71話:百出
「フィアはマナを集め続けろ。ひとみは僕の鞄から教科書を。ファウストは清潔な布と水を。早くしろ!」
高木の怒号は突然だった。しかし、瞬時にファウストは駆け出し、フィアはマナを集める。ひとみは既に高木の学生鞄に手を掛けていた。
エリシアの呼気は弱々しく、ヒュウヒュウという短い音が聞こえる。腹部の傷からは血が絶え間なく溢れ続け、周囲に血の池を作り出していた。
「ふッ――ふッ――」
高木は荒げる呼吸を抑えながら、フィアが集めたマナを受け取り、エリシアの傷口に近づける。
「どうするつもり?」
「魔法で治療する」
フィアの問いかけに、高木は静かに答えた。
やるしかなかった。未だかつて、誰も為し得ていない完璧な魔法。
解けない魔法である。しかも、肉体の錬成という初めて経験する内容で。
現代の病院には間に合わない。輸血のための機材もない。高木に残された行動は、マナしか無かった。
「人体の主な構造は水が七割。血液、タンパク質――」
知りうる限りの情報を、とにかく拾い集める。ひとみは高木の行動を理解したのか、生物の教科書から、人体の構成や模型絵。さらに科学の教科書の原子を調べていく。
「タンパク質は四つの構造からなっている。その本質はアミノ酸のポリマーで――」
人体を構成する物質を、全て調べねばならない。わからない箇所は、高校の教科書に掲載されている範囲の知識で補う。
それらを模型絵を参考に、人体として構成して、傷口にはめ込む形で魔法として錬成する。高木の持つマナの量では、ほんの数グラムの肉体しか構成することは出来ない。しかも、たかだかの知識で行う錬成であるから、もっても数秒だった。
「ぬ、う……」
錬成した次の瞬間から消えていく作られた肉体。エリシアの傷口は塞がるはずも無かった。
それでも高木は耳でひとみの伝える知識を理解して、目でエリシアの傷口の状態をさらに観察していく。マナに集まるように念じ、その状態でさらに錬成を続けた。
血液。タンパク質。それだけでは駄目だ。細胞として活動する状態でなければ、単なる肉の塊でしかない。血液の流れを作るためには血管として機能しなければならず、タンパク質も筋肉や皮脂と、役割毎に構造も違えば、幾層にもなっている。
全てを完璧に頭の中で理解して構築するなど、不可能に近い。しかし、そうしなければ、エリシアは死ぬ。
耳から聞こえる知識を、あらかじめ幾つにも並列で作り上げている構築に組み込んでいく。頭の中に細胞の構造や、血の濃度から構成物などの、ありとあらゆる情報が並んでいる。
目から得るエリシアの状態と、錬成が不十分でマナに戻っていく肉塊が、それぞれまた別の情報として、高木の脳の片隅に書き加えられていく。
同時に一つや二つのことを考えることなど、平時でも出来る。しかし、それでは足りないのだ。
十、二十、三十。異なるプロセスの独立した情報群を、脳のいたる箇所を使って、同時に動かしていかねばならない。当然ながら、人間の限界に挑戦するような行為であった。
「ぐ……」
高木の口から、本人も気付かぬうちに苦悶の声が漏れる。
脳を酷使しているのだ。既に己の身体の異変を感知するような余裕は、全て肉体錬成のために使ってしまっている。喘ぐように息を吸ったのは、脳でそうすべきだと判断したのではない。肉体が脳を介せずに、生きるために勝手に行ったことだった。
エリシアの傷口を覆うように作り上げた肉片が、その姿を維持している時間が少しだけ延びはじめていた。しかし、それよりもエリシアの呼気はさらに弱々しくなり、部屋の中にマナを充満させ終えたフィアが、エリシアの手を握った。
ひとみもまた、口で教科書を読みながら、頭ではどのような情報が必要かを考え、目の端に映る情報を頼りに、積み上げられた教科書から、必要なものを選ぶ。ファウストは布と水を運び終えると、エリシアの流れ出る血を指につけて、高木とエリシアを囲むように血文字で円を描き始めた。マナの変化を微かながら高める魔法陣である。即席であり効果は薄いが、ほんの少しでも高木の助けになるはずだった。
高木がしようとしているのは、未だにこの世の誰もが成功させたことのない、人体の錬成。そして、やはり誰もが為し得ない、完璧な変化。
マナが元に戻らない、完璧な変化をすることは理論上、可能とされている。しかし、どれだけの年月をかけても、魔法使い達はそれを今まで成功させたことがない。
前人未踏の二つの問題。それを、高木は同時に達成しなければならなかった。エリシアの命の灯火は、既に消えかかっている。
高木はさらに、エリシアの傷口から溢れる血を指ですくいとり、ぺろりと舐めた。
鉄のような、生臭い味。情報を体感することで、イメージのレベルは一気に高まっていく。
二秒ほどしか持たなかった変化は、五秒を超えた。高木は自分の作り上げた肉体にかぶせるように、再び集めたマナで、さらに構築を試みる。エリシアの傷口が少しだけ塞がった。
しかし、それも数秒後には再び広がってしまう。
「マ……サ、ト……」
エリシアが、最後の力を振り絞るように、高木の目を見た。
額に汗を浮かべ、エリシアの言葉など少しも届いていないのだろう。息をすることも、今どこで、何をしているのかすら、高木は理解していない。ただ、必死に頭の情報を整理して、構築して、マナを変化させているだけだ。
エリシアの意識は既に混濁しており、濃いもやがかかっているような状態だった。それでも、高木の様子を見て、口元に笑みを浮かべる。
「……………」
口だけが、微かに動く。フィアが口の動きで、エリシアの伝えようとした言葉を読み取ると、エリシアは満足したように頷いて、そっと目を閉じた。
エリシアの心臓が、動きを止める。弱々しかった呼吸も完全に消え、ぴくりとも動かなくなった。
「エリシアッ!!」
フィアがたまらず叫び、涙をぽろぽろと零しながら、何度もエリシアの名を呼んだ。
「死んじゃ駄目――エリシアはもっと、もっと幸せにならないと駄目なのよッ!」
悲痛なフィアの声にも、エリシアは何も応えない。
既に、エリシアは事切れていた。
「どいてッ!!」
ひとみが、フィアを突き飛ばした。
思いがけない強い力に、フィアが尻餅をつき、ひとみを睨もうとする。しかし、ひとみはフィアのことなど気にも留めておらず、エリシアの頭を抱えていた。
気道の確保。詳しい方法は、保健体育の教科書に掲載されていた。
「イチ、ニ、サン、シ、ゴ――」
エリシアの胸に手をあてて、力強く押す。そして、すぐにエリシアの口に自分の口をしっかりと当てて、息を吹き込んだ。
マウストゥマウス。死亡した直後ならば、まだ可能性はある。高木はエリシアの状態を確認する思考をやめ、構築と錬成にのみ集中していく。
悲しんだり、焦ったりする余裕すら、高木には残っていない。否、残していない。
錬成した肉体は、十秒ほど維持していた。高木はさらに、情報の更新をする。
生きている肉体ではない。既にエリシアは死んでいる。ならば、コレは生物ではなく、単純なタンパク質や水分などで構成された物質だ――
冷徹なまでの情報の単純化。それが加速度的に錬成の精度を上げた。今までの錬成は、この段階に辿り着いてから、蘇生の確率が高い五分間に、完璧な錬成を行うための準備に過ぎない。
高木がこの方法を思いついたとき、己の冷静さを褒め、そして心の底から呪った。
エリシアの死を前提に理論を構築するという発想に、吐き気さえ覚えた。しかし、生物というあまりにも多くの情報を抱えるものよりも、単なる物質の集合体である死体のほうが、どう考えても錬成しやすいのである。
都合が良かったのは、いざやるとなれば余分な情を感じる余裕すらなくなることだった。高木はエリシアの死を、単なるプロセスの一つとして捉えることしかできないほど、脳を酷使していた。
格段の精度上昇に、フィア達も高木の意図していたことを理解する。
高木は脳内を整理していく。今まで積み重ねた情報を統合して、一つの式としてまとめると、脳にスペースが広がった。
「……どうしても消えない、不純物たるマナ……どうすれば、消せる……?」
完璧な錬成など不可能なのか。そんな不安が、空いたスペースに割り込む。
高木は頭を振って、それを打ち消そうとした。しかし、一度抱いた不安は中々消えない。
やはり、余計な隙間をあけてはいけないのだ。消えないのならば、上書きして消さなければ。
「……上書き?」
高木の脳裏に、一瞬だが確実な光が見えた。
マナを上書きする。変化した後にマナが残っているから、魔法は解ける。
そう、不純物はマナなのだ。マナならば、それを変化させることができるはずだ。
高木は一本にまとめ上げた構築式を即座に呼び起こし、一気に錬成する。その間に、空いたスペースで同じ式を、並列で呼び起こしていた。
一度目の錬成で作り上げた肉体。そこに含まれるマナで、さらに肉体を錬成する。
「まだ、余っている!!」
脳内に幾つもの同じ構築式をコピーして、再び並列処理を開始する。十回ほど重ねがけをすると、うまく魔法が発動しなくなった。しかし、マナはまだ微かに残っている。
「……微量過ぎるマナ……うまく、変化してくれないか」
「概念魔法!!」
高木の呟きに、フィアが怒鳴るように声を上げた。
微量過ぎるマナでさえ、発動する魔法。高木がこの世界で生きるために身につけた魔法である。
「それだッ!!」
高木は普通の魔法と同じ構築式で、概念魔法を発動させた。しかし、上手くいかない。
「違う……肉体という概念は既に完成している。必要なのは……エリシアッ!!」
肉体という概念ではあれど、それがエリシアの肉体であると定義しなければならない。
それは確証のある答えではなかった。しかし、もう迷っている時間はなかった。
「エリシア……エリシアッ!!」
高木の脳裏に、これまでの出来事が蘇る。
走馬燈にも似た、思い出の数々。
エリシア・フォウルス。彼女のことならば、高木はいくらでも考えることが出来た。出会ってから、色々なことをエリシアと共に乗り越えてきたのだ。エリシアはいつだって、高木の隣にいてくれた。エリシアのことを一番知っているのは自分だと、高木は自信を持って言えた。
微かに不完全だった、高木の作り上げた肉体がマナの姿に戻ろうとする。そこに、エリシアという概念がさらに補強を重ねた。
高木は両手にマナを分けて集め、九割方のマナで肉体を錬成して、残りでエリシアの概念魔法を錬成する。完璧な並行処理に、高木の脳が限界に近づいた。
普段、人間は脳の性能を三割ほどしか引き出していない。それを、自身の危機でもないのに、無理矢理十割の力で引き出しているのだ。そうでなければ、頭の回転が速いだけの高木が、同時に幾つもの物事を考えることなどできなかった。
頭が焼き切れるような感覚が高木を襲い始めていた。しかし、それを知覚することはあっても、それ以上の判断をするような余裕が脳に無い。
「エリシア――エリシアッ!!」
高木が叫ぶ。それは、おそらくは無意識の行動だった。
マナの保有量から、どうしても微々たる量の錬成しかできなかったが、それでもマナを集めながら錬成して、錬成を終えた瞬間から、集めたマナで次の錬成をしていたのだ。エリシアの傷口は、ほぼ完璧に塞がりつつあった。
「エリシアッ!!」
遂に、エリシアの傷口は塞がる。高木はエリシアの概念だけに集中して、ひたすら概念魔法を行使し続けた。
既に、エリシアが死んでから五分近くが経過しようとしている。高木は概念魔法を行使し続け、やがて、概念魔法がうまく発動しないことに気付いた。
「……これは、変化の依り代にしているマナが、無くなった……つまり、成功か」
高木は大きく息を吐いて、エリシアを見る。傷は完璧に塞がった。再び広がることはもうない。しかし、エリシアは目を覚まさなかった。
ひとみが懸命に蘇生法を繰り返す。しかし、エリシアの鼓動が、再び自らの力で動こうとはしなかった。
血の気の引いた、青白い肌。ぬくもりが消えつつある頬。ファウストは涙を流し、エリシアの手を握った。フィアも、ひとみも泣いていた。
可能性は、もう限りなくゼロに近い。ひとみの心臓マッサージも、次第に力が失われていった。
高木はひとみに代わり、エリシアの口に、自分の口を押し当てた。ゆっくりと、息を送り込んでいく。
既に頭はうまく回らない。だが、諦めることなどできなかった。
「エリシア……エリシアッ!!」
いつしか、高木の目にも涙が浮かんでいた。それが、高木の頬を伝い、エリシアの頬にぽたりと落ちた。
マウストゥマウスを繰り返す中、エリシアとの思い出が蘇ってくる。
「聖人……も、もう……」
ひとみが高木に、おそるおそる声をかけた。心臓マッサージと人工呼吸は五分を境に急激に蘇生の可能性が下がっていく。既に、心肺停止から、七分が経過していた。
ひとみの判断は間違っていない。高木に少しでも論理的な思考が残っているならば、これ以上が無意味であると諦めただろう。
高木は冷静だった。だが、決して諦めてはいなかった。
まだ――まだ、方法はある筈だ。
異世界に召喚されて、百の夜を越えた。その間、エリシアはずっと、高木の傍にいたのだ。高木のことを心から信じてくれていた。そう、エリシアは、高木が召喚された日から、ずっと高木と一緒だったのだ。
「召喚――!?」
それは、特に考えるという行為ではなかった。
気付けば高木はマナを集めており、既に考えるまでもなく、公式として確立されているモノを呼び起こしただけだった。
その対象が、肉体ではないということだけ。違いは、本当にそれだけだった。
「……異世界があるのだ。死後の世界だって、あってもおかしくはない。そう、ある筈だ!」
違う世界の存在を呼ぶことを、高木はできる。
エリシアの魂を召喚することだって、きっと、できる。
「帰ってこい、エリシアッ――!!」
高木の意識は、そこで途切れた。
高木がんばった。超がんばった。