48話:夜話
フィアが生きてきた中で、ここまで深く頭を下げた記憶もなければ、心の底から謝罪したこともない。
「本当に、ごめんなさい」
一体、どう謝ればいいのかと考えることもなく、同じ台詞ばかりを何度も繰り返した。
数十日も元の世界では、高木の存在が消えていたのだ。本人があまりにも飄々としていた為に、そこまで気を遣っていなかったが、よくよく考えれば高木本人よりも、彼の友人や家族、恋人のほうが余程辛かっただろう。
ひとみは笑顔を崩すことなく、フィアの謝罪をじっと聞いていた。
「ひとみ。フィアが悪いわけではなく……」
「うん。わかってるから、ちょっと聖人は黙っててほしいな」
「はい」
蛇に睨まれた蛙――否、天使に微笑まれた皮肉屋は、実に素直な返事をして、すごすごと引き下がった。
ひとみはフィアの前に立ち、にっこりと微笑んだ。纏っていた雰囲気からは既に怒気は霧散しており、額面通りの天使の笑顔である。
「悪い人じゃないみたいだし、聖人のバカが自分から飛び込んでいったのも、見てたから。それに、ずっと聖人の面倒も見て貰っていたみたいだしね。ちょっと怒ってたけど、うん。もう気にしてないよ」
あれでちょっとなのか、とフィアがさらに恐怖する。
あまりにも美しい笑顔と裏腹に、背景に黒い炎が浮かび上がりそうなほどに怖かったのだ。
高木に初めて会ったとき、悪魔と勘違いしたときですらここまで恐怖することはなかった。
「えっと……やっぱり、あんまりよくわかってないけど……夢なら夢でいいかな。とりあえず、自己紹介するね。天橋ひとみです」
周囲に集まった高木の旅仲間一同を見渡して、ひとみがぺこりと頭を下げる。
それを見て、ようやく周囲が思い出したように呼吸を開始した。
「帝国騎士のオルゴー・ブレイドと申します」
「わ、かっこいい人だね。聖人の百倍はかっこいいよ」
ひとみの言葉に、オルゴーが照れる。
なんせ、とびきりの美人なのである。悪い気などするはずがない。
「ヴィスリー・アギト……えぇと、弟分ってヤツかな」
「わ、ヴィスリー君もかっこいいね。うーん、聖人が霞むなぁ」
ヴィスリーは苦笑する。高木をちらりと盗み見ると、溜息をつきながら顔を手で覆っていた。
続いて、ナンナを振り返って見てみると、遠目でわかるほどにジト目でヴィスリーを睨んでいた。どうやら、鼻の下が伸びていたらしい。
「ルクタ・ファイズよ」
「よろしくね、ルクタちゃん」
今まで、ちゃん付けで呼ばれたことのないルクタは思わずぽかんとした。
なるほど、高木が恐れるのも無理はない。この天衣無縫のごとき少女は、天然だ。
「エリシアです。エリシア・フォウルス……えっと、マサトには色々と助けてもらって……」
エリシアがぺこりと頭を下げると、ひとみは目をきらきらと輝かせて、きゅっとエリシアに抱きついた。
「かわいいっ。聖人に変なことされなかった?」
「あ、あの……優しく、してもらいました!」
思わず高木が踵を返して逃げ出した。
似たようなことが前にもあった気がする。あのときは、フィアだった。
逃げ出そうとする高木を、ナンナが先回りして、見事な足払いですっ転ばせる。そのままズルズルと高木を引き摺り、ひとみの前に戻した。
「ナンナ・エスワン・ミネルヴァじゃ」
「縦ロール、初めて見たよ。似合う人には似合うんだね……で、聖人。後でゆっくり話をしようね」
ひとみは高木を受け取り、羨ましそうにナンナを見た。高木としてはナンナの足払いの見事さに驚くことしかできない。
「……レイラ・ヒビキ。えっと、よろしくね」
順序的にレイラの番だった。そして、ヴィスリーとオルゴーが内心で一番緊張した瞬間でもある。
何と言っても、レイラにしてみれば突如として現れた恋敵なのである。しかも、現れたばかりなのに勝者という反則技のような存在である。
「……うん、よろしくね」
ひとみは、レイラの仕草から何かを感じ取ったのだろうか。不意にそれまでの柔らかな空気を消して、まっすぐとレイラと向き合った。
「ヒトミは、マサトのどこが好きなの?」
ヴィスリーの胃がキリキリと痛んだ。
俗に言う修羅場である。レイラはぼんやりした雰囲気ながら、何をしでかすかわからない面もある。それにひとみも、笑顔で喜怒哀楽を表現してしまう恐ろしさを持っている。
「全部だよ」
ひとみは特に迷うことなく答える。それを聞いて、レイラは少しだけ苦笑いを浮かべた。
「うん。私もー」
宣戦布告なのかと、ヴィスリーは近くにいたオルゴーと手を合わせて後ずさる。
しかし、ひとみはやはり苦笑いを浮かべて、頷くだけだった。
かくして、各々が複雑な感情を胸に秘めつつも、クーガの好意により、寝所に案内されることになった。流石は街を治める大貴族であり、それぞれに個室が用意されている。
高木が一人で眠るのは、フィアの家で寝泊まりをしていた頃から、およそ数十日ぶりである。ベッドも綿がしっかりと詰まっており、寝心地は良さそうだった。
「……やれやれ」
コンタクトレンズを外し、髪をぐしゃぐしゃと掻き分ける。眼鏡をつけて、学生服を脱ぐと、どっかりとベッドに身を沈めた。
とりあえず、オルゴーの旅の目的は一段落しただろう。クーガ伯爵と直に話す機会を設けたのだから、後はオルゴーに任せてしまえばいい。対話を円滑に進めるために同席しても良いが、クーガ伯爵に力を添えて貰うために一番重要なのは、オルゴーの信念を理解して貰うことにある。下手に理屈を並べてはオルゴーの信念を疑われる。自分は席を外したほうがいい。
それよりも、ひとみをこの世界に連れ込んでしまったほうが問題である。
シーガイアを心の底から楽しむというのが目的であり、実際に楽しんでいたが、それでも他人に迷惑をかけたり、巻き込むつもりは無かった。帰還する時期を選べば、行方不明の期間も無かったことになると考えていた。
しかし、もしもこのタイミングで高木が消えた瞬間に帰るとすると、今このシーガイアにいるひとみは、どうなるのだろうか。
「……タイムパラドックスか。不味いな」
高木が居ないという時間が無かったことになる。そうなると、無かったはずの時間を過ごしてきたひとみはどうなるのか。消えてしまうのか、それとも、世界が均衡を保つために改変を起こすのか。その辺りは実験しなければわからず、それをする勇気が高木にはない。望まざる結果が出てしまった場合、高木が失うものが大きすぎる。
「仕方ない。時間軸を動かすことは、諦めた方が良さそうだ」
高木は溜息をついて、予定を変更した。
行方不明の言い訳や、高校生活の遅れなどの問題もあるが、口八丁と努力で解決できてしまう問題だ。散々に楽しんだのだから、少しぐらいの苦労もしなければならない。
高木がそこまで考えたところで、コンコンと扉を叩く音がした。立ち上がり、扉を開くとひとみが立っていた。
「やはり来たか」
「色々と説明してもらわないといけないからね」
ひとみがにっこりと笑うと、高木は苦笑しながらも部屋に通し、備え付けてあった椅子にひとみを座らせた。
「とりあえず、どこから話したモノだろうな」
「最初から、全部かな」
「……だろうな」
高木は観念して、フィアに召還されたことから話を始めた。
今までの道筋と、出会った人物。それに、シーガイアの風習や文化に科学の発達具合。それに魔法の存在も。
ひとみはそれらの一つ一つに注意深く耳を傾け、疑問があると逐一尋ねた。およそ、久しぶりに再会した恋人同士とは思えないやりとりである。
「うーん。とりあえず、文字と魔法は覚えちゃおうかな。便利そうだし」
高木が全てを話し終えた後に、ひとみがぼそりと呟いた。
似た台詞を自分も言ったと、高木は苦笑する。
しかし、それよりも気になっていたことが高木にはある。
「……帰らないのか?」
ぼそりと呟いた言葉に、ひとみが首を傾げた。
「ひとみのことだ、既に理解しているだろう。召還魔法を行使できるということは、転送魔法も使えると言うことだ。僕ならば、正確にひとみを元の世界に送り返すこともできる」
高木自身、帰ろうと思えば帰ることはできるのだ。シーガイアに戻ることができない可能性があるので、これも実験するわけにはいかなかったが、ひとみを送り返すことだけならば、今すぐにでもできる。その考えに至らなければ、高木は未だに茫然自失としており、満足に会話もできなかっただろう。
しかし、ひとみはやはり首を傾げたままで、高木の目をじっと見つめていた。
流石にいきなり理解するのは難しいかと、高木が改めて説明しようとするが、ひとみの次の言葉に遮られた。
「せっかく来れたのに?」
呆気にとられた顔の高木に、ひとみはくすくすと笑みをこぼした。
「聖人が自分で言ったじゃない。帰れるけど、まだ帰ってないって。もちろん、それは消えたタイミングの時間に戻ることができると思ってたから、私や御両親の気持ちを考えないでいられたんだろうけどね」
「ああ。だが、今となってはそれも無理だ。だからこそ――」
「だから、だよ。私が魔法を覚えないといけないの」
ひとみの言葉に、高木は一瞬、思考が止まった。
「聖人は、こっちの世界でもやりたいことが残ってる。私も、せっかくだし色々と見て回りたい。ここまではいいかな?」
それまで、高木が説明していたのに、いつの間にかひとみが主導権を握っていた。
高木はぼんやりと頷くことしかできず、目の前の恋人を不思議そうに眺めるばかりであった。
「それで、聖人の今の目標は、自由にこっちの世界と、元の世界を行き来すること。そのためには、元の世界でも魔法が使えないといけないって、考えてたんだろうけど」
「ああ、その通りだ。しかし、違うのか?」
「私を喚んだのは、ある意味で正解かもしれないね」
高木の問いかけに、ひとみははぐらかすように答えた。
それで、ようやく高木は考えることを再開させる。
ひとみを喚んだことが正解。否、額面通りに理解しても仕方がない。
要するに、ひとみがシーガイアにいるということが、大きいのだろう。それはつまり、シーガイアにいる元の世界の人間が、二人になったと言うことだ。
「……ああ!」
高木は不意に立ち上がり、大きな声を上げた。
「ひとみも召還魔法と転送魔法が使えれば、どちらか一方がシーガイアに残ることにより、元の世界で魔法が使えなくとも行き来することはできるのか!」
ひとみが「よくできました」と言って微笑む。
仮に、ひとみが召還魔法と転送魔法を使えたとする。
手順としては簡単で、ひとみが転送魔法で高木を送り出し、しばらく時間を空けて、再び高木を召還してしまえばいいのだ。あらかじめ三日間だけ元の世界に戻ると決めておけば、転送した三日後にひとみが召還してくれる。
「なるほど。しかし、それだと僕たち二人が帰ることができないが……いや」
高木がどんどんとロジックを組み立てていく。二人だと難しいが、三人にしてしまえばいいのだ。
「フィアを一度、転送すればいいのか」
フィアが高木達の世界を正確に把握できれば、フィアが自由に高木達を喚び出すこともできる。
「うん。フィアちゃんの了承が必要だけどね。とりあえず、元の世界で魔法が使えれば、フィアちゃんを巻き込まないでいいし、もっと自由に行き来できるから、まずは私か聖人のどちらかが帰ればいいと思うよ」
ひとみの言葉に高木は頷く。これならば確実に、行き来をすることができるだろう。
「よし、そうと決まれば話は早い。早速だが魔法を覚えてしまおう」
高木はそう言うと、フィアを呼んでくると部屋を出ていった。
「……うーん。せめて、もうちょっと二人きりの時間とか、考えないのかな」
ひとみはぽつりと独り言を呟き、溜息をつく。
二ヶ月ぶりに再会した恋人は、女心を解さない唐変木のままだった。