88話:愚痴
食事を終えて、帝国を見渡すことのできるバルコニーでひとしきり考えを纏めたところで、高木は大きく伸びをした。
今後のことを整理していたのだが、色々とあって疲れが溜まっている。高木は風呂に入ろうと思って、廊下に戻り、たまたま歩いていた若い女中に声をかけた。
「すまんが、風呂ってあるのか?」
「え、ええ。もちろんで御座いますが……入浴の儀は宵闇の鐘が鳴ってからという規則が……」
「……風呂に入るだけで儀なのか。その儀とやらは良いから、風呂に入りたい」
「し、しかし……まだ湯女の用意が……」
湯女とは、江戸時代において垢すりや髪すきを銭湯で行っていた人間のことである。ただ、高木の知識には他にも、湯女がいわゆる風俗嬢としての側面を持っていたことも含まれている。
「……つかぬことを聞くが、湯女とは背中を流してくれるだけなのか?」
「いえ、その……諸々を」
若い女中は頬を染め、そそくさと立ち去った。流石は帝王である。入浴中とて色事を欠かさぬとは、英雄色を好むとは言い得て妙だ。
王女フルーデリヒの厳命により、高木の身辺警護の者は信用できるらしく、入浴中に暗殺と言うこともなさそうである。ここは一つ、湯女の準備を待って帝王としてのハクをつけるか、ぐっと我慢して、さっさと汗を流してしまうか。かなりの難問であった。
うんうんと高木が真剣に考えていると、追いかけてきたのだろう。フルーデリヒが後ろから近づいてきた。
「マサト君。入浴の儀ですが、私にお任せください。お世話させていただきますわ」
「……は?」
「王族は本来、身の回りのお世話などは使用人に任せますが、私は自分でやりたい性分でして……夫婦ですもの。初夜の前に他の女性に触れられたくありません」
頬を桃色に染めて、フルーデリヒははにかんだ。
そういえば、妻になるとか言っていた。形式上のものであると思っていた高木は、いくらフルーデリヒが自分を恨んでいなくとも、夫婦らしい営みをするなどと考えてもいなかった。
正式な結婚式などしていないし、高木もするつもりはないのだが、ある意味で今日は初夜とも言える。
「ぼ、僕も自分のことは自分でやりたい性分でな。風呂ぐらい一人で入れる」
「では、一緒に入りましょう」
夫婦なのだから、一緒に入ることは全然問題ないとフルーデリヒは主張する。まったくもってその通りであり、非常に魅力的なお誘いでもあるのだが、問題は当然ながらフィア達である。
このままでは、やっとこ我慢してフィアに手を出さなかった苦労が水の泡だ。フルーデリヒの胆力や頭の良さでは、フィアのように寝た振りで誤魔化すこともできないだろう。
ちなみに、フィアと床を共にした夜、高木は一睡もしていない。寝た振りは隠れた高木の特技であり、内心で必死に煩悩と戦っていたのである。
「む、むむぅ……帝王の娘というので箱入りかと思いきや、中々先進的な考えだ。おかげで調子よく国を乗っ取ったが、あなどれんな」
「はいはい。いいから行きましょう」
フルーデリヒが案内がてら、高木の手を取って帝王専用の浴場へと案内する。先進的な上に強引で豪快である。このままではせっかく守った貞操を奪われかねない。
僅か半日で、フルーデリヒは高木との関係の主導権を握っている。高木の持論に、人間関係は先に主導権を握った者の勝ちだというものがあるが、フルーデリヒには王宮という地の利と、彼女無くしては高木が帝王たり得ないという、人間関係どころか絶対的な主導権が握られているのだ。仮に彼女がひとたび離縁するとでも言えば、高木の手を離れ、地下牢に幽閉されているリガルド三世が救出され、高木は即刻打ち首確定である。
「初対面の男と裸同士の付き合いは、少々はしたないと思うのだが」
「初対面でも夫婦でしょう。国を守るには子が必要です。言わば、子作りは帝王の使命と言えましょう。フィアさん達も、側室として迎え入れては如何でしょうか。私の後であれば、何も言いませんよ?」
例によって、この手の話題で高木は口で勝つことができない。厳然たる事実も重すぎた。
その側室の一人に数えられているであろうひとみとは、フルーデリヒよりも先を行っているのだが、それをここで宣言するのもアホらしい。
「煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」
「あらあら。それは私の台詞ですよ。どうぞ、御自由にお召しませ」
くすくすと微笑みながらも、高木を覗き込む目は妖艶で、思わず今すぐに召し上がりたくなるような色気がある。胸は小さいのに、と高木は脳内で呟いてみるが、その小さな胸が好きな高木なので、逆効果であった。
結局、帝王専用の浴室まで高木はフルーデリヒに連れられてきた。脱走しようと逃げたところ、フルーデリヒが「帝王を捕獲しなさい」と声を上げ、近くにいた衛兵が数人がかりで高木を捕獲。帝王の威厳もへったくれも無く、フルーデリヒに引き渡された。
「城は私の家ですよ。逃げても無駄です」
えらい嫁さんを貰ってしまったと、高木が再び頭を抱えたのも仕方のないことであろう。
これで高飛車だったり不細工だったりすれば、高木もその本領を発揮して、フルーデリヒを従順なお人形さんのように扱うこともできたのだろうが、基本的に夫を立てる方針のようで、絶世の美女なのだから手に負えない。
「さあ、お召し物を脱がさせていただきますね」
「いやいやいや。自分でやる。自分でやるから!」
「そう遠慮なさらずに。夫婦なんですから、脱がし合いっこをしましょうよ」
「ぎゃーっ、やめろ。やめれ、やめんか!」
不可思議な三段活用をしながらも、高木は割と素直に服を脱がされていく。美女に備わった、マナとは全然関係ない魔力は恐ろしいもので、脱がし合いっこの響きにわきわきと高木の指が動いた。
ああ、このままでは耐えがたきを耐え、堪えがたきを堪えてきた分、暴走してしまう――
高木が勢い余って、服を脱がすのではなく、押し倒すためにフルーデリヒの肩を掴んだときであった。
「破壊光線」
最強の魔法が高木の髪先をジュワっと焼いた。
びっくりして尻餅をつくフルーデリヒに、高木は自分の髪の毛のことなどすっかり忘れて、安堵の溜息を吐く。
今まで何度も恐怖の対象として君臨してきた破壊光線であるが、ここまで頼もしく見えたのは初めてのことである。
「良かった……ひとみ、助かっだアッ!?」
思わず元・最愛の恋人に駆け寄ろうとしたが、高木の髪が再び破壊光線に貫かれる。
なるほど、確かに主導権という一点では完璧にフルーデリヒのペースであったが、状況的に押し倒されかけていたのもフルーデリヒである。
つまり、この状況は最悪の展開であった。
「どうせ、こんなことだろうと思ってたけどね」
ひとみが元恋人にして、現リガルド帝王と、その妻であるフルーデリヒを正座させて説教を開始したときには、騒ぎを聞きつけたフィアやエリシア、レイラも揃っていた。
「わ、私達は夫婦なのですから、何も間違ったことなど……」
「うん。間違ってないけど、場所を弁えようね。ここはお風呂に入るために、服を脱ぐところであって、それ以外に使っちゃ駄目」
「ここは、帝王専用の浴室ですよ。どう使おうと、帝王の勝手です」
「じゃあ、王女様が勝手に使っちゃ駄目だよ。理屈で言えばそうだよね、聖人?」
「えー、あー、はい。そうなりますね」
高木に対しては完璧な主導権を握っていたはずのフルーデリヒだが、ひとみに対しては全然主導権を握れない。何故か。
理由の一つとして、ひとみもまた高木同様に異世界の人間であり、王族だと言われてもピンと来ないことがある。お姫様だろうが王女様だろうが、基本的に人間に違いない「人間皆平等」という現代の基本的な考え方を持つひとみは、あくまでも同年代の女の子に対して接している。
また、いくら高木に対して主導権を握っていようが、ひとみは長く高木の支配権を獲得していた少女である。主導権と支配権の重みの差も、年期の差も圧倒的にひとみが優位であった。
最後に、世界最強の魔法使いとしての絶対的な武力である。いざとなれば「破壊光線」と呟くだけで、フルーデリヒをさっくり殺すこともできてしまう。強者に怯えるという動物的で根源的な恐怖が、フルーデリヒの勢いを完璧に封殺していた。
「それを言えば、帝王の友人である皆様方もまた、勝手に立ち入ってはなりません」
「聖人、いいよね?」
「はい」
高木の返事は早かった。怒ったひとみに高木が立ち向かえるのは、高木も怒っているときぐらいである。恋人という関係が消えても、弱肉強食の関係は維持されているのだ。
「ちょっと、マサト君。帝王なんですから、威厳を……」
フルーデリヒが高木を見るが、高木は既に諦観しているのか、首を横に振った。
「威厳なんて示してみろ。あの光線で僕の頭が禿げ上がるぞ」
上手いことちょんまげのような形にしてくれれば侍らしくもなるが、どう考えてもそれを通り越して坊主になってしまう。
昔の日本人はとっても賢かったので、禿げ隠しをヘアスタイルに取り入れている。ちょんまげにすれば額が広がっていくデコッパゲも、頭頂部から抜け落ちていくテッペンハゲも隠せるのである。側面まで禿げが侵攻すれば、思い切って出家してしまえばいいのだから、まこと都合が良い。
高木はまだ出家するほど世を儚んでいない。いずれは抱えるかもしれない毛髪の危機であるが、二十歳を超えない内から悩みたくはなかった。
「……ふむ。とりあえず、ここに入って良いのは僕だけという結論に至ったわけだが。聞くところによると、湯女は入っても良いそうじゃないか。だとすれば、僕が許可すれば誰だって入れるという話だな」
高木は極力、ひとみを刺激しないようにしながらも言葉を紡ぐ。
こういう展開は既に経験済みであり、自ずと対処法も見えてくる。後ろでフィアが「またなの!?」と声を上げているが、こうなってしまった以上、高木としても遺憾ながらそうするしか道はない。前回と違うのは、王宮にはマナがあるということだ。
「ひとみ、悪いが元の世界で人数分の水着を用意してきてくれないか。風呂は広いし、みんなも風呂に入りたいだろうし丁度良い」
「……それって、聖人がそうしたいだけじゃないの?」
せっかく出した妥協案が、ひとみに一蹴される。
普段ならば、ここで高木はすごすごと引き下がるのだが、流石に疲れていたのだろう。さっさと風呂に入りたかったし、何よりも四人でも難儀していたのが五人に増えたのだ。これはもう、ちょっとしたストレスの種である。
ひとみが高木に起きた微かな変化に気付いたときにはもう遅かった。
――怒ったひとみに対抗できるのは、怒った高木ぐらいのものである――
「帝王になったから偉くなるわけではないし、今までの経緯を鑑みるに、フルーデリヒがいきなり間に飛び込んできて、気が立っているのも仕方がないと思うが、別に怒られる謂われなど無いだろう。そもそも別れを告げたのはひとみであり、特に裏切ったわけでもない。そもそも説教という行為自体を僕は疑問に思う。ただ、そこは今までの経緯もあって素直に聞いていたし、謝ろうとも思っていたが、何とか良い方法をと無い知恵を絞って出した案を一蹴するとは、おいそれと頷ける行為ではないな。しかし、逆説的に考えるならば、ひとみならばさぞかしこの事態を丸く収められるということだ。わざわざ説教までしてくれて、よほど効果的な解決方法があるのだろう。勿体つけずにとっとと教えて貰おうか」
ひとみが「やばい」とでも言わんばかりに焦るが、もう遅い。
高木の怒り方は、直情的にブチ切れるならば対処できるが、ねっとりと静かに怒った場合は、ひとみには対処不能なのである。
「大体、僕にも僕なりの倫理観や、恋愛観はある。だからこそ、どうすることもできない気持ちを抑えようと必死の努力を続けている。そりゃあ、そちらも辛いのだろうが、こっちだって十分辛いんだ。男だから我慢せねばと思っていたが、そちらが女を盾に嫉妬の心を前に出すというのならば、こちらとて容赦はしない。ロクにモテず、こういう事態に全く不慣れで相談できる相手も居ない状況で、僕がどれだけ神経をすり減らし、あまつさえ帝国乗っ取りに至ったかを全て聞かせてやろうじゃないか。僕の思考の全部をだ。三日は続くぞ」
実に男らしくない、ぐだぐだとねちっこい言葉責め。それが高木の怒り方であった。
基軸に感情があるために、理論性にも欠けてツッコミどころも多いのだが、言葉を操るのに長けた高木は、ひっきりなしに言葉を繋げ、口を挟む余裕すらみつけられない。かつてひとみはうっかり「オタク趣味ってちょっと気持ち悪い」という発言をしてしまい、天衣無縫のオタクである高木が数時間、ひたすらにオタクと呼ばれる人間の多様性と、彼らが創造する物語が時として多大なる感動を与えることなどを語りまくった。
おかげさまでひとみは、全く生活に必要のないオタク論と、オタク知識がけっこう身についてしまっている。
なおも延々と喋り続ける高木に、ひとみが仕方なく項垂れていく。迂闊に反論しようものならば、高木の言葉が数時間単位で伸びてしまう。
思わぬ形勢逆転にフルーデリヒもほっと安堵するが、高木は途端にくるりと振り返りフルーデリヒを見た。
「大体だな、フルちゃんにも問題がある。妻だか嫁だか知らんが、初対面で脱がし合いっこは無いだろう。風俗でもあるまいし、本来ならば夫婦たるもの、きちんと順序を経て絆を深めていくものだ。初夜は兎角、色々とあるだろう。お互いの身の上話をしたり、手を繋いだり、唇を交わしたり。順序を守れ、順序を!」
よもやの飛び火である。帝王たる威厳とはやや違うが、この圧倒的な威圧感は生半可ではない。なるほど、流石は帝国を一瞬で乗っ取った男である。貫禄も十二分に備わっていた。
嬉しいような、だがこの状況は辛いという複雑な思いを薄い胸に秘めながら、フルーデリヒはひとみと同じく、項垂れるのであった。
高木の愚痴とも説教とも魂の叫びともつかない言葉が五分ほど続く中、様子を見守っていたフィアとレイラ、エリシアはこっそりとこの状況を打破すべく作戦を練っていた。
とりあえずまだ被害は無いが、この調子ではいつ飛び火してくるかわかったものではない。しばらく話し合っていると、方針が決まり、フィアとレイラに策を授けられたエリシアが、きりっと眉をしかめて意を決すると、とことこと高木に近づいていった。
「マサト、マサト」
「む、エリシア。すまんが今は大事な話をしている。せっかくだからエリシアも聞いていけ」
「けど……私、お風呂に入りたいな。ね、一緒に入ろうよっ!」
エリシアは上目遣いで、高木の腕を手に取って可愛らしくお願いした。
これぞ、フィアとレイラが練った最上の策である。単純にして明快。それでいて高木に最も効果的なのは、エリシアのおねだりである。
全員に優しい高木ではあるが、とりわけエリシアに対しては甘々であることを、フィアもレイラも承知している。お互いの命を助け合い、異性としてだけではなく兄妹愛に近いものを持っている高木は、エリシアに怒ったことがない。それどころか、エリシアのお願いは無理を承知で聞いてしまう。
ただでさえ、エリシアと一緒にお風呂となれば、高木にとっても嬉しい話だ。それを他ならぬエリシアが可愛らしくお願いしているのである。
「よし、じゃあ早速入ろう。ひとみ、水着の用意だ。レイラ、ひとみに帰還用の結晶を渡してやれ。これで向こうの世界でも魔法が使えるだろう」
案の定、高木の変わり身は早かった。流石に今度はひとみも素直に従い、レイラも手早く胸の谷間から結晶を取り出してひとみに渡す。
フルーデリヒはその様子をぼんやり眺めながら、静かに溜息をついた。
彼女たちと高木の間に今まで起こった出来事など知るよしもない。だが、既に自分がその輪の中に必要ないほど、強い絆で結ばれていることがよくわかったのだ。
ひとみが魔法で元の世界に戻っていく様子を見ながら、いっそうその思いを強める。人間が瞬時に消え去る様子を見て、如何に自分がッ彼女らとかけ離れた存在であるかすら、知らしめられてしまった。
思わずがくりと項垂れるフルーデリヒに、ふとフィアが近づいた。
「ねえ、お姫様。こう言っちゃアレだけど、マサトにそんなにこだわる必要あるのかしら。ちょっと隙を突いて、私達を捕らえるように命令するだけでお終いなのよ?」
「……私には、自分で夫を決める権利はありませんでした。たとえ、あのような状況であっても、私に選択することができたのです。それだけで、私は嬉しい――」
お姫様なりの悩みだったのかも知れない。フィアはやれやれと嘆息しながら、そっとフルーデリヒの肩に手を置いた。
「……ほんっと、我ながらお人好しなのかしら。どうせマサトは一人を選ぶつもりなんて無いし、良いんじゃない。今更一人増えたって、そう変わりゃしないわよ。混じっちゃいなさい」
一国の姫君に対しての態度ではない。高木やひとみは異世界人ではないが、フィアはれっきとしたリガルド帝国の国民である。フルーデリヒを敬う必要があった。だが。
「私はマサトの魔法の師匠よ。旦那の師匠に敬意ぐらい払ったってバチは当たらないでしょ。ほら、わかったなら返事する!」
「は、はいっ!」
リガルド帝国第一王女フルーデリヒ・リガルド。十七歳。
人生で初めての友達を得た瞬間だった。
(`・ω・´) ←エリシア
(´・ω・`) ←ひとみ