19話:風呂
「このバカ!」
苦労して猪を運んできた高木とヴィスリーに、フィアの怒号が飛んだ。
「折角、果物と肉を土産に帰ったというのに、馬鹿は酷いだろう」
流石の高木も予想外の展開に、少々面食らう。まさか猪を信仰する宗教の人間だったのかとも危惧するが、謎はすぐに解けた。
「それは嬉しいけど、それよりも傷だらけじゃないの。早くこっちに来なさい!!」
フィアは乱暴に高木の上着を剥ぎ取り、シャツも脱がせた。夢中で猪と戦い、派手にヘッドスライディングして避けたりしていたので、顔には擦り傷が幾つもあった。
「フィ、フィア……大事ないから。顔を擦っただけで、身体は平気だ」
一瞬にして上半身を裸に剥かれた高木は少々恥ずかしかったのか、服を取り返そうと手を伸ばすが、それをピシャリとエリシアに叩かれて、火の傍に連れて行かれた。
「顔は擦り傷だけみたいね。腕に痣と……お腹に擦り傷もあるじゃない。ってか、あんたもうちょっと鍛えなさいよ!」
高木は完璧にインドア派の人間であり、食べても太らない体質である。身体を動かすとすれば体育の時間ぐらいのものだったので、ほとんど骨と皮のような身体であった。小さな擦り傷が一層、痛々しく見える。
「エリシア、布と水持ってきて。レイラは薬をお願い。ヴィスリーは平気?」
「……姐御。なんか俺と兄貴に扱いの差があるんだけどよ?」
「顔を泥と傷だらけにして帰ってきた人間と、行ったときと同じ顔の人間じゃ、差もつけるわよっ!」
フィアは高木の胸板をぺたぺたと触り、痛むかどうかを尋ねる。ひんやりとした指が気持ちよくて、高木は柄にもなく頬を赤らめて、後ずさる。
「いや、本当に大丈夫だ。心配を掛けて済まなかった」
フィアは怒ったと言うよりも、驚いて心配しただけであった。平気だとわかると、胸をなで下ろした。
高木はエリシアの持ってきた水で顔を洗い、泥と血を落とす。ようやく気分も落ち着いた。
しかし、今度はレイラが持ってきた傷薬を自分で塗ろうとしたら、レイラが「絶対に私が塗る」と力強く宣言したので、高木は上半身裸のままで火の前でレイラに世話をされた。至れり尽くせりではあるが、少々の傷を気にしたくないという微妙な男心が働いてしまう。そして、それ以上に気恥ずかしかった。
「エリシアー、猪を捌けるか?」
すっかり蚊帳の外になっていたヴィスリーがエリシアに声をかける。レイラに薬を塗って貰いながら、高木は流石にそれは無理だろうと内心で呟いたのだが、エリシアはにっこりと笑った。
「多分大丈夫だよ。鹿は捌いたことあるから」
一体、この少女はどこまで万能なのだろうかと高木は舌を巻いた。
傷の治療を終えると、夕飯の予定ではあったが、突然に猪という御馳走が現れたので干し肉のかわりに調理することにした。
エリシアは一時期、狩人の家に預けられており、手伝う内に捌き方を覚えたらしい。小刀のようなナイフで丁寧に皮を剥ぐと、小一時間ほどで猪を解体して、フィアと調理を始めた。
高木はその間に、傷の治療や心配をかけた詫びに、ヴィスリーに手伝って貰い、馬車からドラム缶を引っ張り出した。
何故、シーガイアにドラム缶があるのか。しかもそれが何故、馬車にあるのかというと、原因はフィアにある。
フィアが高木を召喚したのは偶然である。つまり、別の世界との「扉」となるものを送り出し、それに触れたものを持って帰るという方法である。それが何故、黄色いマリモであり、マナの力でできるのかというのはフィア曰く「研究の成果」らしいが、要するに、違う世界があると信じて、そこに魔法で「触れれば引っ張り込む存在」を作り出すらしい。魔法陣はマナをある程度の時間、留めることができるという代物である。
高木がこのシーガイアにやって来たのは、フィアがたまたま高木の住んでいた世界に「扉」を開いたからであり、他の世界とやらもあるらしかった。そして、肝心のドラム缶であるが、フィアが以前に召喚したものである。高木のような人間を連れてくることもあるが、基本的に触れたものを引っぱるだけなので、たまたま風で転がったドラム缶を引っ張り込んでしまったのだろう。
研究の成果であることには変わらず、フィアは喚びだしてしまったドラム缶を庭に置いておいたのだが、高木がそれを見たときの驚きは激しかった。風雨に晒されてはいるものの、穴などは開いておらず、旅に出るときに、ふと使えると思い持ち込んだのだ。
余談であるが、フィアが今までに召喚を試みた数は、およそ数十回。うち、タイムリミットで何も喚べなかったことが半分ほどを占め、やはり風で転がってきたのだろうか、石ころや木の葉、木の枝などが残りの半分。異世界の存在と明示できそうなものは、このドラム缶と高木だけなのである。高木にとって、原田左之助を先人とするならば、ドラム缶はさしずめ先輩である。そういう意味でも、妙な愛着があった。邪魔になるとフィアに運び込むことを咎められたときには、高木は二十分ほど喋り続けて、強引に積み込みを認めさせたほどなのである。
高木はヴィスリーと小川でドラム缶に水を入れて、レイラを呼んだ。少しドラム缶から離れた位置で呼んだので、レイラはドラム缶の中に水が入っていることを知らない。
「レイラ。見えない場所に炎を出すことは出来るか?」
「え。うん。その場所の近くならできるよ」
「少し、見てみたい。あの筒の中に、炎を出してくれないか?」
レイラは不思議そうに首を傾げながらも、言われたとおりにドラム缶の中に炎を作り出した。次の瞬間、ドラム缶の中の水が一気にぼこぼこと泡を生み出す。
「え。あれ。炎を作ったのに……水ができちゃった?」
「いや、最初から水が入っていた」
高木はひょいとドラム缶を覗き込む。案の定、水の中で炎が燃えるという実に非現実的な光景がそこにあった。
「マナは、マナに戻るまで炎でありつづける。仮に水の中でもそうだろうと考えてみた」
本来、炎を水につけると消えてしまうが、魔法でつくられた炎は、根本的な物理法則を無視する。
つまり、魔法でつくった炎の熱は、物理法則に則るが、炎そのものは物理法則から外れる。レイラに敢えて水が入っていることを教えなかったのは、その辺りの説明がシーガイアの科学技術では説明できないからだった。炎は水の中では存在できないという常識が邪魔をして、上手くイメージを作り上げることが出来ないのだ。
「すごい。こんなことした人、きっとマサトがはじめてだよ」
レイラは水の中で燃える炎を見つめて、うっとりと呟いた。
やがて、炎がマナに戻り、四散する。直火で熱せられた水は、すっかりお湯に変わっていた。
「ふむ、いい湯加減だ」
高木はちゃぽんと湯に手をつけて、満足げに頷いた。シーガイア全土なのか、リガルド帝国だけなのかは知らないが、入浴という習慣がないのである。水を張った桶とタオルで身体を拭いて終いであり、湯に浸かるというのは、極々一部の貴族や王族のみがやっていることだと聞く。
高木は男なので、あまり風呂を楽しみにするような性分ではないのだが、それでも習慣として毎日入っていた風呂がないのは、どこか物寂しいものがあった。
ドラム缶を見つけたときから、ずっと試してみたかったのだ。水を汲むのが面倒で、フィアの庭に勝手に風呂を設置するのも不味いと思っていたので出来なかったが、ここならば誰にも咎められない。
「ねえ、マサトってば。こんな方法、どうやって思いついたの?」
レイラはしきりに高木の袖を引き、目の前の現象について尋ねていた。すっかり好奇心に染まった目をしており、彼女もまた、研究者としての魔法使いであることを再確認させられる。
「理屈というのは、小難しく考えることじゃない。要は遊び心と閃きだ」
できないと判断するよりも、机上の空論で良いからどうすればできるかを考える。新しい何かをするために、最も必要な考え方である。
こうなれば良いのにと考えることが、どんな理論よりも先に必要な気持ちだ。それさえ持っていれば、理屈など後から幾らでも追いついてくる。
異世界においての五右衛門風呂は格別だった。
夕飯の牡丹鍋も野性的なクセはあったものの、美味であり、アケビも好評だった。その後、冷めてしまった風呂を再びレイラに沸かしてもらって、女性陣から先に入らせた。
入浴の習慣がないことに加え、屋外で裸になることで最初は躊躇っていたが、高木が風呂の素晴らしさを延々と語って聞かせるので、エリシアが折れて、最初に入った。フィアがその様子を見学して、レイラが男性陣の見張りという構図である。
数十分後には、エリシアがニコニコしながら上気した頬で風呂の素晴らしさを語ったので、今度はフィアが入浴。レイラが見学で、エリシアが見張り。その後、レイラも入り、三人ともすっかり風呂の虜になっていた。
ヴィスリーは風呂にあまり魅力を感じなかったようだが、女性陣から「汗くさいから入れ」と口を揃えられて、渋々入浴。結局は「さっぱりした!」と、風呂好きになった。
かくして、最後に高木が入った。五右衛門風呂に入るのは初めてであり、自宅の風呂よりも快適さには欠けるものの、風情では上を行くというのが感想である。
満天の星空に、しんと静まり返った空気。少しぬるめの湯ではあるが、久々の風呂に自分が日本人なのだということを強く実感する。
とりあえず、今後も水場の近くに陣取れたならば、風呂を焚こうと心に決める。旅と言えば風呂というのが、高木のイメージなのである。入浴の習慣がないシーガイアで、温泉巡りはできないが、各地の風景を眺めながらの五右衛門風呂というのもオツである。
「異国情緒、ではないな。異世界情緒もへったくれもないが」
湯を掌で掬い上げて、顔を洗う。擦り傷がちくちくと痛んだ。
日本にいた頃には、顔に傷を作る経験など、そうそうするものではなかった。命の危機など感じたことは人生でも数少ない。
それがシーガイアに来てからは、剣を突きつけられるわ、電撃を食らうわ。今日に至っては、猪に襲われるわ。この調子ではいつか死んでしまうような気がする。
読書好きで、ライトノベルなどもよく読んでいた高木にとって、異世界という存在自体が憧れでもあった。魔法を駆使して、剣を手に取り、世界を救う。ありふれていながらも、冒険心をくすぐるストーリーに胸を躍らせたりもした。
しかし、実際に来てみれば、自分には魔法の才能もなく、剣を扱うこともできない。今日、初めて握った剣は重く、猪に突き刺した感触は好ましいものではなかった。できれば、二度と握りたくない。
別に魔王がいるわけでもなく、戦争が起きているわけでもない。この世界の重大な鍵を握っている存在などでもなく、単純に、一人の魔法使いが偶然喚び出したに過ぎない存在である。
高木にあるのは、高校生としての知識と、舌先三寸のハッタリ。それに理屈っぽい性格だけである。小さな田舎町だからこそ、高木のハッタリも面白いように通用したが、この先はそこまで上手く他人を欺けるとは思えない。そうなってしまうと、高木はもう、異世界からの来訪者というよりも、次元を飛び越えた迷子でしかない。
「……みんなは、元気にしているだろうか」
家族や友人達には心配を掛けているだろうと、少し感傷的になる。
帰る場所と時間を指定できるという理屈なので、心配する間もなく帰還するつもりではあるが、もしも同じ時間軸で動いているのならば、元の世界には高木がいない日々が続いていることになる。
「ひとみには、苦労をかけているだろうな」
シーガイアに来る直前に、隣を歩いていた少女を思い返すと、少し胸が苦しくなった。真っ昼間の街角で神隠しに遭うなど、現代において通用するわけがない。
「とりあえず、帰る方法だけは真面目に探さねばな」
高木はそれだけ呟いて、今後は元の世界のことを考えないと決めた。いくら考えても、どうなるものでもないのならば、考えるだけ損をする。どうせならば、異世界も旅も、全部楽しんでしまった方がいい。世界を救う必要も、帰る以外の目的もないのだから、他にやるべきことは楽しむことだけだ。
高木は風呂から上がると、ドラム缶を押し倒して、湯を捨てた。そのままゴロゴロと転がして、フィア達のところに戻る。
「マサトも戻ってきたし、夜のことを相談しましょ」
雑談に興じていた面々が、フィアの言葉で焚き火を中心に集まった。暢気な旅ではあるが、夜は野生動物などの危機なども多い。行き先や食事などの相談はしていたが、夜の過ごし方については、まだ何も決めてはいなかった。
「とりあえず、見張りは必要よね。この辺りは治安も悪くないし、狼もそうそう出ないけど、何かあったら困るし」
フィアの言葉に全員が頷く。安全を考えるならば、最低でも一人は起きている状態を維持しておくに越したことはない。馬車も決して広くはないので、一人起きていたほうが都合が良かった。
「じゃあ、私が――」
「今晩は俺が不寝番をする。昼寝もしたから平気だ」
エリシアが手を挙げようとしたのを、ヴィスリーが遮った。
「じゃあ、ヴィスリーに頼みましょ」
エリシアが二の句を継ぐ前に、フィアがさっさと決定してしまう。決してないがしろにしているわけではなく、信用していないわけでもない。エリシアは今日、一日中御者席に座っており、料理などでも積極的に動いていた。元々、働き者ではあるが、働きすぎるきらいもあるため、周囲が彼女を休ませる環境を作ってやる必要があるのだ。
「眠たくなったら、私が交代するよー」
レイラがにこりと笑って、手を挙げる。レイラは今日、特に何かをしていたわけではないので、余裕がある。高木とフィアも頷いた。
その後、高木の案で、以前に作った鳴子を林の近くに設置した。焚き火は朝までつけておくことにして、何かあれば全員を叩き起こすことになった。
「それじゃあ、少し早いけど寝ましょうか。明日も早いし、ゆっくり休むこと」
一通りのことを決めると、就寝となった。フィアとエリシア、レイラが馬車に乗り込んで、寝支度を整える。
「兄貴も寝ろよ。明日が辛いぜ?」
「ああ。勿論、眠る」
高木は馬車に戻り、毛布を二枚取ってくると、一枚をヴィスリーに渡して、寝転がった。
「ありがと。けど、付き合ってくれなくてもいいって。今日はけっこう疲れただろ」
「寝ると言っただろう。馬車よりも、こっちのほうが眠りやすいだけだ」
高木が肩を竦めて言うと、ヴィスリーは「あぁ」と声を挙げて納得した。いくら旅の仲間と言えども、若い男女には違いない。寝返りを打つだけで密着してしまうような馬車の中で眠る勇気が高木にはなかった。
エリシアもレイラも高木が馬車で眠ることを気にしない。エリシアは高木と初対面で同じ部屋で眠ったし、レイラは喜んで高木の隣で眠るだろう。フィアは流石に隣で眠るのは躊躇うにしても、隣でなければ文句を言うことはない。あくまでも高木自身の問題なのだ。
「……ものは相談なんだけどよ。不寝番、俺達だけでやらねえか。俺も、馬車で寝る勇気がねえ」
ヴィスリーも同じ考えに至ったようだった。高木は深く頷いて、毛布にくるまった。
野宿などしたことはないが、疲れは十二分に溜まっている。眠ることに不都合はなかった。
「やれやれ。エリシアの作ったベッドが恋しいものだ」
それだけを呟いて、高木はゆっくりと目を閉じるのだった。