28話:牢獄
ルクタが地下牢に押し込められて、三日が過ぎた。
食事は日に三度。きちんと出る。味はともかく、分量だけならば女のルクタには十分に満足できるものである。
衣類は、囚人用の簡素なものであったが、オルゴーが女性用の囚人服を取り寄せてくれたらしい。牢の造りなどは女性牢も男性牢も大した違いはないので、幾つかの生理用品さえ用意してもらうだけで、全てが事足りた。
しかし、ルクタはそんなことよりも、オルゴーという男に興味を持った。
「おはようございます、ルクタさん」
時間の感覚が無くなる地下牢において、朝の挨拶をしてもらえるのはありがたい。優しい看守ならば、毎朝「朝だぞ」の言葉ぐらいはかけてくれるのだが、挨拶をする看守は初めてであった。それどころか。
「お身体の具合はどうですか。そういえば、今朝は雨が降っていました。ここのところ、雨が少なかったので農民は喜んでいるでしょうね」
まるでそれが当然かのように、世間話を始めるのだ。しかも、それはルクタにだけではない。
「エドガーさん、よく眠れましたか。私は昨晩、夢を見ました」
「おう、儂も見たぞ。ありゃあ、死んだオフクロだったなぁ」
「奇遇ですね。私も、母の夢を見ました」
「そうけえ、そうけえ。母親ってぇのは、幾つになってもありがてぇもんだな」
本来、看守は囚人に話しかけたりはしない。ましてや、一人一人に話しかけることなど、あり得ない。オルゴーは一つ一つの牢の前で立ち止まり、名前を呼び、時折つまらない冗談を言ったり、にこにこと笑ったり、まるで親しい友人に話しかけているようである。
「ここを出たら、看守さんと一杯やりてえな」
「いいですね。先日、ケビンさんがここを出たでしょう。朝早くに出たというのに、家族に会った後に、ここにひょっこりと来てくださって、葡萄酒をご馳走になりました。遊びに来る場所としては相応しくないのが残念ですが、とても楽しい一時でした」
「はは。確かに遊びに来る場所じゃねえな。けど、儂も来ていいか?」
「勿論です。早く遊びに来てくださいね」
オルゴーは、本当にそれを待ち望んでいるようだった。無邪気に微笑んだ後に一礼すると、待ちきれないという様子で「待ってますからね」と言った。
この三日間でわかったのは、オルゴーという男が囚人達から好かれているということぐらいだった。ルクタのいる房から解る範囲では、全員がオルゴーを心から慕っているように思える。隣の囚人は声の様子からかなりの高齢であろうが、オルゴーを馬鹿にするような節はない。
ルクタ自身の感情も、概ね他の囚人と同じであった。退屈で死にそうになる牢において、たとえどんなにつまらない世間話だろうが、何よりも楽しい時間になる。勿論、牢は不自由であるし、早く出たいには違いないのだが、少なくともオルゴーに迷惑をかけるのが憚られるとは思うようになっていた。
「けっこう、看守に向いているのかもね」
隣人に話しかけると、塀の向こうからは、やはり笑い声が返ってきた。
ルクタがオルゴーと話し込んだのは、さらに二日が過ぎた頃であった。
看守の仕事は、囚人の監視と、食事の運搬。急病などの場合は、介護なども含まれる。まるきり暇というわけではないのだが、どちらかと言えば暇に違いなかった。
「ルクタさんは、十八歳でしたよね」
「ええ。オルゴーは幾つ?」
「私は二十歳です」
見かけよりも若かった。仕事柄、ルクタは男性の容姿や言動などから、大まかな性格や生き様などを見ることに長けていたが、二十三か、四ほどだと思っていた。苦労知らずの貴族の家に生まれたならば、元々老け顔なのかもしれない。それでも端正な美丈夫には違いないのだが。
「若いのね」
「年下のルクタさんにそう言われると、なんだか不思議な感覚ですね。ルクタさんは年齢よりも、若く見えますし」
ルクタは自分の容姿も正確に把握していた。くすぶった茶髪は少し短く整えている。大きくぱっちりとした猫目に、少し低い鼻が一層幼くさせている。仕事のために体型は維持しており、身のこなしも求められるので張りがある。胸ばかりは薄いが、年かさの貴族にはそれが功を奏することも多かった。
総じて、十五、十六の娘と思われていたことだろう。男を誘うには、歳が若く見えるほうが都合が良かった。
「最初は、少し驚いたのですよ。ルクタさんは、女豹という通り名があったとか」
「そういえば、そう呼ばれていたかしら」
巷にいた頃には、仕事仲間から女豹と呼ばれることが何度かあった。容姿とはかけ離れた二つ名を、ルクタは割と気に入っていたし、便利だとも思っていた。
何度か女豹を捕まえようと、衛兵がルクタの縄張りを捜索していたが、言葉ばかりのイメージに囚われていたのか、本人を前にして「女豹を知らぬか?」と問いかけられることもしばしばであった。ドジを踏んで捕まってしまった際も、まさか女豹とは思われず、出来心で客の物品に手を出した若い娼婦とされて、すぐに牢から出されたものだ。
「てっきり、もっと娼婦らしい女性なのかと思っていたもので、不躾にも名乗りを忘れてしまいました」
「あら。娼婦にも色々な人がいるのよ。私よりも若い子だって、沢山」
「……そうなのですか。職業に貴賤などある筈もありませんが、悲しく思えてしまうのは、私が世間を知らない所為なのでしょうね」
心底悲しそうに目を伏せるオルゴーに、ルクタは微笑んだ。
「娼婦も、売りたくて身体を売っているわけじゃないわ。別に貴方が悲しんでも、誰も責めはしないわよ」
そのような悲しいことが、ルクタにとってはあまりにも身近すぎた。オルゴーにとっては、そうではなかった。それだけのことである。
「ルクタさんは、いい人ですね」
ふと、オルゴーは悲しげな顔のまま、口元だけを緩めて呟いた。ひどく頼りないその表情と、その言葉にルクタは思わず吹き出してしまった。
「ここ、どこだかわかってる?」
「ええ。しかし、それでも私は、ルクタさんがいい人だと感じました。間違った感情かもしれませんが、私がそう思ったことに違いはありません」
オルゴーはふと、真面目な顔になって言った。それまでの頼りない印象は途端に消えて、そこには精悍な騎士の姿しかない。
「看守の任というのは、つまるところ、罪を犯した人と触れ合うことです。私も、多くの罪人を見て、言葉を交わしましたが、みなさん、悪い人ではなかった。言うに尽くせない理由から、罪を犯した人ばかりです。だから、私は思うのです。一体、どうしてこんなにいい人達が、このような場所に来なければならないのか、と。一体、何が間違っているのだろうかと」
その答えは、ルクタにとってあまりにも簡単なものだった。
犯罪者には犯罪者のコミュニティがある。ルクタも、そこに多くの仲間がいた。気の好い、一見すると善良な市民にしか思えない人間ばかりであった。喜んで罪を犯す人間などそこにはいない。皆、生きるためにそうしているだけだった。
「間違っているのは、この国よ」
ルクタはそれだけ呟いて、目を伏せた。
帝国そのものを否定することは、つまり、帝国騎士団を否定することに等しい。帝国に絶対の忠誠を誓い、帝国のために剣を取り、帝国のために死ぬのが、帝国騎士である。末席どころか、左遷されたオルゴーではあるが、れっきとした帝国騎士に違いはない。否、むしろその胸にある騎士としての誇りは、誰よりも強いだろう。侮辱したという理由で斬られても、文句を言うことはできない。
それなのに何故、つい口走ってしまったのだろうか。ルクタは自分の口から出た言葉に驚いた。
帝国に反感を覚えていたのは確かである。貧乏人に容赦のない、一部の上流階級のみに富が集まるようにできているシステムに、一体どれほどの人間が涙を流しただろうか。自分もその一人である。せめて、幼い頃に食べるものと寝る場所があれば、女豹などと呼ばれることなどは無かっただろうし、地下牢に入れられることもなかった。
それでも、この先のことを考えるのであれば、決して言ってはいけない言葉だった。
おそるおそる、ルクタはオルゴーの表情を見上げようとした。誇り高き騎士であると同時に、無類のお人好しでもあるオルゴーならば、失言も笑って許してくれるかもしれない。仮に怒っていたとしても、今ならば冗談で済む。
「ごめんなさい。自分の身勝手な罪を、国の所為にしてしまったわ」
最後にそれだけ言って、顔を上げる。だがしかし、そこにあったオルゴーの表情は、笑顔でも怒りを孕んだ顔でもなく、ただ、呆気にとられた、忘我の様子であった。
「オルゴー?」
ルクタはふと、彼の名を呼んだ。オルゴーはそれでようやく我に返ったらしく、取り繕うように作り笑いを浮かべた。
「すみません。自分自身の存在と、貴女の言葉に大きな衝撃を受けてしまいました」
オルゴーはそれだけ言って、ふらりと立ち上がった。よほど、ショックだったのだろう。忠義の対象であり、唯一信じるものが真っ向から否定されたのだ。それも、今さっき、オルゴー自身の口で「いい人」だと言った人間から。
「ごめんなさい。あまり、気にしないで。自分を正当化したかっただけかもしれないわ」
もしも、この風変わりな騎士を心変わりさせるならば、追い打ちをかけるべきだったのかも知れない。それをしなかったのは、ルクタが単純に気遣ったからであった。今まで、相手の弱みにつけ込むような生き方をしてきたにもかかわらず、何故か今だけが、それができなかった。
「しかし貴女は本心を言った。そう感じました」
オルゴーはその言葉だけをはっきりと言い、後はルクタを見ることなく、立ち去っていった。
「……男に本心を言ったのって、何年ぶりかしら」
しくじったと思う反面、どこか心地よかったのも確かである。