82話:春風
「厄介な約束をしたわねえ」
「そう怒るな。人が死なないほうが良いのは確かなことだ」
エリシアと別れ、部屋に戻った高木を待ち構えていたのはフィアだった。用件は高木が魔法を使えなくなった理由についてであったが、難しい顔をしてブツブツと呟き続ける男に、甲斐甲斐しく研究の成果を発表してやる気にもなれない。問い質してみると、エリシアの為に誰一人死ぬことなく、帝都を攻略すると言い出すのだから、気が触れたのかと思ったほどだ。
「どうするつもりよ。戦闘が避けられないから、戦争になるんでしょ?」
「だから、考えているんじゃないか。発想を逆転させて考えれば……」
「無理よ。どう考えても無理に決まってるわ。歴史が証明してるじゃないの」
フィアがお冠になるのも、当然と言えば当然である。血が流れないで済むのであれば、過去の戦争の全てが考え無しの馬鹿馬鹿しい喧嘩に成り下がる。高木がいくら優秀な頭脳を持っていたとしても、それだけでひっくり返すような場面ではなくなってしまっているのだ。
「エリシアの気持ちもわからなくもないけど、ここまで来てそれを言うのもおかしいわよ。私だって、私なりに覚悟してるの。エリシアを戦場から遠ざけたら良いじゃないの」
「……僕の身を案じての言葉だからな。今更、エリシアを安全な場所に移したところで変わりあるまい」
「じゃあ、マサトも逃げなさいよ。オルゴーを帝都に引き入れればいいんでしょ。ファウストもショックもいるし、それぐらいできるわよ。魔法も使えないマサトは、もう十分でしょ」
フィアの怒りに、優しさが混じっていることが高木にはよくわかっている。高木がいざとなれば人を殺す覚悟を固めている横で、フィアもまた、その魔法で人を殺す覚悟を決めていたのだろう。そんなこととは無縁の、掃除屋として気ままに暮らす人生だってあったはずが、いつの間にかこんなことになっているのだ。
「首謀者が逃げるわけにもいくまい。大丈夫だから、安心しろ。僕にもフィアにも、人を殺させたりはしない」
高木が呟くと、フィアは処置無しとでも言わんばかりに、マナを集め出した。高木には見ることも叶わないが、長い付き合いである。フィアがマナを集めるときの仕草で、すぐに理解が出来た。
「マサトは嘘つきよ。何度騙されたか数え切れないぐらい……その舌、切り刻んであげようかしら」
「……この至近距離だ。魔法を使えない僕でも、後ろに回り込んで胸をまさぐる程度はできる。悪戯されたくなければ、マナを解放することだな」
高木のややゲスな言葉に、フィアはその様子を想像したのか、目を吊り上げる。しかし、それでもマナを解放することはなく、集中を高めていった。
「なんだ、揉まれたいのか。それじゃあ遠慮無く……」
「別に良いわよ。その代わり、こっちも遠慮しないわ」
フィアの言葉に、高木は伸ばしかけていた手を引っ込めた。
違う。切り刻むつもりではない。フィアが練っているのは、あの恐ろしい氷の刃ではない。
「傷物にされる責任は取ってもらうわよ。レイラにもエリシアにも手の届かない場所で……まあ、ヒトミとも殴り合いじゃ負けないでしょうし」
「……転送魔法か」
「ええ。大人しく元の世界で待ってなさい。ヒトミに呼び戻されちゃ敵わないから、後でヒトミもきっちり送ってあげる」
言ってしまえば、これはフィアの切り札だった。
現在、召喚魔法を使うことが出来るのは、フィアとひとみだけである。高木とひとみを元の世界に帰せば、フィア以外に連れ戻す手段は無くなる。シーガイアにまだ残っていたいと思う高木には有効な手段であった。
「揉むだけじゃ寂しいでしょうから、抱いたっていいわよ。その代わり、二度とこの世界には来させない」
「……エリシアといい、フィアといい。もう少し、自分の身体を大切にしろ。交渉の道具じゃないし、僕だってそんな道具扱いした身体を抱いたところで、楽しくも無い」
高木はげんなりした調子で呟いて、鞄からノートを取り出した。
これから、一切の血を流さずに国を一つ奪わねばならないのだ。考えなければならないことは山ほどあった。
フィアはそれでもマナを四散させずに、じっと高木を見ていた。この唐変木は、女を一体何だと思っているのだろうと考えると、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
「私もエリシアも、身体を道具になんかしてないわよ。それぐらい気付きなさい、バカ」
「今、まさにしていただろうが。好きな男ならいざ知らず、旅を続けてきただけの僕に抱かれたいとでも言うのか?」
苛立つようにノートを乱暴に開き、フィアを睨みつける。しかし、すぐに己の失言を恥じた。
フィアの泣きそうな顔を見て、高木は言葉を失った。
「……本気で言ってるなら、それこそ切り刻むわよ」
長い旅と言って、語弊があるのだろうか。
一年にも満たない期間である。それでも、十七歳の高木達にとってその期間は決して短いモノではない。
寝食を共にして、言葉を交わし、背中を預けてきた存在が「ただ旅を続けてきただけ」と言うはずがなかった。そんなことは、他ならぬ高木自身の胸の内に問いかければわかることだった。自分だって、旅の中でフィアに惹かれる部分があったのだから。
「……いよいよ僕は駄目だな。ここまではっきりと浮気性だとは、自分で自分が信じられない。ひとみ一筋だと、ずっと思っていたのだがなあ」
高木は諦めたように溜息をついて、がくりと肩を落とした。
オルゴーとの約束と、エリシアの約束。この二つだけならば、無血開城で済む。
しかし、フィアはその無血開城なんて無理だからやめろと言う。いよいよ、高木の選択肢は消えていく。
「後はファウストに任せなさいよ。ここまでやって来たんだから、オルゴーだってとやかく言わないわよ。別に雇われてたわけじゃないんだし、義理は十分果たして、義務も無いでしょ」
フィアが心配してくれているのはよくわかった。性格上、自分の気持ちを伝えるのにどれだけ躊躇したのかは、推し量ることすらできないが、それでも脅してまで高木に提案しているのだ。生半可な気持ちではない。
「……だが、男が一度決めたことを諦めるのは駄目なことだ。こうなれば仕方あるまい。どんな手を使ってでも、こちらの世界に戻ってくることにしよう」
高木は大きく息を吐いて、フィアを見た。
フィアの気持ちは、高木にとって素直に嬉しかった。だが、やはりオルゴーとの約束を覆すことなどできないのだ。それがたとえ、しがない口約束であっても、男同士の約束を破っていては、信念もクソもない。サムライ以前に男として失格である。
「すまんな。エリシアの願いは叶えられる範疇だが、フィアの願いは無理そうだ。方法なんてちっとも思いつかないが、僕の世界から魔法を使わずにこっちに戻る手段を探してみる」
「……男の約束って、ほんと馬鹿馬鹿しいわね。理屈屋に理屈を無視させるんだから」
フィアは諦めたように呟いて、上着を脱いだ。思わずぽかんとする高木の前で、靴下を脱ぎ捨てていく。
「……何をしている?」
「マサトが言うこと聞いてくれないから、送り返すのよ」
「そこまでは理解できるが……いや、今までの話の流れからするに、フィアは苦笑して僕に『バカ』と言いつつも納得してくれて、事なきを得るはずだったのだが……送り返すにしても服を脱ぐ理由には繋がらんぞ?」
高木が慌てて椅子から立ち上がり、後ずさる。しかし、フィアは意に介さぬようにシャツをはだけ、スカートにまで手をかけようとしていた。
「ちょ、こら。人の話を聞いていたか。脱ぐな」
「でも、送り返す前に抱くって話じゃなかったかしら。これでも恥ずかしいし、初めてなんだから緊張してるのよ。男が慌ててどうするのよバカ!」
「バカはお前だ、この台風娘。抱いていいと言ったのはフィアだが、僕は抱くなんて一言も言ってない!」
フィアがほとんど半裸のまま、しばらく考えるように目を上に向けて、ようやく先ほどのやりとりを思い出したのだろう。突如として手近にあった枕を高木に投げつけ、大急ぎでシーツにくるまった。
「この変態っ! また騙したわねっ!!」
「ちょ、ちょっと待て。今回ばかりは騙す要素が一つもなかったぞ。自爆だ、自爆。勝手に早とちりして、しかも服まで手にかけて……こんなところをうっかりひとみにでも見られてみろ。もう復縁どころの騒ぎじゃ――」
高木のセリフを遮るように、扉がきいっと開いた。
大体、こういう場合にうっかり覗いてしまうのは間の悪いファウストか、最悪のタイミングとなるひとみであるが、幸か不幸か、両者ではなく、生真面目なショックだった。
「タカギ、行軍に関しての相談なのだが――おっと、これは失礼。夜伽の最中とはつゆ知らず。ごゆるりと」
深く関わらず、勝手に納得したショックが慌てることもなくそのまま、ぱたんと扉を閉じる。そして、わざわざちゃんと帰ったことを報せるためか、足音を立てて遠ざかっていくという気の使い方までしてくれた。
「……完璧に誤解されてしまった」
「ちょっと、マサト。早く誤解を解いて来なさいよっ!!」
「無駄だ。ここで弁明したところで『大丈夫、見なかったことにしておく』とでも言われて終いだ……やれやれ、仕方ないな。浮気者と戒めてきたが、別れてしまったのだから、操立ても必要ないし……」
高木は苦笑しながらも、学生服を脱いで、フィアに近寄った。シーツにくるまった――つまり、ベッドの上にいるフィアはしばらくぽかんと高木を見上げていたが、高木が意図するところを理解したらしい。顔を真っ赤にして、ばたばたとベッドの隅まで逃げるように這いつくばる。
「誘ったのはフィアだろうに。優しくしてやるから、そう怯えるな」
高木の手が、フィアの髪に触れる。
優しく髪を梳く指に、フィアは少しだけ緊張を解いた。望んでいなかったと言えば嘘になってしまう。高木の目がフィアの顔を捉えると、それだけで肩の力が抜けていく。
「……なんか、すごく勢いに飲まれてる気がするんだけど」
「安心しろ。その感覚は間違っていない」
全然安心できない言葉を吐きながらも、高木の手が、ゆっくりとフィアの頬を伝い、肩に下がっていく。
フィアはきつく目を閉じながらも、シーツを掴む指の力を少しだけ抜くのだった――
黒衣のサムライは純情な少年を主人公に据えた健全な小説です。