。罰を受ける理由は無いはずだと思いながらも布団にもぐり込み、狸寝入りを決め込むことにして成り行きをうかがった。


 火薬をぎっしり詰め込んだ花火大会の尺玉が、シュルシュルシュルルと天に向かって昇りつめて弾ける瞬前のように、藤巻師長は怒りを押し込めた声を静かに絞り出した。


「夢遊病者もアルツハイマーも顔負けの真夜中の院内徘徊ご苦労さん。おかげで病院中は博多のドンタクも京都の祇園祭りもリオのカーニバルも顔色無しの底無しの騒ぎで賑わってるよ。ここはね、患者さんの病気を治療して健全な身体になって帰っていただく病院であって、病気を複雑難解にして再起不能の絶望の奈落に落とし入れる所じゃあないんですよ。ちゃんと聞いてるのかこら」

 

 朝から何が起こっているかを知らない九号室の面々は、タツ婆さんの霊魂の祈祷と患者たちの慰安のために病棟を回っただけなのにと思いながら布団の中で身じろぎもせず、藤巻師長の怒りの矛先に耳を凝らした。


「真夜中の霊安室で死体を相手に何をやらかしたんだ、あんたらは。棺桶をこじ開けて、死体に酒を飲ませて、おにぎり食わせて、瞼をこじ開けつけまつげしてマニキュアまでして、タツ婆さんは生けるゾンビじゃないんだよ。今朝がた遺族がやって来て腰を抜かして、慌てて棺桶の蓋に釘を百本打ち付けてガムテープでぐるぐる巻きにして、そのまま火葬場まで直行したよ。死人の眠りを妨げて、天国へ行くはずの魂が地獄に落ちたら責任とれんのかねあんたたちは。責任を取れるかって訊いてんだよ、あーん」

 

 一呼吸置いて怒気を抑えた藤巻師長は、大地震の前触れのような剣呑なセリフをボソリと吐き出した。


「先程、脳神経外科の教授が来てね、内科に放置しておくには勿体無いから、あんたたちの身柄を是非とも預かりたいって頼み込んで来たよ。非常に珍しい思考回路の持ち主だから、頭蓋骨をかち割って脳の構造を覗いてみたいって。人類の歴史を知る上でも貴重なサンプルだから、四、五日貸してくれないかって。きっと元通りにして返せると思うから頼むって院長先生も頼みに来たけど、あたしゃ、きっぱり断ってやったよ。そんな事をしたって人類の為にも世の中の為にもなりゃしないってね。頭を切り開いて脳味噌ほじくるよりも、一生眠らせてやった方が社会の為にも本人たちの為にもなるって啖呵を切ってやったのさ」


 手術室から引きずって来た点滴用の支柱を固定して、そこにぶら下がっている液袋に注射針を突き刺した。リンゲル用の極太注射器に薄紫色の薬液が吸い込まれて満杯になる。


「特上の麻酔薬を注射してやるから布団をめくって尻を出しな。一年間ゆっくり冬眠してもらいますよ。何も食わなくたって飲まなくたって心配なんかいらないよ。一年間分の栄養剤を点滴してやるから腕を出しなよ、大動脈にぶち込んでやるから。その前にこの誓約書に一筆入れてもらうよ。万一冬眠に失敗して永久に冬眠することになった場合でも、一切異議申し立てを致しませんってね。グズグズするんじゃないよ、布団の上から突き刺されたいのかい」


 布団の上から腕やら首やら心臓やらを注射針でブスブス突き刺された三名は、血だらけ薬液まみれになって口もきけずにアルマジロのようにベッドの上に転がっていた。

 

 善衛門と健太郎は布団の中で嵐の治まるのをそっと待ち、天竺和尚は布団の隙間から凄惨なありさまを息をひそめて窺いながら、念仏とコーランを唱えて指で十字を切っていた。

 

 春のうららかな陽光を浴びて輝く第二内科病棟の屋根の上では、昼食の残飯を狙ってカラスたちがアホーアホーと鳴いていた。



次の話は、演歌歌手の苦悶と九号室の狂気

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