40話:御嬢
高木に「貴族の娘を誑かせ」と言われたヴィスリーとオルゴーは、しばらく目を見合わせて呆然としていたが、やがて酒を一気に呷ると、それぞれが別行動を開始した。
オルゴーは悪い夢を見たのだという判断であり、宿へ直帰してベッドで眠りはじめ、ヴィスリーは水を飲んで酔いを醒ますと、ぶらぶらと街中を歩きながら、高木が何をしたいのかを考え始めた。
「……娼館も無えからって、わざわざ貴族相手にってのも、兄貴らしくねえしなぁ」
取って喰おうという話ではない。仮にそうならば、貴族の娘ではなく、貴族の中でも美人の娘と指定しただろう。どういうわけか、フィアを筆頭にエリシアもレイラも、ルクタも美人ぞろいの面々であり、高木は割と目が肥えている。跳ねッ返りからお子様まで手広く面子に加える高木のことだから、守備範囲は広いだろうが、次は貴族が良いと駄々をこねるほど、女好きというわけでもない。
十中八九、取り入ってクーガ伯爵に会うための足がかりにするのであろうが、それならば自分でやれとも思う。少なくとも、顔も悪くないのだし、エリシアに接するようにすれば、純情無垢な貴族の娘ならば軽く落とすことができるだろう。
それをしないのは、おそらくレイラの一件で懲りているからなのだろう。真剣に惚れられてしまっては、何かと問題も多い。一時的に誑かせるのであれば、確かにヴィスリーのほうが得意だった。
「……と言ってもなぁ。俺も貴族なんて相手にしたことねえよ」
ヴィスリーはひとりごちながら、学校帰りであろう、同年代の男女が連れ添って歩く姿を眺めて溜息をついた。流石に貴族の娘となると、自宅に専属の講師を呼んで知識を得るのが一般的で、ひょいと声をかけるのも難しい。
なるべく早くと言われても、まず探すところから始めなければならないとなれば、そうそう簡単に話が進むとは思えない。都合よく、柄の悪い連中にでも囲まれているならば手っ取り早いのであるが。
ヴィスリーが大きな溜息をついて、どうすべきかと考えていた折である。不意に、甲高い女の声があたりに響いた。
「無礼者!!」
キュピン、と目を光らせてヴィスリーが振り返る。まさに、渡りに船。願っても無い速さで、絶好の機会が訪れた。
見ると、高貴な衣服をまとった女が、旅の人間と思しき二人の男に囲まれている。年のころはヴィスリーと同じほど。ふわふわとした猫毛をくるりと縦に巻いた、見るからにお嬢様といういでたち。完璧だった。
ヴィスリーはほとんど何も考えずに縦ロールの娘に近づいて、二人の旅人との間に立ち入った。
お嬢様は先ほどの威勢のよい声をあげるだけあってか、中々気が強そうな凛とした顔立ちをしている。それに対して、旅の男たちは無礼者という言葉どおりの、大抵のことを力技だけで済ませてしまいそうな、大柄かつ豪快な顔立ちをしていた。
高貴なフィアと、柄の悪いガイのようだとヴィスリーは内心で笑いながらも、お嬢様を庇うように立ち、不敵な笑みを浮かべた。
「天下の往来で、一体何があったか知らねえが、随分と穏やかじゃねえな」
場合によっては、高飛車なお嬢様の言いがかりかもしれない。そんなことを考えつつも、ヴィスリーは二人の男の理性的とは言い難い顔つきを見て、溜息をついた。かつての柄の悪い仲間にも、似たような顔をした男がいたが、それにしても酷い。突然現れたヴィスリーに気分を害されたかのように睨みを利かせ、会話をしようという気概すら見られない。
「……何があったんだ?」
ヴィスリーはちらりと背後のお嬢様を見て尋ねる。やはり、突然現れたヴィスリーに驚いた様子だったお嬢様は、少なくとも敵ではないと判断したのだろう。
「この者どもが、我が足を踏み、あろうことか……ッ!」
お嬢様は不意に顔を赤らめて両の手で胸を隠した。なるほど、とヴィスリーは状況を確認する。
娼館が無いこのディーガの街でも、娼婦がいないわけではないだろう。しかし、旅の人間に彼女らを見つけるのは難しく、勢いあまってはねっ返りだが、美しいお嬢様につい手が伸びてしまったらしい。確かにお嬢様はレイラには大きさで劣るが、けっこう柔らかそうな良い形の胸をしていた。
「女性にゃ優しくって信条の俺には、そいつはちょいと許せねえな」
ヴィスリーは改めて男たちのほうに振り返り、くっと睨みをきかせる。ヴィスリーも女好きには違いないが、踏まねばならない段階と、後腐れの無いような振る舞いを心がけている。
「てめーら。誠心誠意謝罪して消えるか、誠心誠意謝罪させられてぶっ倒れるか。どっちがいいよ?」
ヴィスリーの挑発は、おそらく腕に覚えがあるのだろうか、男たちを良い具合に激昂させた。
「いい度胸じゃねえか。ほっときゃいいのに、ノコノコやってきやがって。冥土の土産に、聞いてやろう。てめーがかっこつけた理由と、名前をな!」
男は叫んで、腰にさしていた剣をすっと引き抜く。それまで遠巻きに眺めていた周囲の人々から悲鳴が上がり、お嬢様も不意に身を構えた。しかし、ヴィスリーは不敵に笑うばかりであった。よほど旅の間に鬱憤が溜まっていたのだろうが、いきなり剣を抜くなど愚の骨頂である。
ヴィスリーはすっと腰を落としたかと思うと、次の瞬間に剣を鞘ごと引き抜いて、不意打ち気味に男の腹を殴りつけた。
「理由は正義」
返す手で、もう一人の男に剣を突き立てるが、咄嗟に身を引いた男がそれをかわす。それを確認したヴィスリーは一歩踏み込んで、頭突きを男の鼻っ柱に叩き込むと、体勢を崩した男の顎に、アッパーカットの要領で思い切り拳を叩き込んだ。
「名前はヴィスリー・アギト……って、聞いちゃいねーか」
鞘ごととは言え、鎧を着込んでいない腹に剣で殴られた男はもんどりうち、顎に拳を良い角度で入れられた男はノびていた。
ヴィスリーはやれやれと剣を腰にさしなおすと、くるりと向き直って、お嬢様を見た。
「まあ、ちょっくら不恰好な土下座だが、あの通り膝をついて謝ってるんだ。許してやっちゃどうだろう?」
「――ふっ。あれが謝罪ならば、我も相応の温情を与えねばならぬ」
お嬢様はそう言って微笑むと、ツカツカと這いつくばった男たちの前に立ち、思い切り男の頭を蹴り飛ばした。ぐっ、と短い悲鳴が聞こえ、もんどりうっていた男はばたりと気絶する。
「もがき苦しむより、素直に気絶させてやるのは優しさだと思うのじゃが、貴殿はどう思う?」
格調高い言葉とは裏腹の、思い切りの良い性格に、ヴィスリーは苦笑する。ばたばたと暴れていた男の顎をしっかりと捉えた蹴りは、少なからず鍛錬を積まねばできる芸当ではない。もしかすると、助ける必要などなかったのかもしれなかった。
同時に、ヴィスリーはすっかり当初の目的を忘れていることにも気がついた。ビシっと格好よくお嬢様を助けて、そのまま口説いてしまうつもりであったのだが、気勢を殺がれたというか、お嬢様の勢いに呑まれてしまったのである。
「……痛い優しさだな」
本来ならばヨイショすべき場面だが、ヴィスリーはつい思ったままを口に出していた。せっかくの好機であるが、それを差し引いても目の前のお嬢様に歯の浮いた台詞を並べることができなかった。
ああ、やばい。この感覚は、久しぶりだ。
ヴィスリーは己の感情を認識して、戸惑った。この手合いの女性は、平たく言えばヴィスリーの好みの、ど真ん中に突いてくるのだ。
「主とて、あれを謝罪とした時点で同じじゃ……いやしかし、まずは礼を言うのが筋合いだったの」
お嬢様はすっと背筋を伸ばし、ヴィスリーを真正面から見つめた。背はヴィスリーより低いが、溢れる気品と自信は身長を凌駕しており、ヴィスリーは見上げるような感覚に陥った。常に軽い調子で人と接してきたヴィスリーにとって、このような感覚は初めてであり、ますますお嬢様から目が離せなくなってしまう。
やばい。やばい。これはとってもやばい。
「我はナンナ・エスワン・ミネルヴァ。危ないところを助けていただき、感謝する」
ナンナはスカートの裾を少し持ち上げて、気取った礼をした。それはそれで似合うのだが、その後に悪戯っぽく笑う顔にヴィスリーは釘付けになっていた。
「あー。お、俺はヴィスリー……」
「さっき名乗っておったろう。ヴィスリー・アギト。良い名じゃ」
「そ、そりゃどうも」
機嫌よく笑うナンナに、ヴィスリーはしどろもどろになりながら受け答えをする。普段ならば、既に肩に手を回すぐらいはしているのだが、ちっとも頭が上がらず、全てが後手後手になってしまっている。
「見ない顔じゃが、その様子からすると旅の最中かの?」
「お、おう。トールズの街からやって来て……」
ぼそぼそと呟くヴィスリーに、ナンナはちょこんと首をかしげて真っ直ぐにヴィスリーを見る。
大層な口調の癖に、仕草や視線があどけない。その差が一層、ヴィスリーをどつぼに嵌らせた。いわゆるギャップというヤツである。
先ほどまで飲んでいた酒は抜けているはずだが、頭がくらくらとする。本格的に不味いと、ヴィスリーは高木の言葉を思い返した。
高木はヴィスリーに、貴族の娘を誑かせと言った。どうすればいいのかと困っていたところに、二度とない好機が来たのだ。これを逃すと、再び貴族の令嬢に出会う機会はそうそう無い。だからこそ、ヴィスリーはこの機会をモノにしなければならない。
いつものように、軽い調子で。惚れさせる必要などなく、ただ一緒に遊ぶと面白そうだと思わせれば良い。
「そ、それよりさ……」
「ん?」
「い、いや……すまん、ちょっと待ってくれ」
気を取り直して声をかけてみたが、いつものような明るさも気楽さも言葉にできない。まるで初心な少年のようなたどたどしい口調である。
ナンナはヴィスリーの様子を見ておかしそうに微笑み、じっと言葉を待っている。その仕草もまた胸を打つという有様で、いよいよヴィスリーは言葉に詰まる。
「ヴィスリー?」
「うああっ。ま、また次の機会にッ!!」
ヴィスリーは勢いよく回れ右をすると、脱兎の如く駆け出した。途中で倒れた二人の男を踏みながら、よろけそうになり、それでも必死で逃げ出した。
心の中で、高木の頼みを達成できないことを詫びた。せっかくの誑かすための、絶好の機会であったのに、ヴィスリーは口説き文句の一つも言えなかった。否、それどころか。
「や、やべえ……なんでこんな身体が熱いんだよっ!!?」
逆に、すっかり誑かされていた。