9話:魔法
エリシアの作ったベッドはシンプルな構造ながら丈夫だった。
塗料が乾くまで、どうしても一日待つ必要があったので、作った日は床で眠ったが、翌日からはベッドでゆっくりと眠ることができた。
バレットから金貨をせしめてから三日。高木はフィアに一通りの文字を教えて貰い、書くのは兎角、ある程度までは読めるようになった。日本語が通じるので、文法は日本語と同じだった上に、文字の種類が少なかった。漢字のように何千、何万とあるのではなく、アルファベットのように少数の種類を組み合わせるタイプであり、それさえ覚えて、発音も覚えてしまえば、特殊な綴りの文字以外は読めるようになるのだった。
勿論、高木自身が言葉巧みな人間であり、文章に対しても好奇心が強い人間だったことも大きい。
エリシアも高木と一緒に文字を習っているが、理解力は高木に劣るものの、文字自体は今まで何度も見てきたので、理解度は高木と同じレベルまで到達している。
一方、魔法の習得だが、こちらの方は文字よりも進みが遅い。
エリシアはマナを信じる点まではすぐに進んだが、マナが何なのか未だによくわからず、感じ取るという段階までは進んでいない。
高木を信じると言ったのは本当だったらしく、高木が「マナという見えないモノがあるんだが、感じることはできる」と言うと、「そうだったんだ!」と驚き、あっさり信じてしまったのだ。
高木もエリシアよりも多少苦労したが、マナの存在を信じることには成功した。いくら目に見えないものを信じることができると言っても、マナの本質を理解しようとするあまり、しばらく信じ切ることができなかった。しかし、その本質を理解した瞬間に、マナに対する疑問が払拭されて、マナを信じることができるようになった。勿論、フィアが魔法を実際に使っているところを見ているという外的要因も大きい。
マナを信じて、その本質を理解した高木は、異世界体験五日目にして、マナを感じ取れるようになったのである。
しかし、ここで才能の壁に見事にぶち当たっていた。
「マナを感じ取ったら、マナを集められる筈よ。感じ取ったマナに集まるように呼びかければいいだけ」
フィアの説明に、高木はゆっくりと気持ちを落ち着けて、マナを感じ取ろうとする。フィアのように長く魔法に携われば、何もしなくてもマナを感じ取ることができるようになるのだが、高木は三分ほど時間を要する。
高木の感覚では、マナは無味無臭で透明だが、なんだかふにょふにょとしたアメーバのようなものである。空気中にふわふわと漂っていたり、床にべちょっと張り付いていたりする。感じ方は人それぞれで、フィアは音のように感じるらしい。
高木は、意識を集中してマナを感じ取れるようになると、そのアメーバ達に集まるように念じてみる。近くに漂っていたアメーバ達がすうっと高木の掌に集まってくる。掌いっぱいにアメーバが集まったところで、周囲のアメーバが動きを止める。限界量があるらしく、高木は掌サイズが最大量のようだ。
「うわ、少なっ!!」
高木が初めてマナを集めることに成功したときの、フィアの言葉である。
「こんな少ない人、初めて見たわ。流石は異世界人ね。素養がほとんど無いわ」
どうやら、集められる量は才能に依るところが大きいらしい。訓練や慣れで多少は上がるものの、高木はあまりにも才能に恵まれていなかったようだ。
「そ、そんなに少ないか」
「私だとこれくらい」
フィアが試しに集めてみると、アメーバがフィアを一気に包み込みはじめ、最終的にフィアをすっぽり覆うほどにまでなっていた。軽く見積もっても数百倍の差であった。
「……ここまでの差があるとはな。ちなみに、平均的にはどれくらいなんだ?」
「私の半分くらいね」
それでもやっぱり数百倍である。流石の高木もこれには少し落ち込んだ。別に稀代の才能を求めていたわけではなかったが、せめて人並み程度はほしかった。よりにもよって、抜群の落ち零れだとは。
「まあ、こればっかりはしょうがないわね。マナが少なければ、大きな魔法は使えないけど、まあ、全く使えないわけじゃないんだし」
仮にフィアのように風を扱うとすれば、微風ぐらいなら起こせるとのことだった。下敷きで扇げば事足りる範疇である。
「……せめて、扇風機になりたかった」
センプウキ? と首を傾げるフィアに説明してやる気にもなれず、高木はアメーバを解散させて溜息をついた。
「今日の晩御飯、マサトの好きなもの作るよ……?」
慰めるように言うエリシアに、高木は初めて、この世界で『何も言い返せない状況』を味わった。
かくして、高木は魔法に関しては過度の期待を持たないことにした。試しに集めたマナを風に変化するようにイメージしてみたのだが、元々のマナが少ない上に、フィアのように慣れておらず、マナにはっきりとしたイメージを伝えられなかった。
「せめて、扇風機ぐらいの風は吹け!」
高木の裂帛の気合いが篭もった呪文が虚しく響いた。真っ正面に立っていたフィアの前髪が微かに動いたので、風を起こすことには成功したはずなのだが、微風どころか、吐息にも満たない風力だった。
「……ふう、魔法を使うにも一苦労だ」
高木が思わず溜息を吐いた。フィアの前髪が先程よりも大きく動く。
やりきれない空気が周囲に満ちる。魔法でなくても変な空気ばかりは作れてしまう。
「や、でも、一応魔法で風を起こしたじゃない。マサトもこれで魔法使いね!」
こんなことで魔法使いになれるのなら、溜息を吐いたことがある人間全員、魔法使いである。
「もう、元気出しなさいっ。二つ名もちゃんとつけなきゃ!!」
フィアはしみったれた空気に我慢がならなくなったのか、勢いよく立ち上がり、例によって高木の肩をバシバシ叩いた。
「二つ名?」
「そういや、マサトは私とエリシア以外に知らないから、あんまりわかってないかも。魔法使いってね、けっこう異端な存在なのよ」
フィアはそう言って、少しだけ苦笑いを浮かべた。
魔法は便利な存在であるが、才能があまりにも大きく影響することと、習得が困難であること。それに加えて、己の研究に没頭しすぎて変人扱いされやすいこと。たまに犯罪に使用されること。諸々の理由から、魔法にあまり良い印象を持たれることは少なく、魔法使いも敬遠されがちだという。
「そんな魔法使いだし、いい印象を少しでも与えようってことになって、二つ名を名乗ることになったのよ」
名前から連想される印象とは、噂などのイメージが先行する場合には非常に有効である。上手くその二つ名が噂になればの話だが。
「それで、フィアの二つ名は?」
高木の脳内に「暴風少女」や「台風娘」など、あまりにもセンスがない上に、悪いイメージになってしまいそうな二つ名がよぎる。
「春風の少女よ」
「詐欺だな」
シーガイアにも四季があるのか、などと思いながら高木は頭を叩かれる。もう慣れた。
「私だっていっつも突風ばっかり起こしてるわけじゃないわよっ!」
「風で切り刻むような魔法も使うがな」
いっそ、改名してはどうだろうかと高木は提案するが、返ってきた言葉は「吹っ飛べ」だった。威力は相当加減されていたようだが、それでも高木は椅子から転げ落ちた。とんだ春風もあったものである。
「まあ、マサトには見せたことないから仕方ないか」
そう言って、フィアはゆっくりと瞳を閉じる。高木はエリシアに手伝って貰いながら身を起こして、フィアの様子を窺った。
「……春の野原」
ぼそりとフィアが呟いた瞬間に、部屋全体に爽やかな風がゆるやかに吹く。風はそのまま埃を吸い込むように巻き上がり、部屋の外へと吹き抜けていった。微かに、花の香気が部屋を包み込み、フィアはにっこりと笑ってみせる。
「なるほど、確かに便利だし、春風の少女と言われる所以もわかった」
風に巻き上げられた埃は、そのまま部屋の外へと出て行ってしまった。床には塵一つ落ちてはいない。その上に、良い香りが漂うのだから、日常生活においては非常に役に立つ。
どうしてもアニメやゲームでは戦闘を主眼に置き、このような生活密着型の魔法を使うシーンなどはなかった。高木は素直に感心した。
魔法が消えれば、香気も消えるはずだが、匂いの成分を部屋全体にひろげることで、そこから香ってくるのだろう。これなら長持ちするし、香りにムラもできない。
「日雇いの仕事というから何かと思えば、これを使っていたのか」
「ええ。貴族の奥方とかに頼まれてね」
風の制御が難しく、細かい装飾品なども巻き込んでしまう可能性があるために、先にそれらを片付けるのが難点という話だが、それにしても十二分に便利であった。
ただ、高木の脳内に「掃除機女」という別の異名がよぎってしまうのは、現代人としては仕方のないことなのかもしれない。
「それで、マサトの二つ名はどうしよっか。まだ始めたばかりだし、自分に合う魔法を覚えれば変えたらいいし、適当でいいよ」
適当で良いと言われても困る。ちなみにフィアは最初、『微風の美少女』だったらしい。自称でないことを高木は祈るばかりであった。
「ふむ……まあ、風の魔法を使ったことに違いはあるまい。僕もそういう路線にしておくか」
高木はしばらく考える。しかし、ネーミングセンスには自信がなかった。エリシアも「最速の男」などという案を出すが、最速で動くわけではなく、魔法を覚えるのが早かっただけである。ハッタリは好きだが、名前負けは嫌な高木だった。
「そうねえ。溜息未満の風使い、とかどうかしら」
悪戯っぽくフィアが言う。
「なんてね。流石に冗談よ。格好悪すぎるし」
「否、それがいいな。溜息未満の風使い、か。師匠から貰った二つ名だ。大切にしよう」
「へ……いや、そんな格好悪い名前、嫌でしょ?」
フィアも却下されると思っていたのだろう。すんなりと受け入れられた上に、嬉しそうに頷く高木を見て、首を傾げる。
高木としては、名前負けしていない上に、溜息という単語にアンニュイな雰囲気が漂っているところが非常に気に入ったのだ。
「あんた、口が巧いんだから自分でカッコイイの考えなさいよっ!!」
フィアが納得がいかないとばかりに怒り出す。何故そこまで二つ名にこだわるのだろうかと高木は訝しむ。精々、名が広まったときに呼ばれる通称のようなものであるはずだ。しかも、自分は才能がまるで無いという落ちこぼれである。名前が広がるとは考えにくい。
「溜息未満の風使い。いいと思うんだが……」
「イヤよ。初めての弟子が、そんな二つ名なんて」
「……なるほど、そういうことか」
高木は何となく理解した。おそらく、魔法使いは研究者としての側面が強い。自身の研究を手伝い、その技術を伝える存在である弟子には、優秀であって欲しいのだ。せめて、名前だけでも。
「とは言っても、肝心の才能がこれではな……」
高木も、名前負け覚悟で色々と考えてみる。しかし、自分の才能を知ってしまい、ちょっとでも格好をつけると、名前負け以前に詐欺である。春風の少女よりも。
何か無いかと、考える。魔法の才能が全くない自分が、魔法使いとして名乗る名前。
「魔法使いとして……ふむ、ならば逆に考えるか」
発想は逆転させるもの。高木の持論だ。
才能のない魔法使い。ならば、いっそ魔法と関係のない名前にしてしまえばいい。そう、雰囲気があって、魔法と関係のない名前にすれば、どんな大言壮語も嘘ではない。
「そうだな。黒い服しか持っていないことだし、僕は日本人だ。黒衣の侍とでも名乗ってみようか」
「黒衣のサムライ……サムライって、アレよね。ハラダも、自分はサムライだって言ってたって文献で読んだけど」
フィアが「どういう意味?」と尋ねてくる。サムライという言葉が、シーガイアにあるのならば名乗っても問題ないだろう。つくづく、先人に感謝を送る。
「僕の国の、滅びた戦士達のことだ。原田は、その最後の侍の一人だったが……その戦士達の魂は、受け継がれている。こんな僕の胸の中でもな」
高木はトントンと親指で自分の胸を叩いた。
日本人男子として侍を名乗るのは、相応の覚悟が必要である。
剣など握ったこともない。仕えるべき主君もない。だが、侍という言葉に秘められた強さならば、高木も知っている。
冷静で、淡々としている高木の、熱の篭もった言葉にフィアは少し驚いた。どんなときでも決して熱くならない男なのかと思っていたが、真剣な眼差しは真っ直ぐで、普段の飄々とした様子は微塵も感じられない。
言葉巧みに他人を翻弄するような男が、ここまでの熱を持って名乗るのがサムライという言葉であるならば、きっとそれは誇りをかけたものなのだろうとフィアは思った。
「いいじゃない。今日からマサトは黒衣のサムライね!」
「うん、かっこいいよ!」
フィアとエリシアがにっこりと笑う。
かくして、シーガイアの地において侍は蘇った。
学生服という名の黒衣を羽織り、言葉という剣を振るう侍が。