60話:恋語
かたかたと揺れる馬車の御者席で、高木は気の抜けた欠伸をした。
既に慣れたはずの旅ではあるが、移動が最大の目的であり、自動車もバイクもないシーガイアでは馬車の移動速度が限界となる。
騎乗して走らせれば速度は出るのだが、馬の体力は決して丸一日走り続けるほどのものではなく、上に乗る人間とて、けっこうな労力である。長距離の移動ともなると、やはり馬車が最も効率的だった。
「こうやってると、元の世界の忙しなさが嘘みたいだね」
隣に座るひとみが、いつもよりもさらにゆったりとした調子で微笑む。
「まあ、学生の身分で忙しないと言っても、さほどのことではないのだろうがな」
高木は苦笑しながら、それでもひとみの言葉に頷ける部分があるのも確かだった。
勤勉な日本人は、朝起きてから夜眠るまで、基本的に何かしていないと落ち着かない。七時半に家を出て、夕方まで学校で勉強をして、帰宅するのが五時前。そこから就寝までの七時間ほどは、食事と入浴、宿題や予習復習に費やす。
高木の場合、食事は半時間で済ませ、風呂は鴉の行水。宿題はネット検索など、パソコンを駆使しつつ、予習復習は一切しないという徹底した勉強放棄によって、ゲームに読書、その他諸々の趣味の時間を大幅に取っている。しかしひとみは真面目な優等生であり、趣味の音楽鑑賞も勉強中のBGMとして同時並行で行い、料理は早起きして家族の朝食と弁当を作っていたので、実質、暇な時間など一日に一時間ほどであった。
高木にとって、趣味の時間は生きるために必要なものであり、そのための犠牲も覚悟はしているので、決して暇をしているわけではないのだが、やはり忙しいわけではない。
「今まで、暇じゃなかった?」
「否定はしないな。ただ、物思いに耽るには、実に都合の良い時間だった。ただでさえ、目の前にあるもの全てが新鮮で、物思い草に困ることはなかったからな」
「デートのときも、たまにぼーっとしてたぐらいだもんね」
「ひとみと一緒にいると、やはり全てが新鮮だったからな」
「……しばらく見ないうちに、そういう口も巧くなったね」
二人は微笑みあい、ゆっくりと穏やかに流れていく景色を眺める。
馬車の中からその様子を窺っていたフィアは、実に微妙な心境を胸に抱いていた。
「マサトとヒトミって、あんまり恋人っぽくなかったけど……こうして見てると、やっぱり恋人同士ねえ」
フィアの隣で文字の練習をしていたエリシアが、ふと顔を上げる。
確かに高木とひとみは、普段から特に恋人らしい仕草を見せることがない。手を繋いだところなどを見たことはなく、抱き合っているのもひとみが召喚されたときだけ。唇を重ねるわけでもなく、旅に出てからは触れてもいない。
「タカギ君はあれで純情なのでしょう。女性には指一本触れられない、とか」
ファウストが疑問に答えるように呟いたが、それをフィアとエリシアは全力で否定した。
ひとみが来る前までは、高木はフィアとエリシアの二人ともの膝枕を堪能しており、エリシアに至っては同じ毛布で眠っており、フィアも偶然とはいえ、胸に顔をうずめられたり、押し倒されたりしている。頭を撫でられるのはもう、ほとんど毎日であったといって良い。
「こっそり、逢い引きしてるのかな?」
エリシアが呟くが、今度はファウストが首を横に振る。
「タカギ君は夜中はずっと私と一緒ですし、昼間はこうして馬車の中でしょう。あまり考えにくいですね」
「……まだ交際して、日が浅いとか?」
「聞いたところでは、もう一年近くになるはずですよ。今更、恥ずかしがる間柄ということもないでしょう」
「……じゃあ、やっぱり我慢してるのかしらね?」
フィアが溜息をついて高木を見る。
あまり色恋沙汰に関心のない様子の高木だが、実際に超のつく美人を射止めている辺り、決して単なる朴念仁ではないと思う。
しかもその恋人と四六時中、ずっと一緒にいるのだから、若い男のサガとして、色々と耐え難きもあるだろう。指一本触れないというのは、むしろ異常の部類に入るのではないだろうかとさえ思えてくる。
「ファウストは、恋人と一緒だと、やっぱりくっついて過ごしたいよね?」
エリシアは男性代表としての意見をファウストに求めたが、実はファウスト、生まれてこの方、女性と交際した経験が無い。
根っからのナルシストであるファウストは、己の能力を高めることが生き甲斐でもあり、多くのナルシスト同様に盲目的であったために、優れた容姿を異性への武器としてではなく、自己陶酔のためにしか使っていなかった。内心で強い女性に憧れており、実はナンナはファウストの好みでもあったのだが、全く相手にされなかった挙げ句にヴィスリーにさっくりと奪われた。
「……お互いの気持ちが通じていれば、それが一番でしょう。たとえ身体は離れていても、心が繋がっていれば、それで満足です」
ファウストの童貞全開の回答に、しかしフィアとエリシアは「そうなんだ」と納得してしまった。
何と言うことはない。フィアもエリシアも男性との交際経験など無かったからである。
「ねえねえ。マサトとヒトミって、くっつかないの?」
夕食の際に、エリシアが正面切って尋ねたので、思わず高木は飲み込みかけていたスープをファウストに噴射した。
「と、突然に何を言い出すかと思えば……一体どうした?」
憮然とした表情で顔を拭うファウストを横目に、高木は珍しく慌てた。
「ファウストは心が繋がっていればいいって言ってたけど、せっかく再会できたんだから、それだけじゃ足りないんじゃないかなって思ったんだけど……マサトとヒトミは恋人だよね?」
「……改めて問われると、中々に気恥ずかしいのだが。少なくとも僕はそう認識している」
エリシアの直球に、高木は顔を背けながら答えた。ひとみも少し驚いたようだが、高木よりはいくらか落ち着いた様子で「そうだね」と短く頷いた。
「じゃあ、どうして何もしないの?」
純情無垢な瞳で問いかけるエリシアに、高木は狼狽えた。
エリシアは十四歳。確かに恋愛に興味津々という時期であり、質問の意図はよくわかるのだが、それでも答えにくい問題であることに違いはない。
「恋人同士って、色々とするんだよね?」
知識の薄いエリシアであるので、己の発言が高木に与えるダメージに、何ら気付いていない様子だった。
言葉の駆け引きにおいて妙のある高木であるが、騙し合いや裏を読んだりすることはできても、あまりにも真っ直ぐすぎる言葉には中々対処が出来ない。単純な構造のものほど強度が高いのは、モノも言葉も一緒である。
「ふむ。そうだな……」
高木は答える術を中々見つけることが出来ず、ひとみに目をやって助け船を求める。しかし、ひとみはにっこりと微笑み、言外に「自分で答えろ」という無慈悲なメッセージを送るばかりである。
フィアとファウストは、エリシアの発言の危うさに戸惑いながらも、迂闊な発言が自分の首を絞めかねないという判断をしっかりとしており、高木には申し訳ないと思いつつも、観衆として成り行きを見守るばかりである。高木の視線はあっけなく躱された。
「そういうのは、ヴィスリーのほうが詳しいのだが……ああ、今はいないのか。参ったな」
こんな状況ですらオールマイティであるヴィスリーも、現在は別行動中。ルクタならば良い逃げ口上を知っていそうだが、やはり彼女もいない。高木はしばらく考え込んだ後に、ゆっくりと呟いた。
「僕の世界では、恋人とはあまり積極的な触れあいを行わない」
「ケーイチとチハルは、私達の前でも割とべったりだったよ?」
高木の世界に既に経験済みのエリシアは、高木の苦肉の策である大嘘を、一発で看破した。
「あのバカたれめ……」
高木は親友に呪いの言葉を吐きつつも、誤魔化そうとしていることをエリシアに察知されてしまい、ますます窮地に立たされた。
高木としても、再会を果たした恋人と、言葉を交わすだけで満足しているわけではない。
しかし、それを言うことは、要するに「溜まっている」とか「お前らが邪魔でできない」という意味を暗に伝えてしまうことになる。決してエリシアをはじめ、フィアやファウストは邪魔ではなく、むしろオルゴー達の前から立ち去ったときに、ついてきてくれたことを感謝している。それでも、殊ひとみとの恋愛に関してのみに焦点を当てるならば、二人の時間が一切無いという状況になってしまうので、邪魔に違いはなかった。
高木は言葉を間違えないように、実に慎重に頭を巡らせる。エリシアは高木の邪魔になっていると少しでも感じてしまえば、とても落ち込むだろう。そうしないためには、上手く誤魔化してしまうしか無いのだが、恋愛方面の話題では高木の舌も回らない。
散々に苦心した結果、高木はふと妙案を思いついた。例によって発想を逆転させたのである。
恋愛についてではあれど、それを別の視点からの考察に変えてしまうのであれば、高木の舌は再びその動きを取り戻す。
「僕の世界には哲学という学問があるのだが、これは中々に面白いもので、全ての学問に通じるものとさえ言われている。これの面白いところは、答えがないのに学問として成立してしまうところでな。恋愛もまた、よく哲学の議題としてよく扱われる分野だ」
ぽかんとするエリシアに、高木はようやく本来の調子を取り戻して、朗々と語った。
「恋愛はとても難しい問題だ。僕にもおよそ、答えらしき答えは見つかっていない。だから、残念ながらエリシアの質問にもうまく答える術を持たない」
要するに、よくわからないという一言を長ったらしく説明しただけなのだが、それっぽく言われてしまうと、なんとなく納得してしまうのが人間である。
夜も更けて、女性陣が馬車に戻ってから、高木は地面にごろりと横になった。
「……逃げ口上としては、まあ、悪くないんじゃないでしょうか?」
ファウストが消えかかった焚き火を炎の魔法で復活させながら、木の枝を放り込む。
高木は短く「うむ」と答えて、大きく溜息をついた。
「まあ、恋愛などの心の機微に疎いのは確かだ。ひとみにも、よく怒られた」
「らしいと言えば、らしいですが……流石にそうそう、山賊も現れないでしょう。私は何も知らないことにしますので、少し二人きりで夜の散歩でもしてくればよいのではないでしょうか?」
ファウストの気遣いに、高木は苦笑する。
「……しかし、連れ出すにはフィアとエリシアもいる馬車に入らなければならない。あの会話の後に、それはな」
「タカギ君……魔法の特訓でもしましょうか。マナを集めてみてください」
ファウストの言葉に、高木は首を傾げながらも言われたとおりにマナを集める。ファウストも同じくマナを集めると、身体を包み込むマナを、指先に集め出した。
「ヒトミさんが、視覚でマナを感知する人でよかったですね。まあ、私もタカギ君もそうであるように、多くの人間は視覚に訴えかけるようですが……フィアさんは音でしたか」
「ああ。それがどうかしたか?」
「マナは、変化させるだけでなく、そのままでも使えるのですよ。集まれと念じると、マナは集合しますが……その集まり方をしっかりと指定してやれば、この通り」
ファウストの指先に集まったマナが、ぐにょぐにょと形を変えて、文字の形に変化していく。『魔法使い同士の暗号でもあります』という言葉を映し出した文字は、やがてすぐに四散した。
「なるほどな。僕の国の文字ならば、完璧な暗号だな」
高木は見よう見まねで、馬車に向かってマナで形を作る。
少ないマナだが、薄く引き延ばしてやれば、辛うじて十文字ほどは表示させることができそうだった。
『出てきてくれ』
短い言葉は、果たしてひとみに伝わるのだろうか。ひとみはまだ、マナを感知するのに時間がかかり、都合良くマナを感知している状態ではないかもしれない。
高木は可能性の低さを考えながらも、しばらくマナを指先で象っていた。
すると、やがてひとみはひょっこりと馬車から顔を出して、高木達の寝転がる焚き火の傍にやってきた。
「……教えられたとおり、寝る前にマナを感知する訓練してたんだけど……こういう使い方も出来るんだね」
ひとみの言葉に、高木はファウストを見る。ひとみに魔法の特訓を施したのは他ならぬファウストである。
「マナを使う奇策では、タカギ君より僕の方が一枚上手のようですね。もっとも、マナの感知の練習は、基礎中の基礎。教え自体は間違いではありません」
ぱちりと片目を瞑って見せるファウストに、高木とひとみは苦笑する。
多大に馬鹿な部分が目立ちすぎるファウストだが、小細工は或いは、高木よりも得意なのかもしれない。
「……ふむ。では、ファウストの好意に甘えようか。ひとみ、少し歩こう」
「うん。ファウスト、ありがとう」
嬉しそうに微笑むひとみに、ファウストも笑みで返す。
高木とひとみは腕を組み合い、ふらりと闇の中に消えていった。
ファウストはしばらく二人を見送った後、思い出したように一言だけ呟いた。
「……朝まで帰ってこないとか、ないですよね?」
ファウストの懸念は、見事に的中した。